うん。昔から不思議なのは、なぜ皆、「医者の子は医者になる」とか「医者の子は頭がいい」とかおもっているのだろうってこと。医者の子はピグマリオン効果で育っているところが無きにしもあらずだ。まあでもはっきり言って関係ないよ。俺自身そうなんだが結局こうして文系に来てるわけだし。でもなんでだろうね、親と俺は全く別の個人なのにね、大人は「医者の子だから」と大目に見たり期待したり過大評価する。それが心地良かったり便利だったりしたこともあったのは事実だけれど、逆に言えばなにか下手なことをすれば「医者の子なのに」といわれるわけで。これ、きっと他の職業、たぶん国会議員とかそこらへんにもあてはまるとおもうんだ。理不尽だよね。生まれてきた家庭によって人生が左右されたりするのだもの。
世間は他者を枠に嵌めて見たがる。何故ならそうしたほうが単純でわかりやすいから。けれど人間がわかり易いものな訳無いだろう。安易に「このひとはこうだ」なんて決めるものじゃないよ。ねえ。そして、その枠に嵌められることによって「ほんとうにそうなってしまう」ことも多いわけで。「この子は犯罪をするだろう」なんて目で視ていたら、そりゃあその子も捻くれたくもなるだろう。まったくラベリングをしないで生きる、ということはすこしむずかしいけれど、常にそれが引き起こすであろう可能性をあたまの隅にでもおいておくことが必要なのじゃないかと。おもうわけで。
さいきんぜんぜんだめなのだ。何時の間にこんな醜くなったろう。手より足、足より歯だ。ね、そうだろう?
おなかがすいた、お寿司がたべたいよと駄々をこねるわたしはたぶんずっとかわっていない。
関係無いのだけれどブログという形態はすこし苦手だ。見ている分にはいいのだけれど。双方向のコミュニケーションが取り易いが故の軽々しさとかしがらみのようなものとか。たぶんというか明らかにコミュニケーションをとるのが得意でないわたしには出来ない形態だろうなあと。おもう。
死ぬとか死にたいとか死ねとか。聞いているだけで不快になってしまう俺の方が今の若者っぽくないのだろうか。なんでそんなことばが氾濫しているのか。わからない。そしてそういう環境にいるとそれに染まっていきそうでとても厭だ。とてもいやだ。じぶんの命を削って迄他人の命を助けようとしているひとがいるすぐ傍でそんなことを。いえるというのか。
先週は部活の合宿だった。俺は今二年生なのだけれど、三年生は今回の合宿が最後の合宿になるので、最後の夜に出し物をした。劇、とかそういったものはあまり得意でない。喋ろうとすると吃るんだよね!寧ろ日常的に口がうまく廻らない。かといって別段早口言葉が苦手と言ったわけでもないのだが。得意でもないけれど。
いつもこう、語尾をですますにすべきか、だ、であるにすべきかでちょっと悩む。敬体と常体。たまにどうでも良くなって、混ざる。意識しないと敬体になるのは何故だろう。