先日、キムチナベをしたときのことだった。 主婦としては、田舎の母が作ってくれていたキムチがそろそろ酸っぱくなってきていたのと、韓国の人が作った本格キムチを頂いたのでそれを早く食べたいとの目論見を家人に知られることなくいかにも美味しそうだからとナベを囲んだ。 いつもは、キムチは少量にして白菜などの野菜をたっぷり用意するのだけど、裏事情があったため大量のキムチをいためてなべに入れていた。 それを見た、我が家の主人は突然目の色を変えて大声を出した。 「キムチナベといったのに、これは漬物ナベではないか?」 「キムチナベに、白菜の漬物が入ってるなんておかしい。こんなのは食べたことがない」 と、怒り出してしまった。 「だって、キムチなべだもの、キムチが入っていて当たり前でしょ?」 「いや、ちがう。これまで自分が食べたキムチナベは、白菜の漬物など入っていなかった。あの赤い汁(キムチの素)と、だし汁(昆布でとった)だけが入っていて、あといろいろの野菜を入れて食べるのがキムチナベだ。こんなのはキムチナベじゃない」 と、いつもと違って、相当頑強に言い張りだした。 「でも、いつだったか、ちょっとすっぱくなったキムチをごま油でいためて入れるとそれがいい味を出すから韓国のキムチチゲはそうするんだって”ためしガッテン”でやってたんだよ」 と、私も譲らない。 でも、相手を怒らすと都合が悪い私は(だって、白菜キムチを入れすぎてるのは十分わかっていたから)ずっと下手に出てゆっくり、穏やかに話すのだ。 そのうちに、夫の言い分をよくよく聞いていてびっくり。 なんと、夫はキムチとはあの赤いキムチの素そのものがキムチだとこれまで思い込んでいたのだ。 そこで、”白菜キムチ”は、キムチで作った漬物つまり”朝鮮漬け”だというのである。 だから、キムチナベは”白菜キムチ”を入れると漬物を入れることになるからだめだと、いう論争になったのだ。 「でも、お店にキムチを買いに行ったら赤いキムチの素(唐辛子やその他いろいろ)がたっぷりまぶしてあるあれを買ってくるでしょ?あれはなんなのよ?」 そうきいても 「だからあれは朝鮮漬けだ」と、一歩も譲らない。私と息子はあっけにとられたが、最終的に 「ではちゃんと食事が終わってからインターネットで検索することにしよう」ということで、とにかく キムチナベらしからぬ漬物ナベを食べ終わった。 パソコン画面に現れた、キムチやキムチの素に夫は、呆然。 その納得のいかない様子を見た私と息子はこれまた呆然。 最後は何とか治まったけれど、これまで夫と住んで30年弱、夫がキムチを素そのものと思っていたなんてなんてこと・・・・ ほかにも、そんなことがあるのかもしれないと、得体の知れない感覚に襲われた私だった。 でも最終的に、残った”朝鮮漬け”はすっかり平らげられて私としては一石二鳥で作戦成功だったのだ。
まったく思いもかけなかった方からのお誘いで博多座で「新・近松心中物語」をみることが出来た。 まずオープニングにびっくりする。 そこは遊郭の中身そのまま。男と女そのままが広い舞台いっぱいに繰り広げられ、ひとつずつスポットが当てられる。 あっと息を呑むところをおいらん道中がゆっくりと進んでいくのだ。 忠兵衛と梅川が出合うシーンは一瞬凍りついたような緊張感が走り、そこから理性も道理もすべてかなぐり捨てて愛だけに走る男と女が現れる。 私にとって「隣のハイムさん」だった、幸せを貯金しに来る阿部寛は、そこになくかみそりのように削げあがった忠兵衛がいた。 大金をぽんと投げ出して身請けするシーン、それを身体中で喜びを表現する梅川そこからがクライマックスだった。 田辺誠一(与兵衛) お亀(須藤理彩)のカップルが3の線だけどとっても良かった。どう見ても頼りない、どうしようもない婿をこころからいとおしく思っているお亀の、はっきりとしゃべる言葉のなんとすがすがしいこと。 あの、2枚目路線の田辺誠一が、下帯一枚で何度も何度も魚のように水の中に、飛び込むシーンは「こんなに細い身体を毎回痛めつけるなんてなんてかわいそう、もう止めて」なんて、余計なことを思いながらもつい、おかしさで笑いが出てしまう。 最後の彼の台詞、「寿命が来るまで生かせておくれ〜」が、とてもよかった。 クライマックスの心中シーン。 会場全体に雪が降りしきる。 客の頭にも紙ふぶきの雪が次々に降りしきる。 なんてきれいで、透明に透き通っていて、汚れたものなど何もない。 梅川は遊女、忠兵衛は、御用金に手をつけたおとがめ者。 けど、そこにあるのはそれらすべてを覆いつくし真っ白に降り積もった雪、ただ愛だけに生きた二人の姿。 心中を遂げることで幸せをつかむことしか出来ない二人。 白い雪の中の真っ赤な衣装。首を絞めるシーンのなんと凄絶なこと。 もっと近くでしっかり顔を見れたらどんなに良かったかとふと思う私。 音楽のすばらしさ、セットの美しさ、森山良子さんの歌声のすばらしさ、すっかり感動に浸ってしまった。 Sさま。私ごときにこんなすばらしい機会を与えてくださったこと本当に感謝いたします。
昨日見たテレビに辰巳芳子さんが出ていた。 もう年は80歳をとうに越えてらっしゃるのだが、「かくしゃくとした」という表現にぴったりの方で内面からにじみ出る芯の強さと美しさを滲ませながらゆっくりとした口調で話されていた。 今、スープに力を入れていらっしゃるそうだ。 料理の基本は「出汁」だとおっしゃる辰巳さんは自宅でお弟子さんを取ってらっしゃるのだがそのお弟子さんたちは、全国から通ってきていて順番待ちをしている人が相当数いらっしゃるという。 今、私なんかは簡単で美味しいものというキャッチフレーズだけを追い求めてそういう料理書だけを頼りに、それよりもっと楽に楽に出来ないかと、楽に楽にを追い求めてしまっている。 そうすると、丁寧にすることをきらい、本当の食材の味を忘れてしまいそうだ。 彼女の言葉で、「あなたが愛する人のためにお料理を美味しくつくってあげたいと心から思うなら、簡単、楽になんて思うのはおかしいでしょ?本心からそう思うのなら丁寧に丁寧に、やるはずよ」外から帰ってきたご主人や子どもたちが今夜は何?と聞いたときに「何でもあるわよ」と、答えるのと、「これしかないわよ」と、答えるのとでは大違い。 「何でもあるわよ」と、いって御覧なさい。 そして、そこにある材料で、丁寧に作ってあげることです。 表現がちょっと違うのだけど、そんな風なことを言っておられた。 聞いていて、なにか涙が流れてきて、心が洗われた気分だった。 一度、彼女が書いた本を読んでみたい。 そして、心に感じるままの料理を作って見たいと切望した。 しかし、現実には、簡単に出来る炊飯器での「りんごのタルトタタン」を、作ってしまった私がいる。
近頃、うちのわんこがおかしい。 去年の夏の夜に雷がなって(それまでも何度も怖い雷があったのに、ちっとも怖がることなく、2階にあがってくることを嫌がっていた)夜中に2階まで上がってきた。 その日を境に毎日、毎日上がってくるようになり、同じ部屋の自分のベッド?で寝ていたのが、季節が寒くなって来た頃からは布団の中にもぐりこんでくるまでになってしまった。 毎日決して欠かすことなくだ。 これまでは、何ももってきていなかったのが、最近は赤いボールを銜えてくるようになった。 そのボールがないと、あちこち探し回り、見つけるとさも大事そうに銜えていき、布団の中に運ぶ。 夜中にふと目覚めて、下へ運ぶときもある。 そして又、同じように上へ運んでくるのだ。 それにつき合わされている私も家族も過保護だなあと思いながらも、仕方がないのでドアを開ける役を付き合ってしまう。 でもなぜ、その赤いボールが必要なのかはわからない。 夜眠るときだけ異常に探し回り、どうしてもそばにないと心配そうに探し回り、見つけるとそっと銜えてドアを開けてと普段出さない泣き声みたいな声を出すのだ。 いつまで、続くんだろ?
12月の中ごろだったろうか、血液型のことが新聞に載っていた。 昔から人は分類をしたがるのだが、テレビの番組(多分バラエティーか)でB型の血液型を特別扱いというか、いかにもB型だということで面白おかしく報道したらしい。 私は見ていないので内容など詳しくわからないのだけど、それがあまりに過ぎるというので当局から注意がされたという。 その記事を読んだときちょっとこころにひっかるものがあった。 今、又、占いブームというのかその手の番組が年末にも相当の視聴率を上げていた。(私はやっぱり見てないのだけど) 私の母などはかなりのファンのようで、夢中で見たようだ。 あの芸能人が彼女にお伺いを立てて紅白の衣装を決めたとか、その他いろいろのことを私相手に真剣に話すのだ。 うんうんと、聞きながらこういうのっておかしくないかと心の中で思っていた。ひとしきり話が終わったところで「そんなに夢中になるほどよく当たるの?」と聞くと母は、「そうだよ、ものすごく良く当たるんだから」と、興奮しているのだ。 でもねえ・・といいながら、私は母の楽しみを奪うことは出来ず、はっきりものを言うことが出来なかったのだけど、こういうのって宗教の洗脳に近いのじゃないだろうか? 見てるほうは、有名人がズバズバ切られてるのがひとつの快感に繋がるのだと思うけど、知らず知らずのうちに声高に切っている彼女を信奉してしまってるのだ。 母の様子を見てると私としてはそれもとても危険だと思うのだ。 この血液型と、占いブーム、根っこは同じのように感じるのだけど。
夫は昨日が仕事始めで張り切って出勤していった。 今年から新しい職種に変わって(配置転換)の第一日目だった。 それなのに、なんと会社を出てルートの1順目をはじめたばっかりで追突されてしまったそうだ。 信号で8台くらい止まっていて最後尾のところで後ろからやってきた車が信号が変わるや否やの見込み発進。夫は自分が前の車に当たったかと思わずひやりとしたそうだ。 特に怪我もなく車も痛みはほとんどなかったけれど後処理のために計画はすっかり壊れてしまい、とんでもない1日になったとすっかり落ち込んで帰ってきた。 自分が起こした事故ではなかったのが幸いだったけれど、ルート周りの仕事は家に帰ってくるまでが心配だ。でもこれはある種、厄払いだったのかも知れないと、自分に言い聞かせていた(なんといっても新年初日だものね) 暮れに実家に帰ったときに大きな大根をもらってきた。 なんと1本5キロ以上はある。 普通それほど大きい場合、中がだめになっている場合が多いのだけどその大根たちはなんとみずみずしく育っていること。 煮込んでもサラダにしても、お味噌汁に入れても、とにかくおいしい。 毎日毎日大根尽くしだねと言われながらも食卓に並べる。 けど、嫌そうにしないということはやっぱりおいしいのだ。 干さずにそのまま使った「大根のお漬物たくわん風」も、冷やして食べると酢が効いてとてもおいしい。 もうしばらく大根尽くしの日々が続きそうだ。
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