山口 瞳 酒食生活 角川春樹事務所 グルメ文庫
P121 行きつけの店
浅草 並木の藪の鴨なんばん
相撲を見ていて泣いたことがある。 国技館は蔵前にあって、十年ほど昔のことにたろうか、高橋義孝先生の席を頂戴していて、その席は、向正面一の六、つまり、最前列の中央で、控えの行司さんの斜め後ろになる。先生は、横綱審議会の席で見ていらっしゃる。その頃は、必ず千秋楽に招待してくださった。
あるとき、ヨコシン(呼出しさんや出方さんは横綱審議会をそう呼ぶ)の席に池田弥三郎先生がお越しになった。池田さんは私を発見したようで、しきりに手を振ったり、笑ったり、叫ぶような仕種をなさる。これには困った。なぜならば、私の席は、絶えずテレビカメラに暴されているのである。だから、私は、軽く頭をさげるだけにとどめたのだが、それが池田さんに通じない。池田さん、イライラしている。怒っている。しまいには、立ちあがって、頭の上に両手を組み「輪ッ」という形をつくる。むこうは枡席でお酒が飲めるから、ホロ酔いだったかもしれないし、何でもできる。こっちは通称砂っかぶりであってお茶も飲めない、煙草も喫めないような所だ。これには困った。
別の話になるが、誰かが亡くなって、私がもっとも悲しむのは、学識があり教養があって、しかも通人であるという場合だ。もっと言えば、ユーモアのセンスのある人ということになろうか。山本嘉次郎さん、池田弥三郎さん、川口松太郎さんが亡くなったときは本当に辛かった。奥野信太郎先生には面識がなかった。学者とか教養人というのは、いくらでも出てくる。センスのある人というと、そうはいかない。高橋義孝先生、戸板康二先生どうか、うんとうんと長生きしてください。
さて、私が相撲場で泣いた話。 それは初場所の千秋楽だったのだけれど、十両の取組みが終って幕内の土俵入りになる。 東から呼出しさんの柝でもって花道から幕内の力士が歩いてくる。土俵入りが終って、東方の力士が、ふたたび柝でもって退場する。次に西方の力士があらわれる。そのとき、東方の呼出しさんの柝が、西方の析と交錯するのである。一方は終った柝、もう一方は生まれてくる柝。両方の柝が重複するのは非常に短い間である。東西の柝が鳴ったその瞬間に、鼻の奥がむず痒いような目が渋くなるようた感じがあって、それに耐えるのに苦しんだ。 私は泣いていたのである。どういうわげか、私は、高橋先生がこの世におられなくなったら、どんなに淋しいだろうかということが瞬間的に頭に浮かんだのである。
いま、先生は、足を悪くされて相撲場には来られない。 当時、千秋楽の相撲がハネると、蔵前から浅草の雷門に近い並木の藪まで歩いていった。 先生は、私の前をスタスタと歩いていかれる。その背中のあたり、腰のあたりが、どうも元気じゃない。ガックリと肩を落とすという言葉があるが、そんな感じだった。先生は、常々「千秋楽が終ると、親類の娘が死んだような気がする」と言っておられた。先生は、私が相撲場で縁起でもない感想を抱いたことをご存じであるはずがない。ただ私の前を歩いていかれるだげである。
並木の藪へ行くと、それが冬時分であったら、まず、鴨なんぱんのソバ抜きを注文する。これを鴨ヌキという。春とか秋とかには、天ぷらそばのソパ抜き、つまり天ヌキを頼む。黙っていても酒が出てくる。「蕎麦屋の酒が一番うまい」のだから仕方がない。並木の藪は菊正宗の樽酒だ。ツキダシは固く練ったミソ。鴨ヌキで飲む酒がいい。スープで酒を飲むのがもっともうまいし、体にもいいと私は信じている。 ちょっと酔ったなというあたりで.、もりそばを注文する。一枚か二枚。二枚という時が多い。
並木の藪は店が大きくないのがいい。卓が三つ。小上りの卓は、通りから見て、窓、中座敷、三畳と呼ばれている。
並木では、ずいぶんいろいろな人に会った。黒っぽい結城の無地を着た先代松本幸四郎が中座敷に坐っている。芸人が来ると、あたりが明るくなる。花やかになる。幸四郎には、何と言うか、貫禄みたいたものがあった。由良之助役者だなと思った。
金原亭馬生も中座敷で飲んでいた。一人で、昼問っから、コップで……。その日は、込んでいた。相席となると、中座敷の卓の前しかあいていない。 「どうぞ、どうぞ、ここへお坐わんなさいまし」 私は馬生の前に坐った。 「おそれいります」 「どうも、あっしはね、ヘヘ、昼間っから、これなんです。これ、昼飯なんです」 「結構ですね」 「酔っちゃいませんよ。昼席がありますから、ヘヘ、どうもね、・…酒てえやつは、・… ああ、ちっとばかし酔ったかな」 馬生は、酒だけ飲んで蕎麦を食べずに帰っていった。実は、馬生と私とは終始無言だったのである。これは目と目でかわした会話だった。
並木を出ると、私は仲見世へ行く。紀文堂で人形焼き(アンコのないウズラ)を買い、梅林堂でぶどう餅を買い、文扇堂で祝儀袋か爪楊子を買い、助六で玩具を買う。これらも行きつけの店だ。
『天衣紛上野初花』(河内山と直侍)という芝居は、別名蕎麦屋とも呼ぽれているが、その蕎麦屋が並木の藪だ。初花は桜だろうし、清元の「三千歳」は「冴えかえる春の寒さに降る雨の……」となっているのに、蕎麦屋では激しく雪が降るのである。どうも、歌舞伎の季節感というのは暖昧だ。しかし、私は、宇野信夫さんの、
花みちに敷くや入谷の春の雪
という句が大好きだ。この句を思いだすと、並木の藪へ行きたくなってしまう。
ここで並木のメニューをお目にかけよう。
もりそぱ 四百円 かけそぱ 四百円 のり掛け 五百五十円 花まき 五百五十円 玉子とじ 六百円 おかめそば 六百円
山掛け 七百円 天ざるそば 千百円 天ぷらそば 千百円 鴨なんばん 千四百円
樽酒 五百五十円 ビール 五百円 焼海苔 三百五十円 わさび芋 三百五十円 板わさ 三百五十円 そば折(三人前) 千五百円
並木の蕎麦職人は、若い元気な男が多い。これが、御主人の堀田さんやお内儀さんの一挙手一投足を、ひとつも見逃してなるものかという感じで見守っている。聞いたことはないのだが、おそらく、全国から修業のために集ってくるのだろう。
お内儀さんが帳簿をつける。すると、二人か三人が折り重なるようにして覗き込む。とても可愛いらしくて『勧進帳』の士卒が義経を取り囲むときのように見える。
今月は二月二十四日に並木の藪へ行った。「冴えかえる」は如月であり衣更でなければならないような気がしている。
盃の上に自分の煙草の灰が落ちた。私は直はんの真似をして、右手の小指の先きで灰を取った。誰かが、 「芸が細かい!」 と、声をかけてくれたらいいのにと思った。
山□瞳
1926年、束京生れ。出版社勤務を経て、58年 寿屋(現サントリー)に入社、「洋酒天国」の編集 者・コピーライターとして活躍する。62年『江分 利満氏の優雅な生活』で直木賞、79年には『血 族』で菊池寛賞を受賞する。著書として、『結婚 します』『居酒屋兆治』『行きつけの店」『礼儀作 法入門』「男性自身」シリーズ『江分利満氏の 優雅なサヨナラ』など多数。95年8月没。
| 2007年02月13日(火) |
粋な江戸っ子好みの蕎麦料理 |
うまいものには目がなくて
森須滋郎 角川春樹事務所 グルメ文庫
粋な江戸っ子好みの蕎麦料理 *浅草並木の藪蕎麦
食べものに限らず、お国自慢というのは、うっかり真にうけると、失望することが多い。 蕎麦も、その最たるもの。よく、どこそこの蕎麦がうまいと聞き、食べに行ってみると、自慢しただげのことはない。たとい、蕎麦そのものはうまくとも、肝心の汁がお粗末で、ガッカリする場合が大半だ。
ところが、それさえ、「蕎麦汁は、生醤油だっていいので、なまじ出しなどきいていないほうがいいんだ」なんて、お国自慢に結びつけてしまう。そうなると、まるで話が噛み合わない。 だから、蕎麦は東京のがうまい、などといったりすると、とんだ笑い者にされることがある。しかし、東京周辺の住人が、東京の蕎麦が最上だと信じて、どこがおかしいのだろう。いずれ変らぬお国自慢なんだから----。
もともと、田や畠にならない痩せ地で育つ蕎麦は、山間僻地の重要な食糧だった。 だから、その食べ方も、熱湯で練って蕎麦掻きにしたり、手打ちのボソボソした蕎麦切りにするなどして、せいぜい刻み葱か大根下しを薬味にするていどで、生醤油をつけるくらいが精一杯。とても、鰹節の出しで作った汁をつけるなど、及びもしなかった。
その蕎麦が、江戸っ子の嗜好に合った。 粋であることを信条とした江戸っ子は、舌も肥えていた。その鋭い味覚に合わせて、江戸の蕎麦屋は、工夫に工夫を重ねたであろうことは、容易に想像できる。
今も、東京の名代の蕎麦屋では、昔のまま上等の本節を惜しげなく使って汁を作っている。安直な麺を商うために、これほど賛を尽くすのは、東京だけだろう。大阪のうどん屋では、昔から煮干しと雑節しか使わない。地方へ行けば、煮干しだけというところが多いそうだ。 煮干しや雑節も、それはそれなりの旨さは持っている。だが、上品な旨さという点では、明らかに鰹の本節のほうが優れている。 東京でも名代の蕎麦屋へ行って、汁の猪口を鼻に近付けると、プーンと鰹節のいい匂いがする。味だって、鰹の本節と雑節や煮干しとでは、当然のこと値段くらいの開きがある。 それをちゃんと味わい分けて、蕎麦汁のようなものにも、可能な範囲で賛を尽くしたのが東京蕎麦だ。 このへん、江戸っ子の面目躍如、である。
しかし、すでに昭和も半世紀。東京の人口も一千万人となれぼ、自然に殖民地化するのは防ぎようがあるまい。だが、下町のほうには、江戸っ子らしい江戸っ子が、今も残っている。
下町といえば、やはり浅草が中心になる。 だから、かなり変貌したとはいえ、浅草には今もなお、江戸っ子好みのうまいもの屋が、少なからず残っている。
その一軒、蕎麦屋なら「並木の藪蕎麦」だ。 初代は、神田連雀町の「やぶ」の三男として生まれ、長ずるに及んで独立し、浅草の並木町(現在の雷門二丁目)に「藪蕎麦」の暖簾を掲げた。今の当主の堀田平七郎さんは、二代目にあたる。 この店では、普通の蕎麦のほかに、予約制で蕎麦料理を出している。これは、趣味人としても優れていた初代・勝三さんが創案し、当主の平七郎さんが現在の内容にまとめたものだという。
並木の藪へ蕎麦料理を食べに行くのは、何年ぶりのことだろう。 予約して行った。 階下は、土間のテーブル席と、畳敷きの入れこみの席がある。蕎麦料理は、奥の階段を上がった二階の座敷で食べさせる。
和紙に印刷したパソフレットには、 「お蕎麦はもりそばで召しあがるのが本格で御座いますが、たまには蕎麦料理も如何と存じます。蕎麦料理はソバの実、ソバがき、ソバ切を材料といたしました。弊店独創の準精進料理で御座います。室も給仕もお粗末ですが日頃結構なお料理におあきの皆様にぜひ一度はお批判をお願い致します」 とあり、続いて献立が書いてある。 蕎麦餅から始まって、蕎麦味噌、下し和え、お碗、蕎麦ずし、山かげ、季節蕎麦、蕎麦切りの八品が出る。お勘定は、一人前二千五百円。
最初の蕎麦餅というのは、蕎麦粉を熱湯で練って掬い取り、黄粉をまぶしたものだから、これはお菓子に属する。先に甘いものを食べると、あとの酒がまずくなると思うなら、蕎麦餅を食後に回してもらえばよい。
ともかく、蕎麦掻きは蕎麦粉百パーセソトで作るものだから、その店でどんな蕎麦粉を使っているかは、これを食べてみればわかるそうだ。 良質の粉に熱湯を入れて掻くと、いかにも蕎麦粉らしい特有の香りが立つ。次に、粘りがあってキチキチと快い音がする。色艶がよく、自然の甘みがあり、歯ごたえもシコシコしている。こういう蕎麦粉を使っていれば、蕎麦切りのうまいことはいうまでもない。 だから、この店で最初に蕎麦餅を出すのは、粉に自信を持っていればこそ、とも受け取れる。
蕎麦屋で一杯、というのは、なかなかいいものだ。小粋にさえ思われる。 だいたい蕎麦屋へ行くのは、満腹するほどに飽食するためでもなければ、酔いつぶれるほどに酒を飲むためでもない。ちよっと一杯やって、ざるを一枚か二枚食べて、あとは家へ帰って本格的に食事をとる、といったところだ。
だから、蕎麦屋では、あんまりボリュウムのあるお摘みを出さない。この蕎麦料理も、例の蕎麦味噌と、蕎麦の実の下し和えを付出しに、一本か二本傾けながら次を待つことになる。
並木の味噌には蕎麦の実が入っていて、神田のは大豆である。 箸の先に味噌をつけ、それを舐めながらチピリチビリ--江戸っ子らしいネ。 下し和えは、蕎麦の実と、この時は木曾福島でとれる"そばいくち"という茸が入っていた。これは年中のものではないから、季節によって菜の花、なめこといったものにかわる。
甘と酸。どっちもチョッピリずつ。いいぐあいにホロッとなったところへ、タイミングよく、吸物と蕎麦ずしが出る。 吸物は、蕎麦の実しんじょの清汁仕立て。さっぱりしていて量も少ない点からいえば、むしろ箸洗いといった役割。 蕎麦ずしは、伊達巻玉子、甘煮の椎茸と干瓢を芯にして、蕎麦切りを浅草海苔で太巻きにしたものだ。一人前が三切れ、例の少しからい蕎麦汁と山葵で食べる。別に酢がきいているわげでもないから、盛り蕎麦の変化と思えばよかろう。 これだって、いい酒の肴になる。
次は、山かけ。つまり、蕎麦切りの上に、擂った山芋をかけ、チャボ(?)の卵を落とし、山葵と蕎麦の汁を注ぎ入れたものだ。 箸で掻き混ぜて食べる。ツルツルッと喉の通りがいい。これも少量で、酒に合う。
こんどはお膳がかわって、季節の蕎麦。 二月までは、真鴨の鴨南ばんを出していたそうだが、三月は天ぶら蕎麦。つまり、俗にいう天せいろうである。夏に近付くと、これが茶蕎麦にかわるらしい。 このあと鴨南ぱんも食べてみた。鴨と称して合鴨ならいいほう、たいていは鶏で代用させている当節である。ホンモノもホンモノ、真鴨の青頸を使っているのには、思わず目を瞠った。味だって悪かろうはずがない。しかも、一杯が九百五十円という値段。
蕎麦料理の中に組込まれた天ぷら蕎麦は、蒸籠に蕎麦を盛り、天ぷらは別の器で出てくる。むろん、汁は温かい。 また、天ぷらにも一と工夫がある。小海老-芝海老のこともあれば、さいまきを使う こともあるようだが、ちょうど一と口で食べられる大きさの掻揚げにして三つ、それに青唐芥子が一本ついている。 もちろん胡麻油で、それも揚げたて。
しかし、天せいろうや天ざるを食べるとき、いつも迷ってしまう。 天ぷらを蕎麦と一緒に汁をつけて食べるのか、天ぷらは蕎麦のおかずなのか、または天ぷらが先で蕎麦をあとで食べるべきなのか、よくわからない。ともかく、汁に大根下しだけを入れ、天ぷらが冷めたいうちに食べてしまい、胡麻油が汁に混じったところで蕎麦にとりかかることにしている。こうすると、天ぷらが酒の肴になり、蕎麦で空腹をしのげる。 まさに一挙両得だと思うが、どんなものだろう。
最後は、蕎麦切り。蕎麦切りというのは、蕎麦掻きに対して細く切った蕎麦ーーいわゆる普通の蕎麦のことである。ここでは、盆笊を逆にして盛ってあるから、ざる蕎麦だ。 この店の特徴の一つに、汁の少しからいことが挙げられよう。甘みは薄いが、じゅうぶんに出しがきいている。
落語にも出てくるように、これは昔の江戸っ子の好みだったらしい。蕎麦を五、六本箸で持ち上げて、下の三分の一ほど汁に浸し、ズルズルッと音をたてて食べる---いや、飲みこむ。こうすると、よく蕎麦の香りが味わえる。逆にいえぼ、蕎麦の香りを賞味するためには、汁をたくさんっげてはいけない。そこで、汁をからくしておけば、つける量は少なくてすむわけだ。
並木の藪は、この江戸っ子の好みを忠実に守っている数少ない店の一軒といえよう。
最後は、残った汁の中に晒し葱を足し、湯桶の熱い蕎麦湯を注いで薄めて飲むのも、江戸っ子の昔からの仕来り。
帰りは、順序は逆になるが、観音さまへお詣りでもしようか。
森須滋郎
1915年生まれ。75年より料理季刊誌『四季の 味』の編集長をし、日本全国の名店・名物料理 を紹介。旨いものを知らしめる味の批評家とし て有名であっただけでなく、自身も家庭では包 丁を握って客をもてなす家庭料理の達人であっ た。『食卓12か月』『本当は教えたくない味』 『味覚のトレーニング』『味の玉手箱』『料理 上手で食べ上手』など食に関する著作を多数残す。 95年没。
(文庫カバーより)
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