あお日記

2002年09月30日(月) 暗転


 修学旅行が終わって間もなくの、晴れた中秋の日だった。

 早々に昼食を済ませて、いつものように1階の部室へと歩を進めた。誰かしらいるであろう部室の中は思ったより人が多かった。すぐに私がその違和感に気付いたのは、いっちゃんが、本来彼女がいるべき場の中心ではなくひとつしかない出入り口のすぐ近くに立ったままだったことだ。扉を開けてすぐに彼女と目が合ったその不自然のおかげで、私はあの時の彼女の表情をしばらく忘れることが出来なくなったのだ。そう、この先10年後の再会まで。

 それでも私はあの雰囲気が気のせいだと思い、いつものように開いている席、この時は出入り口から最も遠くいっちゃんを正面に見ることが出来る場所に座った。直後に口火を切ったのが1年生の住吉だった。

「いち先輩が部活やめるって...」 私が登場するまでにすでに数々のやり取りがあったと思われる部室内は、その言葉の余韻だけを残してまた沈鬱になった。私は何ら意味の無い言葉のように聞こえたその台詞を頭の中でもう一度繰り返してみて、ようやく出てきた言葉が「は?」...っと、それだけ。いっちゃんはすでにもう誰とも目を合わせようとはせず、それが返って彼女の意思が強固であることを物語っていた。


 その後は、いっちゃんのボソボソと窮した言葉と部員たちの妥協点の無い不毛な論議に、私は全く口を挟まずにいた。結果的に私はその後も彼女を追及しなかったのだ。それが私の私たる所以であり、納得のいく理由も語らずに辞めていった彼女であったが、それこそが彼女たる所以なのだ。

 私はその場に居合わせている自分がなんだかバカ者のような気がして、この場にいるのがそれこそバカらしく思った。おもむろに立ち上がり、いっちゃんの横をすり抜けて部室を後にした。その時だけ彼女は私の表情を覗いたのだが、目の端に映ったそれを前に、とてもじゃないが私は目を合わせるような心境にはならなかった。
 この話は瞬く間に広まった。先輩諸氏の強い慰留に一抹の期待感を持っていた私は、その裏に自分の無力を照らし合わせてみた。どうして自分でそうしないのか? といった自問はすぐに打ち消される。

 そう、私はいっちゃんという人間の何を知っているというのか? 私は彼女を追及する材料すら持っていない自分に気付いただけだった。


 その後我々はこの真偽について深く論議することはなかった。(いや、私が参加していなかっただけだろうが) 各々が勝手に解釈して納得するしかなかったのだ。





2002年09月29日(日) 年下の修学旅行


 この年もまた秋の修学旅行シーズンが我が校にやってきた。

 夏に計画したとおり、3日目あたりの班行動で抜け出す算段がたったらしく、先輩がいっちゃん舞ちゃん達の旅行にお忍びで参加する予定が実行された。

 私は参加しなかった。夏から文化祭まで続いたあの仲間たちを包んでいた熱気があれば有無を言わせずに参加したのだろうが、すでに私にはそれがなかった。ただ、それは冷めたというのと同義ではない。その後続いた彼女ら2人とラザと私の4人で過ごした穏やかな日々が私は好きだった。私が望んでいたものはそういったなんでもない日々の延長にあるものだと思っていた。

 「修学旅行に着いて行く」というオプションは魅力的で楽しそうな遊びではあったが、そういった私の中にあった理想に合致しない行動で、あっさりと私を制した。そして彼女達が帰ってきたらまたこれまでのように私の好きな穏やかな日々を過ごす気でいた。それが当然またやってくると思っていたしやっと手に入れたその蜜月を私は守りたかった。

 もともと仲間たちにはクールで通っていた私だったので、今回の参加を断ったその行動はスカしているように映ったのかもしれない。冷めたと見られてもおかしくはなかった。あまり自分の気持ちを秘めすぎるのは考え物である。本当に友人と信じているなら信じ抜くべきなのである。私にはそういった下地がなく自分の考えを相手に伝える行為がその後もおろそかになっていった。




 



2002年09月28日(土) 捨て犬


 当時私は入学時に気張って購入したスポーツタイプのチャリに乗っていたので前カゴなど付いていない。仕方が無いので、付近にあったであろう有り合わせの風除けをフタにして被せてそのまま帰宅した。で、ママチャリに乗り換えてまた現地に行った。

 どの子犬も何かしら障害があるらしく、その辺があんな場所に放置された原因なのだろうが最近はそんな不幸を見なくもなったし聞かなくなった。そのうち1匹はすでに息絶えていたのでその場に穴を掘って埋めた。残りの4匹ほどを持参したダンボールに入れてロンが使っている敷布に包んで帰ったように思う。

 ただ、持って帰ったからといってうちで世話をすることは出来ないことは分かっていた。私は人間は大嫌いで人間が捨てられていても気にはしなかっただろうが(そんなことはまず無いが)、当時の私はこの子犬たちをほおって置けなかったのだろう。

 案の定、母は難色。ロンも居場所を取られて迷惑そうにしている。

 次の日は珍しく早起きして様子を見に行った。さらに1匹が動かなくなったので庭にあるまだ背丈の低くて華奢な柿の木の根元に埋めた。思えば人間も含めて子供の世話などしたことが無いので正直どうすればよいのか分からなかった。捨てられた理由が理由なので新たに飼い主を見つけるのはまず厳しい。しかも弱っている。

 で、役所に電話した。一抹の希望でしかなったが、やはり役所では話にならない。
「そういった件は保健所にお願いします」と一言。まあそうだろう。

 私の感覚では「お上に何とかしてほしい」というのが願いだったのだが、口下手だった私が電話すると相手が勝手に解釈してどんどん話が進むのだ。結局保健所へ連れて行くことになった。

 そこがどういった場所であるか分かっていたつもりだ。そこで言われたことは「見つけても拾わないでください」ということだった。それが私には大人の代表者が言う声のようだった。
 書類に記入する名前すら無かった子犬たちのその後を思って感傷的になるのは人間だけである。それはさも自分の行動が間違っていないと正当化するように働くのだ。当時の私には一連の私の行動が淘汰という点で本当に正しいことだったのか分からなかった。ただ社会のしくみがそうなっているというだけ、臭いものにはフタ、危うきには近寄らない。


 それが「大人になる」ということなら、私はずっと子供のままでいい。


 これが当時の私の口グセだったかもしれない。





2002年09月27日(金) 捨て犬


 確か高2の授業が全て終わった春休みも間近な頃だったと思う。その頃うちのロンはかなり老け込んできて、もともとうちに来てすぐにまつ毛や髭は真っ白。それが一段と目に見えてきた時期だった。高3の夏頃は散歩で歩くのも儘ならず、母がよく抱えて帰って来ました。今思うとかなり無謀でしたが、ロンは散歩といっても私も含め家族がぐうたらで、そのうち誰も行かなくなったのは、どういった理由からか、ロンは綱から放すとすっ飛んで出かけていって夕飯時に帰ってくるようになっていた。今思うと、それは愛すべき飼い犬を持つ飼い主の像ではない。それでも私はロンがいなくなった日から今で言う「ペットロス」のような感じになったのだった。まあ勝手なものです。


 でその春、昼過ぎには学校が明けて、いつもどおり早々にチャリで帰宅していた。その日は三寒四温の寒い日のほうで晴天ではあるものの北風が若干吹いている日。いつものように帰りはその北風にブツブツと呪いの文句を浴びせながら漕いでいたはずだ。
 私の町に入る境はかなりの田舎道で周囲は畑と杉森である。限りなく人工物は少ない。そこがまた下って登る箇所でありいつもどおり下りで加速をつけて登るのだが、瞬間的に強く吹く北風に抵抗しても登りで限りなく静止画になってしまう図はいつものことだ。

 で、えっちらと登り終えてからいつもと違う違和感に気付いた。チャリから降りて振り向いてもいつもと変わらないが、確かに何か違う、そう思った。で、渋々ではあったが今登った坂をまたゆっくり戻った。

 下り終えるかそこいらあたりの右側の森の中から微かに聞こえた鳴き声は、明らかにまだ生まれ落とされて間もない子犬が5匹ほど、粗野な段ボール箱のなかで寒風に寄り添うように震えていた。





2002年09月26日(木) オイルショック??


 残暑もすっかり終わって日差しの心地よくなったその日の放課後もいつものように部室に集まった4人で遊ぶ予定だった。ふとしたきっかけで学校のとなりにあったスーパーへ買出しに行くことに。

 確か舞ちゃん情報だったと思うが、先年の湾岸戦争からこっち、原油価格が上昇しているのは周知だったが、あの時の情報はなぜか「戦争の影響でポテトチップが値上がりする」といった根拠の推測もつかない様なものだった。しかしながらそんなことが行動の動機になるのは「若さ」、この一言に尽きる(笑)。

 で、買占めに走った(笑)。買い物カゴ3つ位は買っただろう。

 4人でスーパーの中を徘徊中にふと私が気の利いたジョークを言った。それがいっちゃん的には萌えたようで「あお先輩 だいすき!」とか満面の笑みで言われたりした。ウケたのが嬉しいというより苦笑いしか浮かばなかったが、当時の私はそれを恋愛の対象外の「好き」にしたかった。今思うと、それは私の無害を試すように聞こえなくもないが(笑)。

 で、晴れて部室の角にポテトチップの山が出来上がった。そしてその半分は恐らくタケダの胃に納まったのだった。彼にかかればあんな山は棒倒しの山のように脆いのだ。

 そんな日々の光景が私には愉快だった。
 周囲は「進学」一色だというのに。





2002年09月25日(水) _/_/_/ さんきゅー! しし座 _/_/_/ 

 先日、彼女さんの所から電車で帰宅した夜はすっかり晴れていた。聞けば私の地元はその日の午前中に雪が降っていたというのだから、その気候の違いには正直驚く。休日ダイヤと間違えてホームに行ったとき、「ひかり」はまさに音速がごとく目の前を通過...(^^;; おかげで最後に乗る列車は終電になってしまい、帰宅の途が24時近くになってしまったのが幸いだった。

 駅から私の家まで15分ほど歩く。周囲はほとんど街灯がなく、そろそろ水を張る準備中の田んぼにはまらない様に(こう書くと田舎だが、まあ実際田舎である)見上げずにいられない星空を眺める。星の季節はもう春の到来を告げている。この寒さと季節風のおかげで、春の星座をあれほど近くに見たのは初めてか。天空には、ひしゃくを逆さまにした北斗七星と、おとめ座のスピカ、上昇姿勢。そして春の星座たちを統べる雄大なしし座の南中。

 家に着くと今いる私の愛する雑種犬・チップが猛烈に出迎えてくれた。どうも母が仕事からまだ帰っていないらしい。彼女さんに会うと私はかなりの気力を充電して帰宅する。なのでそれから日課の散歩に行くことなど苦ではない。


 空が近いと星の動きが分かるような気がする。
今日記で触れている時期は高3の頃であるが、その後しばらく私は空を見上げなくなってしまった。かといって下を向いていたのでもなく、あえて言えば目をつぶっていたのであろう。

 大人になった現在、それほど情熱を持って星々を眺めることなど出来なくなったのだが、久々に好きなことだけを考えて見上げた空は寒風の暗がりにあってもなお、私に例えようのない幸福を感じさせる。

 田舎には田舎の楽しみ方がある。目をつむらなくても周囲は十分暗いのでまぶたの裏に残っている像が鮮明に浮かぶのだ。

 散歩をしながら映ったその像は、キッチンに並んで立つ彼女さんとその娘さん。あれこれと夕食の準備に追われている。私はそんな彼女たちのうしろ姿を居間のコタツから眺めるのが大好きだ。私の得ることのできたこの恋愛の中でも至極の贅沢を感じる時なのだ。

 小さな彼女さんに会った当初、私は彼女の居場所が羨ましくて嫉妬をしていた。毎日一緒に生活している、そんな当たり前の事実の中に嫉妬心を置いていた。それが変化したのは、小さな彼女さんと2人で映画を見に行ってからだろう。あの時私は初めて自分がこの小さな彼女さんのことも大好きなのだと分かったのだった。そしてこの子がいれば、私と離れていても彼女さんは大丈夫だと思うようになった。


 いささか陳腐な言葉かもしれない。でもぜひしし座に言いたいのだ。


 私は運がいい。こんなに素敵な母娘に出会ったのだ。



フフフン! と鼻を鳴らして、チップとふたりで家路に着いた夜に思ったことでした。





2002年09月24日(火) 体育祭


 いっちゃんと舞ちゃんの修学旅行の少し前に、銀さんの地元の体育祭があった。バスケチームのキャプテンの依頼で銀さんをはじめとした我々も参加することになってしまった。

 この年は学校の体育祭さえバックれた(というか寝坊していく気にならなかっただけなんですが…)のですが、種目が障害物競走で面白そうだったのと、いっちゃんも舞ちゃんも来ると言う事で参加するしないはどうでもよく、休日に会う口実ができた事を素直に喜んだ。


 で、当日はレースの直前に現地入りして何の準備も無くそのままの形で走ったように思う。で、走る順番を決めるのだが、どうも4人中2人ははずれくじらしいのだ。で、じゃんけんで買ったのはラザと私。

「お前ら年下のクセに先輩に配慮は無いのか 配慮は」

と冗談めかして言った周さんはその後、口の周りを小麦粉だらけにして飴玉を探す役になった。銀さんはコーラのイッキ飲み。正直当時の私にはどちらも辛い役回りだっただろう。スカしていたあの頃の私には。(今思うと かなりオイシイ役だがなぁ/笑)


 秋の陽射しは穏やかで暖かく、丘陵に吹いた風も緩やかで、それはあたかも全てが我々の味方であるような錯覚に陥るくらい好意的なものだった。



2002年09月23日(月) 解なきこと

 
 時間の前後はあるかもしれないが、この秋に周さんを除いた主要メンバーで花火大会を開いた河原へ放課後に出かけた記憶がある。

 いつものようにバカ話から発展して、ひょんなことからそこにいた男子(銀さん、ラザ、タケダ、私)全員で立ちションをすることになった(笑)。そこで出る話題は女性の前では語れない男だけのバカ話。限定すればマグ男の陰口なのだが、この集団でそういった個人に対する陰口などはむしろ珍しいほうで、そういった攻撃の対象はもれなく集団から隔離したいか、もしくはしたか、そういう人間であった。


 周辺を散策後、休憩所に落ち着いた一行。そこで銀さんがこれまでのムードとは一変する事実について語り始めた。それは周さんと杏さんの関係の破局が成ったこと、杏さんの体を蝕んでいる病のこと、ふたりそれぞれに対する弁護。それは私の知らない事実ばかりであった。おそらくその場にいた人間で最も無知であったのが私だった。

 実は当時の私は男女を問わず、上の世代と交わることに関心がなかったのだ。その上で訪れた文化祭後の在校生だけの蜜月は私にとって最も理想的に見えた光景だった。

 ラザは周さん本人から、いっちゃんは杏さん自身から、語られていたであろう事実がこの後の終息へと影響したのは疑いないし見過ごすことはできない。ただ時が経過して思うのは、私自身が殊更に中立でいたかったのはこの頃が始まりだったのだろう事だ。

 中立になってそこで時間を使って考えることをしていたかどうかは疑問だが、素直な感覚として、私はそこに参加していた人間を失いたくはなかった。周さんも杏さんもいっちゃんもラザもタケダもハマちゃんも...失いたくはなかったのだ。





2002年09月22日(日) 部費

 中学生以上になると毎年全校集会で会計報告なるものがあったはずだが、今となってはよく覚えていない。高校に上がってから曲がりなりにも生物部の部長を務めたので、2年の春に生徒会に呼び出されて部費の請求額の会議かなんかをやったのを覚えているだけだ。


 文化祭が終わってから部室に来る人間がひとりふたりと減っていき、もともと文章を書くだけなので部室で行う活動など平時には無いので、1年生などは顔を出して早々に帰宅する、そんな秋の萌え始めた頃だった。

 部室にいつまでも残っていたのはいっちゃんと舞ちゃん、ラザそして私の4人。そんな日々が続くことになった。もともと部室には遊び道具が豊富だった。トランプをはじめとしてウノ、百人一首、将棋、億万長者ゲーム、バスケットボール、テニスラケット、演劇で使った木刀などなど。マンガ本もマスターキートンや北斗の拳、エリア88などが段ボール箱に山積みだった。自習の多かった我が校だったが、2年までは律儀に図書館で勉強していた自分が別物になったようにマンガを読みふけっていた(笑)。

 ある日、放課後に4人で最寄の百貨店へ出かけた。もうそれ自体が楽しかった訳だが、その時は新しい遊び道具を仕入れよう! ということになって出かけたのだった。ふと目に留まったのは2つのボードゲーム。その時は『スコットランドヤード』というゲームを買った。会計でいっちゃんが領収書を我が部あてで品代として切ってもらっていた。

 学校に帰る途中にそれを彼女に聞くと「部費で落ちるから」といった返事。どうも部費を使わないと来年の決算で減らされるとのことで、このあたりから日本の社会構造はどこもかしこも似たようなことをやっているのである(笑)。


 その次の年(ようするにハマちゃん世代が部長になった年)は「品代」では経費として認められなくなったようだがね。


 さらに付け加えると、いっちゃんは近い将来に部を去るので次年度の会計を気にする必要も無かった訳ですがね(笑)。





2002年09月21日(土) 季節が秋へ


 文化祭後はこれといったイベントはなく、周さんも銀さんも大学の授業が始まったこともあり、夏休みのように四六時中対面しているといった時間が急速に減っていった。週に1回のバスケットもこの頃には参加する3人だけで行くようになっていた。

 我々現役の高校生組とOB・OGとの橋渡しをしていたのがラザだった。彼が望む望まないを別にして、あの頃の彼には各方面からの情報や思惑が集中しすぎていた。彼が立派だったのは、そういったパワーバランスを融和させる方法として自分の信念を曲げなかったことだ。私がラザの立場だったら、きっとあの場所から逃げ出しただろう。まあ遅かれ早かれ、いずれそうなるのですが。


 文化祭が終わって、当面の問題があった。
 特にラザが憤っていた問題は、いわば「部外者」が持ってきたものだった。ともすれば昨年まで私もその一人だったはずなので、ドアに張られた一枚の紙を妙な心持ちで眺めた。

「部外者立ち入り禁止」

 個人的に思ったのは、この紙で根本の問題が解決する期待など誰もしていなかったはず、ということだ。そんなもので秩序が保たれると本気で思った我々は若かった。いや、結果としてこれ以上ないくらいの形で部室は平穏になった。それが自分たちの望んだ未来だったかどうかは別として。


 すっかり忘れていた「人間の無力」が日ごとに露出していった。生滅が自然であるように、悪循環が必ずやって来ることを私は学んだ。





2002年09月20日(金) 文化祭


 朝帰りをして睡眠を摂ってから登校したのは昼に近い時間だったと思う。はっきり言うと文化祭の最中のことはほとんど記憶に無い。いっちゃんと周さんが中心になって下級生を使って切り盛りしていたので、3年である私たちの当日の仕事は無かった。なので客用に用意する予定の茶菓子を暗幕の裏で拝借するくらい時間を持て余していた。

 ラザもタケダも各々勝手に登校していたのでどこに行ったか分からない。やることが無いからといって文化祭で沸き返った校舎内を一人で見て歩く気は起らず、部室に行くことにした。

 その時に考えたのはきっと仲間たちの交友についてだっただろうか。この部屋の人間関係だけが全てでない彼らに奇妙な嫉妬を感じていた? 楽しみを共有できる空間が別にもあることへの嫉妬。特にいっちゃんに対して強くそう思った自分はもう立派に恋をしていた。前夜、特別な思い出ができた喜びと彼女について実は何も知らない自分と、そのギャップはどうやったら埋まるものなのか、そこに考えを及ぼすほど切羽詰っている訳でもなくやたらと楽観的だった。まあ今でもその辺に関しては変化していないかもしれないが。ただ、何か腑に落ちない、目の前にいっちゃんがいないことへの不満でわだかまっていたことは事実だ。


 そんな感じでボケッとしていると、不意に部室の扉が開いてハマちゃんが入ってきた。おそらく当時の彼女も居場所を見つけられずに同じ場所へやってきたのだと思う。

 私の姿を認めるや、ハマちゃんはにっこりと笑った。彼女の笑顔は少女だったあの頃が最も輝いていたように思う。まあこう書くと本人には大変失礼だな...(笑)。その時私は2つのイスを向かい合わせて足を片方に伸ばして座っていた。そこに近づいてきた彼女は何を思ったか私の足の上からイスに腰掛けようとしたので、つい足を引っ込めてしまった。

 。。。彼女には今でも悪いことをしたなぁ〜と思っている。どうも私はそういうところも気付くのが遅い。ハマちゃんはイスではなく私の足自体に腰掛けようとしていたのにそれを引っ込めたものだから、私の目の前でバランスを崩してイスに尻餅をついてしまった。


 そこで初めてハマちゃんの意図を理解した私は出来得る限りの言い訳をした(^^;;
が、しばらく彼女は口を聞いてはくれなかったのだった。ただイジけた感じで恥ずかしそうにいつまでもうつむいている彼女の横顔はかわいくて素敵だと、正直そう思った。

 これならまあ面食いのタケダの目に留まるのも無理はないな...。って普通そこまで慕われてるなら、いっちゃんはほっといてそっち向くだろう?(笑)





2002年09月19日(木) フェード・ダウン


 再び部室に戻った頃はまだ薄明前で午前3時頃だったと思われます。わざわざ用務員のおじいさんの部屋の前を通って部室に行きました。誰が扉を開けたのかは覚えていません。私はシンガリから着いていくのが好きであの時もその例に倣っていたはずです。

 限りなく最後に部室に入る。照明を灯していないその狭い部屋の真ん中にある机を囲むように腰掛ける所があるのだが、そこには2人だけ腰掛けていたように思う。それは杏さんと『マグ男』だった。マグ男は私と同級でこの時期によく部室に来ていた他者だった。

 それまでの歓喜と熱狂の渦が一瞬ドス黒くなったように停滞したのを感じたのは、私が最後に入っても誰一人腰掛けようとしていないその違和感だったのだろう。それを打破したのは杏さんの信奉者であるいっちゃんだったと思う。おかげで何事もなく時間が経過していった。それが是か非かは別として...。

 程なくして部室の扉が開いて、数時間前の公約どおりに舞ちゃんが登校してきた。その時間になってようやく薄明が始まってきた。余談だが、私はこの暗がりで初めて「舞ちゃん」と彼女に呼びかけることが出来たのだった。


 さすがに落ち着いてみると眠気が襲ってきた。それは他の横浜組も同様で、帰宅したい人間は一度帰ってから文化祭に参加することになった。

 帰りは銀さんに送ってもらった。同乗者は恐らくラザ、ミルだったと思う。その帰りの中、銀さんが先ほどまでのノリの良い口調とは明らかに違った厳しい口調で言った。

「何が『青先輩のこと口説いちゃおうかな〜』だよなぁ」

それは横浜入りする前の車中で住吉が吐いた言葉に対する素直な拒否感だった。当時の私は周囲の事情に疎いほうだったので、彼個人が住吉とは相性が悪いのだと単純に受け止めたのだった。実際このときに銀さんがどこまでの気持ちでそれを吐いたのか分からないが、私の想像以上に、事態は我々の望む方向とは別のベクトルを示して突き進むのだった。

 
 私はただ...自分にとって快い時間があればそれでよかったのだった。

 残念ながら。





2002年09月18日(水) プライド


 横浜から帰りの車中は助手席にいっちゃんで、横はタケダだった。もうすでにかなりのテンションで喋り疲れているはずの銀さんをはじめとして、今では揃うことなど有り得ないそのメンバーでも、行きより帰りのほうが楽しかったのは言うまでもない(笑)。

 帰りは首都高を使うことになった。パーキング等が極端に少なく強行軍ではあるのだが、私個人としては全く心配などしていないし、それを話題に車中で盛り上がっていたくらいだった。トランシーバーでその話を簡単にすると、しばらくして料金所を越えてすぐに周さんの車が路肩に寄せてハザードをつけた。車外に出た周さんは何故か私に手招きをしている。

 何事か? と話を聞いてみると、この先もトイレが無いのでそこの茂みで用を足せるという気遣いだったのだ。私の下の用事はそれほど切羽詰っていなかったので丁重にお断りしてまた2台が走り出した。

銀さん「やっぱそこでしろってか?」
私「ぼくにもプライドがある」


 なぜかその私の一言が大ウケだった。


 その後、本当にしばらくしてから学校の近くのファミレスに滑り込む頃はさすがに用事も最高潮で「ちょっと行ってくる」と小声でいっちゃんに告げてから真っ先にトイレに駆け込んだのだった。





2002年09月17日(火) 1枚の写真


 横浜ベイブリッジの袂にある大黒パーキングに着いたのはおそらく深夜0時頃だったと思われます。色々なことに考え込んでいた2年生までは夜になると異常なくらいの睡魔が襲ってきて睡眠だけはしっかりと取っていた。取りたかったのではなく気がついたら寝ているのだった。その代わり昼間はギンギン。自分はストレスなど溜め込むような性格ではないと信じていたが、今思うと精神的にはかなり不健康な学生だった。それが3年になり部員たちに溶け込むようになってからは夜が眠くないのだ。決まって眠いのは数学と生物の時間(笑)。実際寝ていたし...。夏休みに入ってからは、寝るためだけに家に帰るような状態で睡眠不足が苦にならない日々だった。もちろんこの時も私個人は眠気などあったはずはない。他のメンバーも同様だっただろう。

 ミルが撮影者となり、つり橋を背景に集合写真を撮った。その中の私はどこからどう見ても学生で、ややはにかんだように笑っている。

あの頃は写真に撮られることが嫌いだった。写真は正直だ。学校生活に溶け込めずに毎日仏頂面でいた自分がカメラを向けられただけで笑えるはずもなく、だから高校生から22歳くらいの時に撮った写真はほとんどない。

あの時あそこで撮った写真は、私だけでなくそこに写っていた人間の現実をよく現していると思う。人間には皆それぞれ勝手な思惑があって、それを実現しようとする者、考え込む者、背を向けてしまう者、抗っても抗っても先など見えなかった。


今手元にその写真はないのですが、憶えています。

真ん中にはじゃれあうようにして住吉にちょっかいを出している周さんの疲れた笑み。
その右隣にいっちゃんがいつものように満面の笑み。
いっちゃんの肩に手を置いてラザや私のほうを覗い見る大人な横顔の銀さんの笑み。
左端には視界外のなにかに向かっておどけたような表情をする童顔のタケダ。
その横に私。
私の後ろに爽やか系で微笑むラザ。


 正直言えばその写真はあまり好きなショットではない。皆あの瞬間を楽しんでいたのに、何か痛々しいのだ。何回も見てはいないのに記憶に残っているのはたぶん、その後の仲間たちには色々とあって、それでも今現在において「仲間」と感じている人間たちがそこに写っているからだ。

 恥ずかしながら、この横浜が思い出になるまであれから10年もの時間がかかってしまった。つまりはいっちゃんと再会して当時の記憶をシンクロさせる自分を「不自然だ」と彼女に指摘されてはじめて私は...そこに写ったいっちゃんの笑顔を忘れられたのだった。





2002年09月16日(月) ベイブリッジ


 私のターニングポイントとなった地点がこれまでいくつかあったのだが、その瞬間に恋をしていた相手は3人とも「横浜」という地で会っていた。先に書いた『嶋さん』と最初で最後に会った時も、これからお話しする『いっちゃん』の笑顔に確定的な魅了を感じた地も、今現在付き合っている彼女さんとはじめて会った地も...横浜だ。

 自分ではそれほど縁のあった地だとは思っていないし、数えるほどの回数しか訪れたことのない場所であるが、どうも因縁があるらしい(笑)。


 行きは一般道を通って行ったと思う。運転や道順などは周さんや銀さんに任せるしかないので、高校生たちは異様で甘美な暗がりの車内で大いに盛り上がっていた。

 私は行きも帰りも銀さんの車にお世話になりずっと銀さんの真後ろ。行きは助手席に住吉で後ろは確かミルだったと思うが、もしかしたらミルはいなかったかもしれない。それくらいまだ影の薄いというか簡単にいえば人見知り中だったのだろうが、彼についてはそう簡単に言えない面があるので、それまた後日あらためてお話します。

 銀さんの車は終始後ろだったので、前の車の後席に座った一際長身のラザがやけに目立っていた。持ち込んだトランシーバーでのやり取りとシンクロして車内が歓喜に包まれる様がラザの頭の振られ具合でよく分かった。

 そう、みんな楽しんでいた。拡声器から聞こえるいっちゃんの声に緊張しても、それすら楽しいと思う自分がいた。彼女と冗談を言い合える自分がそこにはいた。それに反応して笑いに包まれる様子が拡声器から届いた。

 とりあえず目的地は車で出てから決める、今回もそんなノリだったようだ。時間的に横浜周遊を楽しむ時間などはないので、当時完成して間もない横浜ベイブリッジを見に行くことで全会一致。


 さて、これから一路横浜へ行くとしますか(笑)





2002年09月15日(日) 文化祭前夜


 金曜の授業が終わってから、週末を利用して行われる文化祭の準備に取り掛かった。前日まで製本その他の作業でアタフタしていたが、なんとか準備の目処が立った頃部室でまたもやひとつの発案が持ち上がっていた(この日ではなかったかも知れない)。この頃の集団は核を形成する我々と、それを取り巻く大勢といった具合に大別されたかと思う。その中核をなすメンバーで文化祭前夜に横浜へ行こう! ということになった。製本した冊子を文化祭で借りた教室に運ぶ作業をしていた私が部室に帰ってきたときに、耳打ちのようにその計画を知らされた。というのも、部室には連日のように部外者も含めて雑多な人間が押し寄せており、現実的にもその全てを連れてドライブに行くことなど不可能なのだ。いわゆる情報管制なのだが、まあそれを言うなら文化祭前夜に高校生が深夜の横浜くんだりにいること自体不可解なのだ(笑)。

 中核メンバーで一人参加しなかったのが舞ちゃんだった。他のメンバーはともかくとして、彼女はお嬢さまだったので(笑)単純に家庭事情が許さなかったのと、それでも参加したがった彼女を周さんが説得して思い留まらせたのだ。いやね、何の理由で高校生が夜に家をあけられる家庭があるって?(笑)。皆それぞれ勝手な理由をつけられたし、それが許される家庭だったのだが、舞ちゃんはそうはいかなかった。

 で、舞ちゃんは我々の帰宅(帰部室)にあわせて朝早くに「文化祭の準備をする」といった理由で登校するという(今思えばこれもかなり無理のある/笑)妥協案で納得をしてもらったようだ。

 車は周さんと銀さんのマイカー2台。ラザ、タケダ、ミル、いっちゃん、住吉そして私。当時は携帯電話などなかったが、車両間の連絡は当時からいろいろな面でマニアックだった周さんが結構本格的なトランシーバーを持っていたので問題なし。

 出発したのは近くのファミレスで簡単な夕食を取ってからだったと思うので既に十分あたりは暗かったはずだ。

 様々な仲間たちの思惑と共に、車は一路、横浜へ向けて走り出した。





2002年09月14日(土) 時期部長候補


 私が3年の時の夏の時点で部長は2年のいっちゃんが務めていた。新入生が入部当初は6人ほどいた中の一人、『住吉』が新入生のまとめ役の様な感じであった。そのためか早い時期から「時期部長候補」と目されていたのであるが、日が経過するにつれて出てくる新入生たちの強烈な個性の中にあって彼女はどちらかといえば「学生たる道」の王道を踏んでいる、(個人的な印象として)良くも悪くも全国の高校生の平均化した像として私には映ったのだった。子供のクセに大人ぶって背伸びしてみせるその様が妙に目に付いたのだが、必要以上に自分を大きく見せたがる人間が嫌いだった私の歯牙にかかることはない子だな、と思った。こう書くと住吉が大っ嫌いだったように映るかもしれないが、そういう訳ではないので一応弁解しておく。

 夏休み期間は我々の異様な熱気に新入生の入る隙間が無いような状態であったが、それをまず打破して仲間に加わったのが住吉だった。彼女なりに高校生活にも慣れて我々の楽しみ方を理解したのだ。彼女は頭の回転が速く適応力もそれに対応しようとする気概も十分持っていた。

 9月になると周さんと住吉は共に帰宅の途につく機会が増えていった。それは学校を起点にして2人の帰る方向が同じだったというだけのことだったが、縁というのはそんなものなのであろう。鈍感な私でも雰囲気のよく見えたその裏にちょっとした落とし穴があるとは思わなかったが...(笑)。

 その後2人は付き合うことになったが、特に関心は向かず、賛成でも反対でもなかったのだ。だがその一報を聞いた時に(は? そうなの?)とか思ったのは、文化祭の前夜に「あお先輩のこと 口説いちゃおうかな〜」とかいう台詞を吐いた彼女の「真実」の場所がどこにあるのか益々分からなくなったからだ。

 まあ当時の周さんには申し訳ない言い様かもしれないが、悪く言えば「あ〜 こういうのは ほっとけほっとけ」って感じでした(笑)。まあ場の雰囲気というのもあるし、若いなということもあるので大目に見たかもしれない。いや、自分自身がその熱気に飲み込まれて歓喜の中にあったので大して気にならなかったのだろう。

 その熱気が最高点に達する文化祭ウィークがやってきた。





2002年09月13日(金) 返答


 2年の頃は色々なことに対して考えをめぐらせていた私だったが、この頃は幾分気の抜けた(世間慣れ?)時期で、かつて忌み嫌っていた自分を演じても感覚に訴えてこないのだった。それを自分では「怠惰」と片付けるだけでそれを改善しようという気概がなかったのは事実である。

 周さんに問われて、私は久々に考えを脳内に張り巡らせた。短時間ではあったが、その周囲の沈黙が気にならないくらいに、今自分が言うべき言葉を捜した。ただこういう時に浮かぶのは、普段から自分の中に多く感じている「自分の中の真理」それが出てくるだけなのだ。あとは意を決し、己が考えを信じて言い出すしかないのである。


 今思うとそれは「第三者的」それ以上でも以下でもなく、誤解されても当然なくらい冷めている言葉だったかもしれない。その台詞を私が吐いた後、周さんはラザを車外に促して2人で話を始めたのだった。あの時はそれが何の意図かなんて考えも及ばず、自分の言った言葉の影響力など知ろうともせず、ただただ自分にとって正義であれば自分は救われるものだと感じていた。おそらく周さんは私の舌足らずな言葉を客観的に評論してラザに伝えていたのであろうが、それは大いに私の弁護になっていたと確信している(笑)。

 「先輩、ごめんなさい」 唐突に真後ろからいっちゃんがそう言った。その中にどこまでの謝罪が含まれいたのか今もって知る由もない。あの時の私は振り向きもせずに駅前の人の流れを車窓に捉えて頬杖をついたまま、何か釈然としない自分の矛盾を感じていたのだろうか。あれは「後悔」なのだろうか...? 


 最後まで迷ったが、当時私が3人に向かって言った言葉は書かない。ただあれを私の口から聞いたラザが今もって私の友人でいる事実が不思議なくらい、彼を痛めつけるに十分な言葉だったはずだ。

 私もラザもお互い類友で鈍感なのか??(笑)




2002年09月12日(木) 詰問


 確か文化祭前の9月、まだ残暑の厳しい頃だったと思う。

 周さんの車は空調が効いていて、車内は半袖では幾分肌寒いくらいだったかもしれない。運転手はもちろん周さんで助手席に私。私の真後ろがいっちゃんでその横がラザ。


...私は今でも結構鈍感なのだが、それを示す端的な事例がこの年の夏休みにあった。あの日は例のように部室で集まった面々と共に銀さんの自宅近くの河原に涼を求めに行った時のこと。あたりはすっかり日も落ちて暗かったので20時は回っていたはずだ。

 ふと周囲を見渡すと前述の4人。そこでふと周さんが私に話しかけてきた。それがかなり唐突で場にそぐわない内容だったのだが、それに違和感を覚えつつも、彼の「ちょっとあっちで話しよう」という促しに素直に答えて我々はラザといっちゃんを2人残して帳の中へと姿を消した。それがラザに対する周さんの気遣いだとはツユ程も気付かなかった私は2人の見えなくなった帳の中で熱心に周さんのふった話をし始めたのだった。

 後日ラザが「あの時2人が気を使ってくれたのに、何も話できなかったよ」といった具合で我々に謝罪してきたことで初めて私は周さんの気遣いに気付いたのだ。 ...


 車が最寄駅のロータリーで停車した。そこで人待ちをする間だったと思うが、周さんがラザの片思いといっちゃんの気持ちの核心に迫るために何故私を同席させたのか? それは普段私が発揮していた第三者的な論客としての意見を求めるものではなかったはずだ。そして明らかに私はラザの恋を支持する「味方」であったはずなのだ。
 で、周さんがトツトツと語りだしてそれに後の2人が相槌を打っていくことになるのだが、私は終始無言で彼らの真剣なやり取りをただ聞くだけだった。

(正直、この手の話は苦手だった/笑)

 周さんの説得も、この頃はまだ未熟だったのかもしれない。だがその後幾度となく共感していた彼のその論破にはじめて反駁した私を作ったのは紛れもなく「いっちゃん」なのだった。彼女に対する気持ちがそれほど大きかったとは自分でも驚きだったが、その反駁はまだこの時のことではない。

 遠くで眺めているような姿勢でいる私に苛立ったように周さんが話をふったのは、今ではそれが友人として当然のことだったと理解している。

周さん:「あおちゃんはさっきから黙ってるけど、ラザのこと好きだろう?」
私  :「...そうですね。好きです」
周さん:「○×さん(いっちゃんの苗字)のことも好きでしょ?」
私  :「...好きですよ」
周さん:「じゃあなんで黙ったままなの??」

 その語気はいつになく強く、私に返答を促したのだった。





2002年09月11日(水) イッキ


 毎回バスケの練習が終わった後は銀さんが自宅まで車で送ってくれた。今でもあまり印象は変わらないが、私にとって彼はとても大人の「男」に見え、非常にカッコいい存在であり、取っ付きづらい人でもあった。ルートからいって毎回ラザを下ろしてから私の家に向かっていたので最初のうちは緊張して何を話そうか色々考えていたのだ。ただこういった機会が重なって大分彼との間が近くなっていったのも事実だった。

 とある練習から帰宅した夜、リビングに行っても誰もいなかった。その日はどこかでダベったかなんかで時計の針は22時頃を差していたと思う。あの頃は自分の家族がどこで何をしていようが、居るのかいないのかさして興味もなかった。実際いないみたいだったが...。

 喉が渇いたので冷蔵庫で飲み物を探した。あいにくと牛乳しかなかった。スポーツ後に喉を潤すに牛乳はナンセンスな気もしたが、この際のどに通れば何でもよいと思いパックのままゴクゴクと飲み干した。いかに夏といえど、いや、夏だからこそかもしれないが、冷蔵庫で冷やしてあったものをそんな威勢良く飲んだものだから、カキ氷を食べた時に頭がツンとくるアレに見舞われてしまったのだ(笑)。

 しかもそれが牛乳というのだから我ながらお恥ずかしい。その時は油断もあったのかかなりの時間眉間を抑えてうずくまりそうに腰を曲げて冷蔵庫の前で唸っていたはずだ。

 家族がいなくてよかったかもしれない(笑)。





2002年09月10日(火) 発案

 バスケットのチーム名は『フニッカーズ』だった。その練習に参加した当初は周さんをはじめとしていっちゃんや舞ちゃんも毎回のように足を運んで練習を見学していた。もともとそんなに運動が得意でもないし体力があるような体つきでもなかったが、私自身はとても楽しんでバスケットをしていた。中学の頃、「自分は実はヘタクソ」ということを悟って以来(笑)バスケットの一番の楽しみであるシュートをすることが出来なくなっていた。まあ背が小さいということもあったのだろうが、当時の私は持ち前の非力さも重なって、部活に対する拒否感が増していく一方だった。

 時は過ぎ3年後、背もすっかり伸びた。目線から見える景色も人間模様も変わった。

 チームのメンバーは色々な世代の人間が交じっていた。チームをまとめるのは40代くらいの人がキャプテンで、銀さんは何かとそれをサポートしているようだった。我々のように高校生もいれば社会人の背の小さな女性や実業団の選手をやっている長身の女性もいた。

「今日は調子いいじゃない?」とキャプテンに言われるほど、私は中学の頃に溜め込んだ鬱憤を晴らすかのように楽しんでいた。

 とある練習の合間、休憩で水道に水分補給をしに行った帰りだったと思う。体育館の出入り口で談笑する汗まみれのラザと周さんたち。仲間たちが私が帰ってきたのをみつけると皆満面の笑みで私に聞いたのだった。

「修学旅行に別働で着いて行くって案があるんだけどどう思う?」

 その時はこれといって深くも考えず、実際想像しても楽しそうだったその発案に即答で賛成の意が口から出てきた。

 我が校は2年次の秋に修学旅行があり、その時はいっちゃんと舞ちゃんの修学旅行に我々が密かに着いて行くというものだった。京都での自由行動の時間を利用する訳である。

 ふと我に返って冷静に考えた。あれから1年前、修学旅行の頃の私はどんなだっただろう? いったい私の中で何が変化したら今のようになったのだろう? いや、実際は周囲が盛り上がっているだけで私そのものの本質は変化していないんじゃないか?? ...





2002年09月09日(月) 夏祭り(書き忘れ)


 1度行って思いがけないくらい楽しかったそのバスケットの練習に毎週通うことになった。大学生だった銀さんは9月上旬はまだ夏休み期間中で、授業の終わる頃に部室へやってきて練習の始まる時間に合わせて体育館まで車で送り迎えをしてくれていた。

 そのバスケを始めた頃もそうだが、あの夏は周さんをはじめとして、いっちゃんや舞ちゃんも含めて2台の車で色々と遊びに行ったものだ。そのひとつに銀さんの地元の夏祭りがあった。

 中学の頃から誘われても行かなくなった夏祭りだったが、あの時は何をしていても楽しかった。上はTシャツ(または標準Yシャツ)、下は学校標準の学生ズボンという格好で色々な所に出かけた。もちろんこの夏祭りもそうで、校則の緩い我が校の生徒はみんな同じような格好だったが、標準服を着ているのは私くらいだったか?(笑)

 夜店の中を練り歩き、一通り堪能した集団が祭りの喧騒を避けるように公園の木立の隙間に滑り込んだところでようやくそこにいる人間全員の声が判別できるようになった。そんな中、私といっちゃんを残して他は連れションに行ってしまったことがあった。

 それを「チャンス!」とか思ってはりきって話をするような得な性格ではなかった私は、集団の中にいる彼女と話をすることには慣れたのだが、彼女個人としなければならない会話の必要など感じていなかったし望んでいた訳でもなかった。そういった自分が本当に彼女に恋をしているのかどうか自分でも疑問に思っていたくらいだった。

 ...てな訳で、ひとりふたりと仲間が帰ってくるまで私は一言も彼女と会話しなかった(笑)。暗がりの中、夜店のほのかな灯りに浮かんだ彼女の横顔を ちらっ と見るのが精一杯。

 はははは。
 




2002年09月08日(日) バスケット


 活気に満ちた夏休みも終わり、3年の2学期が始まる頃だっただろうか、ノリとしては益々加速度を増して熱くなっていた時ひとつの提案が銀さんからあった。それは銀さんの地元が中心となって毎週行っているバスケットのチームを見に来ないか、というものだった。銀さんはバスケットの経験はなかったが、高校時代は陸上部長距離班のエースで馴らした持ち前の体力があり運動が好きだったようだ。
 
 ラザは行く前から大乗り気だった。この頃から周さんや銀さんとの信頼関係が増していった彼にとっては当然の帰結だったかもしれない。最初迷っていた私も「1回だけなら」といった感じでついて行ったのを覚えている。

 文化祭で作品として書いた『秋』の「オレ」と同様に、中学で部活を引退する頃の私はバスケットに対して逃げているだけで、好きで始めたそれが非常な重荷だった。当時のそんな思いを後悔しつつ書いたのが『秋』だった。物語の中は自分の思うように書ける。再びコートに立つ、授業では出来なかった、本気でバスケットが出来る場所が用意される...、果たして私は「以前のオレ」のままなのかそれとも? 

何事にも後ろを向きたがる自分にとってこの頃のノリは私を前へ進ませる潤滑油だったことは言うまでもない。





2002年09月07日(土) 台風


 あの夏休み中に一度台風が来た。歳を取った今現在ならそんな状況を押してでも外出をする気になんかなるはずがないが、当時は行ったのだ(笑)。

 といっても予報で台風がすぐそこにはいたが、朝の時点ではまだ風雨共に穏やかで登校に支障はなかったのだ。それを確認するとなぜかまたひと眠りしてから昼近くに自転車でいつものように学校へ向けて走り出した。

 家を出るときは風だけで雨はなかったが、明らかに一雨来る前の風のざわめきを感じた。学校までは最低でも23分(自己最高/笑)。その間に雨の降らないことを祈って合羽代わりのウインドブレーカーと着替えをリュックに詰めていざ出陣!

 案の定、道中半ばで雨が降り始め、学校に着いた頃は大雨。降りはじめで合羽を着れば多少は凌げたのだろうが、元来の甘い見積もりとそれ以上の激しい天気の変化に私の思考は無力だった...。

 ただ、そんな大雨の中ひとりでエッチラと学校に向かっているその様がひどく滑稽に思えて笑みしか浮かばない。そんな私は周囲から見れば不気味だっただろう。部室に行けば誰かしらがいるはずだった。たとえこんな雨の日でもそれは私の中で確証があった。こんな台風ごときに阻まれるような半端なノリではなかったのだ、当時の我々の持っていたエネルギーは。

 普段は自転車置き場に止めて部室に歩いていくのだがそんな風雨では置き場の屋根くらいでは役に立たないので、1階の渡り廊下にあった部室の前まで行くことにした。視界はほとんど定かではないが体育館の渡り廊下で雨が凌げてからはっきりと私の視界に現れたのは、私を確認したいっちゃんの苦笑交じりの笑みだった。それは「呆れ」というより「よく来てくれた」といった歓迎の意が強かった。
「先輩、よく来ましたね!」と言った彼女の声で部室内の人間も出てきた気がする。その中には私が来るだろうと想像していたラザと舞ちゃんの姿があったはずだ。
 
 この部室の前に池があって台風になるとよく氾濫していたのだ。そうなると部室の中も浸水する。それが心配でたまたまいっちゃんが部室の外でそれを眺めていたのだろう。もしかしたらラザも一緒に見ていたのかもしれないが、少なくとも当時の私にはいっちゃんその人しか視界に入らなかった。

 なんかこう書くと薄情ヤロウだが実際私はそうだったのだろう(笑)。一人になると冷静に周囲の状況を観察できるくせにいざ仲間たちといるとその場のノリと、とりわけいっちゃんの存在に素直に魅かれる自分しかいなかった。そんな日々のちょっとした変化にラザが気がついていたのか否か、今でも聞くのが恐いのだ(笑)。





2002年09月06日(金) 次の朝


 そうやって考えた次の日の朝はまたいつものように快活だった。まあ2年生の頃に比べれば朝から気分が良いのは格段の変化であり、若い力の持つ活力をやっと自分も得られた気もした。

 「だいじょうぶですか? 先輩」

 いつものように登校して部室に行くと数人がすでに来ていて、代表という感じでいっちゃんがそう私に聞いたように記憶している。我ながら大人気ないことをしてしまったなと苦笑しつつ「だいじょぶだよ」と返答してもまだ疑っている面々の気持ちは

 「怒ってます?」

と言ったいっちゃんの言葉に集約されていた。

 どうも私が「帰る」と言い放って部室を去った後、残った人間たちで色々と私のことについて話をしたらしい。それがこの朝のいっちゃんの言になったわけだが、そういった自分の失態はともかくとして、仲間に気にしてもらっている自分の存在があるのだと変に嬉しかったのだ。

 私は自分の考えていることについて、心を許せる人間に聞いて欲しかった。当時信じてはいなかったが、それが私の恋の具体的目標だった。恥ずかしながら私が恋愛に「肉」を求めたのは今の彼女さんが初めてである。自分でも分かっていたが、どうも私の求めているものはプラトニックなものだったようだ。それがいっちゃんの言う「無害」であり物足りなさでもあったのだ。人の過剰な貪欲を嫌っていた私には有り得ないその資質が恋愛に役立ったのはせいぜい中学時代までだろう。そういった意味で私の恋の手法はずっと中学生のままだった(笑)。





2002年09月05日(木) ふと考える時間


 周さんといっちゃんの復帰後はまた何事も無かったかのように活況となった部室。真夏のエアコンも無い狭い部屋に入ることの出来る人間の数は当然ながら限りがある。さすがに8月も中ごろになると部外者は一部を除いてあまり顔を出さなくなった。というのも、数日話題に参加していないだけで集団のノリの流れに乗れなかったのだ。なぜかこの部は個性的で綺麗な子もいればかわいらしい子もいるし優しげな子もいるし、強がってる子もいた(笑)。男たちにとっては目移りするような花園だ(笑)。彼女たちが部室に来る予定に合わせて来ていた輩もいたくらいだ。ただタケダのような部員ならともかく、部外者でこれをやっていた人間はことごとく我々の持つ雰囲気の中には入ってこれなくなってきた。それは裏返せば集団に「仲間」と認められていない証拠でもあり、徐々に人間の淘汰が為されていく。

 周さんは杏さんとの関係をいかにするべきかで悩んでいる日々で正直なところかなり弱っていた。銀さんは地元の幼なじみの女性と付き合っているのかいないのかよくは分からないがお互い魅かれているような関係だった。タケダはハマちゃんに思いを寄せるも傍観の姿勢。ラザはいっちゃんにアタック継続中。

 この部に関わっていた男子の恋の方角は、「終」「始」の違いこそあれ、みな向いている方角が確定していてそれを仲間と目される周囲の人間が認知していた。だからこそ無駄な利害の衝突も無く楽しげに回っていたのか、少なくとも男子の間の結束は日に日に増していくのだったが、それに一人参加せずに蚊帳の外にいる自分がいた。もともと私は自分の恋を秘めることしかしてこなかったので、それを語る相手は対象の本人以外有り得ないのだ。当時の私はそういった自分のささやかな悩みを打ち明ける友人として彼らを選択することができなかった。そういった私の「拒絶感」が明らかに彼らとの間には存在していた。

 夜になると、なぜか昔のように考え込むのだった。いっちゃんへの想い。ラザの恋の成就。周さんと杏さんのぎこちない関係。銀さんにいまいち打ち解けられない自分。タケダの視線を感じていながらハマちゃんを上手に扱えない(あしらう?)自分。

 杏さんのカラ元気は見ぬふり。日に日に増すいっちゃんの笑顔の輝きとラザの告白を回避し続けることへの不審。ハマちゃんのいちいち目に付く私への信頼の表明に困惑。
 

「違う。私が求めている人間関係ってなんなんだ? 結局自分は周囲の人間を受け入れずに上面だけ揃えているだけなんだ」



 とある夏休みの部室、その夜にも相変わらず部室の中はどうでもいい会話の渦。それを心から楽しんでいない自分が存在する事実(まあそう思い込んでいた事実ね/笑)に抗えず、私は一言だけ「帰る」と言い放つとその返答の届かない先、すなわち夜の帳の中へ自分を消したかった。





2002年09月04日(水) 喪失感


 8月の中ごろだったか、いっちゃんが家族で親戚参りをする都合で部活を空ける日があった。それに周さんの個人的な都合も重なってその何日かの部室は別の空間のように静けさに包まれていた。
 当時すでに自分の居場所として望んでいたそこであったので、その2人が不在でも私は毎日通った。人間というのはとかく分かりやすいものだ。特に部外者は潮が引いたようにこの間は顔を出さなかった。要は目的が我々の部活の趣旨の賛同ではなくて、この部の異様な活気に対する賛同でしかなかったのだ。いや、それならばそれで良かったのだ...。

 そんなことを感じた私自身が毎日この部屋でいっちゃんの姿を見るのが楽しみでここへ来ていたのだ。そういった想いの主がいないこの部屋に素直な空虚を感じた。

 私以外でこの間も部屋に来ていたのは確かラザと舞ちゃんだけだった。今でこそ付き合いの長い我々で会話の成り立たない瞬間は無いが、当時は三者のキャラがそれぞれ「お嬢」「優男」「傍観派」だったので話が弾まないこと(笑)。いかに日頃から周さんや銀さんの牽引に頼っていたのかが分かる日々でもあった。全体的に、この部に関わっていた人間で現在でも私の友人である人間は、人との付き合い方はヘタクソというか不器用なほうだろう。まあ類友でうまくいっているということだ はは。


 この間は陽のあるうちに帰宅の途につく日々だった。





2002年09月03日(火) 夜更かし


 どういった訳で夜更かししたのか覚えてはいない。ただ、タケダと色々なことについて語り合っているのが楽しかっただけだ。

 あの頃は日が暮れてあたりが暗くなってもあの部室だけは活気があった。いや、あの夏の我が部はそんなの当たり前の時間だった。朝8時から夜の8時まで人の存在が確認できる部室であり、たまにそれ以降も残ってダベっていることもあって、そんな折は用務員のおじいさんによく帰宅を促されたものだった。電気を消しておじいさんをやり過ごしたこともあった(笑)。

 そんなとある夏の日、帰宅する方向が同じということで大抵毎日のように自転車で田舎道をタケダと共に走っていた。その日も部の仲間と会食でもしたかそれほど腹が減っていた訳でもなく、つい家に帰らずに地元の図書館横にある小さな公園で彼と話し込んでしまった。

 時間を気にしていなかった訳ではないが、気が付くと、朝だった...(笑)。

 とりあえず、こんな時間ではどうせテンション高くて眠れないので、一度家に帰宅して昼までに部室に行けばいいだろうと勝手に予定を立てて帰宅したのが朝の6時ちょっと前だった。

 いつもぐうたらで朝の遅い母と家族には無関心っぽい様子だった父が思いがけず二人して深刻な顔で存在する居間に入った私は正直狼狽した。どうも私の連絡不行き届きで両親は寝ずに待っていたのだそうだ。そのこと自体が私には不思議だったのだ。もっとも、彼らにとって私は「出来た息子」という印象があったようなのでそれが最近素行が不良になってくれば心配もするのだろうが、「不良の仲間にでも入ったのか?」という問い掛けには全く持って辟易するだけだった。そんな短絡的な考え方しか出来ない彼らは私にとって「大人」という人間たちの代表のような存在だったかもしれない。

 言い訳する気にもならなかった私は、素直にタケダと公園で話しをしていた旨を告げて、いぶかしがる二人の視線を背に受けつつ自室のベッドへしばしの安息を求めたのだった。





2002年09月02日(月) ワープロ


 中学でバスケをやっていた長身のラザは高校に入ってもバスケ部に入ったのだが、わけあって退部した。そんなラザと共にこの夏は早朝の体育館でよくシュート練習をしていた。その様が今思えば私の書いた最高傑作(?)「秋」のエンディングにそっくりといえばそうだったかな(笑)。欠けているのは一人の女性だけで。はは。(「秋」をお読みになりたい不憫な方はエンピツ宛にメールいただければいつでも差し上げます。しかもリニュ済! まっそんな物好きな方はいないと思いますがね/笑)。

そして練習が終わって部室に行くといっちゃんが来ている。そんな夏の日の始まりが多かった。学期中にあれだけ朝起きれなかったのに、夏休みに入ったとたんにいつもより早く登校しているオレ達っていったい...とか言ってラザと笑ったものです。

この頃、私の日記はもっぱらワープロで書いていた。今でこそワープロなんて前世紀的な代物でしかないが、当時はかなり重宝する編集機器だったのだ。

その日記に書いた内容で覚えているのはただ一つ。いっちゃんに対する気持ちとラザについてだ。
「彼の気持ちを超えることなど出来ない」
これが当時の私が実感していた正直な気持ちであって、そんな評価を自身にしている冷静な自分を呪ったりもしていただろうか? 

 考えるのはいつも自分のことばかりで、それでも順調に集団が機能しているように見えたあの夏。





2002年09月01日(日) _/_/_/ 回想 _/_/_/


 昨夜、お盆以来に会う機会のあった「タケダ」と、昨年の自身の結婚式に招待されて以来久々に会った「あか」と会ってきて昔の話や現在の近況等の話題で盛り上がってきました。私が今友人として付き合っている連中は例外なくあの高校に何らかの縁がある人々ばかり。なんか冴えてない心境だった自分と今ある人間関係の充実を照らして見てみると、それがここまで継続してきた理由は何だったのか、不思議な気もします。

 昔の友人たちの所へ戻ってきて以来考えているその理由の結論は、それまでに経験したさまざまなシーンによって変化するものかもしれないが、あえて簡単に総括するなら、「私は幸運の持ち主であった」と。

 そう、私は運がいいのだ。超常現象とか運命とかはあまり信じていない部類ではあるが、今ある私が私であるために要した過去は、全て必要なものだったと思う。その中で強く縁のあった人たちだけが今私の友人として存在することの幸運は、きっと私の生涯で最も喜びに満ちた報酬としてこれからも受け取っていくのだろう。


 で、昨日タケダに会ったことで昔の回想ネタをもらってきた(笑)。今さらって気もしますがねぇ、内輪ネタなんで。

 7月20日の修学旅行で触れた海くんの何でも逆から読む習性例がもう一つある。2年の秋ごろだったか隣町で開催する全国的にもそこそこ大きな祭りがあった。そこに隣のクラスの連中で行った時のこと。まあ普通にある出店の列の中歩いていた一行の中、不意に言葉を発したのは海くんだった。

「やっぱ祭りはあれだよね ごんだ焼!」

一同が見た出店の垂れ幕にはしっかりと「焼だんご」の文字が...。なんと彼はその歳まで串に刺さったダンゴのことを「ゴンダ焼き」だと信じていたのだ。それでも彼は学年で屈指の秀才君だ。


 次にタケダの話。いつだったかタケダの家庭事情の複雑さについて書いたと思うのですが、その騒動の際、今で言うところの「プチ家出」を計画した彼が私の家へ泊まったことがあります。次の日、あえなく連れ戻されましたが、その後彼は何を思ったか一人暮らしをすることを考えたそうです。

「まったくさぁ〜、あの頃ってクソ真面目に考えてたけどさ、ほんと俺たちってバカだったよね。高校生の分際で親の保障も受けずに連帯保証人なしで部屋なんか借りられる訳ないのにさ。俺行ったもん!不動産屋。」(俺たち、ってところは気に入らない/笑)。

「で、『部屋借りられますか?』って聞いたらさ、『うーーん、無理だねっ!』とかあっさり言われてさ、当時はそんな簡単に言われるのむかついたけど今思えば当然なんだよね/笑」 そのあっけらかんとした話し方にもうあかも私も爆笑でしたね。


 その次は(ってしつこい?)3年の期末テストの前日の話。
 そう、この日は全国高校クイズ選手権の予選の日でした。関東地区は確か全部の県の参加者が西武球場に集まって行いました。もちろん学年一の鬼才(奇才?)タケダと秀才海くんという強い味方を得て私は何もしなかった気がする(笑)。
 確か第1問目は「ここ西武球場を中心に宇宙から地球を見た際、そこから見える陸地の中に現在の国連加盟国は半分以上か否か」といった感じの問題。それよりも球場に入ってからスピーカーに近いところに座っていたのでサザンの曲と番組のテーマ曲が延々流れていて次の日のテスト中まで余韻が残ってアタマの中グルグルしてました。ちなみに自慢ですが(笑)、次の日の英語のテストは高校に入って始めての満点だったりした。なんか複雑な心境だった。なまじ勉強などしないほうがいいらしい(笑)。

 で高校クイズのほうは4問目あたりからグラウンドに出てクイズを出されると○×エリアに走って向かう形式になって、8問目までいきましたが力尽きてしまいました。あれに正解だったら次は県で8チームだけの早押し器を押す形式に移行だったのでそれが長いこと3人で悔やんでいたことです。
 思えば3年のアツーい夏は、私にとってこの西武球場から始まったんでした。別に具体的な恋愛でアツかった訳ではないですが。はは。




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