きりんの脱臼
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ここは、なかはられいこ(川柳作家)と村上きわみ(歌人)の
コラボレーションサイトです。(ゲスト有り)
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乾かない昨日の水着はくようだ淋しさだけで重ねたからだ 望月浩之
がまんできないことっていうのは世の中にたくさんある。 穫れすぎたキャベツみたいにそのへんにごろごろ転がってる。 ほったらかしにされて。 なかでも、湿ったままの水着をつけなきゃいけないケースっていうのは、 上位にランクインされることまちがいなしだ。 サイテーだもの。
ふだん外気に晒されたことのない皮膚に、 じとーっと冷たい布が触れる、あの瞬間。 ほんのかすかになまぐさい匂いが立ちのぼる。 まるで爬虫類かなんかと肌を合わせているみたいでぞっとする。 ああ、思い出すだけでも全身に鳥肌が立つよ。
*
悪かったわね。 乾ききれてなくて。 だからってそんなに嫌わなくてもいいじゃない。 右の足を通るとき、思いっきり顔しかめたわね。 続いて左の足を通るとき、ふかーいため息をついた。 ええ、ええ、悪かったわよ。 あたしだってこんなつもりじゃなかったんだから。 あなたが身体を押し込むのに苦労しなきゃいけないほど、 カラカラに乾いてきちんと縮んでいるつもりだったんだから。
湿ったあたしの内側があなたの乾いた肌をじっとりと包みこむ。 あなたの体温であたしはゆっくりとあたたまってゆく。 そして、ほんのかすかに水蒸気が立ちはじめるころには、 あなたはあたしに親しんでさえいるんだわ。 あれほど不快だったはずなのに。
「やれやれ、なんてやっかいな……。」 って思ってる? 生乾き 朝の線路も樅の木も なかはられいこ
いちめんの雪になります 閂をかけたりはずしたりするうちに 村上きわみ
彼女の部屋には窓がひとつだけあった。
僕がはじめて彼女の部屋に招待されたときに気が付いた のは、本棚に飾られた写真立てと(写真のなかの彼女は 僕の知らない男と、とてもうれしそうに笑っていた)、 窓のすぐ外を窓とほぼ同じ高さで坂道が通っているとい うことだった。お茶をいれている彼女を待つあいだ、ひ とりでベッドに腰掛けて、写真立てのなかのふたりを眺 めていると、窓の外を黒長靴がのぼっていった。
それから僕はその部屋のその窓から、いろんな靴が登っ て行くのを見た。あるときはお揃いのスニーカーであっ たり、あるときは革靴とハイヒールだったり、またある ときは大きい靴と小さい靴ともっと小さな靴ふたつとい う組み合わせだったりした。そしていつしか本棚に飾ら れていた写真立てはなくなって、かわりに見慣れたもの が彼女の部屋に増えていった。そして、その見慣れたも のが部屋を満たす頃には僕はほとんど彼女の部屋には行 かなくなってしまった。
ある寒い冬の夜、坂道の途中で僕は彼女の部屋の窓を叩 いた。「誰?」どうやら彼女はひとりで部屋にいたらし い。窓からではなく玄関から部屋に入れてもらい、少し 雰囲気が変わった彼女の部屋でなにも言わずに彼女を抱 いた。彼女もなにも言わなかった。 ただそれだけだった、もうそこにはなにもなかった。僕 はまたひとりで寒い冬の夜に帰った。
玄関を出て、彼女の部屋の窓の明かりを足元に見ながら、 もう僕は彼女の部屋の窓の外を登る靴のひとつなのだと 知った。立ち止まり窓をノックしてはいけないし、窓は もう開かないだろう。
乾かない昨日の水着はくようだ淋しさだけで重ねたからだ 望月浩之
あと2ミリ下げれば冬は完璧 なかはられいこ
のどの奥の粘膜まで凍ってしまいそうな夜だったので、わたしはジャックを呼 び出すことにしたんだ。ジャックは有名人だ。みんな彼のことを知っている。
All work and no play makes Jack a dull boy.
ジャックを有名にしたことばだ。このことばで「dull boy」にされてしまって から、ジャックは結構荒れた。まあ、荒れたといっても、下級生を体育館裏に 呼びつけてメロンパンを買ってこさせるとか、下駄箱の上履き用の棚にわざと 泥だらけのスニーカーを突っ込むとか、その程度なんだけど。
「やあ、キワミ、ひさしぶり。どうだい、今日の俺はクールかい?」 ローソンに並んだ雑誌のタイトルを左から順にメモしていたわたしの肩を突つ いて、ジャックは言った。からだを妙な角度に傾けているのは、わたしの背後 の棚にある「週間宝石」の表紙を確認しているからだ。「週間宝石の表紙には ある特殊な美意識がある」というのが彼の口癖だ。今もそれを言いたくてうず うずしているようだ。 わたしは「いまどきそんな口調で話すやつはいないよ」と言いたいのをぐっと こらえて、ジャックを軽くハグした。彼は誰かにハグされるのがなにより好き だからね。
「あのねジャック、のどの奥まで凍りそうなんだ。完璧に凍ってしまう前に、 ジャックをそばにおいておきたいと思ってさ。あたたかくて甘いものと、われ らが“Jack a dull boy”が必要なんだよ」 わたしがそう言うとジャックは、まるで赤の広場でムームーを着ている人に出 会って、服装について質問すべきかどうか迷っているロシア兵のような顔つき になった。それからせき払いをひとつしてこう言ったんだ。 「まったくもってお前はファッキンシットな女だよ、キワミ」
そんなわけで、この冬わたしはずっとジャックを携行している。会話は相変わ らずおかしな感じだけど、まあまあうまくやっていると思う。とにかくのどは 凍らずに済みそうだしね。
いちめんの雪になります 閂をかけたりはずしたりするうちに 村上きわみ
蜂蜜のきんいろ(朝のおわかれの儀式のための)きんいろの蜜 村上きわみ
かりかりに焼いた薄めのトーストと、 大き目のマグカップになみなみと注がれるコーヒー。 それだけあれば朝はなにも要らない。
舌を妬くほど熱いコーヒーをひとくち飲む。 バターナイフとトーストを手にとって、 室温でほどよい柔らかさになったバターを、 焼きたてのトーストの上に薄くひきのばす。
生まれたばかりのきんいろの光が窓から射し込んで、 ガラスの灰皿のふちでくるくる踊りながらとどまっている。
ねえ、 もしも、あのとき。
……いや、よそう。 世界がたったひとつっきりだなんて、 この世界以外の世界が、どこにも存在しないなんて、 ぼくにはどうしても納得できないから、さ。 たとえば、このあとぼくは、 犬を連れて公園に行くか、 犬の散歩はあとまわしにして先に図書館に行くか、 いまだに決めかねている。
こっちの世界で公園を選んだぼくの他に、 図書館を選んだぼくもどこかに存在していたってぜんぜん不思議じゃない。 そして公園を選んだぼくと図書館を選んだぼくとは、 あまり大差ない一日を過ごすか、 あるいは決定的にちがう一日を過ごす。 結果的におおきな差異が生まれようが生まれなかろうが、 おたがいに知るすべはなくて、 「それ」を受け入れながら暮らしてゆくんだ。
結局、この世界のぼくたちはこの世界のぼくたちでしかありえないんだから。 だから、この「さよなら」をとびっきりだいじにするよ。 いまごろどこかで「こんにちは」を言い合ってるかもしれないふたりのためにも。
読み終わった新聞をたたみ、 膝のパンくずをはたき、食器をシンクに運ぶ。 とにかく外はすばらしくいい天気だ。 ぼくは公園に行ってもいいし、図書館に行ってもいい。
あと2ミリ下げれば冬は完璧 なかはられいこ
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