インスタントカメラから吐き出されてくる針となにものにも構わずにしみこんでゆく頭蓋と青い卵から生まれるまっさらなまっさおなひよこのくちばしをぜんぶ足して三で割ってみるときっといまの景色(きんぶちの窓の向こうの更にその柵の向こうのね)がみえるはずなのだ。
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此処のわたしは「かげ」というよりは「別人」のようなものと認識している。そうやって分けておいた方が楽なのだ、少なくとも俺はね。なんというか、それぞれの場所における役割分担みたいな。教室と部活の違いみたいな。要するに、此処においてもわたしはわたしでしかない。
酸っぱいものが結構好きです。レモンも結構好きです。唐揚げとかによくついてくるのを、絞り汁とかじゃなくて櫛切りになっているのをそのまま食べていると、なんか変な子に視得るらしく話しかけてもらえます(それでいいのか)。いや、普通に好きなだけなのだけれども。
じぶんの、ことばのバリエーションが少なくてなきそうになる。どうもだめだ。文の最初と最後がなってない。みんなおなじにみえてしまうし、はっとさせるような書き方もおもいつけない。ありきたり以下だなあ。
この作家が好き、この画家が好き、etc.というのは確かに傾向としてあるけれど、おなじひとが造ったものでも、これはわたしに響く、これは響かない、というのがあるよね。それは、ただ単に、こちらが「響く」体勢に居ないからということもあるし、体質的に合わないというものも、ある。いろいろ。
取り敢えず、全部が全部、響くわけではない。それはこう、なんていうか、当然のことの様な気がするのだけれど、狂信者みたいなタイプのひともこの世には存在するわけで。まあそこいらのことは俺はよく理解出来ないけれど。
傾向、だけで語ってしまえば、「時間の止まった様なもの」に、惹かれる傾向には、ある。ようだ。言葉足らずだが。個別具体名をあげるとすれば、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』とか、『羊男のクリスマス』(佐々木マキの絵も惹かれる)とか。あと、挿絵がきれいなもの、文章が詩的なものに惹かれる傾向も、ある。な。
それから、ものすごく抽象的で、普通に意味が全然分からないのだけれど、ただ惹かれる、ということが、結構ある。なにがどうなのかまったく説明できないのだけど、すきなのだ、そういう場合。本当にまったく説明出来ないので、すこし困って、途方に暮れたり、しているのだけれど。
いつか聴いた「中華料理」が耳についている所為なのか、山崎まさよしは食べ物の歌ばかり造っている様な先入観が。ある。ちなみに全然じっくり聴いた事はないんだけど。なんとなく。
最近、相方が歯の治療に奔走していた。奴は虫歯になり易いらしい。ところで、最近の虫歯治療って埋めるの銀歯じゃないんですね。セラミック?だったか。歯の色にすごく近い色の。治療してもあんまりわからないね。俺はと言えば、乳歯にしか虫歯をつくった事はないです。なので歯科治療が進歩していたのを知らなかった。銀歯に替わるものが出ていたとは。
ちなみに今虫歯ゼロなのは歯医者の定期検診に通っているからですっていうかそこ小児歯科なんですけどね昔から行ってるから。うん。何時迄通っていいんだろう。只今絶賛親不知生えかけなので、それがおわる迄は取り敢えず行っていると思われますが。親不知は多分抜きません。真直ぐ生えてきてるらしい。手のかからないこだ。
風邪がちょっと長引いた。周囲の奴等ほど高熱は出なかったし軽い方だったけど、長引いた。試験期間だったのでちょっと参った。明日ひとつ試験と補講やったら終わりだーあー。やたー。まあ授業は未だあるんですけどね三月十日あたり迄。
カメラが壊れたんで先月の二十一日に修理に出したんだけど、そんで見積もりのTELが来たのが先月の二十六日なんだけど、まだその後の連絡が来ないんだけど、まだかなあ。
ちょっと風邪気味。あたまがぼんやりする。
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犬派か猫派か、ということ。近頃、周囲がわたしのことを「猫」だと認識しているらしい。どこいらへんがそうなのかというのは詳しく突っ込んで聞いてはいないのでよくわからないのだが、一般的観点で考えれば、わがままで、気分屋で、個人主義、といったところだろうか。反論させてもらえば、わがままで気分屋な犬も存在するわけだが(まあ個人主義の犬は居ない様な気もするけれど)。さて置ききっとそんな風に思われているのではと推測。そしてあながちはずれてもいない。というか、そういうふうに生きたいのだ。先の事なんて考えずに、お腹が一杯になったらすきな処でひなたぼっこしてねむりたい。欲しい時に欲しいものを捜して、きらいなものをきらいと言って、逃げたきゃ逃げて、立ち向かいたかったら立ち向かって。憂える事無く毅然として今日を生きたい。たぶん、そういった希望(そして少しの実践)が外に発露しかけているのだろうと思う。特に「猫」とは思っていなかったけれど、一般的な概念に当てはめればそうカテゴライズされる部類の希望なのだろう。きっと。
ああ、ひとつだけ直接「猫だね」と言われた事がある。飲み会の席で、「どう死にたいか」という話題が出て。年老いて死期を感じて、身の回りのものをすべて処分し、自分という存在が存在しなかったかの様にしてから縁側でひなたぼっこし乍ら死にたい、とか結構わけのわからないだろうことを言ったら、そう。それが猫かどうかは置いておいて、だってねえ、急に事故とかで死んだとしよう、そうしたら身の回りのもの全部遺すことになるわけで。日記とかサイトとか全部。こう、なんだ、耐えられない。遺すにしても、体系づけて、必要なものだけ遺したいし。ごった混ぜのが遺されてしまうのは、恥ずかしいというか。自己が居ないのに自己主張が続けられてしまうのがなんとも言えないというか。わたしの遺したモノがある所為で、遺された人がわたしの事を思い出してしまうのも、ちょっといやだ。それだったら自分ですべて始末しておきたいと思うのだ。わたしの存在なんて忘れ去ってくれればしあわせだと思うのだ。忘れ去って、そしてしあわせで居てくれればいいと、思うのだ。