散歩主義

2003年02月28日(金) イギリスの「扉」

朝から素晴らしい天気でした。気温も昼には結構上がりました。
嵐山に行く用事があったので、今、一番入りたいお寺、臨川寺に寄ったのですが、あいもかわらず拝観停止中。特別拝観でもないと中にいれてもらえないようです。
なぜ、この寺にひかれているかは、またの機会にお話しましょう。

そして、松井のホームラン!!!素晴らしい振りでしたね。
やっぱり、彼は「ホンモノ」です。そりゃ、巨人の4番はってたんだから、他の日本人よりプレッシャーには強いよね。
それに引き換え、キューバのエースで松井と同じ、ヤンキース期待の新人コントレラスは最悪でした。満塁ホームランくらって…。

さてさて、今日知った、面白いお話。
それはイギリスの「扉」。普通、イギリスの国民性は服にも食にも倹約し、家作りと庭造りにお金を注ぎ込むものとなっています。ところが、イギリスというのは個人が住宅を建築するのはまれで、ほとんど開発会社が建設したものを購入するらしいのです。で、実際実に没個性的。その区域は壁も屋根も同じ色。飛行機のから見るとモノトーン1色だとか。

そんなイギリスで、強烈に個性を主張するのが「扉」。新しい家を購入してすぐに行なうのが扉の塗り替えだそうです。ま、ほかの家との区別をつけないと間違って入ってしまうからかも。で、その色が実にきれいなんですよね。まるで、色見本のように並びます。

京都の町屋も下手したらみんな、おんなじ。だけど微妙に変えてあると思うんです。こんどはそんな所も注意してみてみようと思います。鬼瓦が違ったりするんですよね。ショウキさんが立ってたりするんです。

で、今日の夜の音楽は…なににしましょうか。まだ、未定。

詩は天野忠さんの詩集「私有地」。このなかの「鈴」という詩が好きなんだけれど、家のモノに「これいいでしょ」といって見せたら「悲しいのはいややね」と。
まぁ全編、飄々と「死」が語られつづけるのですが。
「息の仕方」、ぼくはひそかに天野さんに習おうとしています。




2003年02月27日(木) しなやかに

寒の戻りになっています。明日の朝は相当冷え込むようです。
「しなやかさ」ということを考えさせてくれる、いくつかに触れました。

一つは平野啓一郎さんの「反・反動の見地」というコラム。
「日本語ブーム」のなかにも怪しいものがあるぞという指摘からはじまります。

まず、ワープロやパソコンの使用は日本語を崩壊させるぞ、という言説への批判。
要約すると、「もの」を書く時、あらかじめ「書く」べきものがアタマのなかに存在しているわけで、文字を書くことがすなわち思考ではない、ということ。文章は頭のなかにできあがっているわけだから、記述の道具がパソコンか手書きか、ということにはほとんど意味がない、と。
(個人の趣味としての手書は理解できるとして)

次に、日本語の横書きを非難する論への批判。
これは、漢字の先生なども文字の成り立ちから縦書きであるべき、という主張が大方ですが、べつにどちらでもいいじゃないか、というのが平野氏の主張。
よい事は見習うとして、表現というのはできるだけ大きな可能性に向けて開かれているべきだ、と。

決して縦書きのできないアルファベットに比して、縦でも横でも書ける自在に文章を書ける日本人の柔軟さは、むしろ美しい事ではないか、と。
韓国や中国では、今や出版物は横書きに統一されているそうです。

日本語の「危機」とは、そういうものではなく、結局のところ「よく読み」、「よく考える」ということだ、と。

彼が森鴎外の文章から学んだ事を書いたこともあるので、彼がどう思っているのか興味がありました。
果たして、「しなやか」でありますね。懐が深い。

「しなやかさ」の2つ目は、建築家の安藤忠雄さん。NHKの「にんげんドキュメント」という番組から。氏の事はこのダイアリーでも過去に何度も書いてます。
彼の口から「建築はいのちや」という言葉が出てきました。彼の建築の最大の特徴である「コンクリートの打ちっぱなし」については、「団塊の世代の特徴」「ぬくもりがない」という指摘があります。だけど、それは一面的な批判に過ぎません。

そういう批判をされる方はバウハウス全盛の頃のコンクリートを引き合いに出します。あまりの合理一辺倒で灰色だけの「自然」を感じさせない建物故に、情緒不安定や精神異常が続出し、慌てて植栽を配置しカラフルな家具を配置したりした「歴史」。

安藤さんがバウハウスを越えているのはあきらかです。その弱点から建築の発想をしておられる。命を際立たせ、支えるものとしての「コンクリート」であるのです。したがって余計な修飾は一切剥ぎ取られる。人が、光が、風かという発想が先に来るのです。

思うに、人間とは悲しいかな唯脳的な存在です。あくまでも自然のなかでは対立項として存在せざるをえない。そういう自覚は必要だと思うのです。だからこそ、「思い」を洗練させる場、そして肉体を解いてあげる場として建物を考えるのではないでしょうか。

どんなに粗末でも「家のない人間」という存在を自然はたちどころに消してしまいます。裸の人間はそれほどに弱い。弱いからこそ、自然との関係をどう結ぶか。
そこまで考えた「コンクリートの打ちっぱなし」。
「建築はいのちなんや」。いのちとは実に「しなやか」なのです。お寺の本堂に安藤さんは鉄と硝子と木材を使うといいきりました。
まず、「いのち」ありき。徹底してますね。

最後の「しなやかさ」。
またしてもジャズですが。
1965年、若きハーヒー・ハンコックのリーダー・アルバム「MAIDEN VOYAGE」。日本では、タイトル「処女航海」として有名です。
若々しいハンコックのピアノとフレディ・ハバードのトランペットのみずみずしいプレイ。久しぶりに聴いて、良かったです。




2003年02月26日(水) All kinds of weather

購読しているメルマガ、「JMM」に時々、extra editionとして、読者からの投稿が掲載される。今日送られてきたのがまさにそれで、投稿者はパリ10大学の大学院生。

イラク開戦を睨んだ状況下での、ラクロを引用しながらの鋭い指摘だった。
アメリカもフランスも、その自己愛、故に苦しんでいる、と。(フランスでは日本では報道されていないアフリカの事で悩んでいる状況)

ラクロの書いた「危険な関係」という小説は、暴力のない神経戦による人間関係のパワーゲームを描いている。今の状況がまさにそれだ、というわけだ。

そして自己愛と恐怖が結びついた時、恐るべき暴力の発動に至る、という指摘はまさにそのとおりだと思った。
曰く
『仮面に彩られたシニカルな自己愛の世界が、実際にはどれほどの恐怖によって支えられているか』…と。

そして、今の状況は哲学的な解析よりも、この小説家の考えのほうが的を得ている、と。
『偽善の仮面の横行する世間で、暴力なきパワーゲームを勝ちぬくには、自己に対する幻想をもっとも少なく持つものだ』
『開戦前夜、平和に向けて必要なのはこのような自己を相対化する作業だ』と。
アメリカでは…果たしてどうか。

ところで、まさに、今、日本で進行しいている北朝鮮に対する一連の報道にたいしてもそうだと思う。ぼくらは完全にリードされだしている。
いい悪いと、暴力への姿勢のありかがないまぜにされ、歴史と世界がどんどん目隠しされていく。
自己愛に溺れてはいけない。自分を大事にする、ということとは相容れないものだ。

そんな気がします。
誰もが「戦場のピアニスト」を見るべきかもしれません。

今日のジャズ。
All kind of weather、レッド・ガーランドの1958年のアルバム。ベースにポール・チェンバース、ドラムにアート・テイラー。
全曲、天気や季節のタイトル。
アメリカの肥大化した自己愛は大嫌いですが、ジャズは好きです。
それが「わたし」です。




2003年02月25日(火) Phineas Newborn Jr.のピアノ

今日聴いたジャズはフィニアス・ニューボーン・ジュニアの1964年の作品。
彼の33歳の時です。エネルギーに満ちていて強く、そして美しい。
天才……でしょうね。
亡くなったのが58歳のとき。若すぎますね。

オーネット・コールマンの曲をここまで美しく弾けるということと、正確無比なタッチと
強さが大西順子さんを思い起こせます。

ところで、今日は「天神さん」。
月に一度のテンジン・カフェに久しぶりに顔を出しました。
来月の「天神さん」のころにはお店になっているとか。
本業はウェディングドレスの制作などですが、このホームメイドのクッキーやケーキの方もお店として立ち上げるようです。月に一度だけ、というお菓子が毎日いただけるようになるわけです。応援しようと思います。

詩の方は自作のスケッチを書いていました。
明日は早朝から犬たちと京都御所に行きます。

じゃ。



2003年02月24日(月) 猫と詩を書く

(これから書く文章は、ノートにボールペンで書いたものをそのままPCに写したものです)

さて、と。文机に座りノートを開きます。「文机」といっても、若い頃から使っている家具としては唯一、残っているもので、今は猫たちに占領されている机。

さて、「写経」ならぬ「写詩」をしてみます。で、手にはお気に入りのボールペン。このダイアリーでも一度書いたことのあるハワイ土産のコナ材のボールペンです。軽すぎないのがいい。中の芯はけっこう汎用ができて、ぼくはシェーファーのにしてます。

では…さらさらさら。
全文書き写すのはことの他面白いですね。

こんなこと、松本隆さんの詞、以来です。
「はつぴいえんど」の「風街ろまん」がでた高校2年の時、ジャケットに印刷された松本さんのペン字に憧れて、なんどもなんども写したなぁ。
だから、ぼくの字は「風街ろまん」の内ジャケのノートの字にそっくりのままです。

昔のLP盤のジャケットは30cm×30cmだから、グラフィックとしての魅力も今よりあったんだ。

で、ですね、、、いま背中にキキが乗ってます。右足の横にルル。机の上にピピがいます。
猫3匹といる時はパソコンは使えません。キーボードの上を歩くし、、あーーっノートの上を歩いていきました。だから、万年筆もダメです。
彼らが電気カーペットの上か出窓の座布団の上で黙想してくれるといいんだけども。

今、ハードカバーの本のしおりをキキがしがんでいます。
お、隣の家の屋根で猫がないてる。はい、全員、出窓に飛んでいきました。

詩を全部写すのは、ふつうに読むよりも「読む」からです。小説ではよくある事ですね。知人の高校の国語の先生が「平野啓一郎のあの、古風な文体がいいよね」ってこの前いってたんですよ。

彼は平野氏が何をしてたか知らなかったみたい。べつに京大でしてたわけじゃないけれど、かれは森鴎外をなんども丸写しにしてたんです。あの文体に惚れこんでいたのですね。
それは剽窃でもなんでもない。優れた文を見習う一つの方法です。それと同じことを車谷長吉さんもしていたようで。彼は平野さんの作品を読んで、すぐ、ぴんときたみたい。で、ご本人がそういうことを堂々と語られていたので、大好きなったと書いておられました。(文春の特別号)

実は今回の婦人公論の井坂洋子さんの選評に、「無菌状態」故に陥りやすい「ひとりよがり」から脱するべく、もっと人の詩を読みなさい、という事がかかれていたのです。それで、さいきん読んだ詩をもっとよく「読む」ために、書き写したわけなのです。

似るぐらいの事、怖れるな、と井坂さん。先人の詩、確かに書くと違います。
昔は、漢詩を書写してたんだな。そういえば。

と、背後で音がします。紙を噛む音。。。。うーむ、文庫の紙の栞を噛んでおられる。うむむむむ。
かわいいなぁぁぁぁぁぁぁ。

あ、失礼しました。あすも何か書き写します。ではでは。



2003年02月23日(日) I can‘t stay mad

昨日の晩はイーノを聴きながら寝てしまいました。
で、今朝。
うーん、なんだかもやっとする気分なので、ボビー・ウォマックを聴きました。今もリピートして聴いています。レヴューにかいたPOETではなくて、WOMAGIC。今はもう廃盤になってるのかな。

自分でもほんとにノン・ジャンルだと思います。なんでも聴く。だけど節目節目に必ず聴く音楽があって、それはほんとに誰の仕業、と思うようなシンクロで聴くべくして置いてあったりするんです。
こないだの菊池さんもそうだし、もちろん「はつぴいえんど」もそう。このウォマックなんて、なんでここにあるのよ、というかんじでした。

このサイトをはじめた頃は、まだウォマックをよく聴いてたかな。詩を書くエンジンのように聴いていた事もあるし。
さて、今朝は「何を聞けというのかな」と。
make love to youのクラプトンのギターかな。
そうではなく、ぴんときたのは
The things we do when we‘re lonely
という曲。
文字どうりの意味の曲です。

もう一度、歌うように…詠うように…。



2003年02月22日(土) どんより雲の日

曇りです。午前中、雨は降らずにしん、としてます。

昨日、あらためて自分がどういう詩を読んできたのか、振り返ってみました。
現代詩のさまざまな詩人の本はありますが、もう一度読みたい、あるいは何度も読み返したものとなると、ぐんっと減ります。

詩の世界で評判のものでも、さっぱり読まないものもあるし。
それでも少ないかな。詩誌というものはまったく読みませんからね。イエのモンからは「それが弱点なんや」と指摘されてしまうし。
うーーん。と、うなる前に一度読めばいいんですが。

だいたい本屋に行くよりもCD覗いている方が多いし。
今だって、マッコイ・タイナーの古いのに手を出そうとしてる。いかんな。
うん、詩集をもっと読みましょう。

ネットで小さな出版社のカタログを見ていて、圧倒的にひかれるのは「書肆山田」さんのものです。そのへんにぼくの「好み」がひそんでいるのかも。
しかし、詩集は高価だから、真剣に検討しないと。どれもこれもというわけにはいきません。

1月に滋賀県の能登川町という町の図書館で谷川俊太郎さんと谷川賢作さんの朗読とピアノの会があったそうです。
その感激が小さなコラムになって新聞で紹介されていました。詩作の秘訣も語られたそうです。

そのことも少しだけ書いてありました。「集中したポッカリ開いた時空のなかから生まれる」と。「深く耳を澄ます中から立ち現れる」と。

自分を完全にリリースしよう、というのが、はっきり意識しているぼくの課題ではあります。



2003年02月21日(金) 「夜の耳」

今日、婦人公論が届きました。今月ぶんの詩の欄の掲載されている号です。
「作品市場」と「ゴザンス」に集中していたため中断していた投稿を、先月から再開していたのでした。

幸いにも佳作に入りました。「夜の耳」という詩です。実を言うとまったく詩が書けなくなったときの苦闘の作品でありました。
時として突然、そういうことになるんです。たいてい、力みかえった時なんですが。もう一つ正直に言うと、書くのが怖くてたまらなくなるんです。一つの文字も書けなくなる。

そんな時に、とにかく書き出さねば、と書いた作品でした。だから、読みなおすと、終わったところから詩が始まっているのがわかります。だけどそれは書けていません。

と、いってもタイトルと名前しか載っていないから、これを読んでいる方は想像しかできないわけですが。とにかくそんな状態でした。

それから、ゴザンスのテーマにあわせて、とにかくアップしているうちに、「戻って」きたのでした。

今回の井坂洋子さんの選評は「他者の作品を読むこと」を強調しておられます。詩は勢いでも書けますし、なんでもフリーです。
だけど、そこからさらに自分を羽ばたかせるツールとしてでも「読むべし」ということですね。

来月も、書きます。



2003年02月20日(木) 気まぐれ

今日は変な天気です。
雨と思えば晴れたり、どんより雲が覆っているかと思えば強い北風が音を立てて吹き抜けたり。
しかし、日の出もはやくなりだし冬はジリジリ後退して行きます。薔薇などの木も新芽がでだしていますから、中は水がたっぷりになってきているでしょう。

今、ウォン・ウインツァンさんのピアノトリオのジャズを聴いてます。
落ちつきます。珈琲かお茶か、それが欲しくなるんですよね。ウォンさんのピアノ。「WIM」の1枚目です。(内容はミュージックレヴューにかいてあります)

昨日は英文のメールをいただきました。アメリカから。詳しくは読んでいないんだけどイラクへのアメリカの攻撃に反対するアピールのようです。
去年、9.11に関してアメリカに小さな意見を送ったのがきっかけのようです。
正確に訳さないと。

”Tadashi”と呼びかけられると、びっくりしますね。外国からの手紙は何回かあるけれどメールは初めてでした。

音楽に合わせて文章を書く、という試みををゴザンスにアップしました。ジャズピアノの菊池雅章さんのもの。
音楽を聴いて物語を創りだす、というのも面白いんです。今、もうひとつ書きかけています。それもジャズピアノがモチーフです。

また、雨が降ってきました。外の猫たちの雨宿りように屋根から塀の上の一部にシャワーカーテンをつけました。人も濡れなくてすむし。
うーーん、一部の猫たちには好評のようです。みんな気まぐれだからナー。そこがカッコいいんだけど。

明日は晴れるかな。

じゃ。



2003年02月19日(水) 「くすっ」とする詩

俳人、坪内稔典さんの詩に関するコラムを読みました。
最近、『詩が老年にも合うという事が示されている』と坪内さんはおっしゃる。
俳句では老人ならではの句境というか作品が、かなり前から生み出されつづけているけれど、詩においては近年、特に顕著だといいます。

坪内さんもひいておられるけれど、ぼくも詩人−老人というと、とっさに天野忠さんを思い起します。京都の詩人で、1993年に83歳で亡くなりました。晩年の詩にはなんとも飄々として味わいぶかいものがあります。

淡々としていてユーモアが滲み出ているのだけれど、よく読むとそのたくましさが伝わってきます。そして言葉が澄んでいるのです。
なにより他に対する目線が愛に満ちていますね。

詩は若者に向いていて、難解であることも魅力ですが、こういう魅力もあるのだ、ということですね。
最近読んだ山田稔さんの「リサ伯母さん」という短篇小説集も、老いゆえの姿が、ユーモアを忍ばせて淡々と書かれていました。
読み終わったあとも、じーーん、と。

そんな大袈裟なことが書かれているわけではないのです。題材はごくごく身近。それでも若い人とは書く内容が違います。世界を見る角度が違う、というか。
やはり自らの死を意識している人は違うのかな、と思う時もあります。

地下でつながっているような文脈で読みたい詩人はいます。ぼくの先輩世代。
詩集の名は「胡桃ポインタ」。鈴木志郎康さんです。
読んだら絶対、影響受けるぜ、と思っていたから。ちょっと読むのを中断してました。

だけど、今となってはむしろ積極的に読もうと思ってます。どうやら、ぼくの詩はどう書いてもぼくの詩以外に成りようがないようなので。
鈴木さんの世界の掴み方を楽しんでみる気になりました。

作家だと、金城一紀さんの「対話篇」。よみたいですね。



2003年02月18日(火) いろんなこと…。

PC環境が少し変わります。
というのは、NTTの光アクセスを申しこんだから。たいした人気で工事は3ヶ月先まで予約が入っているそう。うちでパソコンを使うものが増えるのもあってそうしました。速くなります。

それとプロバイダのOCNがようやくホームページサービスの容量を増やしてくれることが決定したこと。無料で10Mだったのが有料だけど5M単位で200Mまでになった事。ちょっと遅かった。だけど安全性やアフターケアも一番だと思っているんで申しこみます。20日からです。たぶん申し込みが殺到するでしょうね。

とりあえず、あと10Mふやすと、今お蔵入りになっているダイアリーの”1”から全部アップロードできるし、グラフィックももう少し増やせるかも。動画も。

今日は猫の詩を書くつもりで、とうとう書けず。かわりに「逃げる」というテーマで柴犬のことを書きました。細部を直してアップしようと思います。

「きょうとあれこれ」の画像はHPの容量が増えてからにしようと思ってます。

と、なるとPCそのもののグレードも上げたいんだけど、これはなかなかできません。これが一番かもしれないのですけど。


池澤夏樹さんの「イラクの小さな橋」が反響をよんでいます。メルマガの読者として、応援したいところです。

フセインが独裁者であって、人権の抑圧をしているのも事実でしょうし、毒ガスでクルド人を殺したのも事実だと思います。
それでも、イラクの子供を殺す理由にはなりません。日本はアメリカの戦略の中に位置づけられ身動きがとれません。石油はどうなるのかという問いもあるでしょう。しかし、アメリカはアラブ世界が見えていない。フセインを糾すための方法はいくらでもあるはずです。

戦争をしたがっているのは誰なのでしょうか。



2003年02月17日(月) 快晴

雲一つない空。外猫たちがみんな屋根の上で日なったぼっこ。
また、猫の話を書こうと思いました。

今日も高橋睦郎さんの「小枝を持って」のなかから。
「ふたつの墓」という詩にこんなフレーズが。

       パウル・クレーの墓に刻まれた文字を
       写真でくりかえし たどり読む
      「すでに死んだものたちのもとに」
      「まだ生まれない者たちのもとに」
       ぼく自身 同じことを考えつづけてきた。
      「死者と未来者のために」が信条(クレド)だった。

詩はおのおのの「孤独な夜」の共感を詠って、終わります。
死者と未来者のためを書く「孤独」を 豊かに思えました。

ところで、こないだ書いた「平家物語」。宮尾登美子さんの「平家」が一番新しいでしょうか。おそらく「おんな」を。さて、どのように描かれているのでしょうね。 

ぼくは 猫のはなしを書こうと思います。
ではでは。



2003年02月16日(日) 日々の歩く音が聞こえる。

2月はよく喩えられるとおり、過ぎていくのが早いです。
それは日数が短いこともあるけれど、天気が動き出すからじゃないかな、と思うときがあります。真冬の顔と春の顔が神経質にかわりだす週があったりすると、なにか気ぜわしくなりますから。

今日はタラの芽とフキノトウのてんぷらをいただきました。もう山里では春の息吹きの収穫が始まっています。
緑の匂い、新芽のちから、おいしくいただきました。匂いで「ちから」を感じられますね。

なんとなく詩が書けそうなので自動筆記のように書いてみます。


         鬚

鬚がすっかり顔に居場所を見つけだしてから
ぼくの重心が定まった
垂線を 感じられるのだよ

道や荒地や路地と ぼくを貫いて
天を結ぶ線が わかるんだ
ならば彼の人が
詩を書けることを神に感謝したように わたしは
鬚のはえる顔を神に感謝しよう

人の祝福とは無縁だけれど
静に通りすぎれる力を 炎の芯のように この顔で
ぼくは死んでいくよ と
未だ見ぬ先祖への約束のように
呟けるしあわせ。

わたしはカイゼル鬚の 祖父の面影に微笑んでみる。
大陸にいたという
わたしの父を大陸で育てた 軍人という
いまはなき職業の末裔が 詩を書いているんだよ
おじいさん、これがぼくの垂線
日々の歩く音が聞こえだしているんだ。

いまのところ 鬚がきちんとはえるのは ぼくとおじいさんだけみたいだ
兄貴は元気?
ひょっとしたらそちらで鬚をはやしているんじゃないのか

呟ける しあわせ。
鬚だけで ね。


じゃ。また明日。

  



2003年02月15日(土) やわらかな連想

今回の芥川賞の候補作ともなった「鏡の森」の作者、和田ゆりえさんは、京都の長岡京市に住んでおられます。その縁もあってのことか、京都新聞にエッセイが掲載されていました。

三月に京都で開かれる「世界水フォーラム」に寄せての「水」に関するエッセイです。文の大半はへレン・ケラーのまさに目の覚めるような、啓示のごとき「水」の認識について割かれています。それはそれでとても面白かった。
そして、稿の最後に専門のフランス語からの話題を小さく書いておられたのだけれど、それにとても興味をひかれました。

フランス語では「水」を<eau(オー)>と発音します。英語の<water>の最初の母音と同じ発音で、思いきり発音するのだそうです。
和田さんはそれを、そのカタチが水に住まう魚の口の形であり、ポンプや水道の蛇口、また噴水などの水を吐き出すものに共通のカタチだと締めくくっておられました。

ここで示されたのは表音文字に隠された<かたち>のことです。
かつて、駐日仏大使が表意文字たる漢字の成立にいたく感激し、フランス語の単語のアルファベットの連なりを半ば強引に視覚的に捕らえようとしたことがあります。(本まで出されたとか)
つまり、漢字成立の文脈であちらの単語を捉えようとしたのです。
だけど和田さんの捕らえ方のほうが、はるかに新鮮で無理がないと思うのです。

表音とは、その音を出すものの口の形を真似ているというふうには考えられないでしょうか。
<なにかを示すもの>の全体のカタチを紙に書きそれを洗練させていった漢字。
紙ではなく口の形に記憶させていった表音文字による単語。

和田さんのやわらかな連想。水−魚−蛇口。
その裏打ちに究極の直観である、ヘレン・ケラーの体験への洞察があるんだな、と感じました。
やわらかな詩のような。

詩といえば、ここ何日かさまざまなテキストを読みながらも、常に手元においていた詩集があります。以前にも書いた「小枝を持って」。高橋睦郎さんの詩集。
鋭さと美しさのある、無駄のない素晴らしい詩。
「空の渚」という美しい言葉も見つけました。
やはり詩はいいです。



2003年02月14日(金) 平家物語の前夜。

昨日書きそびれていた、「状況」。
いまひとつまとまらないままに、夜になり、夕刊を開いて少しヒントを見つけました。例によってコラムなんですが、ここのところ面白いコラムを書いておられる、大塚ひかりさんの「平成不況と恋」と題された文章です。

その前段として昨年、松本隆さんと一度だけチャットでお話したときに「平家物語」というのが出てきたことというのがあって、昨今の社会状況。特に9.11以降は前代未聞の不況とあいまって、まさに「おごれるものは久しからずや」の状況に被る姿を見ておられるのだな、と。

それと、歴史的に状況を切開しようとする人たちに「信長待望論」を語る人もいました。しかし、安土桃山よりも事態は深刻で、むしろ平安末期に近いのではないかとぼくも認識していたのです。

そこで、大塚ひかりさんのコラムなのですが、ひいておられるのは「源氏物語」です。で、内容は「源氏物語」は貧乏の苦しさが満載になっているという指摘。まぁ、ずはりそうだなぁ、という指摘ですね。
例えば末摘花の家は泥棒も避けるほどの極貧で、まともなひとはみんな転職してしまい、年寄りの女房だけが残っているというありさま。おまけに本人もがりがりに瘠せて、時代遅れの男物の毛皮で寒さをしのいでいる、と。宇治十帖の八の宮も娘の乳母に逃げられ、自ら子育てをする有様。

「源氏物語」では皇族が落ちぶれていくんですね。変わって受領などのあらたな金持ち階級の出現も記しています。
大塚さんによれば「源氏物語」より二十年前に書かれた漢詩文「池亭記」にはバブル真っ只中の状況が書かれているとか。

ぼくが、そのとおりだと思ったのは大塚さんの次の指摘。
『ひょっとして「源氏物語」成立当時、バブル崩壊後の不況と階層分化という今とよく似た状況があったのかも』
いや、まさにそのとおりでしょう。

あとは日本史が示しているように「武士の到来」がやってきます。実は日本史の学者の中では平清盛の再評価が高まっているのです。
少なくとも停滞した藤原氏の専制を打ち破り、時代に風穴を開けた。そういう意味で。そこから、鎌倉時代までの動乱の時代。
昔の百年が今の10年、いや5年だとしたら、現代の動きは急です。しかも国際状況も絡んでくる。

はたして平清盛は現れたのでしょうか。平安の美徳とされた「恋と美」の意味の奪い返し。つまり、貴族特権階級だけの「恋と美」の破綻を、紫式部は救おうともしませんでした。
「恋と美」。平家物語にはどう伏流しているでしょう。
今日ぐらいから、その点に絞って読んで見ようかなと思っています。

現代の清盛は果たしてだれでしょう。ひょっとしたら…。



2003年02月13日(木) 静かな曇りの日

寒いです。だけど陽射しがとてもいい。
雲も高くて、影がいいです。

ここから先、20行ぐらい書いては消しています。
書いてもしかたのないことなので。

「状況」…のことですが。

本をもっと読みたい。
絵もみたい。
藤田嗣治。

花がないな。
薔薇…ひとつ。
ほしいです。

音楽はジャズ。
マイルス、ギル・エヴァンス。
今聞いてるのはパット・メセニーのシークレット・ストーリー。

菊地さんのピアノ。昨晩、結局持ってるCDを全部聞いてしまいました。
弾きながら唸り声を出す人なんだけれど、「ラヴ・ソング」だけには入っていない。

さて、PCから離れますか…。
ではでは。



2003年02月12日(水) 「しょっぱいドライブ」を読む。

よく晴れました。寒さが戻っておりますよ。
文春3月号で芥川賞受賞作品の「しょっぱいドライブ」を読みました。作者は大道珠貴さんです。

物語は64歳の「九十九さん」と30歳代の「わたし」のドライブを軸に、ふたりの関係、取り巻く関係、それぞれを巡るお話が語られていきます。「わたし」も「九十九さん」もそうやって、じんわりと、それぞれ浮き彫りにされていきます。

最後にふたりはともに暮らすということを選んでいくんですが、そこに至るまでのボケと突っ込み。開き直りと生々しさ。それが読んでいて「ふふっ」となるところでありました。じつは「開き直り」の小説なんじゃないかな、などとも思えるところもありました。

ぼくが気になった言葉は、なんどかでてくる「仲間はずれ」という言葉。あるいは「のけ者」という感覚。
「わたし」と「九十九さん」に共通しているのは「疎外されている」ということと、実は「頑固な自分」。このことをぼくは意識しました。

レモンの匂いのする石鹸で指の1本1本をていねいに洗ってやるシーンが好きだったかな。

選者では石原慎太郎、村上龍両氏がなんの感慨も持てなかった、と。古井由吉さんなどは評の中に一言の言及もいれていないほど。
かわりにこの方たちが評価し、ほかの選者の方もいろんな意味で触れている「銃」という作品の方が、たぶん話題性という点では上なのかもしれません。

「選」というのはことほどさように、ブレの激しいものなのであります。
とまれ、透けて見える「疎外」のただなかから、実につましく(可愛らしく)生きだす二人。この感性がわかるかどうか、なのでしょうね。
いいとか悪いとかではなしに。

ぼくは「ふふふっ」と読みました。



2003年02月11日(火) speak like a child

今日の表題はハービー・ハンコックのアルバムタイトルです。1968年に録音されたアルバム。まだマイルスやギルの影響がありありで、彼がマイルスのために書いた「The Sorcerer」も収録されています。

ハービーといえば「ウォーター・メロンマン」の大ヒットで有名だけど、このアルバムも地味だけどとてもいいです。
パーソネルは
ハービー・ハンコック…ピアノ  ロン・カーター…ベース ミッキー・ロカー…ドラムス。このトリオをベースにホーン隊。
サッド・ジョーンズ…フリューゲルホーン
ピーター・フィリップス…ベース・トロンボーン
ジェリー・ドッジオン…アルト・フルート

楽曲の中では、やはりタイトルにもなった「スピーク・ライク・ア・チャイルド」がいちばんいい。
不思議なホーン編成の意図もわかります。叙情的な音楽が展開されています。リリシズムといってもいいほどの。

かなり昔からこれは聴いていました。ジャズ喫茶では「なごみ」の1枚。久しぶりに引っ張り出して聴いてみると、今のほうがよりよく聞えてくるから不思議。
ジャケットがとても素敵で、フェンスの横でキスする二人のシルエット。
その後の華々しいキャリアから考えても、ハービーのかなり本質的な一面を刻したアルバムだと思っています。

昔はピアニスト名義のソロアルバムで、こんなにホーンが出てくるのはいかがなものか、みたいな評価がほとんどだった。
当時、マイルス・ディヴィス、ギル・エヴァンスとともに仕事をしていたハンコックにしてみれば、当然の「ソロ・ワーク」なんだと。マイルスファンなら納得してたんですけどね。

スリルってなんだろうね。
そう思う1枚です。

マイルスやコルトレーンと仕事をしたピアニストたち。コルトレーン・コンボのマッコイ・タイナーとマイルス・コンボだと最近はハンコックを一番よく聴きます。

一日雨のようです。明日から寒の戻りかな。
北野天満宮の梅はどんどん咲きつづけておりますよ。

あそうだ文春の今月号頼まなきゃ。



2003年02月10日(月) スロウ

やっと方向が見えてきました。
一言で言うと「スロウ」。
「遅く」ではなく「あせらない」。
「狭く」ではなく「広く」。

過程…生き方…作品。
心を
「活かす」「生かす」「いかす」「… … …」。

静けさのなか
心をたゆたわせ
止まらないこと。

やわらかく
美しく。

それは来る
という確信。

…まるでメモですね。



2003年02月09日(日) 生きなあかん!!

今日もほとんど一日、読書。
曇りの一日、思ったほど暖かくはなりませんでした。

夜は「こども・輝け命」の第1回。。それを見ていました。

大阪・釜ガ崎の子供たちの話です。詳細は省くとしていたいけな子供の姿をただただ、ただただ見てました。

西成で「こどもの里」を運営しているかたの話の一語一句を聴きのがすまいとしました。
天使のような子供たち。疲れ切ってぼろぼろの大人たち。一度は子供を棄てた親たち。何重にも重なった不幸の連鎖を、それでも背負う逞しさを持とうとする子供たちのまっすぐな目。
それでも親が好きだという子供の「言葉」。親を背負うとする子供たち!!家事も経済的にさえも!!
だだじっと見、聞いていました。

部屋の壁に無数に開いた穴。殴ってあけた穴。子供たちの感情の歴史。
それにしてもつぶれていく大人たち。もう理由なんかええやん。
あかんよ!!
生きなあかん!!

「こどもの里」とは親の病気などで面倒を見てもらえなくなった子供たちをあずかる共同生活の場です。犬と猫が同じ平面で暮らしてる。(うちと同じ!!)

ずっと見ていて、この大人たちは子供がいなければ死んでいただろうということ。子供が親の生きる意欲になっているということに気がつきました。

昔、しょっちゅう通った釜が崎、天王寺。見慣れた風景の中に思いでの顔がよぎりました。今も住んでる友人達はどうしているかな、とか…。
それにしても脳卒中やアル中で倒れなければ子供のところに帰ってこれないという何たる皮肉!!
弱らなければ優しくなれないという、「回路」を文字どおり体現してしまう不器用さ。

頑張れ!!!それを強く思いました。
衿を正す思いで。



その前の「武蔵」の事を書こうと思ったけれど、なんだか次の番組のことばかりになってしまいました。
こちらの今のところのテーマは「生きろ!!」。これをこれからどう描くか。たぶん「強く生きろ!!」がとおしてのテーマだと思います。

黒澤の「七人の侍」云々の話があるけれど、気になるレベルじゃないです。ぼくにとっては。
それよりもいよいよ佳境に入っていく話の展開の仕方が気になります。



2003年02月08日(土) 戦端はひらかれるのか。

書くのもおぞましい。ならば書くまでもない。
ただこの時代に「日記」を書くものとして、触れないわけにはいかない。

アメリカはイラクに戦争を仕掛けるだろう。静かにしていてもそのことばかりが頭をよぎる。

『戦争により平和は生まれない』

緒方貞子さんの言葉を待つまでもなく、そうでろあろうと思う。

そして、その丸ごと裏返しが北朝鮮の問題にもあるのではないか。
たとえ何人を殺しても、何人の人生を踏みにじっても、「彼」の心に平和は遂に訪れることはない。

つきつけられる現実を前に
わたしはわたしなりのやり方で立ち続けるしかないだろう。
そのことをまた思う。

閑話休題

今日は久しぶりにまる一日、本を読んでいました。一つはローレンス・ブロック。もう一つは篠原資明さん。とても刺激を受けました。
空海や明恵上人のウタのダイナミックさに圧倒されたしだいです。言葉への感覚が研ぎ澄まされるようなウタでありました。

雨は一日降らずに、きりっとした晴天でしたけれど、夜になって雨が降り出しました。鹿児島では春一番だとか。予報では今夜中に駆けぬけていきそう。
明日はさらに暖かになりそう。梅の季節です。



2003年02月07日(金) ブルー・バイユー

「ブルー・バイユー」。ロイ・オービソンの曲です。
ロイ・オービソンといえばデニス・ホッパーの出ていたデヴィッド・リンチ監督の「ブルー・ベルベット」という映画でご存知の人も多いかも。ロカビリーというかロッカバラードというか、そういう歌を歌う人です。

この曲をハワイアンでやるといいんですよ。なんともゆったりとしたラブソングになります。
朝、まだ寝ているジャンやハナを見ながら珈琲を入れて、音楽をかけるんですが、ここのところ静かなハワイアンのオムニバスにしています。ハワイアンといってもとてもシンプルな詠唱であるとか、シンプルなバックのヴォーカル、ギターのインストなど。
そんな中に「ブルー・バイユー」が入っていて最初はびっくりしました。うたっているのはロビ・カハカラウ。コンテンポラリー・ハワイアンの代表のような彼女。ボブ・マーレイやスティービー・ワンダーのカヴァーもやっているらしく、それを探しています。
たぶんフリートウッドマックのカヴァーだと思うけれど、ランドスライドという曲は入っていて、元歌と少し違うニュアンスを楽しんでいます。「違うニュアンス」というのは曲の中の「風」が違うという事。
アレンジだとかリズムのとり方だとか、そういう面からの指摘は簡単かもしれないけれど、「そういうプレイをする根っこ」というのが大事だと思え、それは結局「風」が違うんだろうな、と思えてくるのです。「ハワイの風」…。

ゆったりと、静けさを孕んでいる声。
Heavenly Islandの音楽は、朝にぴったりです。

そういえば「ブルーベルベット」。これは夜にぴったりですね。このサントラはアンジェロ・バダラメンティ作曲の曲がいいです。「ミステリー・オブ・ラブ」という曲。これがメインテーマ。その中のフレンチ・ホルン・バージョンがいいですよ。
あれあれ聴きたくなってきたぞ。
これは91年の作品です。愛聴盤のひとつですね。



2003年02月06日(木) 豊後梅

我が家の豊後の梅が咲きました。去年に続き二度目です。白梅です。
今日も朝、いきなり雪が降積もってびっくり。びっくりといえば夜中の3時に地震がありました。震度3。けっこうきました。が、ジャンは熟睡。幸せな奴だなァと寝顔をしばし見てました。

そんな雪にもめげずに、白梅は咲きました。凛としてます。花たちは春へラッシュを始めています。音もなく。自分のいる場所で。自分なりの精一杯を。
花は、そして植物はいろんなことを教えてくれます。

別府のたち飲み屋で京都から遠路はるばるきていると聞いて、家にとって返して梅の苗をくれた人の心。受け取った時、もうだいぶ乾燥してしまっていたにもかかわらず、新聞紙の水分で持ちこたえ、京都の地に見事に根づいた梅の強さ。
毎年、その事を思いました。花の咲き出した去年からはその思いもひとしおです。

これから何年、ぼくはこの梅を見ながら生きていくのだろう。見るたびにたぶん、ぼくは励まされつづけると思います。



2003年02月05日(水) We‘re all that we‘ve got

明日は寒くて、たぶんあさっては一気に気温が上がるとか。いよいよ春の尻尾が見えます。
暖冬といわれた今年、厳冬です。いまのところ。まるで「平均すれば…」という台詞を隠し持つように、気象台は2月の高温を予想していますね。

あさってなので気のはやい話なのですが、12℃を超えるようならレモンの木を外に出してやろうかと思います。楽しみ。

夕方、中島らも逮捕のニュース。これといって感想はないけれど、彼の病気が心配ですね。一読者としては。

最近、夜に考える時間を持つことが増えました。ダイアリーも夜に書くことが増えてます。
音楽、本、も夜に向き合う事が多いです。

『なまけ者のさとり方』という本から興味深いフレーズを知りました。

…他の人達に愛されたいなんて、どうして自分は思っているんだろう?
 人に嫌われたくなくて自分を制限してませんか?
 孤独が恐ろしいですか。孤独を愛することができる人になりましょう…
(タデウス・ゴラス)

だからといって孤独にならねばと思う必要はないです。孤独が恐ろしい人はたちまち不機嫌になるような発言ですね。
だけど、そのとおりです。
いろんな場面、いろんな形でそのように噛み締めることがあると思います。

人を愛する人は、必ず人から愛されています。人を憎む人は必ず自分を憎んでいます。ぼくの短い人生経験からその事だけは指摘できます。 




2003年02月04日(火) 梅の開花

まだ、本格的ではありませんが近所の梅が咲きました。
蝋梅はすでに咲き、北野天満宮の梅もほころびだしています。今日はすこし暖かだったけれど、まだまだ寒いのですが季節は着実に進んでいます。
冬至の頃からくらべて、日の入りが約40分は伸びています。きょうは私立大学の入試。街の中には一目でそうとわかる若い子が歩いています。毎年この時期になると、自分のそのころを思い出します。それだけのテンションがあの時期あったんでしょうね。

桃の蕾も膨らんでいます。薔薇の新芽も出だし、部屋の中に退避させたレモンの木も新らしい葉がつきました。つくづく暖かいという事のありがたさを感じます。するする伸びて天井についてしまいました。春に外に出せるか心配です。
嬉しい心配。

昨日の晩からコルトレーンをよく聴きます。
最近、よく聴くのはコルトレーン以外は、ジャヒーム、エリカ・バドゥ、オリジナルラブ。そんなかんじです。
癖になるものばかり、かな。

今日も自転車に乗りました。徐々に身体をコントロールしていって春にはきっちり乗れるようにしようと思います。



2003年02月03日(月) 冬の小路

今日はジャンのお薬をもらいに十条烏丸までトレックのMTBに乗っていきました。ほぼ京都市街縦断。たまの事だから路を選んで裏の通りを選んで走りました。
冬の京都市街。なかなかでした。

長い距離だから、どうしても並走するバイクに眼がいきがち。今日の眼福はルックのフルカーボンでかっとんでいた青年。フランス制の艶消しの黒のバリバリのレーサー。それに黄色のレーシングシューズとヘルメット。カッコ良かった。シューズとメットはイタリア製だったけど。いかしてた。
あとは、ぼくを追い抜いていった黄色のGTに乗った青年。GTはアメリカのMTB。ぼくのトレックとはライバル関係のところ。七条から九条あたりまではなかなかだったけど、おじさんのぼくに追いつかれてパスされていてはいかんよ、青年。
追い抜いていっ時の元気はどこにいったの?なんちゃって。

今日は油小路という通りをずっと南下。東本願寺が近づくと、あたりは仏教関係の店ばかりになります。仏具、法衣をはじめいろいろ。ほとんど古い町屋です。
そしてついこないだまではぐちゃぐちゃだった九条以南が整備されて見違えるほど綺麗な道になっていました。

さて、薬を受け取っての帰り、こんどは寺町二条の三月書房によって詩集をざーっとみてやろうとしたんですが、お休み。
仕方ないのでCDショップへ。いきつけの店がブラックとクラシックを大幅に減らしてJ−popを大幅に強化。インディーズのパンク系をプッシュしてた。ふーーーん、てなもんで一周。結局ジャズ。キース・ジャレットの古い「生と死の幻想」があった。これのCDの方は持ってなかったのです。

古いけどこれはいいですよ。キースといえばソロピアノだけど、コンボのこの作品がいまだにベストだという人は多いんじゃないかな。ジャケットは赤い薔薇。グレイトフルデッドやローラ・ニーロのジャケットに近い感覚。インパルスから大量に今、古いのが出てるらしくて、マッコイ・タイナーのこれもまた古い「バラードとブルースの夜」もあった。マッコイがコルトレーンのコンボに参加してる頃のだったはず。
これのサテン・ドールはとてもいいんです。
するとどうしてもコルトレーンに行くわけで、ラヴ・シュープリーム、インプレッションズ…。一瞬、これが鳴り響いていた昔のジャズスポットがフラッシュバックしますね。いまだに。

結局なにも買わず店を出て、トレックでぷーらぷーら走りながら、今書いてる短いのは全部書きなおそうと決めたのでした。

雪が降ったり止んだりの毎日です。風邪をひかないのはほんとにラッキィ。このままでいきたいですね。




2003年02月02日(日) 京都府美術工芸新鋭選抜展を覗く…。

ほかの芸術部門でものすごく「インスパイア」されるもの。ぼくは音楽だと思っていたんですが、案外、絵画なのかもしれません。バルデュスやモネ、フェルメールの絵から光を書こうと思ったこともありますし。

日本画も好きです。洋画よりはるかに好きです。池田遥邨さん、上村松園さんなどの先達はもとより、若手の絵も好きです。若手といってもぼくと歳の変わらない、大沼憲章さんとかすこし年上の畠中光亨さんの作品なんですが。ふたりとも京都の方です。

今日は、それよりさらに若い人達の作品を見に行きました。何とか時間を…。ということでホイールの口径の大きなロードレーサー、われらがコルナゴに飛び乗って(大袈裟やな)三条高倉の京都文化博物館まで。

若い人の作品は穴もあり荒削りだけれど、躍動感があって好きです。
この展覧会は「選抜展」というだけあって、京都を拠点としている、35歳以下の新進作家から、美術館学芸員、学識経験者、報道機関美術担当者、美術系大学、画廊で構成する推薦委員から推薦のあった159人を選び。さらにその中から選考委員会が選んだ39人の作品が展示されています。
美術も大変。

ジャンルは日本画、洋画、版画、彫刻、染織、陶芸、諸工芸、ミックスメディア。
今をときめくミックスメデイアよりも、どうしても贔屓目に見てしまう日本画、洋画の前に立つ時間が長くなりました。

面白かったのは
ミックスメディアの城戸みゆきさんの「大地と我が家」。これは真四角のプランター用のおがくずを固めたかのようなキューブ。(よく四葉のクローバーのセットなんかの入ってるやつを想像してください)そこから垂直にステンレスのような鉄の先が伸びてその上にミニチュアの家が乗ってるやつ。ニュータウンのイメージがそうだったものだから面白かった。

洋画の園川誠さんの「passing−right」「passing−left」。これはふたつの作品なんだけど、視点はバイクのタンクの上あたり、走りながらそこからの右と左の流れるような「空気」をストップモーションで描いてる。
2輪に乗る者は「わかり」ます。

日本画は全て力作ぞろいでした。ジャンルの中でも日本画が一番面白かった
もっとも長時間、立ち尽くしておりましたです。
まぁ、ぼくの好みなので。

なんと、この中から最優秀と優秀の賞が選ばれるとか。これがもらえればいいな、というのはありましたが、秘密であります。

こういうのはいいですね。時々は見ないといけないなー。ものすごく刺激をもらえるのです。ひょっとしたら音楽以上かな。自分が気づかないだけで。

それと、この博物館の常設展での江戸・明治から伝わる雛人形や武者人形が見ものです。昔の人形の姿。なんだかよかったです。

あ、猫見に行かなくちゃ。

ではでは。



2003年02月01日(土) 四人の秀吉、そして「物語」

今日はテレビの放映開始から50周年。NHKで生放送でいろんなプログラムをやってます。
大河ドラマで豊臣秀吉を演じた4人がずらっと並んだ図は初めてじゃないかな。
緒方拳、西田敏行、竹中直人そして香川照之。それぞれの秀吉像があったけれど、ぼくは香川さんのがいちばん好きです。

それにしてもNHKの歴代のニュースキャスターの人達のバランス感覚はすこごいなぁ。鋭かったです。

ところで
「物語」ということについて考えてみました。
ぼくは詩の中に「物語」をいれようと思っているから。
「物語」といえば「小説」。だけど小説じゃなくて「詩」。
高橋順子さんの「時の雨」という詩集。あれは通読すれば物語であることがわかります。海外の長い散文詩の多くにそういうものがあります。

日本ではどうでしょうか。
「物語」の構造はもう、古臭いとよくおもわれがちですが、実はそんなことはないと思うのです。ほとんど日本の文学が積み上げてきた物語の構造の展開か応用ではないかな、という気がします。
どんなに新しいように見えても、骨組自体は伝統にあるような気がします。日記文学にしてもそう。

詩の場合、少しづつ生まれていく詩を集めてひとつの詩集にするもの。あるいはテーマを決めて、それを追いかけていくもの。
あるいは即興に徹し、後に残さない、というのもあります。

ぼくがとても惹かれるのは、テーマを追うものです。去年、考えつづけていた「光」のように。実はそれは今でも続いていて、光のある場所、時間。光を浴びるもの。光を成立させる影、光の力、などさまざまに光を想いました。
考えていないなと自覚しているのは「ネガティヴな光」。はたしてそんなものがあるのか、というとあるのですね。いや、光は光としてあるだけで「受け取る器」しだいだとも思ったり。
と、そんな風に考えつづけていくやり方です。

「物語」…。集中して勉強したいです。今に酷似している時代と、そしてその時の読物、と。そして、ぼくのひかれる「物語」と。
大袈裟に聞こえると想いますが、自分なりに秘密の通路を見つけたく想います。

今日は忙しくていけなかったんですが、今日から京都の美術の新鋭たちの作品展が三条高倉の京都文化博物館で始まっています。
これにはなんとしてもいきたい。犬と猫の世話を任せてもいきたい。
たぶん35歳以下の人達の作品展だと思います。垂直な、抜けるような覚醒を絵画から受けることも多いので。
なんとか時間を作れないかな…。







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