昨日、兵士のHP(サイト)にアクセスが凄い、という事を書きました。 で、きのう自分のサイトのトップページを更新しながら、身の回りの画像のコラージュをずっと続けてみようかと。一度似たようなものをしましたけどね。 「平和な日常」のコラージュ。
大きな画像はやめて、小さな「絵」で。犬と猫で2〜5枚。薔薇、椿、桜、自転車、お寺、紅葉、電車、雪、神社、お祭り、そしてそして「ひと」。「ひと」の笑顔。CDのジャケット持っている手、展覧会のチケットとか。
今は、ジャン、ハナ、猫3匹いっしょ という画像。猫は特に成長途上だから更新は早めの方がいいかも。植栽は今は椿。咲き出したら桜。桜が散ったら薔薇。薔薇が終わったら…。でも四季咲きのがあるから、春から秋はずっと薔薇の画像は続くのかな。
そうそう梨木神社の桂の木。あの緑の葉が出たら載せなきゃ。そんなので埋め尽くしたらとんでもないトップページになるけど。「笑顔」で埋め尽くしたページというのもいいオーラが出るかもしれませんね。
今日の最新の世論調査では、80%の人が日本は戦争に巻き込まれると。 今年はMarsの大暴れの年になるのでしょうか。人類が初めて経験する(少なくとも西暦年間では)火星と地球の大接近が今年あります。火星はいわずと知れた「軍神」。こんなときに占星術がどんぴしゃであたるのでしょうか。 だけど占星術はまた、人類史上、類を見ない戦争への抗議、反対が起きる事も告げています。
なにせ前例がないので、なにが起きるのかはっきり予言できないのでしょう。 しかし、今年が歴史の転換の決定的な年である事は動かし難くなりました。 何が起きているのか、しっかり見極めないと。「日常」をきっちり生きていきながら。
ニュースを見ていて、なるほどと思ったことがある。 それはアメリカ兵士の中で個人サイトを持っている人が、ほぼ毎日ダイアリーを更新していること。それを読む人がほとんど全世界に散らばっていることだ。 これ以上のリアルタイムの戦時情報はあるまい。
ただし、最前線の兵士であるから、あらかじめレクチャーされたイラクにおけるアメリか兵の「役割」への思いこみが前面に出ることは否めない。だけど、それは仕方のないことだと思う。
さらにフリージャーナリストがとんでもなく増えていること。なんの保証も保険もないけれど、かれらにはとんでもない高給が支払われている。パソコンと衛星通信装置があればできる。高性能の携帯電話ならそれだけでルポができるのだ。数も増えるわけだ。
最近、アメリカのブッシュをはじめとする政権中枢が驚くべき幼稚さで戦略を考えていた事が明白になってきた。たぶん優秀な部分の意見は全て排除されたのだと思う。狂気だ。戦争がどんな形で終わるにしろ、この狂気に関するノンフィクションは絶対出るだろう、そう言いきれるほどだ。
前線の後方ではゲーム感覚で人の命を弄ぶ「幹部」がいる。旧日本軍が南方戦線で全滅を繰り返しだしたとき、ある海軍主計少尉は沖縄で海水浴に興じていたという。そんなものだ。
アメリカの尊大さ、傲慢さ。認識の身勝手さ。そんなアメリカの駐留する韓国では派兵するかどうかで国論がまっぷたつになっている。その状況の厳しさは日本の比ではない。韓国がどのような決定を下すのか、それも見守りたい。
韓国の兵士がイラクで戦う。for what? 韓国国民でなくとも祈るような気持ちになる。 間違いないのは引き金をひいたのはブッシュだ、ということ。 世界の苦しみはまだ続きそうだ。
京都では昨日、桜の開花宣言だったようです。 ところが気温は一転、冬へ逆戻り。明日の朝は1℃しかないそうな。 一度外へ出した檸檬の木をあわてて家の中に戻しました。高さが出し入れに厳しくなってきてます。考えないと…。
開きかかった桜の蕾も寒そうです。柳の新しい葉、木蓮の花、椿、みな冷たい風の中で揺れています。
犬、特にジャンには嬉しい風。夕方、体いっぱいに風を孕んで、遠くをじっと見つめていました。猫たちは布団の中に逆戻り。 きょう、ちょっとだけ昼寝をしたんですが、キキがぼくの胸の上で全身を伸ばして寝るんです。こいつは生まれて一週間の目の開いたときから面倒みてるから、親だと思っているのかな。
ピピとルルはもうそんなでもないけれど、時々舌で顔をぺろぽろ舐めるんです。 それはそれでうんうんといってるんですが、キキの舌は大変。 鮫の皮みたいな舌なんですよ。顔にヤスリかけてるみたい。こういう舌の猫もいるんですね。痛いけど、キキの愛情表現だとおもってがまんガマン。
きょうはゴザンスのテーマ「エイプリルフールの真実」にそって「尼崎の真実」という800字の作品を書きました。800字の課題はずっと書いてるのかな…? これはとてもいい訓練になります。たいていざっと書いて、wordの「文字カウント」をクリックすると1200から1300字ぐらい。それを800字に削っていくんですが、おもしろいほど自分の文章の欠点がわかります。同じことを言い方をかえて二度書いていたり、別に書かなくても良い事まで書いていたり。 いちばん酷いのは…最近やっとなくなってきました…自分の感想かいてたりすること。これは噴飯ものなんですよね。 『おまえが何を感じようがどうでもいい』んですよね。感じるのは読者なんだから。感じたことを書きたいのなら二人称か三人称にしないと。 あと副詞をどんどん削ります。それだけであっというまに820字ぐらいになります。さらに、余分なところを削ります。 最近はその削る作業が面白くなってる始末。まだまだダイエットできる文章なのでありました。
音楽はマドレデウスの「陽光と静寂」。畠山美由紀さんの「耐え難くも甘い季節」。ジャヒームなど。
畠山さんの歌は「シップビルディング」Tomita Labのアルバムに入ってます。いいですよ。
マドレデウスはポルトガルの鋭い哀愁です。だけど…だんだん書いてる時には音を消す傾向になってきました。これは今までになかったことです。
久しぶりに自分のサイトに詩をアップしようかと思います。「バグダッド猫協会」という詩です。全部、ゴザンスか投稿でしたので。
状況は「新しい日本語」を求めています。インフレから逃れた言葉を。模索…です。
昨日はとてつもなく暖かくて、気温が20℃を超えていたのです。 今日は平年並に戻りましたが、桜の開花が一気に進んでいます。今はソメイヨシノがちらほら、といつたところ。京都独特の御室桜は一番最後に咲く桜なのでまだまだ眠っております。
したがって御室・仁和寺周辺や嵐山、高雄のあたりは全然咲いていません。でも蕾は完全に膨らみきっていますから、来週半ばくらいには一気に咲きだすでしょう。
野球も始まり、サッカーもAマッチ。平和です…。平和だからこそです。
戦争を計画立案する連中はやはり、どこか壊れている。アメリカの国防策定委員会の委員長で今回のイラク戦の「計画立案」した人物、リチャード・バールが辞任しました。 彼がネオコン(ネオコンサバティブ)の中心人物。早くから公然とイラクとの戦争と北朝鮮の体制転覆を唱えていた人物。新保守主義とはいうものの、その実体はキリスト教原理主義。アメリカの小説によく出てくる「あいつは根本主義者」とか言う言いまわし。あれです。頑固者の代名詞のようにつかわれる。
よく見れば、つまりキリスト教の聖書に書いてある一言一句を実現する、という限りなくオカルトに近い情熱を持っているひとたち。それらがブッシュ政権の中枢にいるのです。ラムズフェルドが代表的ですね。 その中心人物が彼。辞任の原因がなんとアラブの武器商人との癒着疑惑。偉そうなことを言っても「金」なのか、と。
日本の政治家もマスコミもアメリカが一枚岩と思って戦争に熱くなっているけれど 、アメリカには民主党という政党もあるのを忘れている。民主党が目の敵にしていたのが彼。たぶん今回、アラブの武器商人と会っているところを写真に撮られたのには、そういう伏線があるのだと思います。
「石油の利権」ならまだわかりやすいけれど、キリスト教の「原理」実現のための戦争というオカルティックなものが目標だったら、さらに恐ろしい。 だけど今、アメリカの政権の中枢は間違いなく彼らです。 民主党からは「プリンス・オブ・ダークネス」と言われていた男が、ひとまず「退却」しました。
「闘い」はいたるところで起こっています。
今年の薔薇の植えつけは、プリンセス・ドゥ・モナコでお終いだと思っていたんですが、ギリギリの最後に一株を手に入れてしまいました。もう本来ならハイブリッドティートなどの大きな花をつける種や年一度咲きの花などは植えつけは終わっています。それでも園芸店には売れ残っているんですよね。もう四季咲きのものでもギリギリの3月。5月になれは大苗じゃなくて新苗が出てくるのでそれを待てばいいものを、つい隅に寄せられていた株を買ってしまいました。
名前は「オクタヴィア・ヒル」。種類はFL。つまりフロリバンダ種です。フロリバンダという種類は花は中輪。ハイブリッドティーのような華やかさには及びませんが、形が豊富なのと花数の多さが特徴。背もそんなに高くならないし、家ではこれぐらいのほうがいいのかも知れません。 芳香が弱いものがほとんどだったんですが、オクタヴィア・ヒルは新しくできた株で一見、オールドローズのような形で、花数が多く、四季咲き。芳香もあります。
オールドローズ、イングリッシュローズのほとんどが年一度の開花なので、この種類の四季咲きは探してはいました。この条件を満たす「グラハム・トーマス」ならいきつけの園芸店にあるんですが、色が黄色なのと高いんですよね。で、二の脚を踏んでたんです。きょうたまたま吉田兼好の庵跡そばの園芸店の前をとおったら、この方が待っておられたのでした。
植えるところは、家のフロントライン。クーラーの室外機の横になります。 これでフロントは右から、ピエール・ド・ロンサール、ランタナ、プリンセス・ドゥ・モナコ、オクタヴイア・ヒルとなります。オクタヴィアを植えるところはヘデラが茂っているところなのでそれを少し始末しなければ。
5月ごろになるとロンサールも含めたすべてが咲き出すはず。このラインから離れた所にプライド・オブ・イングランドを中心とした赤い薔薇を集めたところがあって、管理をしっかりしないと。もう虫が出てきています。
それにしても芳香の強いのがふたつ。オクタヴィアとロンサール。ロンサールは一度しか咲かないけれどオクタヴィアは11月まで咲きますから、玄関のあたりまで香ってくれると嬉しいのですが。
今日は眠たくてしょうがなくて、朝から蜂蜜いりのダージリン飲んでたぐらい。 今、ましになってきました。 音楽はマイルス・デイヴイスのミステリー。リピートで。 そろそろサイトの入り口の画像を変えまようと思ってます。
我が家で「ムカシ」という歌が掃除や食事の前に、勢いをつけるために、よく流れるようになりました。 歌っている人は「都はるみ」。でだしは新内流しのようで、そこから一転ブギウギです。歌は「ムカシ」という名前の怪物と付き合うのをやめろ、という歌。そうしないと明日を捨ててしまうぞ、と。 作詞・作曲は阿久悠と宇崎竜童のコンビ。なるほどブギがきまってるわけですね。
ラジオで聴いた友人が「聴け!」と持ってきて、家のものが気に入ってかけてます。中高年への応援歌でしょう。たしかに友人達は応援されてますわ…。
気持ちいいぐらいのオーソドックスなブギにのせて、過去を振り返るなと歌うんですが、たとえばこんな歌詞。 ”あの日あなたは強かった” ”あの日あなたは偉かった” ”あの日あなたは華だった” あの日 あの日で うっとりさせ 駄目にする 気をつけなよ ムカシって奴だよ
「昔」を「ムカシ」という怪物に擬人化してるのが、みょうに生々しい。だけど、ぼくには全然、応援歌にはならへんね。何故かというとそんな「いいムカシ」なんて持ち合わせてないから。いつも、今がベスト。強くも偉くも華にもなったことない。そうだなぁ、今ならとにかく詩のことや動物や植物の事に思いをめぐらしていることでいっぱいだからなぁ。シアワセものです。ほんとに。明日を捨てるどころか明日こそ、だもの。
流行歌としてはおもしろい。カラオケでも歌う人多いだろうな。今年の1月発売。中高年のオンタイムの歌。テレビじゃないな。ラジオ・パチンコ・カラオケでかかる歌。またそんなところで歌を覚えるし。
中高年の人は歌詞にうるさい。そのぶん作詞家のかたも腕が奮えるのでは。 この人たちは、ロックもフォークもジャズも演歌も、知らず知らずのうちに浴びるほど聴いてきた世代だから。「うるさい」はずだわ。 で、応援歌…か。うーーーーーーん。あんまり考えないでおこう。
今だよ、今。ってことですね。
今日25日は、北野天満宮の縁日、「天神さん」の日です。あいにくの雨、そして新装開店の筈のテンジン・カフェは内装が遅れに遅れている様で、結局今月のお披露目はありませんでした。いつものケーキのワゴンセールもなし。 雨で人出もいまいちだったのですが、外国人が目立ちましたね。今月は特に。 古い着物とかに興味津々といったところです。
昨日はダイアリーを書こうとしてそのまま力尽きました。今朝はいつも以上に早起きしないといけなかったので、12時がぎりぎりリミットだったのです。 その時間ギリギリまでゴザンスの原稿の推敲をしていました。「紙の本」となると、妙に力んでしまって書きなおしていたのです。そのことをダイアリーに書こうとして…寝てしまった。
原稿だいぶよくなってきました。 テンションがあるうちに詩もいくつも書いています。
そんなこんなしていても、イラクでは激しい戦闘が続いています。アメリカが戦争に突入した時、これでアメリカも潰れていくだろうと思いました。イラクに勝とうが負けようがアメリカの被る打撃は計り知れないものがあるでしょう。アメリカが軍事国家、警察国家として内部から崩壊するきっかけとなるかもしれません。かつての大帝国のすべてが歩んだ道をアメリカもなぞろうとしている。何故今、イラクを攻めるのか。驕りと高ぶり以外のなにものでもありません。
ぼくはフセインという人物が大嫌いだし、報道されているその息子たちの所業のすさまじさにも怒りをおぼえます。そんな連中と同じレベルになぜアメリカがいくのか。なぜ「今」、攻めるのか。理解に苦しみます。 またイスラム教に対する無理解もはなはだしい。アメリカ国旗をイラク国旗のかわりにかがけるような事をしたら、それは「解放」ではなくて「占領」。そんなものを支持する国民などいません。
それはなにを意味するかというと「ベトナム戦争」の再来です。あの悪夢がふたたびやってくる。勝っても何も得るもののないことがわからないのでしょうか。なぜ戦争を始めたのか。なにをシュミレートしたのでしょうか。勝って石油利権が取れるとでも思っているのでしょうか。それは侵略戦争以外のなにものでもない。イラクを植民地にする以外にそれは無理。そしてそんな事は世界が許さない。
野心がない。と開戦演説でブッシュが言ったけれど、ないのなら攻める理由はない。正義の実現に世界が一致団結する方向へ何故行かなかったのか。 あまりに無邪気であり、あまりにおごっている。 サダム・フセインという独裁者に、逆にはめられているように思えて仕方がない。
いくつもの何故?。こんな非道な話はないです。
いろいろな音楽を聴いていて、突然聴きたくなる過去の音楽があります。 昨日の晩は突然、ジュリーが聞きたくなりました。 そりゃ京都といえばジュリー、という世代でしたからね。今は腹の出たおじさんになっちゃったけれどね。まぁ、華麗でした。圧倒的にファンは女性。ショーケンとは、ある種、対称的な道を歩んだのかな。 ぼくにとってはやっぱりポップスの人なんです。
あ、ジュリーじゃわからないか。沢田研二氏です。で、彼の曲は特定の作家の作品が一定期間続いて、また違う人に変わるというパターンが続いていました。 ぼくが好きなのは「安井かずみ」さんが作詞していた期間に限定されるんですが。 その前のソロになった最初の曲「君をのせて」という歌が大好きなんです。作詞は岩谷時子さん。作曲は宮川泰さん。この歌詞が好きなんですよー。メロディーも。
ぼくの地図は破れ くれる人もいない だから ぼくら 肩を抱いて 二人だけで歩く
それとか
人の言葉 夢のむなしさ どうせどうせ知った時には あぁぁぁー 君をのせて 夜の海を 渡る船になろう
こんなフレーズがいいんですよね。そんなに低音も高音が出る人じゃないけれど、そのかすれる寸前の声が、かえっていい味になってて。こういうポップスを歌って欲しかったです。だけど、これ以上の歌はぼくにはなかったな。ジュリーといえば「君をのせて」。それ以外はいらない、というぐらいこの曲が好きなんです。
そういえばジュリーの曲で、ユーミンが作詞をした歌があります。「ウィンクでさよなら」っていうんだけど、浮気の懺悔をしている男の歌。ユーミンに何故書けるのかというと、詞の中の「ぼく」を「わたし」にかえて、小道具をいじると女の歌になる仕掛け。このころは荒井由美さんですね。
久しぶりにジュリーの切なげな声を聴いた夜でありました。 ちなみに安井さんの詞で好きなのは訳詞になるけど「魅せられた夜」。これもジュリーらしい歌です。オリジナルなら「恋は邪魔者」かな。「危険な二人」もいい。
昔、オン・タイムではジュリーは聞いてなかったな。まぁ、照れる歳でもないし。 「ぶっちゃけ」 書いちゃいましょう。
部屋の中にいれていたミニバラの今年最初の花が咲きました。 赤いバラです。毎年のことながら嬉しいです。外のバラたちもどんどん新しい葉が出てきています。
さて、今日はずっとジャンの横についていました。調子が悪く、嘔吐したのです。今、すやすやと寝ています。老犬だから、無理させないようにしないと。特に後ろ足の衰えが気になります。 ハナは元気です。猫たちもみんな元気。おかげでジャンについていてやれるのですが。もう、慌てないでどーんと構えていようと思います。
「書く事」ですが、今、ゴザンスブックVol.2の原稿を書いています。インターネットのライター達の集結点ゴザンスが出す、オンデマンドの「紙の本」です。 ぼくの原稿はそんなに長くないものなので、わりとはやめに書けたのですが、今日全部書きなおしました。
今、現在進行形で「戦争」が起きていて、数ヶ月後に本が出るわけです。気になる事象ではあるけれど、射程は遠くに、あまり振られないようにしようと思いました。だけど、「戦争」のことを捨てては置けません。最後のギリギリまで何本か用意した作品のどれにするか迷うと思います。
音楽は、いまなんだかとても生々しいものが聴きたいです。生の手触りというか。ジャズはハンコックがガーシュインの曲ばかり集めたのを出しています。ウェイン・ショーターも新しいスタジオ録音を出しました。マイルスの門下生が元気です。門下生といってもウェイン・ショーターはもう、70歳ですが。
「人の声」かな…。ジャンの様子が落ちついたら街中の大きなショップに行ってボビー・ウォマックの古い輸入晩でもチェックしようと思います。 あ、その前に都はるみの「ムカシ」がくるんだ!!!いったいどうなる事やら。もちろん彼女のCDは初めて。彼女も京都の人です。船岡山のふもとに家があります。西陣の北端です。演歌…か。まぁ、聴いてみましょう。美空ひばりならいくらでも聴いてますが。
声といえばぼくも自分の声をサイトに載せるのを諦めたわけではありませんぞ。 いつかやりたいと思っています。詩の朗読じゃなくても、好きな詩だとか音楽の事を語るような短いの。うーん。いつか、でありますね。
2003年03月21日(金) |
「マリオネットの朝」という詩 |
婦人公論の読者フォーラムへ、詩の投稿をずっと続けています。今月は入選しました。選者の井坂洋子さんの詩が好きな人が多いのか、この投稿欄には男性の名前も多いです。 入選は今回で2度目なのですが、ニ回とも、言葉の数が少ない短い詩が選ばれています。長いのも応募しているんですが。そして、ふたつとも比喩のよさが評価されました。これは自分ではそれほど意識してこなかったことが評価されているような気がするのです。もっと大づかみな詩的な感情そのものを大事にしようと、いつもそのことばかり意識するので。 そして、こないだやっと気づいた事。「自分は手を入れるだけいれなきゃだめなタイプ」。これはずばりその通りになりました。入選したふたつともかなり、しつこく手を入れています。 それがよかったのでしょう。
この号では谷川俊太郎さんと森山良子さんの対談が掲載されていて、谷川さんが詩というのは工芸品を作るようなもの、とおっしゃっていました。そういうことなのでしょうね。
自分が何で評価されるのか。こればっかりは自分でもわかりません。だけども少なくとも同じような点で評価されるのなら、それをもっと自覚して進化、深化させていくべきなのかとも思います。
もうひとつの投稿の結果は5月にならないとわかりません。こちらも激戦です。 そして、ゴザンスマガジンVol.2へ原稿を寄せます。これは一応書けたのですが、一度プリントアウトして紙の上で推敲しています。
やはり紙の上に置くと粗いのがよくわかりますね。欠点も。どんどん短くなっています。 締めきりが今月末。明後日ぐらいまでには送信しようと思います。
2003年03月20日(木) |
本日は閉店しました。 |
1日中、イラク攻撃のニュース。もう、テレビを消しました。
なんだか、ものすごく疲れています。 はやめに休みます。ごめんなさい。
今月は22日が土曜日なので、早い書店ならば明日、婦人公論の4月7日号が並んでいます。フォーラムに「詩」のでる号です。
では、明日。
戦争が始まろうという時 詩を書いています。 詩を書くこと…。
昨日のダイアリーの文章は酷いです。 だけど、そのままにしておきます。
今、聴いているU2のZOOROPAは切ないです。 今日聴いたバンプ・オブ・チキンの新しい歌も切なかったです。 切なくて、そしてよかった。
ネットで都はるみの「ムカシ」を注文。友人からの依頼。 「おもろいから、おまえも聞けよ」と。 ひそかに期待…。
病を克服したアル・クーパーが来日します。 ジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソンなどと並んで、ロックに革命をもたらした旗手のひとり。マイク・ブルームフィールドと組んだ「スーパーセッション」「フィルモアの奇蹟」は当時、レコードが擦りきれるほど聞きました。
この「散歩主義」か「CrystalVoice」に一度書いたと思いますが、今、ソニーのサイバー・ショットのCMにつかわれているのが彼の「ジョリー」という曲です。その「ジョリー」を含む、「赤心の歌」というアルバムが一番好きです。現題はNaked Songs。
そう、来日に合わせて彼の過去の関係アルバムが、一挙にリリースされるのです。 たぶん最後のチャンスかな。つまんないのもあるけれど、上記の2作とBS&Tのデヴューアルバム。そして傑作「I stand alone」 まるで中学生に戻ったようにどきどきして待っています。
そういえば、もう一度再発して欲しいのはジミヘンのライブ、「イン・ザ・ウエスト」。これはほとんど望みがないですね。
さて、U2の歌。このアルバムにはイーノが参加してます。確かにそういう音。叙情を感じるロックス。 このアルバムの切ないラブ・ソング。「Stay」。この曲と「Lemon」という曲のために買ったCDでした。
1993年の発売。今も覚えてます。「Stay」を聴いた時、涙が止まらなかった。 馬鹿。ほんとに舌打ちしたくなるぐらい恥ずかしいけれど、いつまでも聴きたくなる曲なんです。
戦争が起きようとしている時。 詩を書いています。
もし聴く機会があったらU2の「Stay」聴いてみてください。
2003年03月18日(火) |
48時間の猶予だ、と。 |
アメリカ・ブッシュ大統領の演説を聞いた。 とうとう聞いてしまった。遠い昔に聴いた事があるという、妙な感情。 今まで、これほどまでに明らかな戦争宣言が全世界に向かって為されただろうか。
ここまであからさまな戦争宣言は、生まれて初めて聞いた。 サダム・フセインが出国する以外に、もう止める手立てはない。
多くの人々が死ぬ。 時間がない。
想像力を最大限稼働する以外に、何ができるだろう。 戦争の細部から目をそらさず、すべてを想像する。 傷を死体を 痛みを苦しみを。
空から眺めるのではない。肉迫した想像力でなければ 死に対しての感性が消えてしまうだろう。
たぶん想像力は沈黙を強いる。そして現実は日常を強いる。 そこに耐えてなお、顔を下げない事。 それを意志としてもちつづけることだ。 そんなことを考えていた。
NHK・BSハイヴィジョンで「マルタの猫」というドキュメンタリーを見ました。その首都は人口15万人の所に猫が50万匹いるといいます。地中海の温暖な島。そこでの人の物語と猫の物語。人の数だけ、猫の数だけの物語があって、それらがタペストリーになって時間が過ぎていきます。
「プリンス」と呼ばれる、1日中猫の世話をしている男性が登場しました。朝から晩までずっとポイントを変え移動しながら、野良猫に餌をやりつづけているのです。猫以外にはなにもないのです。「マルタ猫協会」の獣医さんが「彼は人生を猫に捧げたんだ」と。
ほかにも島の人たちの人生と猫の物語が、クロスし、並行し、静かで…とても小さいけれど心を射抜くほど輝いていて…。 それを見ていて、詩を書きなおすことにしました。 …美しい絵を描いてみようと思います。
マルタ島はイタリアのシシリー島のさらに南。本国から遠く離れているけれど、かつてのイギリス領です。ですから言語は英語。1964年に独立しました。しかし陽射しは地中海のど真ん中なので強いですね。。影がとても濃いのが印象的でした。だからかもしれないけれど番組ではポルトガルの歌姫テレーザを擁するマドレデウスの音楽が流れていました。「海と陽射し」はかれらの歌の大事な要素なのです。
マドレデウス…ヴォーカル、ギター、ギター、チェロ、アコーディオン、キーボードの編成。ぼくも2枚もっています。そのうちの1枚、ヴィム・ベンダースの映画「リスボン物語」のサントラ(全曲がマドレデウス)を聴いています。
小さいけれど射抜くほどの輝き、哀しく力強い声、光が強く影が濃い風景、うらはらに濃い藍の紗がかかった部屋の中での演奏。その緊張の糸の強さ。
静寂の島の風景にぴったりと寄り添うような音楽です。
日曜日。朝の天気はよかったんですが昼から雨になりました。明日は回復するらしいです。それにしても菜種梅雨ですね。 昨晩、この日記を書いた後、ゴザンスの800字の文章をアップしました。今、頭の中はゴザンスのライターブックvol.2の原稿のことばかりです。
これでいいのかダメを押している最中です。 実は昨日、書きながら自分自身ににチェックを入れていたのです。それは原稿に手を入れたほうがいいタイプなのかどうか、ということ。
結論は「絶対いれた方がいい」ということでした。一度書いて、オッケイという人とはタイプが違うみたい。集中はしているんだけど、集中しすぎて間違うタイプ。いちど離れないといけないタイプのようです。
簡単に言うと「削る」のと「書き換え」なんですけれどね。 なので明日は、一度書き上げたものを全部バラして書きなおします。 締めきりが今月末。なるべく速く編集部へ送りたいものではありますが。
詩の方も現在推敲中。 今、文章を書く時の、自分の状態にとても気をつけています。気が張りすぎず緩みすぎず。自然に自分が開いていくように…。 今日の「武蔵」での吉野太夫の台詞にも、ふむと思うところがありました。
「琵琶がこのように美しい音を響かせる事ができるのは、胴の中の横木。その「ゆるみ」。これが無ければ胴もろともに琵琶は砕けてしまうのです」
実は弦楽器のほとんどやピアノも弦を張っている力は物凄い力なのです。そして音の振動で、バランスの崩れている楽器は、それこそ張りつめただけのものなどは爆発するように壊れてしまいます。 どうやら人間にもその喩えは当てはまりそうですね。 たゆたうように、しかもぴんとはるように、そういう状態になるよう気をつけるようになってきています。
整えた器に、どんな言葉が響いて来るか。そんな事をイメージしています。
昨日の晩のうちに一気にゴザンスの原稿の初稿を書きました。これから推敲です。 詩のほうは「縁」に向かって歩いている途中、です。一つのアイデアはあるのですが。躊躇してます。
いかんいかん。集中。
今、ボビー・ウォマックを聴いてます。迷ったら聴いてますね、最近。 なにより魂=soul。声が聴きたくなったらウォマックばっかり。
3月11日午前6時。天王星が魚座に入りました。7年ぶりに。 たしかに20世紀末、占星術師たちは「アクエリアスの時代」の到来をたからかに宣言しました。直感と美にあふれたみずがめ座の時代です。それは天王星がみずがめ座に入ったからでした。今、それが魚座に移ったのです。 さらに、情緒がふかまる星の回りです。愛を、ふれあいを人々は「通信」の中に求めていきます。単なる情報のネットワークにとどまらず、そこに感情を望み、それを実現すべく現象や製品が登場するでしょう。
人はどんなウタを望んでいるのでしょうか。やはり「恋」だと思います。「愛」のウタを書きたいです。そのためには「恋をする自分」でいなければ。樹に花に犬に猫に風に光に、そして人に。
さて、ワードに戻ります。 ではでは。
縁とは不思議なものです。縁あって結ばれ、縁あって生まれ、縁あって生かされてきた。そんな思いを強く感じた一日でした。 「結ぶ」とか「生まれる」だけではなく病も死も、「縁あって」なのかもしれませんが、「縁」は「出会い」の場で一番使われる言葉です。人、もの、自然、芸術、に限らず森羅万象との出会い、すべて「縁あって」です。
詩を書く題材を探していたり、自分の感覚を開いている時に連続して起きるシンクロニシティのことを「暗合」という言葉を当てたりしていましたが、「縁」という言葉が一番ふさわしいのかもしれません。
新しい原稿にアタマをめぐらせていた時に、たまたまある神社の椿の事を知ったのです。すると、さまざまな『縁』が複合して、あれよあれよというまに、今日宮司さんからお話を伺う事ができました。
もちろんそれだけではありません。これまで書いてきた植物の話や花の話、椿に対する興味。それらが一挙にリンクしてきたのです。 宮司さんのお話はとても興味深く、少し興奮しながら帰ってきて、ノートにまとめてみると、なにか「かちん」と結びついたものを感じました。
「これを書きなさい」と言われている気がしたのです。短い作品ですけれど、これはそのうちにゴザンスにアップします。
「縁」は大事です。「悪縁」は困るけど、自分を前に進めてくれる「縁」ならどんどん前に進みます。というか、そういう時って「前」が開いてるんですよね。
われながら今日は不思議な日でありました。
なに言われてもいいです。勘違い、思いこみ、無論承知の上。
2003年03月13日(木) |
Duke Booty を聴きながら |
ごきげんノリノリのマイルスを聴きながらであります。
きょうは見事に晴れ渡りました。少し春。 薔薇の大苗の植えつけリミットが迫っています。もう葉がでだしていますからね。 今からならイングリッシュとかオールドローズ系の方が強いからいいかも。だけど、高いんですよね。うーーん、5000円はする。四季咲きの香りの強いもの。今日、見つけたんですけどねー。5月の新苗まで待とうかな…。
詩、ですがあいかわらずノートにこつこつ、です。今日は2行。モチーフは「鳥」「人」「犬」「光」。あとは「胡麻屋の辻 参」の詩の構成。これは一行。というか新しい視点。
たぶんこれで「胡麻屋の辻」は完成ですが、一部今、ゴザンスネオブックの方にまわすかもしれません。「仕事」のピッチを上げないと。
ゴザンスのゴザンスブックvol・2にライターとして参加の登録をしました。まだメールを見てないのでわかりませんが、そろそろ書くべき原稿の「指示書」がきていると思います。きていたらそちらに全力投球です。
もう渾身の力をこめて書きますよ。能力のすべてで書きたいと思います。空回りしないようにしないとしけませんが…。
ということでおそるおそるメールを見に行ってきます。
ではでは。
2003年03月12日(水) |
Shipbuilding と doo−bop |
今日からご機嫌に聴いてる2枚。昨日書いたのとは別に置いていて、そろそろ他のは全部片付けて、この2枚だけに集中しようと思ったのでした。
Shipbuildingは「富田ラボ」の作品。「富田ラボ」とはサウンドプロデューサー富田恵一さんの音楽工房のこと。 なんとも素晴らしいアルバムを出されています。参加しているのはキリンジ、saigenji、ハナレグミ、bird、畠山美由紀、松任谷由美。
手にしたのは松本隆さんの作詞が「眠りの森」と「海を渡る橋」とふたつあること。それと畠山さんが参加していること。そんな理由だったんです。 もちろんいいんだけど、birdさんもいいんですよね。素晴らしいです。
これはまた、きちんと書きたいと思います。たぶん松本作品一つだけに絞って感想をまとめたいです。
もうひとつ、doo−bop。これはマイルス・ディヴィスの最後の作品群の一つ。まだまだ未発表音源は出てくるとは思いますが、ミシェル・ルグランと作ったサントラの「ディンゴ」。そしてモントルーのライブ。スタジオ録音ではおそらく、ディンゴよりも後と思われる「doo−bop」。これらが最晩年の作品になります。
マイルスが亡くなったのが1991年9月28日。その直前まで彼は精力的な活動を続けていました。遺作がこのアルバムです。「ディンゴ」の透明な涌き水を思わせるトランペットとは違い、生命力溢れるのびやかなトーンで吹きまくっています。
このアルバムはラッパーと共演しているんです。だけど仕上がりはどう聴いてもマイルスのアルバムになってる。制作途上で亡くなり、共演のラッパー、イージー・モー・ビーがプロデュースしているにもかかわらず、さまざまな音源を駆使するラップ・ミュージックにのっかっているにもかかわらず、これはマイルスのアルバムです。
先週、マイルスへ「献じる」作品を書いていたので、集中的にマイルスを聴いていました。だけどこのアルバムはあえてはずしてました。これはこれだけで強烈なアルバムなんです。ダンサブル、セクシャル、「肉体」をとにかく刺激しまくる音楽。
枯れている、なんて言葉を吹き飛ばすように前へ前へ、ジャズすら吹っ切ってしまって飛躍していくマイルス。凄いです。 そう、92年ころだったらジャズとは誰も言わなかっただろうな。だけどこれこそ、この猥雑でクールな音こそジャズ。もともとJAZZというのは黒人スラングでSEXの事だったんだから。その事を思い出させる音楽です。 そういう逞しさ、生命力を一気にに取り戻してる。けっして「博物館」にはいりそうなのだけがジャズじゃないぞ、といいたげ。
「俺がメイン・ストリーム」という自負。ストリートへ飛び出していくセンス。 センスと言えば音のセンスは最高にいかしてます。まぁ、あたりまえだけど。 ラップやブラックミュージックをどんどん聴いてたほうだから、なんとも違和感がは無くきけたんですけどね。
だけどこの音楽はいわゆる、「ヨーヨー」とかいうのりのラップじゃなくて、プリンスに近い。プリンスの音楽をとても感じます。 (実はプリンス、好きです)
亡くなる直前にプリンスと三曲ほど録音したというから、その影響もあるのかな。それが聴きたいですねー。 ところでマイルスファンはどの時期のマイルスも好きなはずだ、とぼくは決めつけていますが、ワーナー時代のマイルスはまさに「自由」。 吹っ切れてる、というのが実に気持ちいい。
このアルバムのラップもマイルスをひきたてる方へとひかえめだし。全曲死ぬまで踊れそう。 で、やはりこれはまちがいなくJAZZです。
死ぬまで前進を止めなかった。生命力をストリートに求めた。ほんとにどこまでも「かっこいい」マイルスでありました。
モントルーのライブ。これはもう一つの大傑作だと思っている「ジャック・ジョンソン」が大フューチャーされています。なんとか手に入れたいものですが…。
ビツチェズ・ブリュー以降だと、
今日から、白洲正子さんの本をふたたび読み出しました。薄い文庫。エッセイ集です。 この方の文章には気づかされる事が多く、京都の事、陶器の事、西行のこと、枚挙にいとまがないくらい。 こんどはどうでしょうね。そんな発見が楽しみの一つです。
福原麟太郎さんのエッセイもさがしてみようかな。それと保坂和志さんの「言葉の外へ」というエッセイ集を発注。なんとしても読まねば、と思ってます。 詩は制作に集中したいです。
そうそう、京都の南部、伏見よりさらに南、「久御山」というところがあるのですが、そこの佐山というところの「双栗神社」に原種の「黒椿」があるのです。ここはヤブツバキの自生群生地としても有名なところなのですが、「黒椿」が1本だけあるのです。
ぼくの書いた「椿婦人」じゃないですが、それを挿し木にしようと折ったりする輩がいて、樹がだいぶ弱っていたらしいのです。(ちなみに椿婦人は生木をおりません) 花もつけない年があったり。
それを増やそうと前の宮司さんが頑張らはりまして、何本か苗木ができたそうです。根がしっかりしたら順次、神社に戻し将来は「黒椿の森」をつくるのだとか。刺激されます。 何か書けそうです。 いやー、よかったよかった。
ところで「黒椿」とは黒い椿ではなくて、ものすごく濃い紅色です。 同じく京都の加悦にある「千年椿」という大木の椿のほうが「黒」にちかいかも。 こちらは紫の椿なのです。 それと「椿の森」ですが、桜で有名な市内の平野神社の西と北の面は全部椿です。ここも、咲くと凄いですよ。なかに白い沙羅双樹が一本、かくれるようにあります。白い椿、ですね。
そう、いよいよ椿の季節です。
2003年03月10日(月) |
I wish I had someone to come home to |
今日も書くのが夜になりました。 寝る前に書くのがやはりオーディナリィなんでしょうね。
ここのところマイルスばかり聴いてたんですが、今日のスケッチ・オブ・スペインでちょっとストップ。ニュートラルに戻ると、やはりウォマックです。「声」が恋しくなるのかな。
聴くのは定番「The Poet」!! やっぱりいいです。
「声」「肉体」から起動する作品…書きたいです。もういちど「観察」しないと。
そうそう、知り合いの「みぞぐちのぶみ」さんが「作品市場」の童話のコーナーに「三日月と風の子」という作品をアップされました。興味のある方は是非ご一読を。 ご近所なんです。旦那さんは「仕舞い」が舞えます。うん、大学でのサークルが能楽部なんです。「淳くん」のお母さんでもあります。
春が苦しんでいます。きょうも凍えそうなぐらい寒かったです。
たまには、今PCの横に積んであるCDのリストをいておきましょう
スケッチ・オブ・スペイン ディンゴ マイルス・ディヴィス+ミシェル・ルグラン イン・ア・サイレント・ウェイ マイルス・ディヴィス ポーギー&ベス マイルス・ディヴィス 富田ラボ イッツ リアル KCi&JOJO ビッチェズ ブリュー マイルス・ディヴィス バディズム エリカ・バトゥ PMPマイルス・モード 菊池雅章 フィール ユー 菊池雅章 The Poet ボビー・ウォマック
こんなのを聴いてました。ここ2,3日
ではでは。
もともと、最近の詩は書き直しというのはほとんどやらなかったのです。 一年か、ニ年後に書きなおすことはあるけれど。サイトに公表している詩のなかでは、最初の頃のは何度書きなおしたかわからないぐらい書きなおしました。
やりだすときりがなくて、そんな自分に疲れてしまっても、まだやるので、やらない、と決めたのでした。だけど一日中、詩作に没頭できないので、書きなおしを再開しようと決めました。短い時間に集中して書くことが多いです。土日や投稿前の少しまとまった時間とかに。
で、ゴザンスのネオブックプロジェクトに登録して書き出したのはいいのですが、これが改訂につぐ改訂。いままでの作品が「ベース」になのですが、手をつけないのは入選作ぐらい。とにかく納得がいくまで書き直しです。いまのところ書き終えた作品はふたつ。だけどこれもまだわからない。 全部やめて新に書き起こす事になるかもしれない。
いままでの作品をモチーフに、もっと深化させたいというのが望みです。
今日も一日かけて載せる予定の詩を書きなおしていました。だいぶニュアンスが変わりました。 いかに明らかにするか、が大事。いかに棄てるか。それも大事。ほんとにこの詩は息してる?これはもっと大事。
ところで「書き手」と「発話者」は別。という入沢さんの有名な詩論はいまやアマチュアのすみずみまで行き渡ったけれど、それで自由になった分、だからなんでもあり、という人が多いです。 それは違います。入沢さんもそうは言っていません。
北川透さんの「発話者」を作った「書き手」とは?という鋭い問いにいったい何人の詩を書く人が答えられるでしょう。
「詩を書く私」がなにをするのかという自覚がなければ、詩なんてただの嘘です。 それを胆に命じています。
久しぶりに手に取った「現代詩手帖」。三月号です。 多くページがとられているのがロートレアモンの特集。いま何度も読み返しているのは秋吉台・現代詩セミナーにおける「自由詩の伝統はどこにあるのか」というディスカッション。
参加されているのは高橋睦郎さん、安藤元雄さん、倉橋健一さん、大岡信さんはVTRのみでの参加です。 「伝統」の問題に関して、安藤さんが面白い発言をされています。
−−−ぼくは詩人は本来「空洞」のような存在だと考えていて、(中略)その井戸とはもちろん地面に掘り下げられた穴のことであって、なかはからっぽです。 そこにはもともと何もないかもしれない。ただ他所から伝わってきた地下水が滲み出してそこに溜まるということは、ありうるわけですね。そしてそれが人に汲み上げられて飲まれると考えています。−−−
それをうけて高橋さんが
−−−そこで重要なのは水はやっぱり外から来ている、ということなんですね。 そして掘り下げられた井戸に自分がたまたまなりえた光栄を思えばそれでいいわけで、その井戸がどんなもであるかは忘れられてしまっていいわけです。おいしかったという記憶だけ残ればね−−−−
その後、ひとつの「言葉」が日本語のどんな歴史を背負ってそこにあるのかに意識的でなければ、と話は進んでいきます。 ことさらに「わたし」を書く詩を見なおさなければ、閉塞したままに終わる危険もあります。
また、これは今朝見たNHKの番組で写真家の藤原新也さんが語っておられたんですけれども、藤原さんはかつての「東京漂流」のような作品から「少女」を撮る位置に自分を移しておられます。それはなぜかという問いに答えて
−−−批評性を持つ作品。それはそれていいんですけれど、批評することで…(沈黙)…自分が完結してしまうんですね。ガスヌキしてしまうというか。それではひろがりがないというか。それよりもわたしの「写真」を撮るという行為を通して人に何か寄与できれば、その方向へ行こうと思ったのです−−−−
藤原さんは、不登校の少女と出会い、彼女の写真を撮り、語りあいます。その結果、彼女は学校へ行き出すようになりました。学校へ行くいかないも大事ですが、その前に彼女が自分を「開いた」んですね。藤原さんはそのことをとても大切に感じておられるようでした。『それも写真、なんです』と。
そして、ふたたび先のディスカッションに戻ると、高橋さんがこういう発言をされています。
−−−ほんとうの自由とは「それは自分とは関係ない」と考えることにあるのではなくて、いろんなものに触れて自分を開くことのほうにあるはずだ−−−−
まさに、「地下水脈」です。
「手帖」のほうでは入沢康夫さんの「詩の構造」という文章を読んでいます。 そして「婦人公論」の松本隆さんの対談もよんで、またしても「地下水脈」。 入沢さんのほうの言葉を借りるなら −−−詩は感動の起動装置であるということです。まちがっても感動や感情の叙述や記述といったものではありません−−−
これは、まっすぐに萩原朔太郎の『月に吠える』・序へつながりますね。
松本さんの言葉を借りると −−−いまの歌は自己主張ばかりですよ。「わたしは」「わたしは」という一人称の主張ばかりで、相手のことなんて何も考えていないみたいな。 生き方も「一人称」じゃだめだろうね。「私が」「私が」という生きかたをやめないと。−−−−
異論はあるだろうけれど、ぼくには全部、地下水脈で繋がっていると思えます。 もちろん「便宜上、にしはらと名のついた井戸」もそこまでせっせと掘っていきますよ。おいしい水を呑んでもらうために。
ではでは。
2003年03月07日(金) |
Bess,I love you |
ガーシュインの Porgy and Bess をマイルス・ディヴィスで早朝から聴いていました。激しい雨と風で大荒れの朝。 昨晩は Biches Brewというマイルス・ディヴィスのアルバムを聴き、遺作の一つとされるサントラのDingoも聴いていました。
つかみたいものがそこにあって、一度集中して聴きたかったんです。
そして、投稿しようと思っていた詩をゴザンスをとおして発表しました。今朝、早速、それに関してのメールが入っていて感激してしまいました。メールで感想を頂くのは久しぶりのことです。
詩に限らず「作品」というものは、読んでくれる方、聴いてくれる方がいて、そこに響くものがあるとさらに生きていく。というか、さらにそこに何かが生まれてくるというものだと思うのです。ほんとに嬉しかった。
今日は婦人公論の発売日。「詩」のフォーラムはお休みの号ですが、松本隆さんと脚本家の大石静さんの対談が出ていました。 「恋愛は砥石である」 これですね。 歌詞の問題についても、ニ人称、三人称の歌詞がなく、「わたし」が「わたし」がの歌だらけ。全然面白くない、と。
うむ。そのとおりでありますね。
話変わって、今日か明日にでも詩をアップします。マイルスに献じる詩です。
ジャズを聴かない人には、言葉の面白さを感じてもらえれば、と思います。
2003年03月06日(木) |
ネオブック再開 「現代詩手帖」購読再開 |
「再開」なんてしてたらだめなんだけど、ゴザンスのネオブックへの原稿を再び、書き始めました。ほとんどサイトを立ち上げてからの作品が多いのですが、全面書きなおしをしながらです。今日は「猫と南風」という作品を書きなおしました。ずいぶん変わりました。骨のところは変わりませんけれど。
日々新たなり、というべきか、日々書いていると必然的に自分の書いているものに対しても厳しくならざるをえません。今のところ確実に入るだろうと思っているのは「光の織物」という作品だけです。これはサイトで公開したものではなく、雑誌に出たものです。いちおう目次の見本も書き出しました。
だけど、次から次に斜線が入ります。だけどモチーフとして大事にしたいものもあるので、やはり全面書きなおしになるでしょう。「進化する作品」という気で書いています。
つぎもサイトで公開した長いものの全面改訂です。これだと本になるのに時間がかかりますね。うむむ。だけど20点ぐらいの作品数ならそうでもないか。
とまれ、いかにその時、頭が焦げるような思いでアップした作品でも、時間がたつといくらでも手が入る。これは集中力の問題なのかもしれない。寝かしておくという事が不足しているのかもしれない。ひょっとしたら書く力がアップしてるのかもしれない。(それはないか)
再開したのはゴザンスの手順に考え込んでいたから。それもなんとか理解できたし。考え込むほど難しいことではなかったです。実は。 こんな革命的なシステムに、もう少し興奮すべきなんだ。ほんとに。
閑話休題
大学2年の時以来、何故だか読むまいと決めていた「現代詩手帖」の購読を再開しました。何故そうなったのか。いまだにアタマの中ではっきりしないんですが、「詩を書くくせに読んでいないだと!!」と家のものに怒られたのがきっかけです。後ろ向きの理由やね。たぶん買っても「創作」のページしか読まないと思いますが。
でも、なんだな懐かしいな。あの本。 ではでは。
2003年03月05日(水) |
「アリア、この夜の裸体のために」 |
第53回H氏賞の受賞作です。現代詩にとっては、たぶん最高峰の賞と言っても過言ではありません。
受賞者は河津聖恵さん。京都市左京区在住の方です。今日、インタヴューが京都新聞に載りました。元々東京の方で、京大に進学されてそのままおられるのかな。
ぱっと出てきた新人ではありません。42歳。現代詩手帖賞、歴程新鋭賞とキャリアは素晴らしいです。京都新聞ではそれでも「大型新人」と書いてますが。
あ、とおもったのはテーマが「光」であること。井坂洋子さんが近々、出される詩集も「月」がテーマであるらしいし、ミメイさんも「光をテーマにしようかな」と ウチの掲示板に書きこまれていたし、ぼくはぼくでめげずに「光」を去年に引き続きテーマにしようとしています。(じつは書いています。)
なんだか「光」への時代意識のようなものがあるのかしら、と思ったりもします。 もし、そこにぼくの無意識がアクセスしているのなら、無条件になにか「励まし」を感じます。いや、感じてしまおうと思います。
河津さんの「光」は『夜の光に引きつけられる私たちとはどのような存在なのか』というものでした。こないだ掲示板の方にも書きましたが、月の神様はディアナ(ダイアナ)。女神です。太陽の神は男神。たとえばアポロン。月を描くのは女性なのかもしれませんね。その「月を描く女性」を光ごと描いて見ようか、と思いました。男性詩人でも月を書く方がおられますけれど。
日本では「花鳥風月」が伝統のテーマ、いまだ語り尽くせぬテーマです。花、風、月は詩に登場させてきましたが、そういえば「鳥」をあまり書いていないな。 最近、鳥の詩としてすごい、とおもったのは吉田美奈子さんの「カラス」。詩というよりも詞ですが。
「光と鳥」テーマとしてもう少し考えて見ます。単語ではなく文章となるテーマにまでつめて。
ところで、河津さんは「感情も含め肉体から出発した作品を書きたい」とおっしゃっています。 新たな抒情詩がはじまりますね。
おこがましいけれども、ぼくもがんばろうと思いましたよ。
きょうはとにかく忙しかったです。しかも、一気に真冬に逆戻り、吹雪と晴れの繰り返しという過激な天気。まだ、メールボックス開けてないし、いま、自分のサイトの掲示板を覗いてきたところです。
夜更けに書くことが、最近増えてます。朝がどうしても動かせないから、とにかく寝てしまって三時に起きて書くか、書けるうちに書いてしまって寝るか、どちらかですね。
忙しいわりには、自分の詩のチェックを昼にしてました。PCは今日、完全にはずしていたんです。だから、原稿用紙とペン、ですね。 新たな投稿と今年のサイトの方のページ作りと。いろいろと。
音楽は全然聴けず、今やっと聴いてます。ハワイアンです。 疲れたときは、ことさらいいです。 さて、と。
うーーん、今日はアタマ、まっしろです。 じゃ、失礼してやすみます。
おやすみなさい。
2003年03月03日(月) |
Tomorrow never knows |
今日、ゴザンスのもう一つのテーマ、「『卒業』ときいて思い出す音楽」を書いていて、だんだんアタマが熱くなってきてしまいました。 当時の事が思い出されて。高校の、卒業です。
ビートルズ専門のお店。入り浸ってましたよ。一階がジャズかけててね。(けっこう「不良」なのかな。でもそのぶん、ちゃんとしてたんだ、学校もね。)
ジャズは一階でビートルズは二階で覚えました。お金がなかったからね。ビートルズもその時は結構な数のアルバムだしてたし、ジャズもそうだけど、なんたってデカイ音で聴けへんでしょ。家じゃね。 珈琲1杯でねばるねばるねばる。
Tomorrow never knowsの入っているREVOLVERというアルバムは、いろんな意味で画期的。シタールの導入もあるし、ジョンがインドをはじめとする東洋哲学に傾倒しだしたのもこのころから。その代表曲がこの曲でした。とてもシンボリックな詞だけど、これはジョンがLSD体験から得た境涯だとか。チベットの「死者の書」に同じフレーズがあるとか…。
だけど、はっきりLOVE IS ALLと宣言したのは、これから先のジョンを予告するような歌でありますね。ポールの曲も相変わらず美しくメロディアス。ジョージはシタール響かせて、彼のスタイル出しているし。
ま、これとか「ラバーソウル」を聴きまくってたわけですよ。あと、もっと昔のロックンロールスタイルのとかね。 もう、ひとつはこの「リヴォルヴァ」はビートルズとはっぴいえんどが似てる、と思えること。 いろんな意味で、あらゆる意味で。
ビートルズなんて久しぶりに聴いたなぁ。これ、癖になるんですよ。どれっ…。 ところで、今ものすごい風が吹いてます。明日の朝は冬に逆戻りのようです。風邪に気をつけねば。 新しい芽たちだいじょぶかな。
ではでは。
薔薇のお話です。 3月にはいり、新芽が伸び出したものの我が家の薔薇は開花に程遠い状態です。 冬に深く剪定しているからです。長さ20cmぐらいに縮まった株を見ていると、5月に70cmぐらいに伸びて開花するとは想像もつきません。
一方、町の家々の花壇では深く剪定せずに花から20cmぐらいだけをカットしているおうちもあります。どちらも間違いではありません。こちらの場合、四季咲きのハイブリッドティーだとフローズン・ローズを見ることができます。
ただ、春になり花を付け出す時期になると深く選定しているほうが、花の数も多く大きな花をつけます。勢いがあるんですね。古い枝からはそんなに多くの花は望めないし、勢いもそんなに強くありません。
ただ、伸ばして行くやり方で、とても美しいものを見た事があります。薬物による事故で脳に障害を負い、言語と運動の中枢が麻痺してしまった天才バイオリニストの、そのお父さんのやり方です。
映像で見たので断定はできませんが、たぶんツル薔薇なんでしょうけれど、ひょっとしたらスタンダード仕立てのハイブリッドかもしれません。花の形がどうもそうだつたので。もし、そうだとしたら凄い技術なんですが…。
薔薇職人の意味から転じて薔薇栽培に没頭する人のことをロザリアンといいますが、このお父さんは典型的なロザリアンでした。前庭には一面薔薇が各種、見事に手入れされて育っていました。その家側の一番奥、一本のまっすぐな茎が2階まで伸びているのです。そしてその先には真赤な薔薇が1輪咲いています。
お父さんは寝たきりの息子さんのベッドサイドに薔薇が年中咲いているようにしたのです。ですから四季咲きのモダンローズでしょう。しかし、上に伸びるツル薔薇でさえジグザグに誘引しないと花つきがとても悪いのです。できることなら緩く斜めにひっぱつたほうが良いのです。垂直に伸びるツル薔薇はほんとに咲くか咲かないか、微妙です。それを他の新芽やわき芽を全部潰して、その1本の茎だけにし、しかもその茎からの枝分かれを全部切り捨て、ひたすらに1本、まっすぐ伸びているのです。
瞬間息を呑みました。その努力たるや半端ではありません。そしてそのお父さんの意志そのもののように、まっすぐに2階に伸びる薔薇。窓辺に咲く赤い花。 なんという光景だろう、と。
そのお父さんが、彼の幼少の頃からバイオリンの英才教育を施したのです。まるで、その薔薇のように。そして大袈裟に言えば日本全国にその名を轟かせてアメリかに留学したのでした。まだ大人にならないうちに。 アメリカでも天才の評判がたちだした、矢先の出来事だったのです。 失意どころではない、帰国。
彼はそんな父を残し、数年前に亡くなりました。亡くなってから幻の天才バイオリニストとしてCDがだされ、話題になったのでクラシックファンの方ならおわかりだと思います。
いろんな風評、批判。毀誉褒貶。もう、いいでしょう。
時々、あの薔薇はどうなったのだろうと思います。静に薔薇の剪定をするお父さんの姿を思います。
さて、我が家の薔薇。室内に避難させたミニバラにとうとう今年初の蕾ができました。しっかり暖かくなるまで外には出しません。部屋で、おそらく開花するでしょう。赤い花が楽しみです。
一日中雨でした。 まだ、降っています。
今日は午前中は猫と昼からは犬と遊んでいました。 猫といつしょにいる時に、今回のゴザンスのテーマ、800字の三題噺の草稿を書いていました。ひとつは猫の詩、もう一つは800字いっぱい使ったもの。どうしても昔の話が顔を覗かせるので、それは今回はずそうかなと思ってます。
もう一つの「テーマ」は「『卒業』に関する歌」。ぼくの経験をストレートに書くと、ほとんどの人にはわからない「歌」だけど、そういう世代もあったんだ、という事を書こうかなと思っています。
最近、忙しくてPCにも触れなかったりという有様です。今日もつい先ほどまで、来客がありましたんで…。 そこで、小さな手帳を持ち歩いて、そこにいろいろかきつけて、夜にパソコンで整理しています。今日もこれから、その作業。
テレビで、おおお、アマリア・ロドリゲスをやっています。ポルトガルのファドの女王ですね。「神の声」といわれた方です。
と、いうことで今晩は「マドレデウス」を聴きます。94、5年のころよく聴いたポルトガルを代表するグループです。このテレーザの声は素晴らしいですよ。 一番よく聴いたのは「O espirito da paz」。邦題「陽光と静寂」といいます。ひさしぶりだな…。
1974年、青年将校によるカーネーション革命と巻きこまれたアマリアの悲劇。 そしてファドの女王の復活。劇的な、余りに劇的なその一生と歌でありました。
では。
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