ディリー?闇鍋アラカルト
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きのう引用した中学生の文章・・・報復賛成論者が、反対論者に必ず浴びせる言葉がある。「平和ボケ」。実はなんの意味も入っていないこの1語で、反対論者は「現実を直視しない理想主義者」となり、さらに「ボケ」という強烈な一語で罵倒されてしまう。中身のない言葉なのに、これほど相手を侮辱する言葉もほかにない。・・・の中で「現実を直視しない理想主義者」という言葉も検証が必要だと思う。 そもそも、この言葉を使う人間が現実をどのように捉えているかが不明だ。と言うより、現実をかなり狭い範囲でしか捉えていない場合が殆どだ。「永世中立国のスイスだって軍隊を持っている。」と言うのを聞いた事があるけれど「平和憲法の国コスタリカには軍隊が無い。」と言ってくれる人はまずない。多分知らないのだろう。因みにコスタリカについてはhttp://www2.mnx.jp/~jyb2774/index.html#kibunのVol31〜33を参照して欲しい。コスタリカはアメリカの圧力も跳ね返している!せめてこの程度は知って「現実」という言葉を使って欲しい。 教訓:「現実」という言葉を多用する人は狭い認識にとらわれている事が多い。
「平和ボケ」という言葉を使う方も、使われた方も日本という50余年間戦争を体験してない国に住んでいるのだから、平和である事がボケの原因になるとしたら、使う方もボケている可能性はある。しかし、平和である事についても考える必要が有るだけでなく、使う人の心理に付いても考える必要があるだろう。 実は、僕自身は、戦争がないとは思っていても、平和だとも思っていない。古い世代による新しい価値観への侵犯が日常的に起こっている。アメリカがコスタリカに圧力をかけたように。 また、「平和ボケ」という言葉自体が内容の空疎である事と相手を侮辱する言葉である事からして、この言葉を浴びせる人が、現実認識から遊離し、相手を尊重する事よりも侮辱する事・争う事を選択している事を知るべきだろう。 自分の心の中の争いを対人に持ち越してしまったのだ。そしてその心の中の争いもまた旧世代によって植え付けられてしまっているのだ。根は深い!
きのうの闇鍋に平和ボケという言葉を使ったので、YAHOOで検索すると・・・何と18700もヒット! もう市民権を得ているんじゃないかなあ。僕は滅多に使わないけど。この言葉を誰が使い始めたか興味があったので調べてみたら、どうも藤原新也さんらしい。 http://www.fujiwarashinya.com/talk/2002_0513.html 藤原さんは太平ボケという言葉を湾岸戦争の時に使ったのだそうだ。その批判の矛先はマスコミに向けたのだそうで、それがいつの間にか平和ボケという言葉でマスコミの間でも大流行する事となったわけだ。 藤原さんの記事を読むとマスコミが大して状況を把握もせずに面白おかしく書き立てている様子を指して「太平ボケ」と評した事が分かる。 現在一般的には↓のURLに書かれているような使い方をされることが多いように思われる。 http://homepage2.nifty.com/ikebe/opinion1114.htm 「報復賛成論者が、反対論者に必ず浴びせる言葉がある。「平和ボケ」。実はなんの意味も入っていないこの1語で、反対論者は「現実を直視しない理想主義者」となり、さらに「ボケ」という強烈な一語で罵倒されてしまう。中身のない言葉なのに、これほど相手を侮辱する言葉もほかにない。」 この記事を書いた人は東京の中学生だという。最近は更新が出来ていないけれど、新たなアイデアも加えて再起して欲しい所だ。 平和ボケという言葉の意味に対する前置きだけでここまで書いてしまった。 言葉を使うという事は最低限これくらいの配慮が欲しい所だ。中学生が書くように「平和ボケ」という言葉自体には中味がないのだから。中味を規定せずにそのような言葉を濫用している事そのものが浅はかな事であると気付けたら良いのだけれどね。
2002年09月23日(月) |
Imagin・・・必要な事 |
前回Imaginのタイトルで書いた事はJ.レノンとは関係ない事についてだったけど、きょうは関係ある事について書いてみよう。
ジョンがイメージしたのは確かに愛と平和に満ちた世界なのだと思う。それをイメージしなくてはならないのは、実は自分の周囲の状況がそうでないという事を意味する事にはならないかな?そうでないからこそイメージする必要がある!ジョンはアメリカやイギリスが愛と平和に満ちた国などとは思っていなかったろう。それに当時はベトナム戦争なんかもあったしね。(日本は平和ボケなんて言われたりするけど、僕自身はそう思っていない。大体平和ボケなんて言葉を使う人は、平和が分かっていないからこそそんな言い方が出来るのではないかな?最近は不況が身にしみてきたせいかその言い方をする人も減って来たけどね。)
ジョンはImaginの歌では国境や宗教や財産について言及している。僕はこれを具体的な個人のレベルから考える。国境は個人の心の垣根の高さの問題が集合して形成されたのだと考える。宗教もまた然り。キリスト教やイスラム・仏教などと分かれていて、お互いを認めないようでは愛と平和の宗教としては不十分だと考える。相手を十分認められるなら、宗教のラベルなど意味が薄れてしまって当然と言える。私有財産もそうだね。
では、ジョンはどうだったのだろう?子育てに参加したり、その当時の男としては頑張ったとは思うけど、莫大な財産を持ち、持ってしまった人間に起こりがちな垣根の高さとは無縁であったろうか?
僕自身は愛と平和という言葉を使っては滅多に語らない人間だけど、その代わりガス代節約のおいしい料理について語ったり、安上がりスキンケアについて語ったりする。だって、愛と平和という言葉を使ったって具体的なレベルでは何をどうするのか?という点が見えて来ないでしょう?だから、必要なのは愛と平和という言葉を使う事じゃなく、具体的にその実現に貢献する行為なんだよね。その為には知識も研究も必要だよ。お題目だけじゃね。
正確な出典はもう一度本を調べなくてはいけないのだけど、めんどくさいのでとりあえず書いてみる。 老荘の思想で、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 道(タオ)が廃(すた)れて仁義という事が言われるようになった。仁義が廃れると礼儀という事が言われるようになった。礼儀はものの上辺にして乱の始めである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ というようなのがある。 自然な人間関係が廃れるようになったから、道徳や愛という事について言われるようになり、それも廃れたので礼儀が言われるようになったというのである。そして、礼儀は上っ面に過ぎず混乱を引き起こすのだとと言う。 実力の無い先輩から呼び捨てにされ、その先輩をさん付けで呼ばなくてはならない事に苛立たしさを感じている高校生にとって、このような言葉がどう響くだろうか? 倫理社会のテストで、パスカルの著書名をあげよという問題に「パンセ」と書いて×を貰った高校生が教師に文句を言ったら「パンセでもいいのだそうです。」だって。ふざけんじゃねえ!教科書に冥想録(パンセはこう訳される)と書いていたからそれしかお前は知らなかったんだろう。読んでもいない人間がそれを問題に出し、読んでいる人間に×をつけているという事をどのようにお前は考えているんだ!パンセと書いても○をつけてあげますよじゃなくって、パンセと冥想録が同じものだって知らない不明を恥じなきゃ駄目なんだろうが。それで教師と言えるのか!!・・・と口に出しては言わなかったけれど、こうした思いを抱えた高校生が老荘の思想に触れた時に、そこに一人の兄貴分を見つけたというのは分かるよね。 そしてこの高校生は後年「乱は道の始めともなる」と付け加えたりもする。また、「タオの堕落の背後にさえも、広い視界で見るならタオの働きが隠されている。」と語ったりもする。 老荘は尊敬すべき世界の大思想なんじゃなくって、同時代を生きるおともだちなんだ。僕より2000年ばかり先輩かも知れないけど、おともだちでいいよね!
2002年09月16日(月) |
おとなは信用できない!!! |
1970年「おとなは信用できない!」と口にする若者たちがいた。 1980年代尾崎豊はおとなたちに反抗する若者の象徴だった。 80年代後半になって尾崎豊はおとなになり覚醒剤所持でつかまり、苦悩していたように見えた。そして1992年尾崎は突然死を遂げる。
どんな若者もおとなになり、早死にしない限りは老人にもなる。若者の代表として、おとなたちに反抗していたような人物でさえも例外ではない。 70年代に「おとなは信用できない!」と叫んだ若者たちはおとなと成り、過去に叫んだ自分の言葉をどのように思っているのだろうか? 尾崎の苦悩もおとなになったが故(ゆえ)のように感じられる。 おとなたちのしうちに、苦しめられる事があっても、全ての大人の存在が悪であるかのように思ってしまえば、自分がおとなになった時に苦しむ事になる。
僕は昆虫の先輩たちに優しいおとなを見、高校時代に老荘を知った。身の回りのおとなたちに理想の先輩像を見る事は殆ど無かったけど(比較の対象は老子・荘子やニーチェ・・・)、そして、人類の未来に希望も持っていなかったけど、おとな全体に対して絶望はしていなかった。希望を持てないおとなが多いなら、自分がそうならないようにしよう! さて、もうおとなになった僕はそうなっているのかな?
きょうは敬老の日。 たまには時事ネタも書いてみよう。
敬老の日だからといって老人を尊敬出来るものかどうかは僕には分からないが、僕自身は敬老の日でなくても尊敬の気持ちを抱いている老人はいる。だから老人である事はマイナスのイメージにはなっていない。 しかし、日本では老人である事がマイナスイメージを伴っている事が多いように思われる。「ジジイ」と、さほど爺様とは思われない歳の人が馬鹿にされることがある。「トシだから」という言葉も、記憶力や筋肉・運動能力の衰え以上の意味を持って使われる事も多い。「おとなは信用できない!」というのは1970年の若者でもあろうし、尾崎豊の歌でもあろうし、その歌に共感する若者でもあろうし、いつの時代にも多かれ少なかれそのような若者は存在していたと思われる。当然老人は尊敬の対象とはならない。年をとる事自体が忌まわしい事のようであると感じる人もいるだろう。その人にとっては老人とは忌まわしさを積み重ねた人を意味する事になる。現代日本はそのような傾向が強い状態といえる。
僕の子供の頃、おとなたちは優しかったような気がする。昆虫少年にとって、昆虫に詳しいおとなは憧れの存在であったし、その虫好きなおとなにとっても昆虫少年は可愛い後輩であったのだろう。そして、思春期を過ぎて沢山の本を読むようになると、その著者たちに望ましい先輩の姿を見つけるようになった。身の回りにそういうおとなたちを見つける事は殆ど出来なかったけれど、だからといっておとなたちに絶望する事はなかったし、おとなである事にも否定的になる事はなかった。 望ましい先輩としてのおとなが身の回りにいなければ、自分がそうした存在になれるようにしようという思いはあったと思う。 おとなである事自体はそれだけの事。ネガティブもポジティブもその人次第なのだ。
敬老の日はおとなたちが尊敬されないと感じるおとなたちによって作られたのかも知れない。尊敬して欲しいと思うなら、尊敬に値する人物になれば良いだけの話だ。形だけの敬老など大した意味などあるはずがない。 僕は高校時代から老荘思想に親しんでいたが、老という言葉は歳を重ねた事の意味の他に、知恵有る人という意味もあるようだ。だからこそ、江戸時代の政治は老中が中心になっていたという事になる。僕にとって老子の書は知恵の書でもあった。世の多くのおとなたちのように押し付けがましいことは一切言わず、むしろ自分が抱いていた考えを肯定してくれているように感じたのだ。ここにも望ましい先輩がいた!老子が敬老の日なんて話を聞いたらどのように感じるのだろうね。腹を抱えて笑い出すかも・・・
単に成績が良いだけでは秀才であって天才とは言えない。天才というのは新しい価値を齎す(もたらす)のでなくては。という事は既に書いた。 だから、天才についての本を読むと出てくる天才はその当時の常識とは違った行動をとり、それ故に誤解されたりつらい思いをしたり貧困までも背負わなくてはならない例が多い。 勿論それにめげずに己の道を突き進む所が天才たる所以(ゆえん)なのだが・・・ これは、天才を作り出そうとしても、天才は作り出す事が出来ないという事を意味する。 親や教師が天才教育とやらをやってうまく行ったとしてもせいぜい秀才止まりだ。親や教師の常識の範囲から抜け出るようでなくては天才とは言えない。その抜け出そうとする必然性が本人の内側に生じているかどうかが問題になる。そして、天才と言える程の何かが本人の中に育ったとすれば、当然親や師の価値観から抜け出そうとするだろうし、抜け出そうとした時には親や教師の価値観では理解されないわけだから、親・教師の側からすれば失敗であると感じるはずだ。つまり、天才と言える程の人物を作り上げたとしても、作り出した本人さえそれを理解出来ないという事になるし、作り出すという事にしても土台の一部に過ぎない。 天才は同時代の人には受け容れられない・・と言われる事があるが、その同時代の人には親や教師も含まれる。 同時代の人には受け容れられない・・という事は、時代の十年先・数十年先を天才が先取りしている事で、天才の能力の凄さを意味している事が多いが、それ故に大抵の人から理解されない。天才に孤独はつきものである。変わり者と呼ばれ、親や師からも見放され・・・天才は栄光に包まれてはいない。日々の暮らしにさえ事欠くかも知れない。・・・天才のこのような面を考慮に入れて尚天才教育なんてしようと思う人がいるものだろうか?
天才という言葉からどのようなイメージを受けるだろうか? 常人と遥かかけ離れた天からの贈り物であるような才能の持ち主という事なんだろうけど、才能の他にも考えるべき事が含まれている。
単純に記憶力や思考力が優れているという事だけじゃなくて、新しい価値を創造する事が天才の天才たる所のような気がする。 例えば、単純に計算能力が優れているだけなら、計算機でも間に合うし、レインマンの主人公のように自閉症者であったりするかも知れないが、計算機もレインマンも新しい価値を創造する訳ではない。
天才教育という言葉があるけれど、天才は教育によって生み出せるだろうか? 1970年頃のギネスブックには世界最高の知能指数という韓国の少年が載っていた。4歳にして大学入学試験の数学の問題が解けたと言う事だった。しかし、この少年の名を検索してもその少年の業績は出て来ない。 1980年代の科学朝日の記事でその少年に関するものを読んだ事がある。大学だったか高校だったか忘れたが、天才とは程遠い成績であったようだ。記者がインタビューに行った時には門前払いだったと書いていた。僕の心に不吉な思いがよぎった。 4歳にして微積分が出来て外国語も出来るような人間になる為にはどれだけの事がその為に成されたのだろう?それは本人の必然性によって成されたのだろうか、それとも親が詰め込んだのだろうか? 詰め込んだものを憶えるには確かに優秀な記憶力の持ち主で有ったと考えられる。しかし、そこまでするには相当親とべったりの関係だったのではなかろうか? 他の子供と遊ぶ機会など、どれだけあったのだろう。本人の必要性以外のものを詰め込めば詰め込む程他の学びの機会が少なくなる。人付き合いはうまく出来るのだろうか?親掛かりである事が多い人間ほど、独り立ちする時の危険は大きくなる。
僕の知っているノイローゼで通院している人は、小学校時代の成績が良かったと言って自慢していたが、自発的に学ぼうという気力が殆どない。仕事に行っても、新しい事を憶える前に辞めてしまう。彼も、詰め込み教育の犠牲者なのだと思う。 僕の中では韓国の天才児と彼とオーバーラップしてしまうのだ。
「あなたの夢に付いて教えて下さい」と言葉を掛けられたら、どのように答えるだろう? 大抵の場合、世界が平和でありますように、とか、大きくなったら綺麗なお嫁さんになって幸せになるの、とか、未来の希望について語るのではないかと思っている。 僕にとって「夢」という言葉は大きいだけでなく多様な意味を持ち過ぎてしまった。夢についてロクに考えもしなかった時代から、フロイト的夢の時代を経て、夢のトレーニング。遊びの時代・・・そして今に至る。 きのうの闇鍋では「いや、国境や私有財産こそ文明国の多数の人が取り憑かれている悪夢なのかも知れないよ。」と書いた。 Dreamer・ジョンは国境や私有財産というものがない世界を夢見る。現実にはそれらは「存在」ではなく、取り決めによって存在しているかのように機能しているだけだ。その取り決めを理解しない者にとっては存在していないと同じようなものだ。 渡り鳥は南北朝鮮の壁を有るとは感じない。赤ちゃんや文明と接していない人たちにとっても国境など理解の外だ。 国境が大きな意味があると信じるようになる為には、文明の側からの執拗で強力な働きかけが必要だ。殆どあらゆるおとな・あらゆるマスコミ・あらゆる教育機関が国境というものが確かな存在ででもあるかの如くに語りかける。 しかし、国境は取り決めによって成立し機能しているものに過ぎず、その取り決めも、影響を被る当事者全ての話し合いによって決められた訳ではない。 南北朝鮮の国境は、国家共産ファシズムの夢と民主自由ファシズムの夢に操られた人々たちの衝突の結果の取り決めとも考えられよう。朝鮮半島に住む全ての住民の願いがそうした取り決めを選んだとは言い難いだろう。しかし、そうした取り決めを選ぶ選ばないに関わらず、住民たちもそれ以外の人もその取り決めに巻き込まれて行く。 目覚める事が必要だろう。成員の意思が尊重され、取り決めが全ての成員の意思が反映されて結ばれるようになるとしたら国境の形や意味は変わってしまう事だろう。
きのうはImaginのタイトルで破産に付いて書いたけど、きょうはJ.レノンのImaginに関して書こうか。
知る人ぞ知る、僕はミュージシャンとして仕事をしてた事がある。キャバレーバンドのバンドマン。それから酒場のピアノ弾き。お客様からのリクエストがあれば出来るだけ答えようとする。ナツメロから流行りの歌まで、ジャズもやればロックもやる。Imaginは店のオーナーが好きで僕にリクエストした歌だ。 僕はビートルズやJ.レノンに興味がなかったので、楽譜を見て初めてこの歌を知った。
国境というものも私有財産というものもない世界を想像してごらん・・・ なんていう歌詞は、共産思想だなあ・・・
でも、僕はレノンがそんな事を言わなくても知ってるんだよね。 母なる大地という感覚。それはネイティブアメリカンやオーストラリア原住民アボリジニたちにとって当然の感覚なのだと思う。いや、バッファローや燕といった動物やタンポポのような植物にとっても当然の感覚なんだと思う。 僕は自然を相手にする事が多かったので、このような感覚というのを親しく感じている。 ジョンにとってはどうだったのかな?莫大な私有財産を持ち、凶弾に倒れたジョン。 You may say I'm a dreamer(僕の事を夢見る人{=空想家・馬鹿者のニュアンス}だってあなたは言うかも知れない)と歌詞に書いたジョン。
いや、国境や私有財産こそ文明国の多数の人が取り憑かれている悪夢なのかも知れないよ。
J.レノンの歌と同じタイトルだけど、中身は大分違うよ! 「仕事場で」を読んで重苦しい雰囲気になっちゃった人も居ると思うので、そこを、もうチョイ一押しすれば・・・・
今、日本は不況で重苦しい雰囲気がある。アメリカにしたって先行き不透明だし、きのうの新聞には世界同時株安の衝撃!なんてあったね。
さって、そんなに不況って恐ろしい事なんだろうか?イメージしてみよう。破産という事態を。今までの裕福な生活が続けられなくなる訳だ。金の切れ目が縁の切れ目、去って行く人も居るだろうし留まる人も居る。ま、それだけ人間関係はシンプルになる。
破産をすれば、もう法律的には金を返さなくてもよい事になる。ということは巨大な債務を抱えて会社だって、倒産すれば金を返さなくても良いという事になるよね。混乱は必至だけどね。そもそも、金に利息がついて殖えるという仕組みや株の値段が上がるというのは実際の生産が結びついている訳じゃないから、バブルの側面があるということを分かっている方が良いと思うな。
仕事がなくなるという事はこれからの日本では簡単に解決出来る事じゃないけど、全ての日本人を養うだけのものはこの国土に既に存在している。 食料自給率が4割以下などといっても、あくまで数字の話。牛肉で10人養うエネルギーがあるなら、穀物でなら100人を養えるというような事が分かっていればそんなに怖れる事はない。 住む所だって十分な量の住宅はある。使われていない所が相当ある。それを有効利用しよう。都会に集中というようにはいかなくなるけどね。 この話の続きはいずれ!
2002年9月の時点で僕はホテルで仕事をしている。僕はこのようなサイトを運営しているし、記事を読むと「フォアグラ・霜降り肉はおいしいか?」なんて記事もあるので、「では、このようなサイトを運営しながら、ホテルで仕事をするのは矛盾じゃないか?」という言われ方をするかも知れない。 実際ホテルで配膳の仕事をしていると、フォアグラや霜降り肉をサーブする事はよくある。また、そうしたコース料理とバレンタイン博士の食物バランス図を比べてみると、豆が殆どなく・野菜はお飾り程度で・肉が多すぎという印象を当然持つのだけれど、注文しているのはお客様なので、そしてこちらの仕事はお客様が快適に過ごしてもらえるようにする事なので、「お客様、そんなコース料理を食べて大丈夫ですか?バランスの事をもっと考えた方がいいですよ。」なんて言ってお客様の気分を害するような事はしない。 僕は合理的な食事法はサイトの記事で紹介しているし、仕事場でまで紹介する必要は感じない。健康至上主義者でもないから、絶対こうでなくてはならないとも考えない。出来る範囲の事を好みに応じてすれば良いと考える。だから、タバコを吸ってはならないとも、自然食でなければならないとも思わない。 それでも食生活についてはよく知っている方なので、高血圧で医者から減塩を言い渡されているような患者が客として来て僕のアドヴァイスを求めたら、それなりに答えるだろう。
先日6名様ほどのグループが低インシュリンダイエットの話をしてたので、つい「低インシュリンダイエットというのは、炭水化物摂取に関する一つのアイデアに過ぎないんです。」と一言言ったら「何者なのかしらこの人?」と思ったらしく「どうしてそんなこと知ってるの?」と尋ねられたので「実は、ダイエットサイトの管理人をやってるんですよ。」と言って食生活からダイエット・猫背・肩こり・アトピー・スキンケアまでの健康情報サイトである事、手作り石鹸の事まで話してしまった。 そうしたら、そのグループの中に皮膚科医がいらっしゃったんですね。 「そちらの方はその道(アトピー)のプロなんですよ。」と言われて、「う、ダイエットの話だけで止めといた方が良かったかな。」等と思った所にもう一声。 「それじゃあ、私たちは敵でしょう?」と言って襟のバッジを見せてくれたのだが、そのバッジは日本最大手の洗剤メーカーK社である事を示していた。 「敵だなんて、そんなあ、そんな事思ってないですよ。」 かつて、水質汚染の元凶として環境保護団体から洗剤会社が環境保護団体などから糾弾された事があり、糾弾した方の中には手作り石鹸推進運動をやってる事もあったという経緯もあるから、K社の人がそう言ったのも無理はない。その席はK社が皮膚科医を接待する席だったのだ。 その日は忙しかったので、グループ内の会話など殆ど聞いてはいなかったけれど、聞いていたら賛成出来ないような事も話されてたかも知れないけど、僕がK社や皮膚科医を敵と見なすような事はないのも本当だ。 でも、敵とは見なさないけど、医者には3分間診療じゃなく、患者が自分で改善出来るようにアドヴァイスを与えて欲しいと思うし、K社には消費者の肌を荒らさない製品を供給して貰いたい。医者やK社の利益はそれによって低下する可能性が高いけれど、それをしないなら、いつか洗剤や化粧品の真実を知った消費者から背を向けられるという事を伝えたい。内実が伴わないのに会社の利益が上がるとしたら、結局の所バブルに過ぎない。「私たちは敵でしょう。」という寂しげな言葉は、環境保護団体から敵であるような視線を向けられた過去の経緯からも来ていると思うけど、会社に依存して生きている事と、それによって大切なものを置き去りにしているというある種の後ろめたさも感じているように思える。 若し、人の健康を害する商品を扱う事が人類の敵であるとするなら、洗剤会社K社は人類の敵・環境の敵という事になるかも知れないが、フォアグラや霜降り肉を提供するホテルやレストランだって敵になってしまう。ホテルで働く僕にしてもK社で働いている人にしても、共通した課題を抱えていると言えるだろう。 共通した課題・・・これはホテル・洗剤会社に限らず、電力会社でも自動車会社でも、所属する団体の収益をあがる事が同時に放射能や排気ガスを生産することでもある事を含んでいるような場合は皆抱えている問題でもある。その団体・企業に属していなくても、大抵の人は自動車を利用して排気ガスを生産し、電気を使って放射能の生産に協力をしているわけだから、そして、小売業であればジャンクフードを扱い・・・・というように大抵の人が巻き込まれてしまっている克服すべき課題なのだと言える。 それにしても、このような奇形的状況になってしまったのを誰が予想出来たろうか?洗剤にしろ原子力にしろ農薬にしろ医療にしろ小売業にしろ、それが始まった時の意図が悪かろう筈がない。便利さのためでもあり、豊かさの為でもあったのだ。 しかし、便利さは消費と関連したものに集約されるようになり、豊かさは闇雲な生産・環境の破壊へと変貌して行った。医療費は膨れ上がり、アレルギーは増大し、人々は忙しく駆けずり回り、一日100種程の生命が絶種する事にさえ無感動になってしまっている。それどころかその事実さえ知らないであくせくしている人が殆どだ! 現在文明国と呼ばれる国々の生産活動は我々人類の生存を危うくする状態になっている事に気付かなければ、そのために改善できる事を実行しなくては、人類には100年先の未来も保証は出来ない。私たちの子供や孫が恐るべき苦痛と共に人類最後の日々を過ごすという事が、私たちの生産活動の齎す(もたらす)未来である可能性は高い。子孫ではなく、私たち自身の運命となる可能性だって低くはない。「子供のために」と言いながら、高い教育費の為にヒイヒイいいながら働く事が、他ならぬ子孫の首を絞めている事に等しい壮絶な皮肉! 子供の幸せを願わない親はいないとするなら、こうした皮肉を招いている現状は、忙しすぎて、生命の連鎖や私たちの存在に付いてロクに考えもしなかったという事を示しているだろう。 私たち人類は生命の敵ではない。子や孫の為に必要な事に気付けない状況を作り出してしまっただけなんだ。ならば、気付いた人が気づく為の状況を作り出せばよいだけの話だ。けれども、遥かな道・・・・間に合うのだろうか・・・・
芥川龍之介は自殺している。生きている事が苦しかったのだろう。 病気にも苦しめられていたようだ。 彼の文章力も膨大な知識も彼を救う事には役に立っていない。生きている意味を彼は見失ってしまった。彼の全集を全部読んだとしても、彼の書いた事しか見えなければ龍之介がそうした道を選んでしまった事の原因には気付けない。 芥川の知性には欠けている所がある。それは体についての知性だ。また、自然についての知性だ。
芥川が健康な体を維持出来ていたとしたら、苦しみは半減しただろう。お尻が痛い・消化不良・体が冷える・食べ物がまずい・眠るのに薬の力が必要・起きている時もスッキリしない・・・という状態で生きている事を喜べるだろうか?生きる事が不快になってしまうはずだ。
一般に生物学者・博物学者は長生きの傾向がある。それは、研究対象が自然なので、人間関係のストレスに影響される事が少ない事が理由の一つでもあるけれど、人間について考える時も自然をバックに考えると、狭い範囲で悩まなくて済むと言える。 これは単純に「この大きな海を見ていれば、人間の悩みなど小さいものだと感じてしまうよね。」というような意味だけでなく、美しい花を見ていれば、人間の悩みを忘れていられるという意味の他にも、白血球を調べていたら、それが病気や食べ物や生物の進化にまで関係している事に気付かされる。つまり、生命が発生し、何億年もの進化が自分の体の中に原初の状態から現在に至るまでの足跡が、自分の体の中にある事を知る感動が、人間関係のストレスを超えた思考法を齎してくれるのだ。白血球に限らず、生命のつながりを知ることは同様に思考法を広げる。 白血球としては未分化なバクテリオファージにしても、それが自分の体を構成している一部であるというだけでなく、遺伝子的にも全く自分自身に他ならない。自分自身である白血球が病原菌を駆逐するのは自分の意志に他ならないというう事を深く感じるなら、芥川のように自殺傾向を持つ自分の観念的な部分を不自然なものであると思い至らないであろうか? ヤスデやダンゴムシといったつまらない虫だと考えていたものが、それ無しには生命の循環がうまく出来ないという事が分かれば、価値観の転換も起こる。 歴史上の天才的人間・・・他の人が気づかない事に気付いてしまい、それ故に大きな業績を残しはするが、他の人との価値観の差によって大きな苦しみをも背負う運命をも引き受けなくてはならない。その運命を引き受ける為に必要な事があり、芥川龍之介はその部分で不足があったのだと言えるだろう。
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