今回は一言ネタ。 京極夏彦の「姑獲鳥の夏」がついに映画化されるそうで。 果たして2時間で終わるのか?とか「発見」のトリックはどうなるんだ、 とか色々と興味がひかれる所ですが、ここはまず公開を楽しみにしときたい 所ですね。
できれば続々と映画化してほしいもんです。 あの京極堂ワールドは結構好きな世界なもので。
ただし阿部寛=榎木津はどうなんだろう、阿部ちゃん度濃そうな予感が と、いいつつ最新作をまだ全然読み進めてないわ、俺。
2004年06月26日(土) |
なぜ、民主党は政権が取れないのか |
参議院選挙が近づいてきた。熱い夏or梅雨空と相まって、拡声器の うっとうしい季節がまたやってきた。 さて、今回の参院選、果たして自民党が議席を伸ばすのか、民主党が 躍進するのかはわからないが、一つだけわかっていることがある。
それは、たとえ今回民主党が勝ったとしても、政権交代は起こらない、 という事である。 その理由は簡単で、たとえ参議院で過半数を占めたとしても、衆議院で 過半数に達しなければ、政権交代のための首班指名で負ける、という 事である。
じゃあ、民主党が今回の参院選で勝つ意味が全くないか、というと そんな事もない。 21世紀、小泉政権になって、イケイケドンドンな法案が強硬採決で すんなり通ってしまう世の中では、参院で野党が過半数を握っている 世の中のほうがまだ望ましい気がする。
と、いう事をふまえた上で表題にもどる。 なぜ、私は「民主党は政権がとれない」と思うのか。
それは、「民主党が本気になって政権を取りにいっている」とは、 どうしても思えないからである。 では、なぜそう思うのか。
その理由の一つは、年金国会終盤の牛歩やら閉会騒ぎやらの一連の 政治的パフォーマンスにある。 そういうパフォーマンスにしかアイデアの思いつかない政党が、将来 政権運営をこなせるとは、到底思えないのである。
あれは、一体何のため、誰のために行なわれたパフォーマンスなのか。 あれを見てよくやったと喜ぶ人たちとは、一体どんな人たちなのか。 その答えは、おそらく自分たちの支持者に向けたパフォーマンスだった んだろう、と思うのである。
すなわち、あなたたちの代表は、与党の横暴に屈することなく、こんな にも頑張っていますよ、という意味なんじゃないのかな。 そのココロは、だから次回の参院選では、少なくともあなたたちは私 たちに投票して、当選させてくださいね、という事だろう。
ただし、ここで民主党のパフォーマンス担当者(いればだが)は、大事 な事を忘れていると思う。
自分たちの支持者以外の大多数は、ああいう無駄に思える抵抗にひいて いるんじゃないか、という事である。 そしてその事は今度の参院選でもしかして民主党に投票したら何かが 変わるかも、と思っていた浮動票の心を冷ましている、と思うのだ。
大体、民主党の支持者(団体)や組織票は、全国民でいったら数%だ ろう。その人たちの票を固めた所で、よくて現状維持か、もしくは 6年前の浮動票(消費税5%に怒った人たちの批判票)が離れた場合は 議席を減らすだけのような気がする。
大事なのは、自分たちの支持者に向けてパフォーマンスを行なって喜ぶ ことではなくて、自民党ですら取りこぼしている人たちの票を、いかに 自分たちの味方につけるか、という事なんじゃないのかな。
そして、そのためにこの参院選に向けて民主党が何かをしているとは、 どうしても思えないのである。
でも、今回民主党が真っ先にやらなきゃいけないのは、「上司は思い つきでものを言う」の橋本治風に言えば、「現場の声を聞く」事だと 思うのだ。
つまり、国民年金の4割が未納で、新生児出生率が1.29と落ち込んで いるのは、何故なのか。 サンデープロジェクトで、財部誠一が言っていた事だけど、これは一種 の取り付け騒ぎ、日本政府に対する信用収縮だと思うのである。
つまり、国に年金という形で預けてもリターンはないと思う人たちや、 将来の日本はこのままいってもいい方向には行かないと思う人たちが、 多いから出生率も下がっているのかもしれない。
これがもしも、産めよ殖やせよという風潮だったら、誰も年金問題に 頭なんか悩ませないだろう。 そして、何故そうはならないか、と言えばこれまでの官−自民党政権の やり方が「現場」を見ずに現場をやせさせてしまったのかもしれない わけで。
その対抗勢力たるべき民主党も同じく、現場を見ずに思いつきでマニュ フェストやパフォーマンスを繰り広げている限り、民主党に政権が 転がり込んでくる可能性は低いだろう。
だから民主党が本気で政権を取りにいっているとは(誰も)思わない のである。
でもね、今現在無党派と呼ばれている人たちの多くは、もしかすると 政治そのものにも無関心だとは思うけど、少なくとも現在の自民党政権 の政策に満足していないこらこそ、無党派なわけで、そこには巨大な 「現場」が眠っていると思うのである。
そして、本来民主党が行なうべきなのは、そういう無党派に対して、 どうすれば現状がよくなるか、というグランドデザインを本気で考える 事だろう。
10年前から小泉政権にいたる一連の流れで、この国の政策決定システ ム、行政の弊害が簡単には変わらない、という事を私たち有権者は、 もうわかりすぎるほどわかっているわけで。
だからこそ、用意周到に虎視眈々と、どうすればいいのか、民主党が 提示できれば、実は政権交代は難しくないように思う。 それくらい、閉塞した政治状況に対する圧力は強くなっているんじゃ ないかな、と思うのだ。
ただし、今の民主党に本気でそういう事に取り組む能力と人材がいる のかは、わからないが。
では、我々有権者は、自民党も、そして民主党も頼りにならないと思う のなら、選挙を棄権すればいいのだろうか。 私は必ずしもそうは思わないのである。
「投票しないことも有権者の権利の一つである」なんて意見も、有識者 から聞かれるが、それでは今まで、人々が投票を棄権したことで、何か 政治が変わったんだろうか?と思うのだ。
変わったとすれば、与党も野党も、自分に確実に投票してくれそうな 人たちのいう事だけを聞くようになったのかもしれない。 すなわち、自分の権利を放棄した人たちの意見や権利なんて、放棄した んでしょ、という理由で無視されていると思うんだよね。
そして各政党の訴える国民、市民、そして国益の中に果たして自分は 勘定に入っているのか、自分を含めた若い世代は、考えた方がいいと 思うのだ。 今回の年金をめぐるドタバタは、そのツケというか結果だろうと思う のである。
橋本治は、「上司は思いつきでものを言う」の中でこう書いていると 思う。
官僚に現場(国民の声)はない。あるのは、上からの命令だけである。 そして国民は主権者だが、直接官僚に命令を下してコントロールを することはできない。
官僚をコントロールできる(最近はそうでもないが)のは、行政府に 入った政治家だけであり、その政治家を国民がコントロールするには、 唯一、投票行動によるしかない(圧力団体に属して、投票する代わりに 圧力をかける方法もあるが)。
そして、これが(間接)民主制ということだろう。
政治家が「清き一票を」と拡声器でがなりたてるならば、アリの大群 象をも倒す、ではないがその一票を集めて反対票に投じれば、与党の 今までのやり方を脅かし、圧力を加えることだって本当はできるんだ と思うのだ。
そしてもしも、その結果民主党が政権をとったとしても、その結果が 不満だったら、今度はあっさり鞍替えすればいいのだ。
彼らほど、世論やら世間の風やら、外圧に敏感な人たちはいないと思う し、有権者の動向一つで自分たちの当落が本当に決まると思えば、 彼らも本気で現場(国民)の声に耳を傾けると思うのである。
2004年06月25日(金) |
プロ野球は誰のためのものか |
と、いう事でプロ野球問題について(余計なお世話だが)考えてみる。 今回考えるのは「プロ野球は誰のためのものか」という問題である。 それはもちろん「ファンのため」だろう、というのは正しいが、正し すぎてつまらないので、今回はとらない。
もしも、日本のプロ野球が「ファンのためのもの」であるとするなら ば、今回の在阪パリーグ球団、バファローズとブルーウェーブが立ち ゆかなくなった責任の一端は、ファンにもある。すなわち「お前ら、 もうちょっと球場に来て応援せい」という事である。
つまり、観客動員の伸び悩みだけが、経営状態の悪化の原因であるなら ば、観客動員人数が伸び悩み続けた、2球団の内1球団が消滅するのは、 当然の結果であるという事になる。
でも、本当にそれだけだろうか?
今まで、この手の議論がなされてきた時、いつも話題に上るのは、 「企業の自助努力が足りない」である。つまり、親会社がもっと球団 経営に本腰を入れていれば、そんな事にはならず、ファンも離れては いかないだろう、という事である。
この意見も正しいと思う。 でも、主にこの意見を言っているのが、某超人気球団のオーナーで あったりする辺りに、個人的には複雑な思いもするわけだが。
では「プロ野球は親会社のためのもの」なのだろうか?この意見も 正しいと思う。つまり、多くのプロ野球チームは、実質経営的には、 一部のチームを除いてはどこも赤字で、その赤字の補填を親会社の 宣伝広告費という形で賄っている、なんて話もよく聞く。
その代わりに多くのチームでは球団名に親会社の名前をつけている訳 だ。つまり、赤字を補填している分、例えばスポーツニュースの度に NHKであっても、親会社名を連呼させる事で元を取ろうとしていたり、 また、西武やダイエーの場合には、優勝する度にそれにあやかって、 セールを行なって元を取ろうとしているし(この前のダイエーは、王 監督1000勝記念セールを行なっていた)、また読売新聞や、もしかする と中日新聞は、自分のチームの観戦券をつける事で、部数拡大を図って いるのかもしれない。
だから、今回の近鉄・オリックスの合併劇は、一方では社会人リーグと 同じく企業がスポーツ事業から撤退した、という見方もできるかもしれ ない。
それが自前の社員か、プロ契約をしていた選手かの違いだけで(プロ 契約選手が社員として再雇用はされないだろうが)、本質的には、親 会社のリストラの一環なのかもしれない。 もしも、これが実業団チームだったり、アイスホッケーリーグだったら ここまで大騒ぎにはならなかったはずである。
さて、それではプロ野球チームの経営が、基本的に赤字になってしまう のは何故だろう?もしも、この2チームが常に黒字を生み出していれば 親会社だって手放さなかったと思うし。
その原因の一つは、選手の年棒が高騰し続けていることもあるかもしれ ない。この10年間で選手年棒の総額は、おそらくは何倍かにはなって いるんだろうし。
そう考えると「プロ野球は選手たちのためのもの」という見方もできる かもしれない。つまり、このデフレで不景気の世の中、選手たちの年棒 だけが上昇し、人件費が収益を圧迫し続けた事が問題ならば、その人件 費を圧縮することができれば、各球団の経営状態の改善には一役買う 事ができる、というより、今回の件を契機にして某オーナーが、プロ 野球選手会に圧力をかけて選手会をへきえきさせる事はあるかもしれ ない。
でも、ちょっと待ってほしい。全てのプロ野球選手たちが、高い年棒を もらっているわけでもないだろう。 1球団70人位の支配下選手がいるとして、2軍の選手を含めて大半は、 1千万円以下〜数千万円の間に落ち着き、億単位の金額をもらえる選手 は、球団の中でも一握りかもしれない。
そしてその一方で、FAやドラフト逆指名などで高額な年棒で選手を釣り 上げ、プロ野球選手の年棒水準を年々上げ続け、他球団の経営を圧迫 させつづけるのは、一体どこの球団なのか。
広島カープにいたっては、選手がFA宣言をして、年棒を上げようとして も、交渉はしないと広言するほど涙ぐましい努力をして、江藤、金本ら スター選手を放出し続けているのである。
また、そもそもプロ野球球団の経営を悪化させているのは、一体誰の 思惑なのか。
近鉄がヘルメットにつけるスポンサーに消費者金融系のロゴを入れたら 品がないと言って横槍を入れ、球団買収をして新規参入する会社は30億 円加入費として払わなくてはいけないといい、また外国資本の会社の 持ち株比率を制限し、そして今年の初めには、近鉄球団のネーミング ライツ売却を頓挫させるなど、今までパリーグ球団が行なおうとして きた経営努力に、水を差し続けてきたのは、一体どこの誰なのか。
常にオーナー会議でも飛びぬけた発言力を持つ、「あのお方」では なかったのか。
と、まるで「ナベツネ陰謀史観」が成り立つほど、この10年間、日本 プロ野球界は「あのお方」に振り回され続けたと思うのである。 つまり、「思いつきでものをいう上司」 はここにもいたのである。
そしてそこに、ファンは不在である。「巨人ファン」は視野に入れて いても、「各球団ファン」は常に蚊帳の外に置かれ続けた10年では なかったのか。
つまり、少なくともこの10年は「プロ野球はナベツネのものである」と もいえるんじゃないのかな。
話をMLBに移す。例えば、シアトルマリナーズの親会社は、日本の任天 堂、外国資本である。でも、その事で怒り出す地元マリナーズファンは そんなにいないと思う。
また、サッカープレミアリーグのチェルシーのオーナーは、ロシア人 大富豪である。でも、だからといって、ロンドンのチェルシーファンは そっぽを向くわけでもない。むしろ某銀河系軍団に匹敵するような有力 選手の加入に、拍手喝采を送っているように見える。
例えばこれが「任天堂マリナーズ」に名前を変えたり、ロシア人カラー の異様に強いチーム編成になったら、ファンはそっぽを向くだろう。 なぜなら「自分たちのチーム」ではなくなるからである。
つまり、ファンにとってはそのチームが地元のチームで自分たちが応援 のしがいのあるチームだったら、その親会社がどこであろうと、誰が チームを持っていようと構わないんじゃないかな、と思うのだ。 「チームはファンのためにある」とはそういう事だろう。
話を日本プロ野球に戻す。 もしも、近鉄バファローズが、「大阪バファローズ」という名前で、 その株の所有者が在阪の中小企業のおっちゃんから、果ては外国人大 富豪まで、多岐にわたって広く資本を集めた場合、大阪バファローズ は株主に利益を出すために、地元ファンの獲得に必死になり、また 面白いプロ野球をファンに見せるために有力選手を獲得しようとする だろう。
なぜならそうすることが、自分たちの経営を安定させ、更に資本を 集める可能性も出てくるからだ。「地元密着の球団経営努力」とは、 そういう事を指すと思うのだ。
そしてそれは特別なことではなく、新潟をはじめとしてJリーグでは 様々なチームが取り組んでいる事だと思うのである。 そしてプロ野球でも福岡ダイエーホークスや、北海道日本ハムは そうやって地元と密着することで生き残りを図ろうとしてきたのでは なかったのか。
もしも、今後もそういう機会を縛り続け、親会社が赤字の補填を行なう という企業スポーツ(宣伝活動)と位置づける限り、プロ野球の将来性 は、たとえ1リーグ制になっても暗いんじゃないかな。
だってどう考えても対巨人戦が減って放送権料収入が減る広島あたり は、経営的に厳しくなると思うし。
「あの人の目の黒いうち」は、このままでもなんとかなるのかもしれ ないが、「あの人」が球界を去った後、たとえ球界が立ち枯れたとして も、それはファン不在のツケというか、自業自得であるといえるのかも しれない。
ま、あのお方にとっては、自分が生きている間「巨人が永久に不滅」 だったら、それでいいのかもしれないが。
プロ野球パリーグの、近鉄バファローズと、オリックスブルーウェーブ の合併話が持ち上がって以来、プロ野球界が騒がしい。
仮に合併により、パリーグが5球団となった場合、常に1球団が余る形に なり、4日間試合がなくなる、という不規則な形になるらしい。
あれ?でも大リーグも地区によっては5球団の地区もなかったっけ?と 思ったが、MLBの場合には他地区との試合や、リーグ間の交流戦も数 多く行なわれているから、問題はないようだ。
そして、この近鉄・オリックスの合併話で、一気に勢いづいたのが、 「1リーグ制」の話である。 つまり、11球団から、さらに1球団減らして10球団の1リーグ制が、もう すぐにでも実現しそうな勢いで、取り沙汰されている。
パリーグは万年赤字を抱えているチームも多く、今年からは上位3チー ムによるプレーオフ制を導入するなど、試行錯誤の連続だから、この際 とばかりに、セリーグと合併したい、という欲求はかなりあるようだ。
そうすれば、例えば西武の松坂VS巨人軍など、楽しみなカードが増えて プロ野球人気も盛り返す、という訳だ。 でも、将来的に1リーグ制に移行するのが、たとえ自然な流れだったと しても、今の議論は性急すぎて単なる付け焼刃のような印象を受ける。
と、思っていたら、東京新聞6/18の特報欄 に面白い記事が載っていた。 巨人を2チームに分割すればいい、という話である。 そして、その東西両巨人の選手のラインナップも面白い。
ここで東京新聞が作成したラインナップを紹介すると、
・東京巨人 ・大阪巨人 (二)仁志 (右)大村 (左)清水 (遊)元木 (右)高橋由 (中)ローズ (一)ペタジーニ (三)中村 (三)小久保 (一)清原 (捕)阿部 (指)江藤 (遊)二岡 (二)後藤 (中)レイサム (左)斎藤宜 (投)上原 (捕)藤井 (投)木佐貫 ※大村、中村、藤井は近鉄から獲得
こういう分割案なら、個人的には大賛成である。 それぞれの個性と言うかチームカラーも際立っていると思うし。 パリーグも巨人戦が組めれば、放送権料も少しは期待できるだろう。
この話の元ネタは、6/15の朝日新聞の社説だったらしいが、1リーグ制 でもう1球団消滅させる事を前提に考えるよりは、個人的にはこっちの 案を強力に推したいくらいである。
そしてこの場合、フランチャイズを大阪ドームにすれば、まだ500億円 以上も負債のあるドーム球場の経営もうまくいくかもしれないわけで、 いいことずくめである。
この案だと大阪巨人軍はパリーグに所属する事になるわけだが、でも この面子をただパリーグだけに独占させる?のも、もったいない。 どうせだったら、セ・パ交流戦も行なって、阪神−大阪巨人の阪神? ダービーや、東京巨人−大阪巨人の古巣対決も是非観てみたいもので ある。
ついでに大阪巨人は、某オーナー念願の大阪読売にチーム名を変更して もらったっていいんじゃないかな。元々読売新聞発祥の地?なんだし。 ついでに西日本にも、部数拡大の宣伝塔もできるわけだし。
あとは個人的には、もしくはJ1・J2の入れ替え戦のように、パリーグの 6球団目は社会人リーグの優勝チームがパリーグのリーグ戦でも戦える というのはどうだろう?
さすがに140試合全部戦って、社員を応援団に駈り出すのは、実業団 チームも困難だとは思うが、近頃撤退が相次ぐなど、停滞感のある 社会人野球の活性化と、野球人口の減少、戦力外通告されたプロ野球 選手の受け入れ先としては一役買いそうな気もするんだけど。
ま、この案が中日新聞系の東京新聞に載るあたりも、パンチと言うか 皮肉が利いている気もするが、「巨人も犠牲を払わないと」と語った らしいナベツネさんも、ここらでひと肌脱いでみてはいかがだろうか。
2004年06月21日(月) |
「上司は思いつきでものを言う」 |
という事で今回は読書ネタ。 今回取り上げるのは、橋本治の「上司は思いつきでものを言う」 この本、とても面白くて、一気に読んでしまった。
この本でいう所の「上司」とは会社の上司である。 私は、会社員経験は一度もない。それでもなお、何故この本が面白 かったかといえば、「上司が思いつきでものを言う」事が問題になる 位、停滞している日本という社会の現状について、橋本治がどう考えて いるのか、わかったような気がしたからである。
この上司を例えば小泉首相に代えて「総理は思いつきでものをいう」 でも、「政治家は思いつきでものを言う」でも、「官僚は思いつきで ものを言う」に代えて、例えば今回の年金議論を考えてみると、何かが 見えてくるような気がするのだ。
で、この本で橋本治は何故「上司は思いつきでものを言う」と書いて いるのか。
それは上司には現場がなく、ただ上司というピラミッド組織の一員に なってしまっているからだ、と書いている。そして何故、上司には現場 がないのか、といえば日本の高度成長で会社という組織が大きくなり すぎ、また収益を上げてくれた現場がやせ衰えてしまったからだ、と 説く。
そして更におそろしい事には「官僚という組織は常に上意下達がある のみで、下からの声が上に上がる事がなく、現場が必要ないからだ」 と書いている。
と、いうかこれだけ読んだら「何のこっちゃ」ですわね。
でも、これに小泉首相や政治家や官僚がなぜ、思いつき(のような) 発言を繰り返すのか、と当てはめてみると、「彼らには現場がない」 すなわち当事者意識がないからだ、という仮説にたどりつくわけだ。
そしてそれは養老孟司の「政治家は果たして本気でものを考えている のか」という話と重なってくると思うのである。
では、そういう思いつきでものを言う上司や政治家に囲まれた私たちは どうすればいいと橋本治は言っているのか。
それは、人間的に「本気ですか?」とあきれてみせればいい、らしい。 その部分を引用すると、
簡単です。あきれればいいのです。「ええーっ?!」と言えばいいので す。途中でイントネーションをぐちゃぐちゃにして、語尾をすっとん きょうに上げてください(略)。
あなたが内心でいくらあきれても、それは、上司に伝わっていません。 上司には、「部下にテキトーな思いつきでものを言って、部下からあき れられた」という経験がないのです。
「批判される―そのことによって"してはならないことをした"と学習す る」という機会を奪われているのです。しつけのない犬と同じですか ら、もう、思いつきでものは言いっ放しでしょう。
と、いう事である。
いや、でもマジでそろそろ、あきれてみせないと、この国の「上司」 たちは、思いつきで、さらに事態を混乱させていきそうな気もするよ なあ、と思うのである。
また、この本には他にも、面白い部分があって、特に面白かったのは、 「よーく考えて」の罠である。
大人になったあなたが「よく考えて下さい」という決断を迫られる時 は、あまりいい時じゃありません。悪いセールスマンは、「よくお考え 下さい」と言います。悪くなくても、自分の利益を考えるような人は、 「よく考えてください」と言って、相手を説得します。どうしてかと いうと、「よく考えて下さい」と言って相手に決断を迫る側は、自分の 都合のいいように、相手の思考の方向をあらかじめ設定してしまって いるからです。「我々の誘導通りにお考えになれば、あなたは損をし ないのです」というガイドラインが設定されているからこそ、「よく お考えになって下さい」という勧誘が成り立つのです。
問題を出す側が、あらかじめその答えを知っている―だから、「よく 考えて」は勧誘の言葉になるのです。
そう思って、あの「♪よーく考えよー♪」のCMを見ると、CMとしては、 私たちの無意識に働きかける希求力はすごいんだなあ、と思ったり。
個人的にこの本がなぜ、そんなに面白かったのかというと、この本が 一つの物語の形式をとっているからだろうと思う。
それは養老孟司の「バカの壁」も同じだと思うけど、物語の形式で書か れているからこそ、読む人、つまり私の物語も動かされて感動するんだ と思うのだ。
そう思うと、これからこういう物語形式で何かを語る本は、もっと増え ていくような気がする。
参考リンク 東京新聞 6/9特報欄「重大事件のたびナゼ?政治家失言」
2004年06月20日(日) |
情報は死なず ただ忘れ去られるのみ |
昨日の日記を書いた後、昨年の日記で毎日新聞に載った養老孟司の コラムを取り上げた事を思い出した。
詳しくは過去の日記を参照してもらうとして、ここで簡単に触れると、 「人は変わるが、情報は変わらない」という事である。
つまり、情報は活字であれ、デジタルデータであれ、一度人間の脳の 記憶の外側で外部記憶装置に記録をしてしまえば、(その媒体がなく ならない限り)その情報は、変わらない状態でそこにある。
もしも、その記録を引っ張り出したいと思った場合は、そのアーカイブ にアクセスさえできれば、いつでも参照する事ができる。 よく、ワイドショーなんかで有名人にスキャンダルが起こる度に、その 有名人の何年も前のVTRが流れたりするアレと同じ原理である。
その一方で、情報は簡単に忘れ去られる。それは、人の記憶はまるで RAMのように時として抜け落ちたり、書き換えられるからである。 そして人は過去、自分の記憶にあった出来事を忘れ去り、新たに起きた 刺激的な出来事に関心をよせていくのかもしれない。
そして、その一翼を担っているのが、マスメディアである。マスメディ アは、身の回りの出来事、健康グッズから、遠い世界の不思議な出来事 まで、人の関心を引くようにありとあらゆる情報を、人々の無意識の 時間の隙間にまで、流し続けていく。
そして当然、人はそんなに膨大な情報を処理し、記憶させ続けていくの は難しいからこそ、次から次へと忘れていく事で「処理」していく。
でもその一方で、個人的に忘れたくない、忘れちゃいけないと思う記憶 も存在する。 それが既に亡くなってしまった、身近だった人との「思い出」である。
先週の18日の金曜日、この前日記に書いた青木育子さんの「偲ぶ会」に 参加してきた。 その会には元旦那さん、学校の同級生、以前からの友人など、本当に 沢山の人が訪れて、会場に入りきれなかったほどの盛況ぶりだった。
これも、故人の人徳かもしれない。
そして、元旦那さんをはじめとして、人々の口から出る故人との思い出 は、一様に明るく、そして温かかった。 しんみりした会は本人に似合わないとばかり、時にはしんみりと、そし て時には笑顔も出るいい会だったが、それだけ、本人の存在感の大きさ を感じさせる会だったと思う。
私は以前にも書いたが、16年前に母を亡くしている。あと数年もしたら 母親と一緒に過ごした時間より、母親と別れて過ごした時間の方が長く なる。
写真ではなく、自分の記憶の中にある母親の面影は、多少薄ぼんやりと してきたけれど、母と一緒に過ごした時間は、16年経った今でも鮮烈な 記憶として、私の中にある。
私にはいわゆる霊感はないので、果たして霊魂とかたましいが、この世 に存在しているのかどうかはわからない。
でも、はっきりと言える事が一つある。 それは、私が今もこうして母親の記憶を思い出す限り、私の中で彼女の 記憶は生きている、と思うのだ。
つまり、私が忘れ去らない限り、亡くなった人は私の記憶の中では、 無くならずに存在し続けている、と思うのである。
そしてそれは私だけではなく、この広い世の中で、亡くなった人と縁の 深かった誰かがその人の事を思い出すとき、少なくともその人が確かに この世で生きてきた、という証になるんじゃないのかな、と思うのだ。
もちろん、外部記憶装置にも、その人の生前の記録は存在する。でも、 時には忘れやすい人間の脳に深く刻まれた「その人との思い出」は、 単なる記録にとどまらず、記憶であるからこそ、人間味と、温かさを その人に思い起こさせてくれるんじゃないだろうか。
そして、これは決して本人の本意ではなかったろうが、奇しくも出会っ て10年目という節目の年に、卒業してもう疎遠になってしまった旧友 たちとの再会を果たさせてくれた、青木さんの人徳に改めて感謝の意を 表したい。
ありがとう、青木ママ。
2004年06月19日(土) |
「ただ解釈だけが存在する」 |
「真実は存在しない。ただ解釈だけが存在する」という言葉は、鴻上 尚史の戯曲の中に度々出てくる。原典がなんなのかはしらないけれど、 最近この言葉がよく、自分の意識の上に浮かんでくる。
例えば、小学生児童の殺害事件で、加害者児童の掲示板のログや、イラ ストや犯行以前の行動など、様々な「事実」が報道されている。
また、窪塚洋介がマンションから飛び降りたアクシデントについても 今までの言動や直前の様子など、様々な「事実」が同じく報道され続 けている。
でも、と思う。じゃあ、膨大な事実を積みあげた先に、果たして本当に 真実は現れてくるんだろうか。
そこにあるのはただの解釈で、こうだったらいいな、こうに違いない、 という一種の物語なんじゃないのかな。 マスコミは、事件に対する世間の関心の高さを楯に膨大な事実を中立の 立場で報道していると胸を張る。
でも、本当にそうなのかな? たとえ本当に中立な立場で事実を積みあげていったとしても、それだけ では人々は落ち着かないし、納得しないんじゃないかな、と思うのだ。
つまり、そこで何らかの立場に立ってコメントをしないと、(私を含 めて)気がすまないんじゃないかな、って気がするのだ。
そしてマスコミを含めて人々がコメントをしている時、自分が無意識の うちにどの立場に立ってコメントしているのか、という事が見過ごされ ていると思うのだ。
そして、私が最近の様々なコメントを見て感じるのは、「だからあの人 は特別で、だから私(たち)は大丈夫なんだ」という無意識の選別意識 に立ったコメントが多いような気がするのだ。
つまり、同級生を殺害した児童は、こういう行動をしたからこそ特別で だからあんな事をしたのだ、とか、窪塚洋介は日頃からおかしな言動を していたから特別で、だから飛び降りても不思議ではないんだ、という 形で、私が相手とは違う、という安心の理由を必死になって探している ような気がするのだ。
でも、本当にそうなんだろうか?
むしろ加害者児童の行動が、私たちとあまり変わらない行動であった からこそ、何が原因でそうなったのか、もっとわからなくなり自分の 子供に対しても不安を感じているんじゃないのかな、とも思うのだ。
そして、誰かを特別視すれば済む、というのは、自分が常に大多数に いると思うからこそ安心できるんだと思うけれど、今の時代は何が その大多数でいることの根拠になるのかが、曖昧でわからないからこそ 果たして自分が大多数に含まれているのかどうかが気になって、結果 自分がなくなって苦しんでいる人も沢山いるんじゃないかな、という 気がするのだ。
マスコミは、少なくとも膨大な事実を積みあげれば、必ず真実に結び つく、という幻想をまずは捨ててみたらどうだろう? そうすれば、事実を報道するためには何をしても許される、という報道 被害は、今よりは減るんじゃないかな、と思うんだけど。
そしてもう一方で、膨大な事実を積みあげることは、一人の人が死んだ という事実の重みを、相対的に軽くしてしまうんじゃないのかな。 それもまた、被害者家族にとってはつらい事なんじゃないのかな、と 思うのだ。
参考リンク 東京新聞 6月17日特報欄「被害者抱えたメディア側の情報開示」
2004年06月18日(金) |
中田抜きのジーコジャパン |
中田英寿が抜けた後のサッカー日本代表が連戦連勝をしているから、 マスコミ的には中田不要論が出てきているらしい。
ま、その前のW杯1次予選で格下のチーム相手にいい所のなかったジーコ 率いる日本代表チームに対して、ジーコ不要論を説いていたのと変わら ないレベルの話だと思うのだが。
では、果たして本当に中田抜きの日本代表チームの方が強いんだろう か? 私はそうは思わないのである。
それは、何故、チェコ戦以降の日本代表チームが強く、それ以前が弱く 見えたかについて考えてみればわかるんじゃないかと思う。
すなわち、チェコ戦以降、日本代表が強くなったのはちゃんと練習が できているからであり、それ以前はまともに練習ができなかったから だと思うのだ。
どういうことか、チェコ戦以前、日本やアジア各地で試合が行なわれて いる時、海外組が合流するのは決まって1日前とか、2日前とかだった。 ヨーロッパでハードな試合をこなした直後に飛行機に飛び乗り、時差 ぼけで、コンディショニングもままならないまま、とりあえず連携プ レーの確認をして、そして試合にスタメンで臨む、そんな事の繰り返し だったはずだ。
その一方で、国内組は1月以降はオフシーズンで休養もばっちり、合宿 もはって、コンディショニングも、連係プレイもバッチリ合っている のに、海外組がやってくれば自分たちはサブ扱い。これで面白いはずは ないだろう。
だからあの選手たちが前日にキャバクラで大騒ぎしたという問題は、 起こるべくして起きたんじゃないかな、と思うのだ。だって、あの7人 の中には海外組に関係のないDF、GKは含まれてなかったような気が するし。
で、ひるがえってチェコ戦以降、何が変わったのか、といえばジーコが 自信を持ったのと、海外組がオフシーズンに入って、スケジュールに 余裕ができたことが大きな違いだと思うのである。
どういうことか、といえば国内組の奮起もあってか、国内組だけのチー ム編成でも日本代表はそこそこ勝てるようになってきた。いや元から それだけの実力を備えていたと思うんだけど、ジーコの信頼を勝ちとれ るようになった事が大きいんだと思うのだ。
逆に言えば、ジーコはこれが監督初体験であることからもわかるように 自分の采配にまだ自信がなかったからこそ、コンディションに関係なく 中田、小野、中村といった海外組のネームバリューに頼った起用をして きたんじゃないかなと思うのだ。
でも、これは中田の不調が先か、国内組の活躍が先かはわからないが、 股関節痛に悩む中田をあえて外した試合でもチームが機能することを 知り、ジーコも自信がついたんじゃないかな、と思うのである。
フランスW杯直前、加茂監督からいきなりバトンタッチされた岡田監督 が、W杯予選を勝ち抜き、本戦に臨もうかという時に、評論家の金子 達仁をはじめとして、岡田新監督の経験のなさを問題にする意見が多 かった。 つまり、W杯本戦を勝ち抜く代表監督にはW杯を戦って勝ったという経験 こそが必要なんだと。
当時を振り返って、平尾、古田との対談本「勝利のチームメイク」の 中で岡田監督がこう言っている。
岡田 最近、日本代表はアジアでも安定して勝てるようになったけれ ど、決して急に日本の実力が上がったから勝てているわけでは なくて、選手たちに経験に裏付けられた自信があるからだもの。 とても勝負強くなった。相手にペースを握られてもあわてなく なったよね。昔だったらちょっと攻め込まれるとパニックになっ ていたのに。
平尾 僕も、経験は非常に必要だと思います。古田さんとの話の中でも 出てきたんだけど、例えば「常勝チーム」と「いいところまで いくけれどいつも負けてしまうチーム」の差というのは、単なる 戦力の違いだけではなくて、「自信」があるかないかの差でも あるという結論になったんですよね。で、その自信というのは どのように育まれるかというと、「経験」からでしかない。
岡田 僕も、代表監督に就任した当初は「監督経験がない」とさんざん マスコミに言われた。当時は内心「何を言ってるんだ」と腹が 立ったけれど、今にして思うと、その「経験」という言葉の重さ がとてもよくわかる。
平尾 経験といっても、成功体験、失敗体験、両方あるじゃないです か。僕は失敗が非常に重要だと思う。もちろん失敗を「大一番」 でしてしまうのはまずいけれど、そうでないところでの失敗は しておいた方がいいと思うんです。そうすると、「どっからどこ までが、やってもいいプレーなのか」という自分なりの尺度が 確立されてくる。
そして、今回が初監督経験のジーコにも、同じ事はあてはまるんだと 思う。だから、2002年からの1戦1戦、実は今一番経験を身につけて いるのは、もしかするとジーコ監督なのかもしれない。
じゃあ、やっぱりW杯の本戦では、ジーコ監督の経験のなさがネックに なってしまうんだろうか? こればっかりはフタを開けてみないとわからないかもしれない。逆に 言えば日本サッカー協会の川淵キャプテンは、その未知数にかけたと 思うのだ。
でも、一つはっきりしている事があると思う。
前監督のトルシエ時代の日本代表は、「トルシエの日本代表」だったが ジーコジャパンの場合「ジーコの日本代表」というよりは、「選手たち の日本代表チーム」になっていると思うのだ。
すなわち、一つの戦術を徹底的に教え込まれ、それを実践する事に重き を置いているのではなく、より選手たちの自律的な動き、自然発生的な コンビネーションに重きを置いているんじゃないかなと思う。 つまり、単なる駒ではなく、考える駒に変わってきていると思うのだ。
だからこそ、コミュニケーションの重要性が強調されているんだと思う し。
そしてジーコが監督1年生であっても、選手たちの中には、W杯2回目、 3回目の選手たちもいるわけで、そう考えるとジーコの目指している 方向は決して間違っていないと思うし、その時に経験豊富で自らも 考え、そして他人を動かす事もできる中田選手は、必要不可欠な選手 なんじゃないかな、と思うのだ。
だから今は自分のコンディションを整える事が中田選手には一番大切な 事なんじゃないかな。
でも、これで秋以降、W杯1次予選で再びコンディションもままならない まま中田が召集されて、万が一ふがいない成績に終わった時には、マス コミはこぞって中田を槍玉にあげるんだろうなあ。
でも、中田が本当に必要なのかどうなのかは、同じピッチで戦っている 選手たちはわかっているんだろうし、ジーコもまたその辺の重要性は 熟知していると思うんだけど。
2004年06月17日(木) |
「だめんずうぉーかー今週号」 |
以前、この日記で取り上げた本「喫茶店で2時間もたない男とはつき あうな」について、今週発売された週刊SPA!6/22号の「だめんず うぉーかー」の内容が面白い。
この日記を作者の倉田真由美が読むはずはないのだが、まるで 日記の 内容に対する返歌のように、本人の身体が感じられる内容になってい る。
マンガのネームだけを抜いても魅力は半減すると思うので、詳しくは 手にとって読んでもらうとして、所々引用すると、
うさちゃん(注:中村うさぎ)と私は人間性もものの考え方も全然 違うけど、興味の対象が同じで、「分析好き」という嗜好が似ている。
ちなみに斎藤さん(斎藤孝)って私にとってうさぎと同じポジション。 彼らと話してる時の私はボケやツッコミなど会話における遊びもない ディベートおばさんである。
「倉田さんって色気ないよね」(斎藤氏談) そりゃそうだ。この人たちと話す時、私は女じゃないもん。
恋愛相手との会話は「何か結論を導き出すための道のり」ではなく、 ボケ・ツッコミし合うなど、言葉のやりとりそのものを楽しんだり、 相手の言葉に脳じゃなく「感情」が反応する。 そして自分の言葉が相手に響く感触もほしいと思う。
私の場合、うさちゃんとか斎藤さんと話す時は、首から上だけで会話 している感じだけど、恋愛相手とは体中使って会話してる感じがする。 そして合わない相手と気の乗らない会話をしている時は、使ってるの 口だけ。(略)
相手が全身でしゃべってるかどうか、そして自分もどれだけ身を入れて 会話しているか、その会話が気持ちいいかどうかということが大事で ある。
人によってしたい話・楽しい会話って違うので、「会話の好み」が合う 相手でないととても2時間はもたない。
なるほど、おみそれいたしました。文句の付け所もございません、と 感心するほど、うなずく事の多い内容だった。
欲を言えば、本の中でもこれだけ突っ込んだ内容だったら、もっと おトク感も増したのになー、とも考えたが、考えてみたらあの本は 1050円(税込)なので、ネタにした分、充分モトはとっているのかも なんて考えてみたり。
でも、実際男女の仲になればなるほど、会話の中に身体性って入って くると思うんだよね。
自分も異性の友達もそして同性の友達も多いが、友達同士の会話の時 って、基本的に頭から上だけでも、もしくは口だけでも成り立つと思 うけど、恋愛関係まで関係性が深くなればなるほど、ただ会話するだけ では物足りなくて、会話を通して相手の体がどう反応していくか、と いう所まで気になってくるのである。
いや、単に相手に下ネタをぶつけるとか、言葉責めなどのSMプレイに 入るということではなくて。
で、逆に言えばそういう身体性あふれる会話のできる距離にいる相手 とは、特に言葉を交わしていなくても、例えば見つめあうだけでも 沢山の会話をしているような気になるんじゃないかな、と思う。
それが上記の本で言う所の「絡みつくような会話」という事なのかも しれない。 そして、それが男女の間に友情関係が成り立つかどうかの一つの答え なんじゃないかな。
つまり、誰彼かまわず異性との間に身体性の入った深い会話を望む人 の場合には、なかなか友情という形にはなりにくいってことなのかも しれない。
例えば男友達やただの女友達と、ただだまーって、見つめあっていたら、 それはそれでもう違う世界の住人のような感じがするし。
で、確かにお互いの身体の入った絡みつくような会話のできる相手との 会話って、確かに、SEXと同じくらい気持ちよかったりするんだよね。
ヨーロッパサッカー選手権大会、ユーロ2004が12日から始まっている。 うちは仕事場に何故か?WOWOWが入っているので、気になる試合はそこ で録画する事にしている。
で、実は地上波のTBSでも何試合かは生中継で行なっており、この前の フランス−イングランド戦はたまたま月曜早朝に目が覚めたので、生で 見ることができた。
最近、年取った訳でもないんだろうが、やたらと早起きなのである。
で、この試合、生で見てよかった―――と思う位、面白い試合だった。 結果が最後にどんでん返しが待っていたってだけではなく、試合展開 自体がとても面白くて、目が離せない感じだったのである。
フランスのストライカー、アンリを含めてプレミアリーグで戦っている 選手が多かったからかどうかはわからないけれど、フランスもイング ランドも、細かいパスを繋ぎながらも、展開の速い、スピーディな試合 をしていたんだよね。
なんと言うのか、カッチリ組み合ったというかとてもレベルの高いもの 同士の試合は、こんなにも面白いんだ、と思って寝ぼけ眼が一気に覚め たのである。
試合は、ベッカムのFKからイングランドがピンポイントで先制し、この まま行くのかなー、と思ったら、後半ベッカムのPKが止められてしまい それでもこのままイングランドが初戦を制するか、と思った後半ロス タイム直前、絶妙の場所からのFKのチャンスを得たジダンのシュートが ダイレクトに決まって同点に追いつき、そのわずか数分後にイングラン ドの不用意なバックパスで得たチャンスに乗じたアンリがPKのチャンスをもぎ取り、それをジダンがキッチリと決めて、見事フランスが大逆転 勝利をもぎ取ったのである。
なんと言うのか、こういう展開ってあり?という位、終わってみれば 意外な結果だった。
おそらくは、今までまだユーロを制したことのないイングランドの選手 たちは、今回同じく優勝候補であるフランスとの初戦に勝ってしまう かも、と思った瞬間、本当にこのままで終わっていいのか?とちょっと 気持ちが緩んだのかもしれない。
そしてその結果が、試合終了の数分前に、フランスが勝つ流れを呼び 込んでしまったのかもしれない。 そしてこれが、ユーロを制した経験を持つ選手のいるチームと、まだ 制したことのないチームの、わずかな差だったのかもしれない。
と、書いていて、日本の社会人ラグビーの、神戸製鋼−三洋電機戦を 思い出してしまった。
'91年、3連覇のかかった神戸製鋼と、これが念願の初制覇になるはず だった三洋電機の戦いは、試合終了直前まで、三洋がリードをする 展開で、このまま三洋が勝つかと思った矢先、たまたま当時センター だった平尾がパスミスで落球した球をうまく拾い、それが結果的に 逆転トライにつながって、神戸製鋼は3連覇し、その後7連覇までした 事を思い出したのである。
そして、あと少し優勝に手がかかった三洋電機はその後も何故か決勝 まで進んでも、後一歩のところで優勝を逃し続けているのである。
この事に関して、神戸製鋼の平尾誠二は、「勝利のチームメイク」の 中の、古田との対談でこう述べている。
古田 (略)もう最後のワンプレーというところで、神戸のスタンド オフの藪木(宏之)さんからセンターの平尾さんに送られたパス がワンバウンドになったじゃないですか。それを見て、三洋の 選手たちにはソワソワ感が増幅されて、「よっしゃあ!勝った」 って思ったという気がするんです。だけど、そのワンバウンドの ボールを平尾さんにきれいに拾われた。さっきのコンマ何秒の間 の楽観が、今度は「大きな焦り」という反動となって返ってき た。結果、三洋のマークがずれちゃったんですよね。一瞬一瞬の 心の動きの振幅の大きさが、失点につながった気がする。
平尾 よう観てるなあ。結構当たってる気がする。あの試合のことは 僕もよく覚えているけれど、あの試合の後ね、いろいろな人に 「平尾さん、あの試合、勝てると思っていたか?」と聞かれて ね。正直に言うと、「これ、ひょっとしたらあかんかなあ」って 思っていた(略)
でね、これが先ほどの勝ったことのないチームと、連勝中のチー ムとの差じゃないけれど、「あかん」とこっちは思い始めている のに、改めて三洋電機の選手の顔を見たら、向こうの方が「(あ の神戸製鋼相手に)このまま終わるはずがない」って顔してる。 顔が緊張しているの。それを見て「あ、まだいけるかな」って。
そう考えると、これまでもW杯など何故か惜しい所で負け続けている らしいイングランドは、今回も勢いに乗り損ねてしまったといえるん だろうか。
逆に、フランスチームは、これで2002年W杯のツキのなさを払拭して、 勢いに乗っちゃうのかもしれないなあ。 本当に勝負って水物で、わからないものなのかもしれない。
日曜日、TVをつけっ放しにしていたら、TOKIOの山口のサーフィン番組 をやっていたので、思わず見入ってしまった。 昨年夏に映画「ブルークラッシュ」を見て以来、サーフィンって楽し そうかも、なんて思ったからである。
ま、自分の趣味をTV番組化することで、バリ島にまで行ける芸能人は いいなあ、なんてやっかみも少しはあるが、ただの旅番組を流されて、 旅気分に浸りなさい、なんて言われるよりはこっちの方が全然いい。
で、その番組を見てて、芸能人がサーフィンにはまる理由が何となく わかったような気がしたのである。
多分、サーフィンをしている時って、自分が芸能人であるとか、何者か なんて事を全く意識せずに没頭できるからなんじゃないかな、なんて 思ったのである。
もちろん、周囲のサーフィン仲間も、お、芸能人の○○が来ているよ、 なんて多少は意識するかもしれないが、そんな事よりは、目の前の波に 乗れるか乗れないかが、最大の関心事だろう。
そして、波に乗れた奴がどんな奴であろうと格好いい、という実力主義 の世界なんだろうし、そういう世界で私は女優よ、みたいなお姫様扱い を望んだとしても、波に乗れなきゃただのヘタレ扱いなんだろうし。
そして周囲から格好いい、と評価される事が全てなのではなく、むしろ 自分が長く波に乗れたかどうかが、勝負になるのかもしれない。 だって、長く乗れれば乗れるほど、自分自身が気持ちいいんだろうし。
そして波に乗る時には、おそらく、何かを意識してコントロールしよう とすれば、もう既にタイミングを外してしまいので、文字通り「無我の 境地」で自然と無意識の内に身体が動き出せないと、うまく波には乗れ ないんじゃないのかな。
そしてその「無我の境地」になった時って、自分がゼロになった瞬間で あり、大袈裟に言えば「自然との一体感」が味わえているんじゃないか と思うんだよね。
おそらく、同じような快感は、スキーで難しい斜面を乗りこなしている 人にもあるんだろうけど、サーフィンの場合特別なのは、「一つとして 同じ波が来ない」所にもあるのかもしれない。つまりその時、その時の 波に身体が反応する必要があるからこそ、奥が深いのかもしれない。
ま、以上は陸サーファーですらない素人の勝手な想像なわけだが、 果たしてこの仮説が正しいのかどうかを考えてみる上でも、やっぱり サーフィンはそのうち一度でいいからやってみたいものの一つである。 おそらく最初は、海水のしょっぱさにさえ、へこむと思うが。
何も伝説のビッグウェイブに乗りたいとは全く思わないが、余裕ができ たらロングボード担いでいる親父にはなってみたいなあ、と思う。
でも、サーフィンに限らず、自分自身の肩書きとか意味にこだわらない 「ゼロになる瞬間」って、人生をより楽しく生きていく上では貴重な 時間なんだろうな、と思うんだよね。
今までの自分の人生の中で、何がその「ゼロになる瞬間」に一番近かっ たかというと、やっぱり踊っている瞬間かなあ、なんて気もする。 何も考えず、ただ、リズムとビートの虜になっている時、私は何者でも ない、ただの自分になっているのかもしれない。 後は無我夢中で泳いでいる時もそうかなあ。
やっぱりそろそろ、身体の方が動きたくてウズウズしてきている季節 なのかもしれない。
なんて事を書きながら、たまたま宮台真司のブログをのぞいてみたら、 宮台センセイもサーフィンについて書いているのを見つけて、その意外 性と偶然性にビックリした。これも一つの共時性なのかもしれない(大 袈裟である)。
ちょっと前(今もか?)自分探しの旅、というのが流行った。 自分探しの旅、とは結局、自分は他人と違う、特別な人間である、 という事の意味づけをしたり、その根拠を求める旅なのかもしれない。
でもね、自分が特別であり、人とは違うんだ、という事はもう一方では 自分が孤独である、という瞬間も味わう事になるわけだ。だって、自分 の考えが、他人(その他大勢)とは違う、特別だ、という事は、同じ 考え方をする人が自体が稀少であるという事をも指すわけで。
逆にもう一方では、自分が特別である、と思いたい人の心の中には、 自分が孤独である事の代償に、孤独であるが故に自分は特別であり、 特別であるが故に自分は何をしても許される、と思う人もいるのかも しれない。
そして、ネオ麦茶、宅間受刑者、そして今回の同級生殺害の加害者には どこかそうした共通したニオイがあるような気がするのだ。 もしかして、彼らの背後にあったのは、自分は孤独であるが故に自分は 特別である、という意味の変換だったんじゃないのかな。
そして、もしかするとその背後には、出る杭は打たれる、皆一列で同じ 事をしなきゃいけないという強迫観念と、孤独はつらい、という恐怖感 があるんじゃないのかな。
みにくいアヒルの子が他者と違っていたが故に仲間はずれにされて しまうような恐怖感に、この国が冒されているような気がするのだ。
あの、イラク人質の自己責任を巡る問題も、北朝鮮拉致被害者家族に 対する非難の声も、そういうなんとなくある強迫観念が起こしている んじゃないのかな。
でもね、だったら自分が特別である/特別じゃないなんて意味づけを まずはやめてみたらいいんじゃないのかな、と思うのである。
自分で自分を特別だ、なんて意識しなくったって、元々人は一人一人 違うわけだし、あの人は特別で変わっている、なんて意味づけをしな ければ、その人をうらやむことも、また排除する論理も生まれては 来ないんじゃないかな、と思うのだ。
そして逆に言えば、現在この国がいかに意味づけや目的意識に冒されて いるか、という事の裏返しなんじゃないかな、と思うのだ。
窪塚洋介がマンションから飛び降りた、と聞いて、映画ピンポンの 冒頭のシーンが真っ先に思い浮かんだ。
窪塚洋介演じる主人公「ペコ」が川にかかる橋の欄干に立ち、 「I can fly!」と叫んで、警官役の松尾スズキの目の前で飛び込む シーンである。
さて、とっさ的に飛び降りたくなる衝動は、そんなに珍しい?ものでは ないのかも、しれない。
今年の2月に行なわれた舞台「ハルシオンデイズ」のごあいさつの中で 鴻上尚史は、自分が今まで飛び降りず、生きてこれたのは「素敵な 屋上つきのペントハウスに住まなかったのも救われた原因で、15階以上 の高層マンションに住まなかったことも大きいと思います」と書いて いるし、ちょうど今読んでいる本、「庵野秀明のフタリシバイ」の中で 庵野秀明は、田口ランディ相手にこう書いている。
庵野 屋上のへりギリギリに足を出して、飛び降りられるかどうか 確認したんです。飛び降りればそれまでだし、飛び降りなきゃ またしばらく大丈夫と酒の勢いもあって、ブラブラしたんです。
でも会社の屋上って3階とちょっとしかなくて、下がはっきり 見えるんです。のぞくとかなりリアルな映像で痛そうなんです よ。それが思いとどまる最大の理由でしたね(略)
田口 今おっしゃていた「これで飛び降りたら痛そう」という、それが まさに身体感覚だと思うんです。痛そうだと思える、自分の体に 痛みが走るというリアリティ。実際は今痛くないけれど、痛い ときはいやだろうなと感じる体の言語なんですね。それが今は 希薄になっちゃってるんですよね。飛び降りても痛いと想像でき ない人が、飛び降りるんですよねぇ。
庵野 じゃないと飛び降りられないですよね。後先考えない状態じゃ ないと。
鴻上尚史自身も書いているけど、飛び降りなかったのは「けれどこれら はすべて偶然」なのかもしれない。
私の中にも、時々、飛び降りたくなるような衝動はある。だけど、そこ で実際に実行に移さないのは「想像するだけで相当痛い」からである。 その代わり、想像(妄想)の中の私はもう何回も屋上のフェンスを越え ているし、電車の中にも飛び込んでいる。逆に言えば、そういう想像力 があったからこそ、私は今、こうして生きている、のかもしれない。
映画ピンポンの話に戻れば、衝動的に川の中に飛び込んだペコは、 溺れそうになる中で「何か」をつかみ、ずぶ濡れの姿のまま、オババの 元に来て、猛特訓に励むようになる。
今回、幸い一命をとりとめる事ができた窪塚洋介は、自分の身を投げ だした代償に、果たして「何か」を掴むことはできたんだろうか。
ま、両足大腿骨折だと、脊髄損傷がなかったとしても創外固定やら なんやらでリハビリ含めて全治3ヶ月で復帰は結構大変だと思うが 元々、好きな俳優なので、「何か」を掴んで役者として復帰する日が やってくる事を願ってやまない。
今回も「庵野秀明のフタリシバイ」からのネタ。 今回の対談相手は田口ランディ。 今回私の目に止まったのは、この部分。
田口 なんで男の人は一点に集中したり、遊びに没頭できるのかなって 思っていたのだけれど、つい最近、多分、あらかじめ男っていう のは女より相当身体性が失われていて、体の感覚が鈍いんじゃ ないかって思うようになったんです。
体と自分の密着度が女より低いっていうか、遊離してて、自分の 体というものにあまり信頼を置いていないのが男で、それをある 妄想力で補っているんじゃないかな、と思うようになりました。
女ってこんなことをして、自分にとどまっていなくても、自分が 自分であるってことを自覚していられる。男の人は、よくわから ないけど、私というものにこだわるためになにかツールが必要な んじゃないかって。
庵野 男の方が弱いし存在希薄だと思いますよ。動物学的には、女性は 数が多ければ多い方がいいんですけど、男って理論上はひとりで いいんです。種はひとりで十分。常に一番じゃないといけないん です。だから負けたくないんでしょうね。男は常に女性に対して 存在価値を気にしなくちゃならない、かわいそうな生き物だと 思います。
田口 かわいそうですか?私はかわいそうとは全然思わないです。私は 「そういう特性を持ってるから、それはそれで人生楽しそうで 良い」と思うわけです。女とは別の楽しみ方を持っているから。
子どもの頃からうらやましいと思ってたのは、その身体性のなさ の部分を妄想力で補ってる、妙に特化した妄想力に憧れていたん だろうなって、最近になって思うようになりました(略)。
庵野 女性の漫画家によく言われますよ。
田口 言われる?
庵野 ええ、「世界観を創造できることが、うらやましい」っていう ようなことを言われますよ。
さて、この部分を読んで私がもしかしてそうかも、と思ったのは、 「自分の妄想する力って、もしかして落ちてきているんじゃないか」と 思ったのである。 つまり、「自分の身体性のなさ」を補う意味での妄想力に、だんだん 頼らなくなってきている自分を感じるわけなのだ。
これは、私の男性性が落ちてきている事を意味するんだろうか? だとしたら相当の危機のような気もするが、というよりは、自分の妄想 する力よりは現実に存在する肉体とどう向き合うか、という方に関心が シフトしているんじゃないかな、と思うのだ。
そしてそうなっている原因は、否が上でも人の肉体と向き合う、自分の 仕事にあるんだろうという気がする。 なぜ、そう思うのか?それはこの仕事を始める前の自分が、妄想力バリ バリの人間だったからである。
妄想によって感じる快感、それは脳内の麻薬(快感)物質の放出による 快感だろう。
ちょっと前、と言っても10年前位、バーチャルリアリティの可能性に ついて論じられている時、将来、人間(男性)は、実際のSEXより、 ヘッドセットから脳内に直接送られるSEXのイメージつまりヴァーチャ ルSEXの方に快感を覚えるかもしれない、なんて話があった気がする。
いやもちろん通常のSEXもなくならないだろうが、そういうヴァーチャ ルSEX産業が花盛りになる、という予測もあったような気がする。 そしてそれがいわばバラ色の未来の可能性として、語られていたと思う のである。
でもね、今現在の私の感想は「そうなったら嫌だな」である。それは たとえば人間もオールCGのムービーやCM(大塚美容整形外科とか)を 見た時に感じる違和感に近い。つまり、本当はそこに生身の人間がいる からこそ楽しいんじゃないか、と思うのである。
でも、ヘッドセットから直接イメージの流れるヴァーチャルSEXの実現 はまだ先でも、いわゆる欲望産業って相当脳内補完快楽的、ヴァーチャ ル的になっているのかもしれない。
たとえばAVにしたって、他人のしているSEXのイメージに対する興奮だ し、いわゆる「萌え」の感覚というのも、それに近い感覚なんじゃない かな。つまり、実際手が届かない範囲にいるアイドルやアニメキャラ だからこそ、それこそ脳内補完的に、妄想で快楽を生み出しているん じゃないかな、と思うのである。
そして、極端にいってしまえば、ドラッグだって脳内快楽系の産物だろ う。合法だろうが非合法だろうが、薬物で脳内に快楽物質を作り出しな さいと命令される快楽は、それが好きな人にはたまらないものなのかも しれない。
またそこまでいかなくても、脳内補完快楽系って、今ではそんなに珍し いものではないかもしれない。
5月末の土曜日の討論番組「ジェネジャン」のテーマは「負け犬の遠吠 え」だった。ここで面白かったのは、負け犬、とされる女30代独身組と 勝ち犬とされる結婚組、子持ち組の価値観の違いだった。
出演者の加藤鷹は、「負け犬組はヴィジュアルにこだわっている」と 言っていたが、個人的には「脳内系」の意見が多かった気がするのだ。 たとえば「結婚したって、旦那が浮気するに決まっている」とか「結婚 したら、自分に対する投資額が減ってみすぼらしくなっちゃう」とか。
ま、独身負け犬男性の私にとっても相当身につまされる話だが、これっ て絶対そうなると決まった事ではないと思う。これって言い訳という訳 でもないけれど「自分が独りでいることを正当化するための理由」なん だと思ったのである。
ただし、だから負け犬層が駄目なんだ、というつもりはない。自分が 独りでも生きていけるという心の拠り所を持って、社会で頑張れる事は 本気でいいことだ、と思うし。 現代日本の文化と消費社会でかなりのウェイトを占めているのは、 自分を含めたこういう負け犬層だと思うし。
ただ、いわゆる負け犬層と、自分の身体性のなさを脳内で補完する男性 的な快楽系との相関を考えてみたかったのである。 それが悪いと言うのではなく、それが目立たないほど、現代日本自体が かなり、脳内補完快楽的な社会になっているんじゃないのかな。
でね、「負け犬」にせよ、「萌え」にせよ、自分で自分に意味を持た せるというか、肩書をつけることで、脳内的に安心しちゃっている 部分もあるんじゃないのかな、と思うのだ。
でもそれは「フリーター」だって、そして「セレブ」だってそうだ ろうし、現代の私たちは、自分に肩書がつかないと、安心できなく なっているのかもしれない。
妄想自体が悪いと言うつもりもない。たとえば社会的な成功とか、目標 を達成するのも、自己実現を目指して実行するという妄想の力だとも 言えるかもしれない。 そもそも、ザ・少年漫画の「巨人の星」の主題歌にある「おもいこんだら」の思い込む力も、努力と根性も、男性的な妄想の力だと思うのだ。
そして今までの日本社会でなかなか女性が男性と伍して成功数が少ない のも、男性と女性の妄想の構造の違いなのかもしれない。 逆に言えば、現代社会で成功する女性経営者というのは、この前の 「ジェネジャン」に出ていた「恋から」卒業生の女性もそうだけど、 かなりの割合で「男性化」しているのかもしれないし。
そう考えると、フェミニズムというのは、女性も男性に負けないように どんどん男性的な妄想を抱け、という運動だったのかな。そしてもしか するともう既に相当そうなっているのかもしれない?
と、いうことを踏まえた上で、私が何を考えるかと言うと、「でも、 脳内補完快楽系=妄想系だけの世界じゃつまらない」である。
つまり、そこに自分の肉体があり、自分の目と鼻と舌と耳と皮膚感覚を 通して様々なものを感じられるからこそ、生きてるって面白いんだ、 と思うのである。そして、自分の体の調子がいい時はハッピーになり 具合の悪い時にはブルーになるからこそ、自分の体の調子のいい時の 気分のよさが際立つんじゃないかな、と思うのだ。
つまり肉体を通して何かを感じ、そして肉体を通して何かを実行する 事が「生きる」という事なんだな、と改めて思うのである。
最初に書いた、私の妄想力が落ちてきた、というのはもう一方で逆の 見方をすれば、「妄想する力=脳内補完快楽系」と肉体的感覚実行系 のバランスがとれてきた結果、脳内で何か意味を補完しなきゃいけない 割合が少なくなってきている、とも考えられる訳で、自分の妄想力= 想像力が全くなくなって来ている訳でもないと思う。
身体と意識のリンクが太くなることで、有り余っていた妄想力を、別の 形でも使い始めたって事なのかな、と(妄想的に)私は思うのだ。
今読んでいる本、映画監督、庵野秀明と、舞台関係者との対談本、 「庵野秀明のフタリシバイ」が面白い。
その本の中、庵野秀明と、野田秀樹の対談で、個人的に面白い部分が あった。
野田 (略)要するに、アニメと演劇の決定的な違いは肉ですよ。 たとえばね、アニメはとってもかんたんに美しい女性が出現 できるからね、うらやましい。舞台では美人女優で、しかも セリフがしゃべれてって人をさがすのには、すごく苦労する からね。そういう人が現れるのに、生身の肉体だと何十年も かかるわけだから。(略)
だけど、そこにどんどん入れ込むと、そのキャラクターの肉 に触れたいと思うのね。でもありえない。だから俺アニメファン が声優の人にいれこむのってわかるわけ。唯一肉は声しかない から。
庵野 そうなんです。
野田 だからその人を通して、見ようとするんだけど、ものすごく幻想 だよね。
庵野 ええ。幻想のハケ口はそこしかないんです。
野田 いや、ほんとに肉声っていうのはいい言葉だよね。
庵野 そうなんですよね
野田 舞台で声をあなどるなって言うの。見えないけれど声ってほんと に大切だから(略)。
庵野 (略)ちょっと声優さんの話に戻りますけど、声優さんの肉声 って、唯一生だと信じていたんですよ。
野田 うんうん。
庵野 でもある日突然逆なんじゃないかと思ったんです。声優さんの お芝居に対して感じたことなんですが。
野田 うんうん、とってもよくわかる。
庵野 技術なんですよ、そこにあるのは。
野田 とってもよくわかる。肉を使っているはずなのに、肉じゃない。
庵野 ええ、そこにあるのは記号なんですよ。人の声をした記号。そう 思ってしまった瞬間にダメなんです。
と、いう記述を読んでハタと膝を打った。
これって、もしかしてモー娘。ファンの人たちにもいえるんじゃないの かな。ただし、だからアニメファンやモー娘ファンが駄目だと言って いる訳ではない。
そうではなく、モー娘。に生っぽさをあまり感じない理由の一つが わかった気がしたのだ。
モー娘。たちや、ハロプロプロジェクトの女の子たちが、ライブ映像や TVで声を張り上げる時、ある種のくせ、というか特徴があるような気が するのだ。それは、なんとなく、声が平板に押し出されているような 感じがするのである。
そして個人的には、あの声は一体誰に届けようと思って発している声 なのか、よくわからないのである。
いやもちろん、彼女たちが発しているのは彼女たちのファンに向けて であり、その勘定の中に私は入っていないと思うが。
でもね、彼女たちの演技とか、しぐさが彼らファンに向けたものなのだ とすれば、彼女たちのファンと言うのは、あまり生っぽくない声に対し て反応しているのかな、と思ったのである。
彼女たちはダンスもきちんとこなすし、歌を歌う時もTVでのカメラの スイッチングにもバッチリ反応する。完璧である。 そうかと思うと、普段の彼女たちの関係性が現れる場面では、素顔の 10代の少女たち、みたいな姿を惜しげもなく見せている。
もしかするとそのギャップにこそ、ファンがはまる理由もあるのかも しれないが。 でも、演技とは完璧な嘘をつき続ける事、ではないと思うのだ。
前にめちゃイケでモー娘。の修学旅行特番をやった時、その最後で ライブに岡村隆史が乱入する、という仕込みがあった。
そしてその時、岡村さんがセンターを取ったり、色々な事をしていた 時に、モー娘。メンバー達が思わず、ライブの途中で微笑んでしまった 事があった。でも、その後のモー娘。メンバー達の踊りって、TV画面を 通して見ていても、柔らかくなった、というか嘘をつき続けるレベル より、一段上のレベルに行っていた気がするのである。 いや、個人的な思い込みなんだろうけど。
でも、演技するってそういう事なんじゃないかな、と思うのである。 つまり、完璧な嘘をつくために自分の気配を消すのではなく、自分の 身体を通じて、役を膨らませる、とでも言えばいいんだろうか。
そして観客は、そういう肉体を通した演技だからこそ、自分の肉体を 通して、こちらの心に届き、感動するのだと思うのである。
そして、そのあたりに私が最近アニメやモー娘。には「萌え」ず、演劇 を生で見るのが好きな理由もあるのかもしれない。
ただし繰り返しになるが、だからモー娘。が駄目だと言っているわけ ではない。 そこには、ニーズに対するコンセプトの違いなんてものがあるのかも しれないし、実際生の舞台で彼女たちを見たら、180度印象は変わるの かも、しれない。
2004年06月08日(火) |
「喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな! 」 |
本日は読書ネタ。「喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな! 」 斎藤孝とくらたまこと倉田真由美の対談本である。
先日、斎藤孝の講演会に参加した時にもこの本について触れていて、 出たら早速読もうと思っていた本だった。 斎藤孝も倉田真由美も、この日記で何回も触れているように好きな 作家だし。
で、読んでみた感想は「正直、ちょっと物足りなかった」である。
この本の中で取り上げられている内容、例えば
・出会いがないのではなく、あきらめが早い ・自信のなさが見えると、女はしらける
・女性の場合は経験値の高さが裏目に出る ・男は女の目によって鍛えられないと、とめどなくダメになっていく 率が高い
・「通じる」「つながる」というのは本来非常な快感で、頭がいい という事はすなわちつながりを生む(文脈力)があるということ ・恋愛力をアップさせるのは、会話する力 ・喫茶店は、それだけでなくまた会話がからむ感覚を磨くのに最適な 場所 ・喫茶店で1〜2時間会話がからみ合う相手なら、どんな場所に出かけて 行っても楽しい
などなど、いちいちうなずける内容ばかりである。
そして、この本のメインのターゲットは男性ではなく、なかなか彼氏の できないイイ女、いわゆる酒井順子が言う所の「負け犬の遠吠え」層を 意識して書いているのも、よくわかる。
だって、この本を読む限り、いかに今の男性がダメ男、いわゆる「だめ んず」なのか、という事を書いているわけだ。だから、負け犬層の女性 は、あなたに彼氏ができない訳は、目の前の男共がだらしないせいだか ら、せっせと自分好みの男性に教育しなさい、と説いている訳だ。
ある意味、彼氏ができないのはあなたの男親のせいですよ、と説いて いる岩月謙司の、対極なのかもしれない? でも余計なお世話だが、これを読んで、そっかあ、と思って前向きに なる女性っているのかな?いや、もちろんいるんだろうけど。
話を元に戻そう。 でも、メインターゲットが私のような男性ではなく、女性だから、物足 りない訳でもないような気がする。
では、私は一体どの辺が物足りないと感じたのか。 と、考えている内にひらめいた。 昔、倉田真由美が斎藤孝を評して言った ように、「気持ちはいいがエロ スがない」のである。
エロス、といっても官能小説や、男性週刊誌のグラビアページや、エロ 特集記事のエロ、ではない。
以前に日記でも取り上げた河合隼雄が「こころの生態系 」 の中で 言っていた所のエロスである。 もう一回、その部分だけ引用すると
二十世紀を特徴づけた言葉は、「オペレーション」では なかったかと私は考えています。オペレーションとは「操作」の ことで、医学の世界では「手術」のことを指します。(略)
オペレートできるということは、こうすればこうなるという結果が はっきり出てくるということです。そして、望む結果に直接的に 結びつく知は、みんながほしがります。いち早くそういう知を 持った人が、それによって大きな利益を手にすることができる からです。
ところが、そうした傾向が頂点に達したところで、やっと反省 が起こってきました。それは、オペレーションの対極の概念と しての「エロス」を見直そうとする傾向と言ってもいいかと思います。
たとえば、私が誰かを好きになったとすると、そうした気持ちは、 なんとか操作しようと思っても、できるものではありません。 エロスほど自分でオペレートすることがむずかしいものはありません。
もちろん、そのために彼女にどう近づくかとか、どのように相手の 気を引くかというようなことはいろいろと考えるかもしれませんが、 一番の根本から突き動かしてくる情動というようなものは、どうする こともできません。
エロスは、このように理性ではなかなか処しきれない厄介なもの ですから、とても扱いにくい。それに対し、ロゴスの世界は、何ごと もきれいにオペレートできます。そこで、しだいにエロス抜きの社会 になってきたわけです(略)。
ところが、このごろになって、ロゴスだけで推進していくやり方では どうもうまくいかないのではないかということに人々が気づきはじめて います。エロスを抜きにして、何でもオペレーションだけでやっている と、しだいに破壊につながっていくからです(以下略)。
そしてこの本は、いわば恋愛というエロスあふれる題材を、オペレー ションの文脈で捉えている、という事に気がつくのである。つまり、 エロスをオペレーションという理性というか合理性で制御しようと しているんじゃないかな、と思ったあたりが、物足りなさの原因かも しれない。
でも逆に言えば、だからこそこの本は売れるかもしれない。恋愛本を 買いたいと思う人の動機で一番大きいのは、自分の中にある、もしくは 相手の心の中にあるエロスを、自分の思うようにコントロールしたい、 という欲求なんじゃないかな、と思うからである。 まあ、自分もそんな感じだったからよくわかる。
でも、個人的に今、思うのは、じゃあエロスを完璧にコントロールでき た人が、一番幸せなのか?という事である。
むしろ、自分の中で押さえつけようと思っても、なかなか押さえつけ られないエロスに振り回される瞬間に、よろこびを感じる人も多いん じゃないかな、と思うのである。
そして、経験的に「だめんず」を選んでしまう女の人っていうのは、 一見、負け組に見られがちだと思うんだけど、別の見方で言えば、 自分がエロスをオペレートできる相手、ではなく、オペレートなんて くそ食らえ、とばかりに自分のエロスを刺激する人を無意識の内に 選択しているんじゃないかな、と思うのである。
つまり、自分のエロスに対して素直な人、という事である。
そして、私が何を言いたいのか、といえば「それで別にいいじゃん」と 言う事なのである。自分の人生は一度きりなんだし。 その人がそれを選んで幸せを感じるのなら、別にいいのかなあ、と。
そしてもう一つ、エロスとオペレーションに絡めて、私の感じた物足り なさを書いてみる。
それは、せっかく恋愛論なんてエロスあふれる題材を選んでいるのに、 斎藤孝、倉田真由美両人の話が、一般論的なオペレーションの話に終始 して、自分のエロスを語る所まで「降りて」ない気がするのである。
つまり、会話から二人の身体をあまり感じ取れないんだよね。 で、エロスの話をして一番楽しいのは、「実は俺ってさー」と自分の 身体や経験にまで降ろした時が一番面白い、と思うのである。
だからかどうかはわからないが、二人の会話もいまいちかみ合ってない 気がしてしまう。これはその直前に、斎藤孝×美輪明宏のばっちり会話 のかみ合った対談集「人生讃歌」を読んだせいかもしれないが。
でも、これはしょうがない一面もあるのかもしれない。私が自分で 恋愛論を語ろうと思う時でも、自分のエロスを元に語るよりは、そこか ら一般論を抽出して、オペレーション的な文体で語る方が全然ラクだか らである。
そしてそれがネット上や、また自分の友人の前で私が自分の恋愛体験を 率直に語れない理由の一つなのかもしれない。 つまり、私は単なる自慢でなく自分のエロスを他人に語る文体を未だに 持っていない、という事かもしれない。
でも、エロスをオペレーションの文脈で語る、という事は、それが全て 説明可能であるという前提で語る、という事かもしれないと思うのだ。
でも、本当にエロスをオペレーションの文脈で語りつくす事は可能なん だろうか? 逆に説明しきれない、制御しようと思ってもしきれない自分のエロスと どういう風に向き合っていくのか、という所に、その人の持つ色気、 というものが出てくるような気がするのだ。
だからこそ、その辺ご両人は、とりわけ斎藤先生はどうなんでしょう? と聞いてみたくて過度の期待をかけてしまった、という傾向はあるかも しれない。
でも、倉田真由美も、連載や、TV出演の増えた最近より、以前の方が あけすけに自分のエロスについて語っていたような気がするのだ。 もちろん今のスタンスの方が求められていたり、売れるからかも しれないが。 あの頃、例えば「だめんずうぉーかー」初期や「恋愛市場主義」 での岡田斗司夫との対談の頃が懐かしかったりするのである。
佐世保市で小学校6年生の児童が、同級生を刺殺した、という事件。 マスメディア的には、それがインターネットの書き込みが契機となって 起こり、TVドラマの殺害方法を模倣し、愛読書に中学生が殺しあう 「バトルロワイヤル」があった事に注目して、物語というか意味づけを 行なっているようだ。
でもさ、子供の心がわからない、のではなく、わかろうともしてない というのもあるんじゃないのかな。 そして子供の心が発達してないんじゃなくて、それを取り巻く大人の 心が成熟してないという可能性もあるんじゃないのかな。
おそらくこの事件を養老孟司的に読み解くのなら、「加害者の少女は、 現実の死とヴァーチャルな世界の死の区別のつかない、身体性 の失われた『脳化社会』を生きているのであり、そしてそれは、何も この少女だけに限った話ではないので、同様の事件が今後も起きても 不思議ではない」なんて話になるのかもしれない。
そして、その考えでいくならば、結局現代に生きる私たちが、いかに 自分自身の肉体を含めて、身体性というものを置き去りにしてきている のか、という話になると思う。でも、いくら原因がそうであったとして も、それで死んだ女の子が生き返る訳ではない。一つの生命のかけがい のなさ、取り替えようのなさ、について思いをはせることが、こうした 事件の一番の教訓なのかもしれない。
さて、この事件と前後した頃、たまたま読んでいた本に、こんな記述が あった。 読んでいたのは、美輪明宏と斎藤孝の対談本「人生讃歌」。
美輪 型と同時に大切なのは、「変化」の妙です。(略) つまり、この地球の法則は「変化」だと思うんですよ。(略) だからこの地球上では、ものにしても人間にしても、すべての ものは変わっていくんです(略)
今言った「変化」が、音楽でも住まいでも、また着るものでも、 この世のあらゆることにおいて、とても重要な鍵を持っている ということですね。
今日、私が着ている衣装も、布地に凹凸を持たせた「襞」があり ますが、これも変化なんです。
斎藤 (略)人間は、そういう「変化」に心を沿わせていると、落ち 着いてくるということがあると思います。
僕は、布地などの「襞」の変化にも惹きつけられるところがあり ます。そのラインに沿って、見る人がつい視線をたどってしま う。見る人の心がゆるやかに寄り添っていくような動きが「襞」 にはあるんです。その「変化」が見る人を惹きつけるんですね。
人間の心にも、やはり「襞」というものがあるんです。感情の 「襞」と言ってもいいのですが、感情には当然、起伏があって、 その感情の起伏によって、相手とコミュニケートできるという 面がある。
ことにこの感情の「襞」というか、変化が大切だと感じたのは、 「ムカツク」という言葉を調べていたときです。ムカツク状態 というのは、感情の「襞」がなくなって平板になっているからだ ということがわかったんです。
(略)そういう子供たちは、言葉が平板なだけでなく、感情が、 美輪さんが言われたような建築物で言えば、灰色のコンクリート の打ちっ放しのような状態なんです。だいたいつねに灰色で気分 が悪いんです。彼らは、すごく気分がいいとか、すごく悪いと いうことはない。慢性的に悪いという。
つねに悪い方で安定している。だから、いつもムカツク状態だと 言います。そんなふうだから、彼らといつも接していると教師で さえもつき合いきれなくなってしまう。教師も、もう教える根気 が持てなくなってしまう。
そういう彼らを見たとき、「心の襞というのも、そういう『ムカ ツク』という言葉のヤスリでずっと削っているうちに、なくなっ てしまうんだな」と思いました。
彼らのべったりした感じの感性、それは感情の「襞」がない状態 なんです。
ちなみにこの本、本文中に美輪明宏の代表作「黒蜥蜴」も出てくるが、 まるで、マダムと明智小五郎の関係のように、お互いに尊敬しあい、 かみ合った対話のオンパレードである、と言ったら誉めすぎか。
また引用文中では省略してしまったが、これまた偶然?斎藤孝の「ムカ ツクからだ」という本が新潮文庫から今月発売されたらしい。電車の 吊り革広告で発見した。
で、引用文に戻ると、でもそうかもなあ、と思う。 いわゆる「閉塞感」って、何も変化がないと思うからこそ、自分では どうしようもないと思うからこそ、「ムカつく」のかもしれないし。
そうした状況だと思うことが、心の襞にヤスリをかけることだという のは、言いえて妙かもしれない。
私自身は、最近は逆に、よほどの事がなければ、ムカつかないし、キレ ない。それは仕事上、人間が相手で、しかも複雑にこんがらがってしま ったような身体を相手にして、それをほぐす事を生業にしていると、 結局、根気よくほぐして「変化」させるよりしょうがない、とも思う わけで。
そのためには、1種類の手法にこだわらず、多種多様の方法を身につけ ないとしょうがない訳で。
人間関係も同様で、キレてしまうのは一瞬だけど、キレないようにする ためには、やはり一本一本、少しずつ糸を手繰り寄せていくしかないん だなあ、なんて思うのである。ま、もしかすると、その分エネルギーは 消費している訳だけど。
でもね、この本の考えに沿っていけば、キレない心を作っていくため には、心に一見無駄とも思える襞を作っていくことなんじゃないかな、 と私自身も思うのである。
ここ2、3日、いつもよりちょっと早目に家を出て、明治神宮に立ち 寄ってから、駅に向かうようにしている。駅まで徒歩10分かかる所を 余計に歩いて20分強といったところだろうか。
さすがに仕事前なので、芝生にごろんと寝そべるのは遠慮しているが、 それでもこの時期、芝生の上を歩いたり、森のトンネルになった参道を 歩くだけでも充分気持ちがいい。
朝だと当然人も少ないし、何より空気が爽やかで気分がいいのだ。
考えてみれば、明治神宮のこの場所を私が「発見」したのは、自分が 浪人生で、近くの代々木ゼミナールに通っている頃、季節もちょうど 今ぐらいの頃だった。昼休みにちょっと立ち寄ってここを発見して 以来、勉強の合間に寝そべってはちょくちょくここで息抜きをしていた 事を思い出す。
ま、その後の人生を考えると、もう少し息抜きの回数は減らした方が 良かったかな、とも思うが、でもあの時、息抜きの場所を発見した 恩恵を今も受けているともいえる訳で。
最近、朝にここに立ち寄ろうと思ったのには、理由がある。元々、 自分の家から駅までちょっと遠回りすれば、行こうと思えば行ける 場所だったが、今までは逆にいつでも行けるからいいや、と思って いた訳ですね。
でも、それは違うんだなあ、と思ったのである。 もしも、明日行こうと思っていたときに雨が降ってしまっていたら、 この季節の晴れた日の爽やかさは、もう味わえない訳だ。
そう考えると、梅雨入り前のこの時期、明治神宮で爽やかな朝を感じる っていうのは、目茶苦茶ぜいたくな事なんじゃないのか?もしかして、 と思ったわけですね。
つまり、「今」しかないからこそ「今を楽しむ」というのも重要なんだ なあ、と改めて思うのである。
5月23日の日曜日、江戸東京博物館の新選組!展の最終日に行ってきた。 行こうと思った理由はほぼ日刊イトイ新聞のコーナーが面白かった事も あるが、何よりNHK大河ドラマの「新選組!」に最近ハマりつつあるから である。この大河ドラマ、久々に面白い。
三谷幸喜の脚本は、時代考証がいいかげんだ、とかそもそもコメディ 作家が大河なんて、とあちこちで言われ、本人も相当気にしているよう だが、脚本としては三谷作品としてみても、相当面白いと思う。
「彦馬が行く」「竜馬の妻とその夫とその愛人」という舞台を手がけて いることからもわかるように、三谷幸喜自身が、あの時代が好きなんだ なー、という愛情が伝わってくる作品だと思うのだ。
また、個人的には舞台系俳優のオンパレードなのも、うれしい限りで ある。三谷作品に野田秀樹が出演してるんですぜ。 その他、もう枚挙にいとまがない位、好きな役者のオンパレードなので ある。
これでまだ出てなくて、個人的に出てほしいのは、第三舞台系の役者さ んくらいかな。あと、役所広司とかもみてみたいなあ。
と、いう事で行ってきました、江戸東京博物館。 最終日という事もあり、すんごい人ごみで展示物の半分もちゃんとは 見られなかったけれど、ほぼ日で予習していたので無問題。
それよりは、近藤勇の着物の背中に入っていたという噂のドクロマーク とか、ゲペール銃(幕府側が使用していた銃。新政府側は、アメリカ から更なる新型のライフル銃を入手し、戦力的に圧倒した)の実物が 見られたことに感激したり。
また、ドラマ新選組!の予習というか、新選組の今後の展開についても ばっちり学習できたので、満足である。今まで永倉新八位までは知って いたけど、いまいち隊士一人一人の印象が薄かったのが、ドラマと重な るので、よくわかるのである。
あ、中村勘太郎はこうなるんだ、とか、堺雅人はこうなっちゃうの? みたいな感じで、2倍以上楽しめた気がする。
そして、新選組!展を見た後で、改めて大河ドラマを見ると、結構 時代考証をちゃんとやっているような気がするのである。 今後の大河ドラマの展開が楽しみなのである。
ちなみに三谷版では、池田屋の沖田総司はどうなっちゃうのかなー。
2004年06月01日(火) |
智慧の実を食べよう2 |
またまた先日の話である。斉藤孝の講演会の翌日、5月16日の日曜日は ほぼ日刊イトイ新聞主催のトークイベント「智慧の実を食べよう2 −学問は驚きだ−」 の日だった。昨年実際に会場に足を運んだ「智慧の 実を食べよう」の2回目である。
といっても今回は会場まで足を運んだ訳ではない。自宅のPCで、ストリ ーミング放送を見ていたのだ。しかも8時間! 自分でもつくづく乗せられやすいアホだなー、と思ったりして。
事の起こりは、今回のチケットが4日間で完売してしまった事にある。 行こうかどうしようか迷っている内に、売切れてしまったわけですね。
また前回は会場に行った分、前回も行なわれていたストリーミング放送 の副音声を、今回は聞いてみたかった、というのもあって、自宅で8時 間も、座ることにしたわけだ。はなまるキャスターの今泉さんの声 とか 好きなんだよね。
と、いう事で実際に8時間、PCの前で座っていた訳だが、さすがに会場 ではなく、自宅で8時間、講演に集中するのは相当厳しかった。
大体8時間連続してPCの前に座ること自体が稀だし。 最後の方は昼飯をちゃんと食べたにも関わらず、お腹が空いて半ば 上の空だったし(失礼)。
でも、ストリーミング放送自体は途中で何回か途切れることはあっても 別窓でブラウジングしてても何の問題もなく快適だった。 というより、集中して聞いていなかった事がバレバレですな。
でも、講演自体はとても面白いものばかりだった。詳しいことは機会が あれば、本が出版された時にでも書くとして、中でも一番興味深かった のは、冒頭の講演、山岸俊男氏の「人間の行方」だった。
お話自体は自身の著書「安心社会から信頼社会へ」「社会的ジレンマ」
をもとにした講演だと思うのだが、実際聞いてて、ほうほうとうなずき PCの前で身を乗り出し、メモまでとってしまったほどである。その後、 著書まで買ってしまった。大はまりである。
何が一番面白かったのか、かいつまんで書けば「正直者は馬鹿を見ない で一番得をする」ということである。これが実験で証明できるというの が面白い。
そして、信頼と安心はイコールではなく、なかなか機会を得ることが できないと人間は、社会的共感性が低くなりがちになり、人間関係に 敏感になり、人間関係で物事を判断するのに対し、機会に恵まれる人は 人を信頼しやすくなり、その代わりとしてリスクも背負うが、誰が信用 できて誰が信用できないのか、という見極める目を持つ、らしい。
ついでに言えば(言ってなかったと思うが)、一度や二度の失敗でクヨ クヨすんな、って言われてる気がして、おお、とうなずいたのである。
まだまだ面白いネタはあったのだが、それはまた今度にでも。 あ、ちなみに数日前の日記のタイトル「モノからヒトへ」は、同じく 講演を行なった岩井克人氏の講演内容からパクらせて頂きました。
糸井重里も言っていたが、8時間、それぞれ違う内容の講演内容だった にもかかわらず、通して聞くと何か共通した要素があるようで、とても 面白かった。いや、充分有意義な8時間でした。
ちなみに次回からはもしかすると、ストリーミング放送は有料で行なう かも、しれないらしい。確かに只で聞くにはもったいない内容だったが ちょっとさびしいかも。
ストリーミング放送の合間、休憩時間中に山岸先生が放送ブースに ひょっこりやって来て、糸井さん他と雑談を交わしていたんだけど、 その時ボソッと、「例えを使うとわかりやすくなった気はするんです けど、物事の本質からは逸れるんです」と言っていた。
うーん、そうなのかもなあ。 といっても、メタファーを使わない限り、他人に対してわかりやすく 伝えることができない気がする私は、今後もメタファーを確信犯的に 使い続けると思うけど(と、いうより、果たして私の話の本質を掴む 必要があるのか、という話もあるが)。
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