今日もガサゴソ
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105円のスクレイパーの威力で 小一時間の作業で 勝手口のドア一面のガラスがピカピカになりました。 どうなることかと思ったけど ガラスに傷がつくこともなく 削りカスが雪のように降り積もり 外も吹雪で真っ白な世界。
昼前後に、どうにもこらえきれず昼寝をして チビ助は自分でお塩のおにぎりを握って食べていました。 少し元気が出たところで 台所を片付け、キルト君のシャンプー。 半ズボン、半袖でキルト君を迎えに行ったんだけど 無茶苦茶寒かったーーー(×_×;)
キルト君、シャンプーのあとすっかり乾くまで ストーブの前でかわいがってやろうと思ったけど テレビや、ウロウロしているチビ助が怖かったのか 落ち着かず吠え続けるので、仕方なく小屋へ。 吹雪だろうが氷点下だろうが すぐにふんわり乾いちゃうんだよねぇ。 外暮らしの犬って凄いなぁ。
それから、お掃除をして衣類をカバンに詰めこんで 出かける準備。
荒れ模様のお天気なので 交通事情が心配ではあるけれど とにかく実家に向かいます。
今日は父のいるケアハウスから 父をケアハウスのお風呂に入れたと報告がありました。 自宅では訪問入浴のサービスを利用していたけれど ドサクサしちゃって、介護保険の点数が足りなくなってて 要介護4の認定が下りるまで お風呂のサービス分が困っていたらしいのです。 ケアハウスとしては、人手はあるので 大がかりな設備はないにしろ 介護保険を利用しないで入浴することができないか いろいろ考えて下さっているようで その辺はおまかせすることにしていました。
父はこの頃、食欲が出て 毎食おかゆを平らげて、その他にも栄養のあるドリンクを飲み 顔色も良くなっているとのこと。 ケアハウスの職員ともお馴染みになり 体調も安定しているようです。
実家行きということで またネットからしばらく離れます。
皆さま、良いお年をお迎え下さい。
明日は実家に出発だというのに 掃除もほったらかし、洗濯物山盛り 荷物もひとつもまとまっていないよ。
スーパーのレジ袋、 たたんでる作業も中途半端で居間の床に山盛り。 レジ袋、だんだんもらえなくなるというし きっちりたたんでおかないと場所ふさぎでしょうがないしなぁ。 それが片付かないと掃除機をかけられない(場所がある)よ。
昨日は銀行の用をすませるために 夕方のバスでチビ助とジャスコにでかけて 100均でスクレイパーとかいうのを買ってきました。
レジ袋さえも途中で行き詰まっているのに 勝手口のドアに張ってあるシートをはがしたくなっちゃって。 これがね、家を建てたばかりのときに 水回りの窓に貼り付けたもので 曇りガラスは夜になると外から人影が見えちゃうのね。 目隠し用のシートは、少し光も通すし 霧吹きで窓をぬらせば簡単に貼れるものだったの。 何年経っても綺麗にはがせますって書いてあったのね。 何年っていのが12年だとどうかというのは書いてなかったけど。
昨日の午後、お夕飯用に 大根と手羽先を煮ているときに 勝手口のシートが気になりだしたのね。 欠けてはいないけど、全体にひび割れているし 汚れたところは洗剤をつけたスポンジでこすってもとれなくて ちょいとはがしてみようかなって思ったのが運の尽き。 霧吹きしたり、ペーパータオルを当ててパックのように湿らせても なにをやってもまともにはがれないの。 車のウィンドウ用の霜かきとり用のスクレイパーを持ち出して がりがりやってみたら 表面のシート部分はけっこう削れるけど のりはべったりがっちり張り付いてる。 2時間もかかって、5分の1くらいのシートをはがして のりには太刀打ちできなくて ネットで検索してみたら、かきとるためのちゃんとした スクレイパーが必要らしいとわかって...。 100均でスクレイパーはすぐ見つかって良かった。
それから、ジャスコの食品売り場で980円になってたケーキの前で 迷いに迷って、これが安いのか高いのかわからない。 すると、他のお客さんが 「もうすこし負けてよ」と店員に声をかけたのね。 周囲のお客もみんな同じ気持ちだったのね。 店員が非常に残念そうに 「これはーーー2800円のお品なんですぅぅぅ」というと どんどん手が伸びる〜〜〜〜! 私もついつい買っちゃいましたよ。 今年は材料費高騰のあおりか、ケーキがやたら高くて 予約受付のポスターさえ見る気になれなかったんだもん。 お夕飯のあと喜んでいたのは亭主で。 でも、これが2800円というのはちょっとねぇというのが感想でした。 980円なればこその、980円のシアワセなお味でありました。 損した気分にはならなかったから、まぁいいか。
で、そのあと、台所を片付けた後 亭主がテレビで芸能人がサバイバルで海に潜って 花咲き蟹を捕っているのをみてわめいているのを尻目に ありがたい105円のスクレイパーの使い心地を確かめてみました。 こりゃぁすごいねぇ。 ゴリゴリいっちゃう。 でも、やっぱりがちがちに固まったのりは 改めて削らないとダメみたいで、 シール剥がし用のスプレーも使ってみたけど 布でつるつるふき取るようなわけにはいかないことが判明。
今朝は朝ご飯のあと、亭主が出かける前に 勝手口のシートの表面を全部削り取っちまいました。 台所がかなり明るくなりました。 のりの部分は、ちびちびヒマをみて削ればいいかな。
あ、今日はキルト君のシャンプーもしないと!
朝一番にチビ助が これが前から欲しかったんだーーと ゲームの箱を抱えていました。 勝ち残り頭脳大作戦とか生き残りゲームとか そんな名前のボードゲーム。
しかも、ノイズ改造ギアも入ってるーー!!
ノイズ改造ギアというのは DS用のゲームに利用できるカードで 5枚一組で売り出されたけれど どこも売り切れでなかなか手に入れられないもので チビ助は1月末の第2弾の発売に望みをかけていたのね。
チビ助はとても喜んでいて いやー、サンタさん、お見事でした。
朝ご飯のあと、私のところにやってきたチビ助
ノイズ改造ギアは親には手に入れられるはずがないので やっぱりサンタはいるんだねー
お友だちの話などから ちょっと疑いを持っていたらしいチビ助でしたが 今年はなんとかセーフだったようです。
サンタさんご苦労様でした。
冬休み二日目、 チビ助は「学習会」ということで 宿題をたんまりもって学校に出かけてゆきました。 お昼は先生がお湯を下さるというので 憧れのカップ麺を持参です。 小さなおにぎりもひとつ持たせました。
今日がチビ助の冬休み一日目。 宿題はスタートダッシュということで すでに始まっているのであり 昨日には四教科のドリルの答えをもらいに学校へ行きました。 担任が上手にハッパをかけてくれるので 大変に楽....楽だと思いたい....です。 答えをもらったからには丸つけがあり チビ助のうっかりやら間違いを直させないと...
朝から宿題をがんばったチビ助、 お昼までソリ滑りに繰り出しました。 斜面は最高の仕上がりで 思いっきり楽しめたようです。
私は昨夜から眠くて眠くて チビ助の宿題を見てやって、ネットでちょっと遊んで ソファでお昼寝をして 一日過ごしてしまいました。
夕ご飯はスペアリブをオーブントースターで焼いて デザートにプリンに生クリームをトッピングして終わり。 質素なふくろう家であります。
私が実家に居る間、家のほうでは
亭主はいつもブンブン急がしそうで 帰宅後、チビ助が就寝するまでの間に しておかなくてはいけないこと満載で チビ助もお手伝いの合間に DSで遊びたくてしょうがなくて 電話してもよそよそしくあしらわれるのが関の山。 困り事はないか聞いても ないない、じゃーねとつまんないことこの上なし。
それなのに、明日は戻りますよというその日に 亭主が「あのさーーー」と質問してきた!
あのさーーー 圧力鍋ってどうやって使うの?
....??.....何したいの?
芋蒸かしたい
.....鍋は見つかった?
うん
お芋を蒸かすならペーパータオルに包んだ芋を 濡らしてラップしてチンするという手もあるんだけど それじゃぁ嫌なんだそうで。
うふふ。圧力鍋の威力を思い知ったのね。
てこずったのは 圧力鍋の蓋にシリコンのパッキンをつけねばならないこと。 パッキンのありかを説明することでした。 なにしろ会話がちぐはぐな夫婦なので。
一通り説明した上で 電子レンジの横に数冊のお料理の本が立ててあって そのなかに圧力鍋料理の本があるので それをちらっと見て、注意事項を確認してと言ったけど 本をさがすのは嫌だそうで....
短時間加熱するだけで 調理できてしまう圧力鍋、美味しくて嬉しいけどね。 欠点は、重いこととそれから取り扱いに注意がいること。 調理中の圧力鍋の蓋が何故かふっ飛んで 主婦の頭を直撃して死亡事故、本当にあったし.....
とにかく、亭主は無事に圧力鍋を使って お芋を蒸したらしい。
そして 今朝も、台所を片付けてお芋を蒸してました。 まるでミカンの皮を剥くように リンゴの皮を剥くように お芋を圧力鍋で蒸す。いいねーーー。
私はサツマイモ、そんなに好きじゃないけど 絶賛しておこう。
あなたが蒸したお芋、んまいーーー♪
でさぁ、使った鍋、自分で洗ってくれる?
ちぇっ
昨日から降り続いた湿った重い雪が どっかり積もりました。 亭主が起き抜けに雪かきをしたので相当です。 早朝に除雪車が走ったので 駐車場の前の雪をどかさないと 車が出せないことになるのです。
先週銀行から掛かってきた 住宅ローンの借り換えに亭主が乗り気になって そのことで銀行と連絡を取っていました。
それから、午後から建築会社さんがやってきて 先日口頭でアレコレ要望を出したのから生まれた 増築のプランをふたつ持ってきてくれました。
それをもとにまた検討をして修正したものを 実家に持っていき 母の意見を聞くことにしました。 予算のこともあるし.....
そうなった場合、住宅ローンの借り換えっていうのは スムーズにいかなくなるんだな。 資金の不足を補うような借り換えもできないことはないらしいし.... とりあえず、来月になると 金利が多少変動することになる....だな.... .....
ん〜〜
ややっこしいことになってきた.....
さっき建設業者さんから 修正したプランの図面を送ります〜〜って 連絡がありました。
家を建てたとき建設の課長だった方なんだけど いまはログハウス部門の偉いさんになっていて それでも、私たちの相談に乗ってくれるって。 トライアスロンをやっていた方で 私の実家のある町で毎年開催しているトライアスロン大会に 第一回から参加していたんだよねー。 実家の前がランニングのコースになっていたのね。 一時期は建設から営業に移ったと聞いていたけれど 家を建ててから12年、 こうして相談にのっていただけるのが嬉しいな。 資金不足でピーピーなお客なのがひたすら申し訳ないけど。
しかしだ、 今日の日中に聞いた 銀行の話と、建築業者さんのはなしを 亭主のわかるようにきちんと説明できるんだろうか..... それが非常に不安であります。
チビ助は明後日から冬休みです。 帰ってくるなり、玄関にカバンを置いて ソリを引いて公園に出かけてゆきました。 今日の湿った雪ではまともなソリすべりは出来ないと思うけれど ゲーム三昧よりは健康的だね。
年末年始は一家で私の実家に行きます。 27日土曜日に出発します。
大掃除というよりも 不要品の始末やなんかをどんどんやっていかないと....
亭主がチビ助のスケート靴を探そうと言い出して リサイクルショップをまわりました。
アイスホッケー用の新品を買うと8千円くらいになるそうで サイズがどんどん変化する子どもにはちょっと贅沢過ぎるもんねぇ。 でも、リサイクルショップでたった一足発見した スケート靴は24.5で、チビ助には大きすぎでした。
もう少し探してみようかねぇ。 亭主の同僚に アイスホッケーのジュニアチームのコーチをしている方がいるというので 靴のことをアドバイスしてもらうのがいいと思うな。
米軍基地のある街のリサイクルショップで ダウンのハーフコートを見つけました。 ラージサイズ、日本のサイズよりうんとたっぷりしてるのね♪ 3990円!嬉しい!
昼前くらいから小雨がどんどん雪にかわって 本格的な積雪になってきました。
そろそろ日記の日付が追いついてきたので リアルタイムに切り替えいたします。
14日に自宅に戻ってからは 自宅の増改築の相談をはじめたり 銀行の用事を済ませたり ご近所に挨拶をしてまわったりと 毎日ひとつくらい用事を進めていました。 1月の下旬から通う自動車学校も決めました。
あと年内に残っている大きな用事は 銀行の住宅ローン関係の相談かなぁ.... (これが一番苦しいねぇ)
あと、外に出ることが多くなるということで 私の衣類の整理を始めて 古くなった肌着の処分をしたり補充をしたり....
そういえば、この頃、亭主がぶつぶつ言ってたのね。 ケータイの充電が持たなくなってきたって。
そりゃ充電池の交換時期なんじゃないの? 簡単でしょ? ムーバがつながりにくくなって来てるんだよねー。 ぐわっ、フォーマって高くなかったっけ? いまはそうでもなくなってきてるらしい。 ふーん
なんて気楽にいってるうちに どんどんやってきちゃったドコモショップ。
えーえーえー まぁコーヒーただで飲めるからいいや〜 え?あたしのケータイ? 新しいの? そりゃーカメラがいいのがいいでしょう。 電話よりカメラのほうが必需品でしゅ!
まじ?
あたらしいの?
えええ?防水のが欲しいの? んじゃカメラなしでキッズケータイでいいじゃん! だめなの? うっそーーーー
....で、いくら?
最初にケータイの契約をしたときは 利用料が高くて、ケータイそのものはオマケみたいなもんだったけど 今は逆なのね。
へーーー
って
綺麗なおねいさんのご案内で ふたり分のカッコいいケータイ二代目がやってきました。
なんか800万画素のデジカメ手に入っちゃったんですがーー これはクリスマスプレゼントでしょうかーーー
えへへ
あのー、ケータイでテレビが見れるって.... 変な気がするんですけど.....
2008年12月16日(火) |
チビ助が大きくなっていた |
12月3日に実家に一人で赴き 12月14日に自宅に戻ってきました。
年末年始は実家で過ごすつもりなので 荷物の半分は置いてきました。 カバンは近所のスーパーから宅配で送りました。 二週間近く、と思っていましたが 11日間だったんだなぁと今ごろ気付きました。
午後の列車で、途中新幹線に乗り換えて 午後6時ごろ最寄の駅に着きました。 チビ助と亭主が改札で待っていてくれました。
うっすらと雪が積もった街。 足元はがちがちに凍りつき、寒いの何の!
お夕飯はどうする? カレーがあるよ 冷蔵庫は? 冷凍庫はいっぱいだけど 野菜とか牛乳がない 賞味期限との戦いだったんだぞ あら、えらいじゃん
チビ助はおばあちゃんにおねだりしていた ゲームソフトが気になってしょうがない。
チビ助の背が一回り大きくなったように思いました。
スーパーで食品を買い込んで 明日からのお弁当に備えて帰宅すると 亭主がお風呂のしたくとカレーの温めをはじめて チビ助がドタバタお手伝いしていました。 合間に学校に持っていく宿題や連絡帳のチェックをしたり すごいすごい
こうやって毎日過ごしていたんだねー。 よくがんばってくれました。
父のためのミニ引っ越しや 親類、ご近所さんへの挨拶 毎日伯母が出してくれる車で父を訪問すること 母の入院の会計や 父の入退院の手続きや 緊急に利用させてもらったヘルパーさんの事業所との契約など 毎日、ちょっとずついろんなことをしていました。 だいたい片付いたころに ケアハウスの介護主任に これまでの父と母の生活の様子を 一通り伝えておいたほうが良いと思いつきました。 父の状態と受けてきた介護サービスの兼ね合いなどを 母の日記を1年分、丁寧にたどりながら メモを作りました。
母の日記には 見開きのページの左に一週間分の日記。 予定や、訪問してくれた方など日常のことが記されていて 右側に、父に関するメモがいろいろ書かれていました。
今年の7月頃から父がディケアに行きたがらなくなったこと。 その背景には、排便の困難があるようでした。 便秘をしてないければ下痢をしている。 お腹の調子に自信がないと ディケアにいって入浴の介護を受けにくかったようでした。 二ヶ月間入浴ができず、夏の暑い間 清拭でしのいで、父の困難を見極めた上で 入浴車による自宅での入浴が始まりました。 この時点で、母一人での介護には限界が見え 父を定期的にショートステイで見ていただき 母のストレス解消と休養をとっていかねばならないと ケアマネージャーの強い説得があったにもかかわらず 父は頑としてショートステイを受け付けませんでした。 腰も痛め、両腕も痛め 父の介助が困難になってきたことで リフトの導入が決まっていましたが 大掛かりな設備のためなかなか届きませんでした。 リフトはまだかリフトはまだかと 日記の余白に記されているのが母の叫びのようでもありました。
介護主任に渡すメモを作りながら たまに電話したり、一年に一度やっと ニ三日顔を見せるだけだったことが悔やまれて もっと早くに 両親を説得して呼び寄せるべきだったと思いました。
父がケアハウスに入って二日目、 かかりつけ医師の往診がありました。 父は発熱しており 食も細かったことから脱水症状であるとのことで 点滴することになりました。
点滴は数日に及び 医師から、がんばって食事を摂り、水分をとらないと 管をいれた流動食になってしまいますよ、 がんばってくださいと言われていました。
実際問題、鼻から管を通しての 流動食ということになると ケアハウスは退所しなくてはならなくなり 医療介護のできる施設を探さねばならなくなるのです。
父がケアハウスに移ってからの数日、 薄氷を踏む思いでした。 しかし、介護の主任(看護師)によると 父には物を飲み込む力が充分にあり このケアハウスでの暮らしに慣れてくるにつれ 良い方向に向かってゆくのではないかとのことでした。
ケアハウスでは、食事やおやつ時には 入所のみなさんが食堂にあつまり 一緒にお食事を頂きます。 お部屋で食べることも可能ですが 賑やかな食事の雰囲気に誘われて 食欲が湧いてくるということもあるのだそうです。
なかなか食事を摂れない父に お隣に座っているおじいちゃまが
あんた、がんばって食べねば ちからつかねぇよ がんばるべー
と声をかけてくださったりしたそうです。
一口二口飲んで 部屋に戻りたがる父には
皆さんのお食事が終わるまで いっしょにいてくださいよ〜〜と 知らん顔をして様子を見ていると なんとなくジュースを飲んでいたりして。
そのあたりが、なんでも父の言うなりにして 面倒を避けようとしてきた母との違いで そういうことに父が慣れてくれるならしめたもの。
これまで父がどんなものを食べてきたのか どんな風に食べてきたのか ケアハウスではどこまで 父の食欲に付き合ってゆけるのかの 手探りが始まったのでした。 そこまで気を配ってくださるなんてと 頭が下がる思いでした。
12月3日から14日まで 私は実家でドタバタしてきたのですが その間、チビ助と亭主は、自宅でがんばっていました。
チビ助は下校後、亭主が帰宅するまで 近所のクラスメイトのお宅に預かって頂きました。 宿題をして、おやつを頂いて、ひと遊び。 たまたま亭主が仕事がそれほど忙しくないということで 定時に帰宅できるようだったので お夕飯までお世話になることはなかったようでした。 土曜日に同僚のところでお葬式があり 受付を任されてしまったので その日も引き続きお世話になりました。 どのくらい続くかわからない私の帰省でしたが 快く引き受けてくださった友人に感謝しています。
亭主は、家事炊事をブンブンこなし チビ助もうんと協力したらしいです。 冷蔵庫の中のものや大量の野菜をなんとかしなくてはと 知恵を絞ったらしいです。 電話で何度も生活費は足りるかと聞きましたが
あまってある〜〜〜〜♪ というのが亭主の返答で では帰宅後にそれをお返しくだされというと
もうないよ〜〜〜〜♪だそうで あの〜あの〜お給料日までどうやって食べていきましょうかー!? でもまぁ、そこらへんはもう 非常事態ということで どーにかやりくりするしかないわね(;-_-;) ウーム
亭主は自炊して一人暮らしをしていた経験もあるし 普段からチビ助の宿題や学校からの連絡にも関心があったので 忙しかっただろうけれど 立派に切り盛りしてくれました。
亭主の実家方面からも 亭主からも出てくる言葉は 「おかあさんを一人にするな!」なのでした。
母は少しでも早く戻るように 私に言うのですが、実際問題、父がケアハウスに移って 安定したのを見届けなければ戻ることは出来ませんでした。 母には、私の気持ちや気分で実家に居るのではなく 亭主の一族から派遣されてきているのだと解釈するように言いました。 家族の絆の強い亭主の一族は 私たちが結婚したときから 私の実家の両親のことを気にかけていました。
たったふたりの子を遠くに放してやって どんなにせつなかろう寂しかろう 東京にいる息子のところに行くつもりがないなら こっちに移り住んで みんなで過ごせばいいのに
そりゃぁもう何度も、電話がかかってくるたびに 言われてきたことなのでした。
母が倒れてこういう事態になりましたと 報告したときに出てきたのは 親孝行するのは今だ!という後押しなのでした。
母は美貌才媛の姉妹に挟まれて みそっかすで 物心ついたころに、お金持ちの遠縁のところに 養女に出されたことがあり そこには馴染まず出戻りの経験があります。 半年くらいのことだったらしいのですが 戻ってきたときには すっかり津軽弁になっており 姉妹たちとも少し距離ができて たいへんに切ない思いをしたのだそうです。 そのとき、母はザルを三度笠に見立てて 歌って芝居をする芸を披露したそうです。 ふすまをさっと開いて登場する! (何かの演芸会でみたものを真似したのだそうです) それが大受けで、以来母は 辛いときはお笑いで切り抜けるという技を会得したようで 気の毒なほどに繊細な心を持ちながら 辛い場面で、辛さと向き合うよりも 元気に明るく振舞おうとします。
だから、父との困難になっていく暮らしにも 耐えてこられたのでしょう。 限界突破しているのに それでも何度も気を取り直して やってきたのでしょう。
倒れた日とその前の記憶がぼやけているのだけれども 父をなじって泣かせたような気がすると呟きました。
たった一口、飲んだり食べたりするために 一日中小突き回される私の身にもなってみろ 両手も腫れてしまって力がでない 腰も痛い せめて夜中だけは 車椅子に移動しないで ベッドで身体を起こして、そこで飲んだり食べたりしてくれないか なぜそうしてくれないのか せめて、ベッドに腰掛けてそれで済ませてくれないか
それでも父は頑として、 移動すると主張し泣いたのだそうです。
悲しみが怒りになり 憎しみになり ヒステリーを押さえることが出来ない 介護疲れで殺人事件が起こる きっとそれはこういう気持ちからなんだろうと 恐ろしかったそうです。
母がたくさんの思いを吐き出しているテーブルの向こうで テレビニュースに今日もまた 介護に疲れによる殺人事件を報道しているのでした。
長年の介護疲れと 父の食が細くなったことへの苦悩 父をベッドから車いすに移す介助の困難から 母は倒れてしまいました。
今回、母が記憶を無くしたのは 一日だったのですが 普段通りに回復してからも その一日のことは思い出すことが出来ないようでした。 そして、その倒れた日の前の記憶も 少し途切れがちのようでした。
病院から戻ったばかりの母は 色々なことを凄い勢いで話していました。 心に溜めていた思いを とにかく吐きだしてしまうことが必要なのだろうと思われました。 病院から戻って2,3日は ひとしきり喋ると 疲れた、とかふらふらする、頭がぼんやりするといい 促すと素直に横になりこまめに眠っていました。
父の要求に従って 夜通し眠ることができない日々が続いていたので もしかしたら、眠ろうと思ってもなかなか眠れないというような 睡眠障害がでるかなぁと心配でしたが それはまったく心配無用でした。
眠いと感じたときに横になり 眼が覚めるまでぐっすり眠ることの癒し。
父の様子を見るために出かけるたびに ちょっと贅沢なケーキや和菓子などをお土産にして 運転を引き受けてくれている伯母と 食後の一口を楽しんで貰えるようにしました。
それから、応接間から父のベッドが運び出されたあと 家具をもとのように置くことに 母には少しためらいがあったようでした。
おかあさん、言いにくいけれど言っちゃうね この家に、お父さんが戻ってくることはないんだよ 次にお父さんが移るのは ふくろう家に造る、お父さんのお部屋なんだよ
あーー!そっかーー!! そうだね、そいうことなんだね!
うん、そうなんだねーー!
両親が私たち一家の家に来るということが ずっと前から口にしてきたことだし この度も、本決まりということで 大きく動いているにも関わらず まだよくイメージできていないというのも事実に 私も母も驚いたのでした。
母は着実に元気を取り戻しており 昼間は用足しに出歩く私と伯母のために 母は嬉しそうに料理をしていました。 夜は方眼紙を持ち出して ふくろう家の増改築計画を練ってみたり ドラマを見たり 飽きることなくお喋りに花を咲かせていました。
12月6日から 父をケアハウスに移す準備が始まりました。
伯母の運転でケアハウスを訪問して お部屋を見学しました。南と西に窓のある きれいな8畳ほどの部屋でした。
父のベッドとテレビをおく場所を確認しておきました。 ケアマネージャーの手配で 介護保険でレンタルしていた ベッドと車いすが実家からその部屋に運ばれました。
実家では、父の手回りの品物や 買い置きのオムツやら布団類や衣類 テレビやテレビ台、簡単な戸棚などを すぐ運び出せるようにまとめ それを運んでくれる運送屋を探し 父が病院から到着したときに お部屋が出来ているように準備をしました。
大変だったけれど これも市内だからスムーズに準備できたと思うのです。
12月8日月曜日 お昼前に父を介護タクシーで ケアハウスに連れて行きました。
ケアハウスに到着したとき ここの理事が出迎えて下さったのですが 実はこの理事が知り合いであったのでした。
父が理事に会ったときの笑顔!
このときはじめて、私の心が重かったのだと気付き その重さがすっと軽くなったのに気付き ご縁のありがたみを感じました。
2008年12月09日(火) |
ケアハウスの主任と会う |
母が倒れたために 父を緊急避難的に入院させていただいたけれど 期限は一週間。 一日程度の延長なら認める、と 看護師からささやかれました。
ケアマネージャーがあちこち当たって 見つけてくれたケアハウスは 新しいところなので、競争率(?)が低かったらしいのね。 それから費用の負担がポイントになるらしいのね。
父のところに ケアハウスの介護担当主任と私とケアマネージャーが 集まって、少し話をしました。 (三人ともアラフォーな年代なのよねぇ)
父に、 母は大きな障害もなく 元気になってきたけれど これまでのように、父とふたりでの暮らしは無理だと お医者さんに言われてしまったこと。 私が母に代わって実家で暮らし 父の手助けをすることはできないこと。 この病院は一週間しかいられないこと。 今すぐ家に帰ることができないので 私の家に父の受け入れの準備ができるまで ケアハウスでお世話になって待っていて欲しいと伝えました。
父は嘆き、この街を離れるのは嫌だ 家に帰りたいと 涙をこぼしました。
ケアハウスの主任は がんばってお世話させていただきます。 つらいねぇ、つらいけど みんなで暮らしていけるようになるまで もうひとがんばりしましょうと 父に声をかけて下さっていました。
ケアマネージャーの歯切れの良さや 回転の良さに頼もしさを感じてしましたが ケアハウスの主任には、家庭的な温かさを感じ こうした方たちに父をお願いできる幸せに 深く思いいたしました。
父は泣きつづけることもなく ふぃっとテレビのほうに顔を向けましたので 私たちはティルームに移って これまでのことや 今後のことについて話し合いました。
一時間以上話し合いは続き 父のところに戻ってみると 父はいつものように穏やかな様子でした。
これから母のところに行ってみるからねというと うなずいてくれました。 (父には母が一日で退院してきたことを伝えていませんでした)
脳梗塞の後遺症で 言葉が発しにくい状態の父が気の毒で しかし、このままとどまっていることもできず ケアハウスに移る準備が開始されました。
故郷は谷底の長い街で 海から見ると一本の木のようです。
幹にあたる部分に国道と線路と住宅地が並んでいて 途中からいくつもの谷に分かれています。 枝分かれしたところの奥のほうまでバスが行くことはあまりなく 本当に長〜〜〜く伸びた街なのです。
海の周辺は港があり 河口の平野(ちょびっとだけど)になっているので 密集した商店街住宅街になっています。 駐車場が確保できないために 県立病院や市立図書館などは 大町を離れて、奥のほうに移動しました。 市役所も移転の話があったのですが 市役所までも移転してしまうと 大町を歩く人がますます減ると猛反発があり 人々は階段を20段も踏みしめて ぼろぼろの市役所にゆきます。 手狭になった分は分庁舎をあちこちにばらまいて凌いでいるようです。 人口が激減した今となっては 町村合併でもしなければ 市役所を建て直すことなどできないだろうなぁと ひそかに思っています。
そんな長い町なので 案外バスの便が良くて 父の様子を見に行ったり、 従兄弟や知り合いのところを尋ねるのに 大いに役にたちました。 家電やDIY店に用があってもひょいとバスで往復できるなんて凄い。
長年車を運転している伯母などは バス停でバスを待つなんてとてもできないというのですが 日に数本しかないバスに頼って暮らす 私の日常からしたら、これはとても自由なことなのよねぇ。
父の入院の必要品や手続きが済んだ頃に ケアマネージャーから連絡がはいり ケア付きのホームの空がみつかり そこの介護主任が父の状態を確認したいと連絡がありました。
ケア付きのホームというのは 入院とは違い、いわば、下宿のようなもので 個室を借りて、食事や身の回りのお世話をしていただけるところです。 そこに、病院からの往診も可能だし、 そこから通院することもできるし、 介護保険をからヘルパーの派遣を受けることもできるのです。
見つかったその施設は、市内であり、 それ相当の費用もかかるのですが ケアマネージャーも交代することなく引き続き見ていただけるし 願ったりかなったりの場所なのでした。
12月3日11時半ころ実家に到着。誰も居ない。
荷物を二階に運び 台所に行くと、テーブルに伯母の書置きがありました。 父を入院させるとのこと。 連絡を待て、とありました。
すぐ電話がかかってきて、それは母からでした。 父の介護を続けないという条件で 退院の許可がでたそうです。 少し心配でしたが、父はすでに入院しているのだし まぁいいかと思っていると 母がタクシーで戻ってきました。
母は顔色が悪く 昨日の朝の私からの電話のこともまったく覚えて居ず 昨日の夕方、点滴を受けて病室に居る自分に気付き 付き添っていた自分の妹に気付き 記憶を無くしているということを納得するのに懸命のようでした。 この頃の父の様子やら まくし立てるように喋り そして母は暑くもないのに 額に鉢巻を巻いているように変な汗をかきはじめました。 今回、脳梗塞はCTでは見つからなかったといわれましたが 母が15年程前に脳梗塞で倒れたあとも 脳梗塞で倒れた知人も、疲れるとそんな奇妙な汗をかくのでした。
母はひとしきり喋ると疲れた様子だったので 布団で休むように勧めました。 そこに伯母から電話があり 午後から病院とケアマネージャーと伯母と私で ミーティングしたいとのこと。 母を休ませて、私は病院へ出かけることにしました。
病室の父は、機嫌よく左手を上げて やぁ!とあいさつをしてくれました。 母の命には別条ないこと。 疲れてしまってしばらく休まねばならないことを伝えました。 病室には、母の姉と妹が付き添ってくれていました。 父は緊急的に入院したことについて なんの不満も抱いていない様子でした。
余談だけれど、 このふたりの伯母たちね〜 タイプが違うんだけど、どちらもすごい美人なんですよ〜〜。 年齢を重ねてなお美しいっていうのがねぇ。凄いんですよ。 病院関係者はこの美貌の姉と妹にはさまれた介護疲れの母を きっと謎の美女として思い描くのではないかーー?? が、堂々と現れた娘を見れば 変な妄想は抱かないか....そうだな。ちぇっ
午後1時半から担当の医師と面談がありました。 緊急避難的な対応ということで 一週間が限度です、といわれました。 食事に関しても、伯母たちからの聞き取りで エンシュアというドリンクを日に3本処方し、 あとは父の好むものを自由に運んでも良い、とのことでした。
このあと、病院の医療相談のスタッフ、ケアマネージャー 伯母ふたりと私の5人で 両親の現状と今後について話し合いました。
母は今後、父を介護しながらふたりで暮らしていくことは 無理であると、医師と看護師に申し渡されたこと。 父に食事を与えなかったり、与えすぎたり 薬を飲ませなかったり、飲ませすぎたり オムツをかえなかったり、かえすぎたり そんなトラブルが頻発するようになってしまいますよ、と 言われてきたと伝えました。
私は、母の回復を待ち、 父の預け先を見届けてから 自宅に戻り、両親の受け入れの準備をする。 それには、スペースの確保が必要で 3ヶ月、半年という単位の時間が必要なこと。
父が週一のディケアにいけなくなって 母の疲労とストレスが加速したこと。 母の衰えを助けるために 父がベッドから車椅子に移るためのリフトを導入する予定であったが (この日がまさにそのリフトが届く日でした) リフトを入れたところで 母の限界はすでに超えていることは目に見えていたと ケアマネージャーが話しました。
その病院には一週間しか居られない。 ケアマネージャーが、次の父の引き受け先を探すことになりました。 ショートステイというかたちで、近隣から県内の施設を当たるといいます。 長期にわたって引き受けるような施設はどこも満員で 年末になるとますます混みあっていて大変に難しいというのが現状だとのこと。
要は施設がたくさんあったとしても ケアマネージャーが所属しているケアセンターとの関わりであるとか そういう事情もあるということなのかな?
伯母たちからは、最近の両親の様子であるとか 昨日からの両親の様子などが詳しく伝えられました。
父の今後のことはケアマネージャーに頼ることにして 伯母たちは引き上げました。 このあと、私は父の担当の看護師と小一時間ほど 父の日常のこととか、家族のことなどの 調査票の記入しながら話をしました。
一通り、話を終えて 父の様子を見て、病院を出るとすっかり暮れていました。
12月3日、朝 いつもと同じ時刻に台所に入り、 亭主のためにでっかいおにぎりをふたつ握り 三人でいつもの朝ご飯を食べて チビ助を送り出しました。
大きな旅行カバンふたつ。 本当は1つで間に合うのに、犬の散歩用のジャケットやら 編みぐるみ制作用品やらがかさばってしまった。 宅配で送ろうかと思ったけど 担いでいけば送料かからないし〜♪
亭主が出勤の時刻を少し早めて駅に向かいました。 8時頃にでる新幹線で盛岡へ。 そこからうまく快速の列車に乗り換えて 実家には11時過ぎには着けます。
前の晩は、ゲームサイトの仲間たちと わいわいおしゃべりしながら 私のケータイでmixiの閲覧ができるようにしたいと あれこれ試していましたが 自分のケータイのメルアドも どうやって見つけりゃいいのかわからない私のことで 結局は、通信料のこともあるので お友だちがコンテストの結果などをメールで知らせてくれることになりました。 実家ではネット環境がないので そこらへんが実に寂しく 今、仲間内で流行中の小さなパソコンがほしいなぁと思ったけれど 実家でいま起こっていることを思うと ネットで遊んでいる場合でもないんだわ。ほんとに。
列車で移動中、いろんな気持ちがわいて 睡眠不足のはずなのに眠ることも出来ませんでした。
実家から車で15分ほどの山の中に伯母は住んでいます。 七人兄弟の総領で、結婚しても子どもに恵まれなかったことや 幼い頃から優秀で通してきて 父と同じ製鉄所で英文タイピストをして勤め上げ 今は農作業を趣味にして快活に過ごしています。 連れ合いは30年近く前に亡くなりました。
伯母は40歳くらいのときに普通免許をとり 78歳になる今でもバリバリの現役ドライバーで 故郷に住んでいる親類たちのところを 野菜を配りつつ様子を見て周り 困り事にはいつも支援してくれるありがたい存在です。
母の様子がおかしい、と感じたとき 実家の周辺にも懇意にしているお宅がたくさんあるのですが 父の処遇までどうにかしなくては、というこの場合、 とっさに頼れるのは伯母だったのでした。
母を入院させ、父の介護をどうするのか ケアマネージャーが奮闘している間、 私が実家に到着するまでの間、 78歳の伯母に頼りきってしまうのは 甚だ申し訳なかったのではあるけれど 伯母は父の付き添いを引き受けて泊まってくれました。 伯母と父は製鉄所で同じ職場に長くいたことや 祖母との二人暮しを機械いじりの得意な父が助けていたこと 母と伯母が姉妹のなかでも特に気が合って良かったこと。 私の亭主はいつも あんたにはふたりの母がいる、と言うほどの伯母なのでした。
さぁさぁ、てるんつぁん(父の愛称) 長い付き合いでしたがとうとうこういうことになりました。 ふたりで夜をともに過ごしましょう♪
などといい、父と伯母は笑ったそうです。
父がテーブルについて食事をするために (たった一口飲んで、一口食べるのが精一杯なのに) 車椅子に移るのを助け、まもなく、今度はベッドに戻る。 伯母は普段から母のすることを見ていたけれど 実際に父に手を貸すのは初めてで ベッドに戻るときにうまくいかず 父がしりもちをついてしまったのだそうです。 慌てた伯母はベッドに乗り 馬鹿力を振り絞って父を引き上げ ふたりで転がってしまい ベッドで重なってしまって それはもう、ふたりで笑うほかなかった 怪我しなくて良かったと言っていました。
そのため、父は、また起き上がりたいとは言ったものの 伯母に、もう無理だから我慢してくれと言われて 顔をくしゃくしゃにして それが泣いたのか笑ったのかよくわからなかったとも言っていました。
夜通し父がテレビをつけていることを知らず うとうとしかけたところに 父に起こされテレビをつけてほしいと言われたり お腹がすいたと起こされたりで 伯母は明け方に二時間くらいうとうとするのが精一杯だったそうです。 父を引き上げるためにがんばったときに 手首を痛めてしまい、しばらくシップを貼っていました。 これが、毎日続いていたのかと母のことを思ったそうです。
12月2日、私から電話を受け取った 伯母(母の姉)は、割烹着に長靴という畑仕事スタイルで 私の実家に向かったそうです。 出掛けにもう一人の叔母(母の妹)に電話をかけ タクシーで私の実家に向かうように頼んだそうです。
ほとんど同時に私の実家に到着したふたりは 明らかにおかしな言動をする母を見てビックリしたそうです。 首にタオルを巻いてきょとんとして (ありえない....スカーフでなくタオルなんて!)
あら〜ねーちゃん、何しに来たの〜〜? あ、白菜持ってきてけだの? (白菜を貰ったのは先週で、新聞紙に包んだのは母なのである)
新聞はまだポストにあり そのときすでに父の服は汚れていて 朝ご飯を食べたのかどうかも 母から聞き出すことが出来なかったとのこと。
救急車を呼んでいる間に 母のかかりつけの脳外科の診察券が見つかり 電話したところ、すぐ診てもらえることになり 救急車をキャンセルして伯母の車で病院へ急いだそうです。 県立病院が実家から歩いて数分のところにあるのです。
もう一人の叔母はケアマネージャーに連絡をとり 父と留守番をしたそうです。 父は母の様子がおかしかったと話したそうです。
病院ですぐ診察を受けた母は やはりおぼつかない言動を繰り返し 念のためにCT検査を受けたそうです。 母の症状は脳梗塞ではなく、一時的な記憶喪失ということで 24時間過ぎればほとんど普通に戻るだろうとのことでした。 でも、意識がはっきりしてくるまでは見守りが必要とのことで 点滴をしつつ入院ということになりました。 しかし、母は父の介護があるので なんとしても家に戻らねばと主張し 自分が病気であることを認めず 自分が病院に居ることはわかる様子だけれど 今日がいったい何月何日で なぜここに連れて来られたのか どうやって来たのかが説明できない状況だったそうです。
病室にはいかないという母に看護師が 「旦那さんと一緒に入院しましょう」とうながすと母は素直に従い、 すぐさまその話をケロリと忘れてしまうのだそうです。
母が病室におさまったところで 留守番していた叔母が病院へゆき、 伯母は父と格闘を始めました。 下のお世話をしないと! すでに布団なども汚れてしまっているのに 父は伯母のお世話を拒否するのだそうです。 弱り果てているところに ケアマネージャーが登場して とっとと父のお世話をやっつけてくれて 父も素直に従ったそうです。
父を緊急に預かってくれるところがすぐに見つからず 一晩、伯母が実家に泊まってくれました。 ケアマネージャーの奮闘で ヘルパーに訪問してもらえることになりました。
夕方、母は目が覚めたように 言動がはっきりしたそうです。 でも、自分が入院に至った朝からの出来事を一切思い出せないのでした。
時折、伯母と電話で連絡を取りながら 私は実家に向かう準備をしました。 一人で行ったほうが良いのか、 亭主が早退して夕方には車で実家に向かうことができるのか、 母の状況がどうなのか.... とりあえず、私一人分の荷造りをして いろんなことを思いながらチビ助の帰りを待ちました。
チビ助が戻ってから、夕方のバスでジャスコにいき 当座の生活費と旅費を用意して 早めに帰宅してくれた亭主と合流して 夕食を食べて帰りました。
ジャスコを出るときに実家に電話して 母の意識がハッキリしてきたことを伯母から聞きました。 私だけ、しばらく実家に帰ることにして ご近所や子育て仲間のところへ挨拶にゆき チビ助が下校してから亭主が戻るまで 預かっていただけるようにお願いしました。
母の回復と、父の介護と これからのことに見通しをつけるのに 時間がかかるだろうなと考えていました。
2008年12月03日(水) |
だれにでもわかること |
まぁまぁ元気ではあるが 死にそうにない病気を次々に発症する母が 緩慢に弱っていく父を介護し続けることは 大変に辛いことであろうし 厳しい道なのであるということは 周囲の誰もがわかっていることなのでした。
気難しい父が 必要であり、母の助けにもなる 介護保険の適用されるサービスなどを 簡単に受け入れず、 また、母も、手助けをしてくださる ヘルパーさんや介護サービスのチームを どんどん家の中に引き入れることに ありがたさと同時にストレスも感じてしまう。
親しい人たちも なんとか手助けをと思いつつも 家族にしかできないことも多く 心を痛めていてくださる。
私たち夫婦が実家から離れるときに また、家を建てるときに チビ助が生まれたときに 両親に、元気なうちに同居してくれるように 頼んできたのだけれど ありがとうありがとうといいつつ まだまだふたりでやっていけるからと笑う。 父が二度目の脳梗塞でどーんと倒れたときにも 両親は動かなかったのでした。
父が二度目に倒れてから八年。 母の限界がきたんだと だれにでもわかることなのでした。
2008年12月02日(火) |
じゅうにがつふつかだよ |
12月2日の朝。 スケート教室を楽しみに元気に登校して行ったチビ助を見送り 亭主にお弁当を渡して送り出し朝の一仕事が完了。
家事なんかそっちのけでネット三昧....なのに どうもノリというか、気持ちが乱れて調子が良くない。 こんなときは実家に電話でもして チビ助の悪口でもしてやれと思いました。
十日ほどまえに母から湿度とエアコンの関わりを尋ねる電話があり そのとき、母が用件しか言わなかったことが 気になっていました。 早々に電話を切るときには 来客であるとか、父が呼んでいるとか とにかく理由を長々と申し述べるのが母流なのに 何を急いでいるんだろうなとふと思い、 父のことで忙しいのかな疲れているのかなと片付けていました。 気になるならもっと電話でもすればいいものの 母の一休み、一眠りを電話で起こすのは気の毒でもありました。
朝9時少し前、 電話に出た母の様子はとても変でした。
なんとなく寝起きのようなぼんやりした印象で でも寝ていたわけではないという。
あれ〜〜オラなにしたんだべ.... ぼーっとしてらった.... ....起きでだよ....風邪も引いでないよ.... あれ〜〜〜?? 今日、何日だっけ.....
母は今日が何年の何月何日かがわからないのです。 そして、自分で日記を見にいって 昨日の日付を見ても、 今日が昨日の翌日の12月2日だとは納得できないのです。
今日、何日だっけ?
母が聞くたびに じゅうにがつふつかだよ、と繰り返しながら これはまた脳梗塞を起こしているのかもと思いました。
母がなかなか電話を切ってくれないので (受話器を置いて今日の日付を確かめに、何度も行ってしまうのよ〜〜) 少々あせりました。 うっかりすると、現在電話中であるということを 忘れてしまうかもしれないと感じました。
寒くないか尋ねると、ストーブを焚いているという。 また軽い脳梗塞を起こしているかも知れないので 火に触らないで、ゆっくり休んでいてねと言ってみたけれど 母は自分が病気だとは思えない様子で それでも、やはり何度も 今日の日付を尋ねて、おぼつかない自分に納得でない様子でした。
トイレに行きたくなった、 またスグ電話を掛けなおすからと慌てた風に言うと 母はやっと電話を切ってくれました。
実家に救急車を送り込むこともできるのですが 介護ベッドに寝ている父を見たら 救急隊も立ち往生すると思われ、また、 母の異変が伝わらないかも知れないとも思われ 伯母に電話をしました。
ちょうど畑に出ようとしていた伯母が捕まって良かった。
伯母には母をすぐ救急車に乗せてから ケアマネージャーに連絡して 父の処遇を考えてもらうように手配してくれと頼みました。
もし脳梗塞を起こしているのなら 一刻も早く病院で手当てを受けなければ.... 早ければ早いほど、後遺症が少なくてすむ.... でも、もしかして、他の病気?
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