帰宅。
3日妹と移動。 お通夜って何人か仮眠をとって時間交代制と思ってたのだが、これが文字通りみんなで完徹。 あけて4日。ローカルルールなのか宗派のものなのかわからないが、火葬と納骨の後本葬。 これは体力的にも精神的にもダメージが大きすぎたのでこの日のうちに帰らせてもらった。
メールをみないで寝ようと思ってたのにメールチェックをしたら緊急案件がいくつかきてて寝られない。馬鹿だ。
--- もう少し詳しく書き残しておく。
死因は倒れたときに後頭部を打ったことによる脳出血。 倒れた所にトイレのスリッパが片方あったということで、おそらく寒いトイレへ行って立ち上がったときの血圧変化でふらつき倒れたのではないか、といわれてるが真相は闇の中。
29日の朝倒れたところを祖父が見つけて110番したらしい。 その後救急車で運ばれたのだが、その間にお餅を送ってもらったいとこ(母の弟の子供6歳)が「届いたよ」と電話するとすぐ切られて3回かけたら「救急車がきよるのにそれどころじゃない!!」と怒鳴られた。
ここで叔父の家では何かおかしい、となってネットでそこの救急受付(119は緊急なのでそれ以外の番号(警察署や救急当番病院など)がある)を調べたという。 電話するとどの病院へ誰が運ばれたのか教えてもらえるらしく、そこで次第を知って29日。 その間向かいに住んでいる親戚(母のいとこ)が病院へ駆けつけて祖父と医者から次第を確認した。 母と叔母は30,31日に帰省する予定だったが叔父の知らせを聞いた母らは29日に駆けつけた。 診断によると手術とかやる余地はなく処置なしということだった。 明くる日の30日に医者より死亡の確認された。
死後の通帳等の取り扱いは早くしないと非常に難しくなる、ということで家捜しをすることに。 ほとんど趣味らしい趣味もなく使わないでためていたようで、これがさがすとこさがすとこ小金や通帳が見つかったという。 祖母の部屋である2階では印鑑発掘までそれこそ宝探しの形相の中、1階では納棺を行われていた。 湯灌は病院で行われており防腐剤はなしに。納棺は花嫁衣装を着ることになるらしい。 角隠しまですると顔が見えなくなるのでやらないが草鞋から上の着物まで綿で作った衣装を着せられた。 一日一回葬祭の方がドライアイスを取り替えにきていたらしい。 30日から4日の火葬まで丸5日祖母はうちで横になっていた。 その間棺桶の窓はあけておくものらしい。故人が寂しがるからだという。
自分は妹その1と通夜からこいと言われたので元旦と二日はしっかりと休養をとり移動。 私は帰省ラッシュの逆向きなので楽だったが、妹は途中の人身事故とラッシュが重なりかなりしんどいことになっていたようだ。 正月を避けるため3日通夜、4日火葬•告別式と初七日法要。 向こうのやり方で納骨の後本葬を行う。これは全国の3分の1ほどがこのやり方であるということだった。 後で調べたところ、この辺と東北の方などいくらかのところでは火葬の後骨葬であるようだ。 なので、死に顔をみて最期のお別れをしたい場合は、お通夜に出るか火葬前の早朝にくる必要がある。 今回は8時半坊さんによる送り出しのお経のあと火葬1時間半後納骨、12時から本葬、引き続き初七日法要を行われた。
日頃薬で寝付いてたのと一旦服薬後寝るとある時間までは起きられない。薬を飲まなかったので通夜では全く寝られず。 火葬の直前にみた骨壷があまりにも小さいことに堪え、火葬後の納骨もちょっとしたショックだった。 葬儀の人がいうのはご老体でこれほど骨がしっかり残っているのは珍しい、という。 よく歩いていていたため骨粗鬆もなく関節もしっかりしていた。 とはいえ、箸で骨ってつかめない。ぼろぼろ崩れる。 また大きすぎる骨は壷に入らないので崩す。 みんなが拾わないので残りを祖父と拾った。
私は一度だけ列車事故の遺体をみてしまったとき丸一日ものが食べられなかったことがある。 死に顔をみて納骨まですれば法要後の食事などできるはずもない。 というかここは通夜の食事も葬儀後の食事も精進料理じゃなかった。 あんなヘビーなもの食えるか!!みんななんで食えるんだ? ということで葬儀後すぐに帰省ラッシュの中帰宅。
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