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■ 私の愛した彼
過去の話題を引き合いに出し
彼が触れてほしくないことを何度となく持ち出し、
彼の感情を逆なでするようなことを私が結果的にしたのは、
相対的な意味合いがあってのことではありません。
それはむしろ、
絶対的な私に対する彼の中の恋心の減衰
それを
危惧してのことでした。
絶対的なものをスケール化するには、
具体的な比較対照があったほうが解り易いという
私なりの理解の目安として
過去の例を引用したつもりでした。
例えば
私は
彼の車に乗りたかったのです。
過去の人が乗って
彼の助手席で安らかな眠りに落ち
そのプロフィールに夕陽が射して愛しいと思ったという
私も
そんな体験がしたかったのです。
彼には
私のこの心の痛みは理解できないことでしょう。
それは、
たまたまその機会が巡ってこないだけのことだ
という彼なのですから。
おまえは俺の感情を考えたことがあるのか
という彼の問いかけには、
十二分に YES と 言いましょう。
彼の腰痛や、彼の苦難のときは、
私は
私のできる範囲のベストを尽くしました。
それは、
電話で気を紛らすことが主でしたが。
彼には
結果的に
そのようなことは不要であったようです。
待たれることを苦痛と感じる彼にも
私は
私の意図とは逆の効果を
彼に対して促したように思います。
そして
おまえは俺に対してひどく失礼なことをしている
と言うことに関しては、
私の犯したその失礼が
許されない程の失礼であるとしたら、
それは彼の中で
私が他人として認識されるからです。
親が子供に失礼を感じないのは
包み込むような大きな心で
その存在を惜しみなく愛しているからです。
愛は
惜しみなく許すこと
私はそう思います。
私は彼に失礼を感じませんでした。
少なくとも今日までは。
彼が他人なら失礼と感じるだろうことを
私にしたことはあります。
でも、私はそれを失礼だとは感じませんでした。
彼を他人だと思ってはいなかったからです。
私の愛情を
信じることはたやすいことだったでしょう。
この日記は
日録としての機能と
一方的な
私の感情という情報に満ちているからです。
自分が充分情報に満ちているから
相手もそうだろうと思うのは間違いです。
私が手にする彼の感情という名の情報は
実はとても少ないものです。
相互の意思の疎通がゆるぎない愛を育むはずだと
私が直感したから、
彼にこの日録を公開したのだと
そう思います。
なすべきことを総てして
それでも
彼の中で私に対する優しさが壊れたままなら
私たちはおしまいです。
その時の彼は
もはや
私の愛した彼ではないからです。
小さなフォト日録 今日は 【 キーワード 】
BBS
2003年03月31日(月)
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