あお日記

2002年10月31日(木) 退職直後


 退職直後の数日はとても忙しかった。まず入院前に行った大学病院へレントゲン写真を返しに行った。朝のラッシュを避けて午前も遅くなってから出発した。入院前の生活では考えられなかった電車内の静けさ。冷ややかな冷房の風と相まった穏やかな陽射しの差し込む車内はすでに夏のような服装の人々が黙して座り、自分もその中に溶け込んでいる風景であるはずなのに、なにか自分だけそこに居てはいけないような感覚に襲われるのだった。

 次に行ったのが卒業した高校。実は卒業後は専門学校への進学が決まっており、当面の入学金等も納めていた。気が変わって入学は取りやめて予備校通いを決めたので、ただでさえ親に金を使わせることを嫌って決めた進路だったから、その返還を求めたい訳だった。たまたま私の母校に専門学校協会の理事をやっている英語の教師がいたので彼の口利きで滞りなく上手くいったのだ。その礼も兼ねて顔を出さねばならなかったのだが、その直後に入院して間が開いてしまったのだった。
 その帰りに部室へ寄った。実は卒業後も何度か顔を出していたので久々にやってきた感慨などはなかった。見舞いに来てくれた舞ちゃんや住吉より心配してくれていたらしい(笑)ハマちゃんの大げさな喜びっぷりは相変わらずで、そのとっても変化のない、以前に経験した目の前の光景に嗚咽も出ないくらい完膚なきまで打ちのめされた感じだった。それを望もうと望むまいとに関わらず、やはりこの部室は私の中で変化なく存在して、その後もしばらく私を縛りつける場所だった。そこはとても落ち着く場所だった。いっちゃんが去ってもなお。それを認め始めたのがこの頃だったかもしれない。

 退院後も1週間ほどは安静状態を命じられた訳だが、そんなことは構いはしない。何より私ははやく自分の荷物を引き取って自宅の部屋へ戻したかった。何もない部屋のベッドに横たわっていると決まって思い出すのはロンのことだった。目の前にお気に入りの体温のない生活はとても苦痛だった。
 1週間と明けずに下宿先へ父と行って荷物を引き取った。その日も所長の態度は相変わらずで、父の手前である乾いた私への賛辞がやけにいまいましかったものだ。結局臨くんとはその日も会うことはなかった。それがしばらく心残りだった。

 そして落ち着く間もなく嶋さんへ手紙を書こうと思ったが、急ぐ気持ちとは裏腹に、筆は一向に進んでくれずにいた。




2002年10月30日(水) 退職


 退院してすぐに専売所へ顔を出した。たったの2週間ではあったがとてつもなく長い間そこへ足を運ばなかったかのように気が重く、なにか後ろめたい感じだった。所長をはじめとして店の皆に迷惑をかけた気持ちがあった。入院中に一度電話を入れたのだが、その時に中年配達員のカンさんが困ったように私に言った。

「あいつ、店の金持って逃げちゃったよ」

 あいつ、とは例の偉そうに御託を並べた「兄貴」である。その去り際は彼の言葉の説得力をそのまま証明していた。ただ彼が去っていったそもそもの原因は私が突然リタイアして仕事を休むことになったからだ。カンさんは「取りあえず店は大丈夫だ」と言ったが、己の無力さ加減に追い討ちをかけたようだった。

 所長に会うまで私は自分の進退について迷っていた。このまま新聞配達を続けるべきかどうか悩んではいたが、かなりモチベーションは下がっていた。

 梅雨前のカラっと晴れたその日、昼頃現地へ着いてまず私がやったのはアパートの集合ポストの確認だ。2週間といえば嶋さんの返事が来ている可能性が十分あったからだ。幸いポストの中に目的物は確認できなかった。取って返して店に顔を出し所長に一連の不始末を詫びた。が、彼女は予想とは裏腹に穏やかな物腰でありながら他人行儀な物言いで私に応対した。それは私を追い出すための暗黙の了解のようだった。今思うと私の配達部数はかなり無理のある量だった。入院との因果関係を問われる前に消えてくれたほうが所長としても有り難かっただろう。

 そういった雰囲気を悟った私はそれ以上何も言えずにその場を辞して部屋へ行った。困ったことに鍵を忘れたので1階の窓の屋根に乗って泥棒のように2階の窓から侵入した。その部屋は私の必要最小限の私物しかなかったが、私の代わりにやって来たという配達員によってすでに使われていたのだった。そういった神経にはとても着いていけない、もうその部屋は私の居場所ではなくなった。

 荷物の引き取りを後日にして取りあえず全ての荷造りを行った。帰り際に奨学生の臨くんの部屋をノックしたが反応がなかった。当然彼は予備校へ行って留守の時間だった。




2002年10月29日(火) 白衣の天使?


 入院はたったの2週間だったが、高校卒業からここへ来るまでの間はとても時間に追われて生活していたので、入院生活の大半は眠っていたに関わらずとても長く感じた。1週間も過ぎると病院のリズムに合わせていた生活も狂い始めた。昼間の睡眠のおかげで当然のように夜眠れないようになった。

 消灯は午後9時。それを過ぎるとナースがやってきて強制的に明かりを消していく。あの日はナースのBさんがやってきて、一言二言の世間話をするとスイッチを消していった。

 その日は特に眠れず、何もない病室の天井をただ眺めては寝返りを打った。あまりに眠れないので水分補給に立ってそのままベッドに腰掛けていた。すると夜の巡回で部屋のドアを開けたBさんと暗がりの中で目を合わせた。彼女はとてもスリムだが痩せ過ぎという訳でもなく、ただ胸は小さかったらしい(笑)。年は20代後半だったか、当時の私からすればとても大人な彼女は特に美人という訳でもなく外見に派手さもないが、何か艶めかしい話し方をする人で、その気さくな人柄に好感を持っていた。

 そんなBさんに誘われてナースステーションへ行ったのが午前2時頃だった。お茶をごちそうになりながら世間話をしていた。するとひょんなことから話題が女性の体のことや恋愛のことになっていった。そういったことに慣れていない私はだんだんうつむき気味になっていった。それに気付いた彼女は目を細めて楽しそうに微笑んでから「こういう話、苦手なんでしょ?」と言った。苦笑いを浮かべた私に彼女は少しの間を置いてから付け足した。
「かわいいわね。新鮮だわ。」

語尾が恥ずかしげにひとり言と化したその言葉のおかげで、結局私は病室に戻っても朝まで眠れないのだった(笑)。




2002年10月28日(月) 見舞い客


 まずやってきたのが母の弟である叔父さんだった。当時としては晩婚の部類であった彼は私たち姉弟の相手をよくしてくれた。その記憶は父のものよりも明らかに鮮明で、小学校5年生あたりまでは一族が平穏な日々を送っていた。
 叔父と私の父は同業であったが、叔父の独立を機に絶縁状態になり、かれこれ7年ぶりくらいの再会だったように思う。久しぶりに会った彼は太っていた(笑)。

 次にやってきたのが暇を持て余していた?ラザと山ちゃん。突然のことで友人たちに連絡出来ずにいたので、彼らの訪問は唐突だった。どうもタケダから母に連絡があったようで、当時の情報棟であったラザの耳に入れればそのまま各方面へと情報が流れて行った次第であろう。
 寄ってきたコンビニで運転を誤りボンネットを潰してしまった、とまるで他人事のように明るく話す彼らのほうが心配であった(笑)。

 入院から1週間ほどがたった。何かと目をかけてくれ、気さくに話すようになったナースのBさんが昼頃に私を呼びに来た。病室を出るとすぐ玄関なのだが、「訪問者」と呼ばれた輩がいないのでロビーから身を乗り出して外をうかがった。程なくして現れたのが舞ちゃんと住吉だった。彼女らは周さんの車で来たと告げただけだったが、全く予期していない彼女らの訪問を素直に喜ぶ気持ちと裏腹に、結局姿を現さなかった周さんの存在を不気味に思ったものだ(笑)。

 最後に来たのがタケダだった。彼は私と同じで新聞配達をしていたので週1の休みの日にわざわざ都内からやってきた。私が脚色のない本音を吐露できたのは彼に対してだけだったように思う。こんな形で挫折してしまった自分の不甲斐なさへの弁明が私の彼に対するその態度だったか、そこで私は自分以外の人間にはじめて「気力がない」旨をポツポツと語った。ただこの頃にはもう胸の痛みはなく、肺から空気が漏れそうにない状況だったが(笑)。
 

 タケダが来た次の日に、彼が持ってきてくれたメロンを食べた。あれは私の生涯で未だに最も美味いメロンである。そして彼の置き土産である村上春樹の「ノルウェーの森」の上巻を読んでみることにした。「主人公があおちゃんみたいだから読んでみてよ」という台詞を残して。


来てくれた人々のおかげで退屈だった入院生活にも彩りがあったように思う。わずらわしい虚無感から開放してくれるひと時であったが、彼らの励ましを重荷に感じた自分がいた。




2002年10月27日(日) ノート 


 入院はその病院に1つしかない個室となった。病院側も年寄りばかりの大部屋に私を入れるのは忍びなかったらしいが、それをありがたく思ったのは入院して1週間もたった頃だったように思う。ベッドでただ呆けて横になっているだけで数日が経過していった。

 持って帰宅した英語のテキストと辞書が当面の勉強道具だったが、ノートがなかったので母が来る日に持参してもらった。図らずも、高3の春で止まっていた日記の続きがそのノートに記されていくことになる。この頃から続いた本格的な無気力状態の中にあってこのノートは、私の中を垣間見る雄弁な語り口で今も手元に存在する。このエンピツ日記を書き終えたら焼こうと思う(笑)。

 ノートにまず記されているのは退院後のごく近い予定とその後の学習計画だった。昔から計画を立てるのは好きだったが、こと学習に関してそれが成就したためしはなかった。けっこう飽きっぽいのである。それはともかくとして、色々な選択肢をただ宛てもなく書き留めてある紙面は当時の私の混乱ぶりをよく示している。心が身体に宿っていないような感じで、浮き足立っていた。

 「大学へ行く」という漠然とした目標について考え直す日々が続いた。




2002年10月26日(土) 失意


 朝刊を配り終えた後、高校の頃から見慣れている列車に揺られていつものように自宅へ帰った。地元の診療所へ行ったがどうも判然としないので大学病院へ行くことになった。所長に連絡して月曜も休みを取り、B医大へ行く。よく晴れた早い夏を感じる暑い日だった。この頃になると特に夕刊は半袖シャツでも汗をかくくらいで、配達後はすぐに銭湯へ行ったものだ。

 診断は「肺に穴が開いている」というものだった。特に若い細身の男子に多い症状らしく妙に納得した(笑)。症状としてはそれほどのものでもないが、主治医は「自宅で絶対安静」か「入院」を迫るもので、それは私自身に判断させる風ではなく、付き添いの母に対してのものだった。こういう所が未成年たる所以なのだが、自分で判断して動けないというのはとても情けない図である。

 結局、地元の病院を紹介してもらい入院することになった。生活に必要な道具を、あの時の場合は勉強道具や嶋さんへ手紙を書く便箋やら筆記用具などだったが、それらを部屋へ取りに行く暇もないままその日のうちに入院手続きとなった。とりあえず手付金として十万円を事務室に納める母の姿を見ていて、言い様のない虚脱感に襲われるのだった。これ以上ない親の庇護。親の手を煩わすことなく独力でやっていくことの難しさを素直に受け入れることは出来なかった。図らずも自分の選んだ道は、己が力量を具現して余りある結果に終わった。
 



2002年10月25日(金) 変調


 5月の末。ここのところ自習には付き合わなくなりがちなタケダと勉強後に合流して街を宛てなく徘徊した。街の放つ熱気は湿気含みのパラダイス。駅前は週末ともなると某大学のサークル関係の待ち合わせでごった返す。人とすれ違えばその汗を感じるほど近く、そんな中を掻き分けて通る不愉快は何時しか麻痺して何とも思わなくなった。

 あの日は土曜日だったと思う。待ち合わせ時間に予備校へやって来たタケダに促されて、外へ出る前に洗面所へ寄った。そこで水分補給をするため蛇口に身をかがめ、水がのどを通過した瞬間に胸部で痛みがはしった。

 今まで感じたことのない痛みだ。驚きはした。ただ堪えられないほどでもない。側で私を見ていたタケダにもそれほど深刻な様子には見えなかったことだろう。その証拠に、我々はいつも通りに牛丼屋で腹ごしらえをしてからゲーセンに繰り出したのだ(笑)。そこで私は座席の稼動するゲーム機の中で「いたいいたい」と言いつつ揺れるテスタロッサの運転をしたのだ。この時点では本人も「一晩眠れば治るだろう」くらいにしか考えていなかった。それはとても不毛な普段の夜と変化ない光景だったはずだ。

 果たして翌朝も、その痛みを抱えて日曜の朝刊を配った。




2002年10月24日(木) ひとり

 4月の半ばごろから兄貴肌の配達員が店に加わった。必要最低限のコミュニケーションしかする気の無かった私は彼に限らず、ほとんど自分から話しかけることはなかったが、彼らはそれを「おとなしい」という罪のない評価に落ち着かせてくれた。

 私と同期の奨学生である臨君は私とは全くタイプの違う人間であったが、単身で同じような環境に身を置くことになったその共通点が時に私の決意をぐらつかせる事もあったか。私は彼が毎日の生活に不安を覚えていることも知っていたし、店の従業員たちと上手く立ち回れない姿もよく分かっていた。それでも私は何もしなかったし、彼に声をかけることもなかった。とある朝刊配達後に私が珍しく彼の分の目玉焼きを焼いて渡した時、あの時の彼の素直な驚き様が、いかに私が無為に彼と交わらなかったかを私自身に示した瞬間であり、正直ゾっとする刹那だった。

 5月に入ったある日、薄明の中部屋から降りてきた臨君の顔に青アザが痛々しく残っていた。どうも「兄貴」と前の晩にやりあったらしい。これで彼が奨学生を辞める決意はより強固になった。私は彼の子供な言い分には賛同できなかったが、理解はしていた。だが「兄貴」のさも理論立てて自分を正当化し自尊心を満足させたがるその利己的な態度が好きではなかった。

 まあどちらにしろ、当時の私にとって人間関係の構築になど何の興味もなかった。それは社会というものがどのようにして成り立っているのかを無視した態度であり、自分の幼稚さを否定できない証明となった。

 ひとりで生きている気がした。
 ひとりで考えている気がした。
 ひとりで苦しんでいる気がした。
 ひとりだけ違う人間のような気がした。

 それでも、自分が「孤独」だと思ったことはなかった。そんなものが欲しかった訳ではないからだ。自らを「孤独」と認める人間が兄貴のようなヤツよりも嫌いだったからだ。


 まあ今思うと、臨君より先に私のほうが辞めるとは思わなかったが(笑)。




2002年10月23日(水) 遅刻


 ゴールデンウィークの過ぎた頃、一般にいうところの五月病にはまってしまった私。「意思さえあれば大丈夫」と先輩の語った失敗談に気も留めなかった浪人生活の日々は思っていたよりずっと体に堪えたようだった。春めいた陽気が萌えるにつれて、朝刊配達後の疲労は筆舌を尽くすもので(笑)朝のラッシュにこの身を任せ目を閉じると立っていても熟睡してカックンし周囲に迷惑をかけるようになった。電車通学の大嫌いな私にとってあの繰り返しだった毎日は習慣に埋没する感覚になってはくれなかった。

 望んでもいない遅刻が込むようになったある日、とうとう私は眠気に勝てず朝刊後に二度寝をして気がついたら夕刊の時間になっていた。夜の自習は遊興に割く時間のほうが長くなっていった。そういった不摂生の循環を止めるための意思は全く以って無力だった。

 もう少し嶋さんの言葉に真摯になれればよかったのになぁと今更ながら思います。当時の自分に生きた言葉で語りかけてくるのはタケダであり嶋さんであったわけだが、彼らの思い描く道を共に行くには私に能力が無さ過ぎた(笑)。
「精神的に向上心のない者はばかだ」 そう理解していても志だけで成績が上がるなら何の苦労もいらない。私に足りないのは現状の把握と他者に安易な迎合をしない意思だ。

 私は自分がどこに向かっているのか知らなかった。「環境を変えたい」その一心で安易に選んだこの道の選択自体がそもそも現状の把握に反しているものだった。そういった不自然は必ずどこからかほころび始める。それが私の場合、この身自体に現れた。




2002年10月22日(火) 『ラバーソウル』


 なにかと助言をくれた先輩が店を去る時にCDラジカセを置いていった。当時の私はNECのパソコンしか手元になく、今でこそパソコンでCDを聴くなど造作もないが、中学入学時に買ってもらったレコードプレーヤーはすでに前時代の遺物と化していた状態。高校時代も音楽は聴いていたほうだったが、今で言うJ−POPなど全く興味なし。そんなわけでCDプレーヤーを手元に置く必要性があまりなかったのでしばらくはカセットデッキだけで過ごしていた。

 初任給も貰ったことだし、CDを買うことにした。私がまず買ったのは当時本屋の店先に並んでいたビートルズの『ラバーソウル』という廉価版CDだった。もともと学生時分からビートルズはよく聴いていたが、あの多いタイトルを揃えるのに学生の分際ではお金が足りなかったのであきらめていたのだ。

 1枚のアルバムを聴き続けることに貪欲だった私の中であのアルバムはとても苦い味のこもったものだ。人間としての弱さや甘さ、責任の所在を他者に求めたがる意気地の無い自分。不幸にも、そういった自分の中にあったいい加減さや無気力がこのアルバムを聴いていた時期とシンクロしてしまったのだ。

 私の中のちっぽけな暗転を共に過ごしたこのアルバムは、今でも不幸な1枚である。この盤に針を落とすたびに私はそれを思い出して、何も気付かずに、ひとりで生きている気になっていたのだろうなぁ。




2002年10月21日(月) _/_/_/ 家路 _/_/_/


 関東は今日梅雨明け宣言が発表され、そんなことも知らずに高校球児のように汗をかきかき仕事をこなした。非力な私に現場仕事は不似合いなのだろうが、これでもレッキとした男である(笑)。暑さも堪えたが、今日はなんといっても力仕事のほうがしんどかった。

 3日ほど残業続きであったが、なんとか工期どおりに最低限のラインはクリアし、おまけに職人の皆さんがヘロヘロだったこともあって、午後4時には現場を出て家路に着く。

 仕事中は果たしてこの体で無事家に帰り着くのか疑心も沸いたが、運転してみるとどうということは無いつもりでも普段ほどスピードは出せないし気もなかった。裏道をちょこまか抜けて最短時間で帰ろうなどと考える余裕はなく、なるべく単純な動作の繰り返しである大通りを選んだ。

 私の出身高校付近の大通りを走っていた時のこと、目の前には2台のワンボックス車。中には子供と思しき集団が車内で何やらはしゃいで手を振り合っている様子。ドライバーにとってこういった車の直後につけるは注意力を削がれることもあってあまり歓迎すべき行為ではない。特に私の場合、せめて信号待ちでは後ろにつけたくない(笑)。

 どうやら手を振り合っていた2台は全く関係がないようだった。でイヤだと思いつつ、とある信号でなすがままに1台の後ろに付けた私がチラっと見たのは子供の集団ではなく、中学生の部活動の試合帰りと思われる女子たちを6人ほど乗せた模様だった。

 
 この先の日記で書くかわからないのでここで触れておく。この仕事を始めた頃の私は何故かやたらと中学生に人気があったようだ(笑)。あの頃はまだ公共工事が全盛の頃で、学校関係の現場が多かった父の会社はなかなか売り上げも好調だった。で、中学校に何日か仕事に行くと、必ず私は自身が学生時代に悩まされた『好奇の黄色い視線』にさらされるのであった。不特定の色恋と人間関係に興味のない私の関心外だった彼女たちは必ず何人かのグループで私の視線を捕らえようと黄色い輪で攻勢をかけてくるのだ(笑)。おそらく私が愛想笑いでも浮かべようものなら喜んで話しかけてくる若い勢いが彼女たちにはあった。当時の私はそういったエネルギーとは全く無縁な人間だった。もちろん一切見て見ぬフリそれを貫徹。ああ、とってもつまらない私の青春時代(大笑)。

 
 体育着姿ではしゃぐ車内の彼女らはどうも私個人に手を振っているらしい。一車線道路ではさすがにそれを否定できず、信号待ちが来てしまった。「私か?」と自分に指を向ける仕草で聞くと、黄色い輪が歓喜に沸いたようだった。

 程なく交差点で別の進路をとった彼女たちの車に手を振った自分がしばし仕事の疲労を忘れた瞬間だった。同時に私の人間としての器も大きくなったもんだと感じた刹那だった(笑)。これから社会へと巣立っていく彼女らに対して、子供たちに対して、大人はどうすればいいのだろうか?


 隣に彼女さんが座っていたらどんな反応をしただろうか? と考えてみる。私の器が大きくなってそれを使えるようになってきたのは、褒めると照れ屋になって否定する彼女さんと出会ったからだと思う。



 あなたが嫉妬をしたら、あなたが安心するまでキスをしよう。
 あなたが嫉妬をしなくても、私が安心するまでキスをしよう。




2002年10月20日(日) 夜の帳


 先輩の助言どおり、予備校が始まると夜は自習室に通うようになった。タケダと私は別の予備校だったのだが、生徒一人紛れ込んでもわかりゃしないような学校だったので、毎晩のように彼と部屋で待ち合わせをした。

 今思うととてもタフな時間の使い方をしていたと思う。街は夜でも動いている。その光景がとても無機質で自分には関係のないような喧騒であるはずなのに、気がつけば簡単に呑み込まれてしまう世界だった。勉強後、きまってそこへ誘うのがタケダだったか(笑)。いや、自分も日々のシステマチックな生活の連続でハメをはずしたくなる夜もあったのだろう。

 あの頃は夕食だけでは物足りず、自習室からの帰宅途中、早稲田通りの牛丼屋に寄って特盛りを平らげてから家路に着くのが日課だった。おかげでアベレージが48キロだった体重が54キロまで上昇した。かといって太った感じはなく、ほとんど筋肉になっていたのだと思う。タケダに指摘されてはじめて、自分の二の腕が立派になっていることに気がついたはずだ。

 ゲーセンに寄る日も多かった。高校の頃よく周さんやタケダのやっていたアウトランという自動車ゲームに遅まきながらハマってしまった。初月給も入ってふところはあたたかかった。健全なのでそれ以外で金を使う発想など無かったが(笑)。

 そんなこんなで結局部屋に着くのが0時を過ぎる日が多くなっていった。 




2002年10月19日(土) 若い女恐怖症?


 もともと恋愛には疎かった高校生活で得たものは同世代の女性に対する拒否感だった。(笑) もちろんその代表がいっちゃんであったわけだが、彼女が部活を去った後もラザのアタックは続いており、彼から彼女の近況がボソボソと細切れに耳に入ってくる感じだったと思う。彼女のことを払拭しようとしたかは記憶にないが、依然としていっちゃんの名が仲間内で飛び交うことの愚に気付くのがいささか遅かったようだ。

 高田馬場は早稲田大学もあってか街並みが学生に都合の良い構造になっているようだ。予備校が終わって帰宅までに時間があると決まって私は本屋のハシゴをするのだった。能力も無いのに理想だけは一人前のつもり。手に取る本は自分には荷の重い参考書や専門書ばかり、とても現実を直視していたとはいえない。ただそれはその時に始まったものでもなく、高校入学時に受けたカルチャーショックが3年を経てこんな形で現れていることとの関連性は否定しない。もちろん過去は今現在の私を支える土台である。良し悪しはあるが、そういった思い出したくないおバカな過去を拒否するつもりもない。

 話が横道に逸れた。本屋のハシゴ自体は楽しい時間だった。本屋に行かない日はないくらいだった。ただレジに立っているのは大抵学生風の若いバイトの女性なのだ。本屋に行くとまずそれを確認して「ここでは本は買えない」と判断すると立ち読みだけして、購入したい本が有る無いにかかわらず、そそくさと立ち去るのだった。

 今思うと、とてもヘンなやつである(笑)。




2002年10月18日(金) 嶋さんとの間


 長い間音信が不通だった謝罪と近況報告の手紙に、嶋さんは間髪いれず返事をしてくれた。そしてその筆跡のなつかしさと裏腹な彼女の心の成長を読み取った私は、きっと当時はそれが単純に不愉快だっただけで今現在それを読み返した時のような好意的な印象は受けなかったのだろうことがとても寂しい。それは私自身の音信不通が原因で意思の疎通を欠いたこともあり、その間に何も成し遂げていない自分との比較が苦痛だったのか。

 知り合った頃はどちらかと言えばお互いに理科系を目指していたのだが(趣味の天文で出会ったのだからまあ当然か)、嶋さんが最終的に選んだ学科は「哲学」でした。とても努力家で芯の強い彼女は、「嶋さんの受験の邪魔になるから」と取って付けた理由で手紙を書かなかった間に、文字通り自分を見失うことなく葛藤を続けつつ目標を達成して見せた。以前の往来が活発だった頃、私は彼女の中にある反発に気付いた際、それが家族に対するものだと教えてくれたことがある。この時もらった手紙にはそれすら順調に淘汰しつつある旨が書かれていた。

 1年が経過してみて彼女との状況の差は明らかだった。私の中に焦る気持ちが生まれた。





2002年10月17日(木) 春休み中


 仕事自体はとても順調だった。バイクで配り始めてから特に快調で、噂で聞いていたようなキツい仕事でもないし、むしろマイペースで出来るところはありがたかった。

 一つ困ったのは、所長の娘さんたちに気に入られてしまったことだ(笑)。特に一番下の4歳くらいの娘さんは甘えたい盛りに父親を亡くしたようで、余計な利害など考えていられない私に受け入れられるような甘え方ではなかった。春休み中は彼女たちが私の部屋に押しかけてくることもシバシバで、一人でいた記憶があまりなかったことを思い出す。

 風呂と洗濯は近所の銭湯とランドリーへ行った。さすがに汗をかくので風呂は毎日入りに行った。これが夏に近づくにつれて朝刊後も入りたくなるそうで、先輩にはコインシャワーの場所まで教えてもらった。祖母が東京の下町に住んでいたので銭湯は子供の頃によく入った。あの頃の印象と全く変わらない銭湯はやっぱり壁に富士山があって、ちゃんと3畳くらいの涼みスペースが鯉の泳ぐ池と一緒にあった。

 平日の場合夕食は近くの都営住宅に住んでいる初老のおばさんが作りに来てくれた。どうも所長は苦手らしく、土曜の夕食だけ毎回カレーライスを作ってもらった。平日の夕食はどれも美味しくいただいたのでそれと比べるとかわいそうな気もするが(笑)。

 夕食後は速攻で銭湯に行った。早ければ17時には行けるのだが、きまって地元の爺さまに先を越されている。そして湯船が異様に熱い。ただ夕方がふけると人出が増して入浴どころではない。とても繁盛していた銭湯だと思う。その後は洗濯物があれば一度部屋に戻ってからバイクでランドリーへ行った。よく見ないで洗濯機をまわしたりすると、前の人の忘れ物が混ざっていることがある。ある日女性モノの純白スケスケパンティーが混ざっていたことがあった。「こんな小さいのがよく入るな」というのが正直な感想だった(笑)。


 慣れない都会生活の始まった3月の下旬に、私は約1年ぶりで嶋さんに手紙を書いた。





2002年10月16日(水) 助言


 私と同郷だった奨学生の先輩には彼が店を辞めていく少しの間に色々なアドバイスを受けた。彼は美術大学を志望していて、残念ながらその年の受験には失敗した。なので奨学生を続けようと思えば出来たのだが、そこが勉強をするに適した環境ではないと悟った彼は地元に帰ってやり直す道を選んだ。

「同じ店に来た奨学生とは極力仲良くならないほうがいい」
これは彼の経験として、仲良くなった地方出身の奨学生とどうしても妥協して遊びに出てしまう自分を責める言葉だった。ここに来た目的を知るならそれを目指して優先順位をつけろということだった。ただ彼は、そういった考えが人間として気持ちの良いことではない、と断りを入れた。

「新聞を配り終わったらさっさと店から出て連絡の取れない場所に行け」
 これは専売所近くの部屋にいつまでもいると他の配達員の不着のために駆り出されるからだ。特に私のように真面目で断りきれない性格は利用されやすいから気をつけろということを言われた。給料以上の仕事はする必要がないし仕事自体に熱中するな、と彼は言った。バブル期の新聞の売り上げは絶好調であり、拡張も含めてその気になって仕事をすればバイトなんぞではとても稼げない額の金が手元に残るはずで、そちらに夢中になってしまう奨学生も多いらしいことを先輩が教えてくれた。

 彼の助言をそのまま実行した訳ではないが、私の入所数日後に東北からやってきた『臨』くんという同期の奨学生とは仲良くなる気がなかったし、夕刊が配り終わると予備校の自習室にさっさと行っていた。今思えばもっと他にやりようがあっただろうに、そこには以前として冷淡でスカした自分が、環境を変えたに関わらず、存在した。





2002年10月15日(火) 帰宅


 なんだかんだ私は日曜になって朝刊を配り終わると、自宅への家路についていた。結局自分が選んで進んだ居場所にすぐに馴染めず、与えられた部屋にいることはほとんど無かった。部屋は専売所のすぐ近くの築2年ほどのアパートだったが、部屋を無理ムリ4畳ほどに仕切ってあって壁が薄く突貫な感じの建物だった。そこが落ち着かないといった理由だけで居場所に出来なかった訳ではないが、自分が何故そこに存在していることを考える時、その部屋はただの「寝場所」それでよかった。

 「週末になったら、お前に会いに帰って来るよ」

 もう一つは、私自身がそう呼びかけていたロンの存在が大きかった。すでに家族はいながらにして四散状態、恥ずかしい話だが私は家族の中で最も重要な存在がロンだと思っていたのだ。家を離れるにあたって最も心残りだったのがロンと離れねばならないことだった。

 そのロンは高校卒業の数日前に死んだ。それでも私は週末になると何かに取り付かれたように自宅へ帰り、夜が更けるとまた「寝場所」へ帰るのだった。



2002年10月14日(月) 大雨


 私の分担は朝刊で大体250部くらいだった。私の地区が住宅街なので多少の集配量の多さは認めるが、新宿区のオフィス街で配っているタケダが半分強の130部という数字を聞いても何を疑うでもなく与えられた仕事をこなしていくだけだった。今思うととても損な役回りを演じていたと思う(笑)。ただ、それについて文句を言う手間と労力を使いたくなかった。人間同士の衝突が最も嫌いなエネルギーを使う行為、くらいにしか思っていなかった。
 
 ある日に朝から春の大雨が降った。もちろん初めての経験。2人乗りの出来なかった私に250全部を乗せて自転車をこぐことなど、晴れてても不可能だ(笑)。気の利いた専売所なら所長あたりが自動車で各経由ポイント(集合住宅の集合ポスト下など)へ100部単位で配っておいてくれるのだが、それも自分でやらねばならない。

 自転車集配の頃は通常、7時半から8時の間に仕事が終わるような感じだった。あ、今思うとバイクになってから60部ほど追加になって計250部だったような気が...。それはさておき、この日は悪天候の中、夢中で配っていたので陽が昇って周囲が明るいことにも、通勤通学の団体がやけに目に付くことにも気がつかなかったのだ。で、もうすぐ配り終わるなぁ〜という区域にお客さんがポストの前に立って待っていたことではじめて時間が気になりだした。

 案の定、駅前はすでに昼間の喧騒の中。店に着いたのは9時半だった。自分ではなぜそんなに時間が掛かったのかよく分からないのだが、要はマイペースなのだ。現在のように雨の日はビニールに1部ずつ機械で詰められるわけでもなく、どうしても濡れてしまう新聞をポストに入れるたびに罪悪感があった。
 
 店の奥にある食卓で焼いた目玉焼きとご飯をワイドショー越しに食べたその様は義務のよう。さすがにその日はそのままアパートに帰って二度寝。夕刊の時間が間髪入れずにやってきた感じであった。

 こういった体験もあって、すみやかに原付免許を取る原動力になったのだろう。ほどなく2度目の試験に合格した。(実はこらえきれず、無免許で数日配ったのだが/笑)。





2002年10月13日(日) 久々の試験


 勤務はまず配達区域の道順を覚えることから始まった。店の横に並べて置いてある古ぼけたいわゆるドカチャリに乗ってこれから生活する街の中を徘徊した。記憶力の悪い私でも日常の習慣化で覚えたその道順は、配達を辞めてからもしばらく忘れそうになかった。

 所長の話では私用に「プレスカブ」といういわゆる新聞屋仕様のホンダのカブを買ってくれることになっていた。ただその前に原付の運転免許を取る必要があった。自動車免許と違って原付免許は学科だけである。それに油断した私はほとんど予習もせずに、日曜の休日を利用して地元の免許センターへ出かけた。そしてあっさり落ちた(笑)。

 その旨を所長に伝えると、「原付の試験に落ちるなんて初めて聞いたよ」とか言われる始末。次の試験までにはまだ間があるので、それまではドカチャリで配達するしかない。ただ、仕事の内容自体を苦に感じたことは皆無であった。あの日の朝を除けば...。



2002年10月12日(土) 新しい生活


 新聞奨学生の説明会もひと通り終って、いよいよ専売所の配属先が決まった。4月から通う予備校が高田馬場にあったので、私は西武新宿線沿線で程近い場所に配属が決まった。

 迎えに来た所長さんは女性だった。未亡人らしく、店に着くとその春で中一になる娘さんと幼稚園に通う2人の小さな娘さんと女ばかりの家族が出迎えてくれた。

 ただ「新聞配達」に持つイメージ通り、なにか胡散臭そうな目つきの配達員が何人かいたが話をしてみるとごく普通の人たちであった。その中に2人、先輩奨学生がいた。どちらも私の1つ年上で、私と後日新しくやってくるもう一人との入れ替わりで店を辞めていくようだった。この2人はとても気さくで、口数の少ない私にもよく話を振るのだった。ただ遊びに来たわけではない。翌日から予備校が始まる4月上旬まで、研修期間として勤務が開始された。

 自宅からそれほど遠くもない場所に決まった下宿生活。望んだ高校卒業を果たした割に私の気持ちは張り詰めていた。

 



2002年10月11日(金) 恋の終わり


 東北の有名男子校から転校してきたタケダもすっかり我々と同化した感じで、いや、そんな中でもむしろ仲間内では自分の欲求を具現させることに最も前向きだったのが彼だろう。その後の彼はまあ恋愛に限っていえばパイオニアだった(笑)。そんな彼も高校生活で具体的に動いたのが2つ下のハマちゃんとの一件だけというのだから今思うと不思議な気もするし、奥手な私の監視下だと恋愛はしづらかったとでもいうのだろうか。多くの会話の中に登場する恋愛話は極めて少なく、一人歩きな理想論を語り合っていた我々だったが、おそらくラザもタケダも私と「恋愛論」について語ってみたかったのではないか、と後に思ったことがある。
 いっちゃんへの想いをラザに打ち明けるのに、これまた10年ほどの時間を要したのだが、その時彼は私に言った。

「ずっと彼女のことを思い続けた、ということではないよ」

 これは正論であり、冷静に振り返る私には拒否できない言葉だ。ただ私はラザとこの話をした時にはまだ自分自身の言動の根拠が全て「いっちゃん」から出てきているのだと信じていたのだ。事実はどうあれ、結局私は自分の中にある気持ちをひとりの女性に求め過ぎていた。彼女でなくてはダメだということではない。彼女に再会するまでの間に私は彼女以上に可能性を感じる人間に出会わなかっただけだ。あるいはそう思い込んでいて他に目がいかなくなったか。そういった意識の停滞は色々なところで悪循環を生んでいく。
 

 卒業間近まで2人で良い雰囲気に見えたタケダとハマちゃんは、彼の告白から一転してぎこちなくなってしまった。卒業式当日、部員全員が一堂に会した席でハマちゃんは私を盾にするようにタケダを避けるのだった。何も知らされていなかった私にはそれがとても恨めしい構図であった。そういった情報が入ってこないのはひとえに私自身に問題があったからなのだが...。





2002年10月10日(木) 進路


 色々と周囲に影響されやすい体質は今でも変わってないかもしれないが、この頃はそれを自覚せずに、感化されたそれは自分で煮詰めて考えついたものだと信じて疑わなかった。そのあたりがすでに自分の足元を見失っていた証拠だろう。そんな状況にいつまでも気づかなかったわけでもなく、私は私に影響を及ぼす人間との関係を断っていくことになる。


 結局私もタケダも専門学校への進学をやめて浪人することになった。で、前々から2人で相談して「新聞奨学制度」を利用して都内の予備校に通う事にした。お互いに家族への依存を否定していたわりにツメが甘いというか初志貫徹の能力が無いというか、タケダ自身がどう思っていたかは知らない。私は自分のそんなところがほとほとイヤになってしまうのだった。

 ともあれ、家を出て下宿しながら学校に通う、それは卒業前の私にとってはとても建設的で前向きで甘美な目標であった。そういった具体的状況を目の前に現出させたのは「はやく卒業したい」「早く家を出たい」そういった思いが私の中にあったからだ。

 部活動といっちゃんを同時に自分に取り込んだ私は、その一方が欠けたことで「結局高校に入ってからの状況に変化など無いのだ」という安易な結論を出して、そして一刻も早く自分のいる環境を変えたかった。その判断は誤りだったかもしれない。状況というのは自分に関係なく変化し続けるもので、私は自分に都合のよい状況にしか興味が無かっただけだ。社会に入ってからもそんなことを貫こうとすれば、かならず社会への反発が生れる。私にはそれが「社会からの逃避」といった形で現われた。社会的な成長が止まってしまった。


 自分に対する見積もりが甘すぎた私は、状況さえ変化させれば何とかなるような気がした。その辺の利害が一致した私とタケダはそれぞれの未来を描きながら3学期の残り少ない高校生活を過ごした。心持、この冬の寒さは厳しかった印象が今でもする。

 2人で申し込んだのは某大手新聞社の奨学生制度でした。利用した制度は同じでしたが、さすがに「友達と同じ販売店希望」という欄に印をつける気など起こらなかった。「ばかな欄だな」と2人で話したのも昔の話だ。




2002年10月09日(水)


 バブリーな風に乗ってやってきた感じのF1ブームにのっかった形で、そのシーズンから中継を見始めた私。そのブーム以前から周さんやラザは車に興味があって、色々とマニアックなことを教えてもらったものだ。卒業がすぐ先に見える冬あたりから部室にはメーカー別のカタログ集が何冊か置かれるようになり、自習の時、寒い部室でインスタントコーヒーをすすりながらそれをよく眺めたものだった。

「車両本体が300万くらいならバイトでも買えるじゃん!」

そう信じて疑わなかった我々はとんだ世間知らずだっただろう(笑)。少なくともそういった状況で手に入れた車は親の庇護あるバカ息子の図から逃れられないだろう。私もラザも家族に依存することを極力嫌う傾向にあったのでそのような状況を受け入れるはずはなかった。

 結局私が初めて車を購入したのは二十歳くらいの頃で、もちろん連帯保証人は父になってもらったわけだ。社会という場所は責任の所在をはっきりさせたがる場所である。そんなことに気付かず、ただ目の前に近い欲求だけ満たすことを考えて、それを実現する気力もないまま時間だけを浪費する日々に歯止めがかかるのはいつのことだろうか? 何がきっかけだろうか?





2002年10月08日(火) 3年のマラソン大会


 2年の大会でおバカな反骨(?)で散々な目にあったこともあって、この年は普通に走ろうと心に決めていた。何故かスタートラインにはタケダと並んで立っていたのだが(笑)。

 秋の彩り濃い湖の周回コースを、女子→男子の順で走るのだが、男子のスタート時刻が迫っても彼女が帰ってこないことに気がついたのはタケダだっただろうか。コースの中途で一生懸命走っているハマちゃんを私も確かに確認したのだが、どうも帰ってこないらしい。

 で、我々のスタート。3周の周回で最後の周でスパートをする作戦は前年と変わらず。これは明らかに私の走行ペースなのだが、付き合ってくれたタケダには悪いことをしたはずだ。私は運動の中でも長距離だけが得意であり、それをさとってからずっと追い込み一辺倒の走り方しか出来なかったのだ。要は気力の問題で、いかにそれをゴールまで持続させるかを考えると、私の場合はそれが最良だった。けっこうすぐ投げ出しがちなもので(笑)。

 マラソン大会の閉会式も終わり、部の1年生たちにハマちゃんのことを聞いてみるも「知らない」「わからない」といった返事で、結局行方知れずのままその日は終わった。


 後日部室に顔を出すと、ハマちゃんと松葉づえと痛々しい片足のギプスと笑い声。どうも走っている最中に転倒してそのまま病院に行ったらしい。しばらくは自由の利きそうにない彼女が、無邪気に私の腕を取ることも出来なくなるだろう日々が少し残念だった気もする。「絵」のなかで彼女はとても絵になりそうな子だった。「自分」という物語を為すエッセンスとして、私にとって彼女は格好の存在だったはずだ。

 上手には言えないが、私が求めていたのは「絵」だけであり、実質的な人間関係の深まりを望む気持ちにはならなかった。それはいっちゃんの時も同じであったろうか? 自分でもどうすれば良いのか分からないまま、時間だけは過ぎてゆく。





2002年10月07日(月) みほちゃん


 3年の冬で覚えていることが、放課後によくラザや陸上部のN、ミルや杏さんと連れ立って前年に完成したばかりの近所の百貨店に行ったことか。今でこそ我が街のような田舎でもマクドナルドを見かけるようになったが、当時はその百貨店の系列店舗くらいしか見かけなくて、非常に新鮮だったものだ。

 で、とある冬の放課後、すでに日は落ちていた夕方にそのマックで腹ごしらえをするべく行った。私は習性として集団の一番最後から着いていくのが安心するのでその時も最後に店内へ入っただろう。すると真っ先に目に入ってきたのが、小学校の頃からの知り合いであるみほちゃんだった。この日記のはじめのほうで触れたことだが、私は小学校の頃にクラスの女子と文通していて、その橋渡し役がみほちゃんだったのだ。

 今ならばおそらく気軽に声を掛け合えるような大人にお互い成長したのだろうが、当時の私は彼女の視界に入らないようにと祈るような心境にまずなった(笑)。ただ彼女はカウンターの接客だったのですでに私のことには気がついていただろう。私にとってみほちゃんが知っているような過去の自分の色恋沙汰はとても恥ずかしいことだった。

 自分は精神的に周囲の同級生より大人であるつもりだったのだが、それはとんでもない大間違いというもので、こういった機会にジョークを交えて語れない過去などを持っていることが子供である証なのだ(^^)。ただなんでこんなどうでもいいようなことを覚えているのか、それは私の中にみほちゃんに対する素直な感謝がずっとあったからだろう。子供の頃に受けた恩というのはその程度に関わらず、自分にとって重要であればこそ忘れないものなのだ。

 昔のままのショートカットでマックの制服が似合っていたみほちゃんをとても素敵に感じました。それだけのことです。





2002年10月06日(日) 冬の到来


 我が部における夏の活気からすればその冬の静けさは、良く言えば我々3年男子で占拠してしまった状態で、活動的な動きもなく怠惰で、ただひたすらに時間だけが過ぎていった。そろいも揃って進学に否定的だったので時間を持て余していた我々だったが、もともと勉学が嫌いではないタケダは思いついたかのように英検2級の受験を決意したものの、これまで通り放課後は当ての無い一時の快楽な時間を彼に促してしまった私かもしれない。まあそれでもあっさり受かるところが彼らしい伝説(笑)。

 文化祭が終わっていっちゃんがいなくなってからも、当然のように文章を書いてみた。ただ以前ほど発想が浮かんでこなくなった。意識の停滞。書いて発表すれば、批評会で1年の電ちゃんに「なんか年寄りみたいな文章ですね」と言われる始末で、どこか投げやりな言動しか出てこなくなってしまった。

 周さんや銀さんが顔を出さなくなった折、それに入れ替わるように部室に現れるのが杏さんだった。彼女がこの前後に入退院を繰り返していたことを知るのはずっと後の事であり、2年の冬にあんな風に恋を想っていた杏さん自身には正直どのような興味も沸いてこなかった。どちらかといえば、この時の心境を語りたかったのは嶋さんのほうだったかもしれない。ただ、書いた手紙を封印し続けた高3の1年間に私が彼女に本音を語る機会はついにやってこなかった。





2002年10月05日(土) 雑記


 いささか高校時代の回顧に時間を割きすぎました。その割には上手に表現できない点がもどかしいのですが、それは追々思い出したときに書くことにしましょう。ただ実感として、高校時代の3年間というものは私という人間形成の土台として良くも悪くもその後の10年間を裏付けるものとなっていきました。簡単に言ってしまえば、自身の人間としての成長を意図して抑えてしまった前5年と、そこからどうにか変化したいと願いつつも脱却できずに投げ出しがちな後5年といった、回顧しても何の面白みも無い(笑)10年を決定付けた3年間でした。
 ただ私の救いは、その後ろ向きな自分が環境によって形成されたと言い訳しなかったところだろう。私はいつでも考えることには真剣で、その攻撃の対象は常に自分自身だった。


 そんな私の少ない例外というのが「いっちゃんの退部」で図らずも得た感覚だったのだろう。あの秋の日から卒業までの時間、自分自身をあれほどの歓喜にいざなった彼女の不在を落胆する、その処理に要する時間がそれでは足りなかったようだ。表現として彼女に対する不快を示すのを潔しとはしなかったが、彼女の存在を打ち消しても作られた淡い思い出は私の中で無くならないのだ。かえってそれは大きく美化されていって、私の中で彼女の存在を否定する材料になっていった。それが自分の中で矛盾を呼び、さらに混乱するという悪循環。

 もともと人間関係を難しく考えがちな(笑)似た者同士の集団である我々は、すぐに頭を切り替えてアクティブに立ち回れるような人間ではなく、皆そこで一様に立ち止まった。個人差はあったが、最も動き出すのが遅かったのが私だったかそれとも周さんだったか、ラザだったか...。結果的に最後まであの時の環境に固執したのが私だったというのは紛れない事実だ。


 いっちゃんとの蜜月は、私の感覚を日々強くしていくものであった。「この子となら分かり合っていけるんじゃないか?」「理解しあえるのではないだろうか?」 これを恋愛と呼ぶならまさに私は彼女に恋をしていた。抑制しがちな自分の内面を実は思い切り吐露したいだけなのだ。性別に関わりなく、そういった人間が欲しかったのだ。

 ただ幼かった私は、そこに肉体が不在で、気持ちだけが先行していくといったもの。心を許すということはそれが宿る肉体も全て許すということであって、私にはその感覚が欠けていた。まあだからこそいっちゃんは私のことが「好き」だったわけだが...。それが分かったのは10年後だったのですがね。遅せ〜よって感じ(笑)。

 まあ、あの時に思い余って告白するようなバカ者でなくて良かったのかもしれません。10年後にあらためて彼女に自分の気持ちを伝えた時に心からそう思いました(笑)。自分というものをいくら否定してみても、自分はそれ以上でも以下でもなかった。高校卒業から20代の時間は後悔することだらけなのですが、それもまた振り返ると愉快なものだ。

 
こうやって過去を回顧して楽しめるようになったのは、全て現在の私の『彼女さん』に出会ったからだ。結局私は自分の納得のいく相手を捜し当てるまでに10年以上の歳月を要してしまった。これからはそこに至るまでの時間を書いていく訳だが、先は長い(笑)。





2002年10月04日(金) _/_/_/ いちごジュース _/_/_/ 

 先日のゴールデンウィークに彼女さんの家へ遊びに行った。

 彼女の娘さんに私の気持ちを伝えたあと(こう書くとヘン?/笑)初めて会う機会となった今回の日々を私は前もって想像しなかった。彼女さんと付き合い始めてから幾分楽観的になった私を彼女さんはそれを意外そうに指摘する。この日記や私が彼女に伝えてきた自身の過去の考え方からは「楽観」という文字は不似合いだったのだろう。


 その私の気楽さが打ち砕かれた今回の訪問。
 これまでも私は娘さんと、とても上手とはいえない接し方しか出来なかった。それでも彼女ちゃんは私と2人で映画に行ったりしても、2人で彼女さんの仕事の帰りを待っている時も、3人でテレビを見て談笑している時も、少しずつだが私にも馴染んでくれているような気がしていた。


 それが出会ったはじめの頃に戻ってしまったのはもちろん私の伝えた気持ちが原因なのだ。うまくは言えないが、彼女さんにも娘さんにも、「母として、母に恋人が出来る」という経験は初めてのことなのだ。仲の良い2人にとってそれが何を意味するのか、正直私には分からない。


 正味5日(もかよ/笑)の滞在の2日目あたりにはすでに私の中に後悔の念がこみ上げてきてしまった。実際直面するとこんなにヘコむものだと知った。彼女さんが仕事から帰ってくるまで居間でテレビを見ていることが多いのだが、それまでは学校から帰宅すると彼女ちゃんも居間で宿題をやったりネットサーフィンをするような感じで気兼ねなく自分の家でいつも通りの生活であろう姿を私がいてもやってくれていた。
 それが今回は自分の部屋に閉じこもって居間には来なくなってしまった。彼女ちゃんの大好きな夕方のドラマもアニメも私は一人で見ていた。彼女ちゃんがドカドカと居間に入ってきて一緒に見てくれることを年甲斐もなくドキドキしながら待っていたが、果たしてそれは訪れない。


 4日目の朝、今思い出しても忌まわしいのだが、不覚にも私は自分のその落胆を隠せなかった。「ああ、今顔に出てるんだろうな」といった思いはあっても、それを大人気なくそのままに、朝食を食べた。彼女さんは気を使ってくれたのか、「朝早いから一緒に食べなくてもいいよ」と言ってくれた。けど私は3人でいる時間が好きだったのでその申し入れを断った。
 なのに私は初めてこう思った。
「もう家に帰ろうかな」 それは自分にとっても意外で、情けない気持ちだ。自問自答を繰り返しても出てくる結論なんか決まっているのに、何をそんな逃げ腰になっているのか、情けない気持ちだ。


 が、いざという時に打ち勝つのが自分の正直な気持ちなのだろう。半日考えても堂々巡りだったが、娘さんが学校から帰ってくるときのバタバタと階段を駆け上がってドアをバタンと閉めるその音で私は覚悟を決めることにした。
 

 「おかえり」

今回の訪問の中でもいちばん大きな声で私は言ってみた。するとすぐに「ただいま」と返事が返ってきた。それはこの訪問ではじめて彼女ちゃんが口にした帰宅のあいさつだった。


 帰宅して少しすると、自分の部屋からやってきて台所でなにやら始めた彼女ちゃん。どうもミキサーでいちごジュースを作るらしい。私はこれまで通りの私のスタイルを疑問に思いつつも、以前まで接していた通りに聞きたいことは聞き、話したい時に話した。そして彼女ちゃんもこれまで通りの態度を示してくれていた。
 が、そんなに一度に事態が自分に都合よく回るものでもない。彼女ちゃんはジュースを作り終えるとまた自分の部屋に行ってしまった。ただ図らずも、私の前には同じいちごジュースのマグカップが置かれていた。娘さんは私の分も用意してくれたのだ。


 その味は甘さ控えめで少し酸味が舌を刺激するものだった。が、ホイップされた牛乳の泡がきめ細かく柔らかで、優しい味がした。「ランチの女王」を見ながら、その泡を氷と一緒にコロコロと、飽きることなく転がしてみた。それはきっと、早く今の気持ちを彼女さんに伝えたい、その所作だったはずだ。



 ただ私は帰宅後の彼女さんにそれを目一杯は伝えなかった。何故かといえば、今日この場で日記に書きたかったからだ(笑)。

 今日は彼女ちゃんの11回目の誕生日。あとどれくらい数えたらこの日のいちごジュースの味について語り合えるのか分からないが、この瞬間に私がどれほど嬉しい気持ちになったか、2人を好きになって良かったと思ったか、それを伝える日がやってくることを祈りつつ今日は筆を収めよう。




2002年10月03日(木) かつあげ


 すっかり日も短くなった初冬のある日、また性懲りもなくファミレスでだべって帰宅が遅くなった。例のかつあげされたコンビニの前を遅くに通って、一層の田舎道に差しかかろうかというところ。あのあたりはラブホの明かりがほのかに香っているような場所だったのでかなり寂しい、だがわが街には幹線道路であった。

 車通りも少ないのでタケダと並んで歩道の無い車道をチャリで帰宅していた。たまに来る車があると私が減速して一列になることが多かったのだが、あの時はなぜかタケダが後ろになった。

 が、車の気配はするものの一向に抜かさないので不審に思った私は振り返ってみた。すると白いセダンのヤンキーマーク兇ら1人の男が小走りに走ってきた。反射的に私は加速したのだが、タケダは裸眼ではかなり視力が悪いので状況が把握できなかったようだ。

 で、タケダのチャリの荷台をつかんでいるヤンキーを振り切って走り出したのだが、相手は車で、しかも田舎道なので脇道がない(笑)。で瞬間的にタケダと示し合わせて車が加速して我々の行く手を遮る直前にUターンして国道のスタンドまで全速でペダルを漕いだ。


 するとさっきのヤンキー車がマヌケにUターンして戻ってきた。さすがに人目につくところで停車するはずもなく、それを見届け、普段と違うルートで帰宅した。


 災難だったのはタケダだった。私の自宅近くで別れた直後に再び舞い戻ったヤンキー車とたまたま遭遇したのだ(笑)。その後しばらく追いかけられたらしいが私の家を過ぎるとなかなかに入り組んだ裏道が多く車なぞは巻こうと思えば出来る。


 今回も被害はゼロ。

 そういったアホウのためにこの身を削がなければいけないのは大いなる苦痛だった。さすがに少しの間だけ帰宅時間が早くなった。




2002年10月02日(水) かつあげ

 秋が深まっても相変わらず我々は放課後を部室で過ごす日々。それはとても進学校の3年生とは思えない有様。もっとも、私は早くに専門学校の進学が決まりそうだったので見た目は問題無さそうだったが、おざなりで決めた進路など魅力が失せるのは早い。まあ正直なところどうでもよかったのだ。私はこんな学校は早く卒業してしまいたかった。3学期にはそれをよく口にしていたのを思い出します。

 「人同士ってのは結局のところこんなに呆気ないものなんだ」という実感は、私の生活を更に停滞させてしまった。授業も学校行事も公然と参加しないようになった。余談だが、当時の私の机は窓際で、その内窓の枠に張ってある紙は私の即席教科別出席簿であり、正の字が多い教科ほど出席日数が危ない教科ということだ。皮肉なことに以前私が所属していた「生物」の授業がダントツトップ。それを鼻で笑う自分が呆れるくらい滑稽だった。

 そんなやる気の無い毎日だった中、とある放課後にタケダとミルと3人で遅い帰宅中にかつあげに会った。もっとも、高校生の分際で夜遅くまでファミレスでたむろしている報いというもので自業自得なのだが(笑)。
 タケダと私はどちらかといえばそういった圧力に屈するのを最も嫌う部類の人間だったので(それが所詮空意地であっても)、相手のヤンキー3人組のほうも困っただろう(大笑)。結局タケダがコンビニに駆け込んで警察を呼んでもらい事なきを得たが、今度はサツの方にお説教をくらう羽目に。


 次の日、部室でタケダとその話になった。

 「オレさ、昨日悔しくて。家帰ってから筋トレしちゃったよホント(笑)」

 この時私は思った。

 (やっぱ類は友を呼ぶんだ...)と。ははは。


 今度タケダに会ったらこの話で盛り上がろう。





2002年10月01日(火) 彼女が消えた日々


 部員たちのその後の落胆は非常に大きかった。またそれに触れるのが不文律になったような感じで、私の中の迷宮感が小さくなることはなかった。同時にちょうど1年前に味わっていたような無気力が戻ってきてしまった。思えばいっちゃんと楽しく過ごした夏の日々は指を折って数えられるくらい短く、そんなつかの間の歓喜に強く依存してしまったそもそもの原因は、高校入学時に私自身が新しい環境になじもうとしなかったためだ。もちろんそれだけではないが。

 この頃になって私はようやく新入生のほうに目が向くようになった。いっちゃんが消えても私はそれまで通り放課後を部室で過ごす日々で、そこには文化祭以前は存在の薄かった新入生たちの姿があった。住吉とハマちゃんの話は以前にしましたが、他に残った部員は2人で、いっちゃんの後任として部長を任されることになる物腰のおっとりタイプな『電ちゃん』と言葉尻がいちいちトゲのある『明』の4人。この頃はまだ結束の薄い4人だったが、その後は次第に意気投合したらしい。

 ラザは1年生とはあまり馴染もうとせず、次第に部室から遠のいていく。入れ替わるように姿を見せるようになったのがタケダで、こっちのほうはもちろんハマちゃん狙いだった。これに同じクラスで部外者のミルと電ちゃん、ハマちゃんの4人と放課後を過ごすようになった。

 私はそこに存在していても、周囲にはほとんど関心が向かなかった。この頃からハマちゃんは次第に「お兄ちゃん」呼ばわりするのが私に絞られてきて(笑)、彼女の示す親密さの具合がイヤでも周囲の目に付くようになった。正直タケダにはそれが目障りだったはずだが、彼は私が無害で奥手だということを十分理解していたし、私がハマちゃんに興味がないことも知っていたので彼との衝突は訪れなかった。いや、正確に言えば、「興味がなかった」のではなくて、「いっちゃんしか目に入らなかった」だけで、ハマちゃん自身はいっちゃんに負けず劣らずの美人で、私の知る限りの彼女はとても素敵な女性になっていったのだ。

 そんなことはどうでもよかった。いっちゃんの消えた環境は私を虚無にさせるだけだった。そんな時にラザからひとつ忠告を受けた。ハマちゃんが私に対して過剰に見せる好意について。

「イヤならバシっといったほうがいい」その語気は彼にしては珍しく強かったのだが、私は思ってもいない言葉で彼を納得させてその場を収めたのだった。思えば私の八方美人な傾向はこの頃が起源なのかもしれない。

 「そう、どうでもいいのだ。そんなことは」

 この言葉で片付ける日々がこの先どれくらい続いたのだろう。それでどれだけのものを失っていったのだろう。どれだけの人間を傷つけたのだろう。




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