2003年08月31日(日)  ヴォラプチュアス!
稀に、身も心も奪われてしまいそうな魔性を秘めた女性と出会うことがある。話さなくても、目が合わなくても、ただそこにいるだけで男は焦燥感に支配されてしまう。そういう女性は世の中に確実に存在する。この教室に存在する。大学のスクーリングの一室に、その女性は存在する。その女性は僕の左隣に座っている。
 
僕はこの女性と何度か会っている。会っているといっても二人きりで会うのではなくて、時々こうやって同じ課目を履修して同じ教室で過ごすだけなのだが、嬉しいのか哀しいのか、主に嬉しいのか概ね哀しいのか。兎角複雑な心境で、講義の内容など頭にちとも入らず、チラチラ彼女の横顔を覗きながら、あぁ胸が痛い。これは確実に恋心ではない。心の一部分を恐怖感が占めている。恋心に恐怖感など無縁ではないのか。だったらこれは何なんなのだ。あぁ胸が痛い。近付き難い。たかだか数十センチの距離なのに、僕は絶対手を伸ばすことができない。話し掛けることができない。僕の世界と彼女の舞台に決定的な差があるような気がする。その差がどのようなものかわからない。二十七にもなって、この狼狽をどう説明したらいいんだ。
 
この女性の形容は夏目漱石の『三四郎』のある一節で如実に表現することができる。
 
「ヴォラプチュアス! 池の女のこの時の目付を形容するにはこれより外に言葉がない。何か訴えている。艶なるあるものを訴えている。そうして正(まさ)しく官能に訴えている。けれども官能の骨を透して髄に徹する訴え方である。甘いものに堪え得る程度を超えて、烈しい刺激と変ずる訴え方である。甘いと云わんよりは苦痛である。卑しく媚びるのとは無論違う。見られるものの方が是非媚びたくなる程に残酷な目付である」 ※ヴォラプチュアス:肉感的な
 
甘いと云わんよりは苦痛である。僕はその苦痛に堪えることができない。それでいてその苦痛から逃れる対応策を僕は持ちえていない。その苦痛の中に自ら飛び込んでいる風でもある。
 
エレベーターの中で二人きりになったことがある。6階に到着するまでのあの時間の長さといったら! 一言二言何か会話があったような気がする。あのエレベーターの中は彼女が無意識に醸し出した妖艶な空気に満たされていた。彼女はいつも何かに怯えたような目をしている。それでいて決して怯えていない。その瞳は確固たる自信に満ちているようでもある。
 
退屈な講義で時間が止まったよな午後3時。彼女は左隣の机で、ぐっすりと眠っている。決して健康的とは言えない美しさ。残酷な寝息。うつぶせになって顔を僕の方に向けて、いつまでも眠り続けている。僕は身体が少しずつ解体されていくような感に襲われていた。
2003年08月30日(土)  旋律ライティング。
今の仕事は3ヶ月契約なので残り1ヶ月。そろそろ臨床現場に復帰する準備をしなければいけないなぁと考えつつ、自らの可能性を確かめてみたいという気持ちもあり、ライターとしての活動もひっそりと始めていたが、それが漸く実を結び出し、現在2・3の仕事を任されるようになった。
 
妹は僕が書いたコラムが雑誌に載る度にそれを写メールして感想と一緒に送ってくる。僕は雑誌に1度掲載されたコラムは読み返さないようにしている。自分が書いたものを読み返してみて感じるものは後悔だけだ。いつも、あぁこの部分こう書けばよかったと悔やんでしまう。だから今はもう全く読まない。何について書いたかも妹に訊ねるまで思いだせない。
 
報酬をもらってモノを書くということは、プロという意識を持ってやはりそれなりの知識や責任が必要で、こうやって毎日毎日、思いつきの好い加減な日記を書くこととは比にならないくらい大変な作業だが、しかしこうやって日記を書いていなければこういう仕事をすることはなかったわけだし、継続は力なりということで、文章を書いて全然楽しくないときも、いつかはそれが実になる日がくるという、努力を非常に嫌悪している僕も結果的には努力をしていたということになる。無自覚な努力。
 
3年間、毎日日記を書くことは非常な労力が必要だと思われるが、実際そんなことはなく、僕はそれを苦に思ったことは1度もない。いや6回くらいは思ったことがあるかもしれないけれど、それでも3年分の6回。微々たるものである。1年に換算するとたった2回である。
 
それが苦にならない理由は、僕はこれまでに何度も書いていることだけど、昔から強迫神経症の性質を持っていて、それには完璧主義というファクターが存在して、それによって「日記は毎日書かなければ日記にあらず」という揺らがざる原則があり、もし1日でも日記を書かなければ(日記を「書かない」と「書くことを諦める」には大きな違いがあるのだが)、それで終わってしまうのである。全てが。そうなった時、僕はいとも簡単にこの『好色一代男』を投げ出してしまうだろう。あぁ、あの頃は毎日書いてたね。なんて人事のように想起するだろう。
 
今は深夜遅くまで原稿を書いている。そして週に2、3回、大学のスクーリングに行ってあとは仕事に行きお客様に頭を下げている。純粋な休日など1日もなく、1日家にいるときは原稿のことばかり考えて、日が暮れる頃に漸くインスピレーションが刺激され、朝方までパソコンに向かい、コーヒーを煎れてカロリーメイトを食べてあくびをしながら満員電車に乗る。
 
多分、今が独身生活のうちで一番楽しかった頃として思い出される日々なんだろう。往々に思い出というものは、苦労というものが丸くなり、喜悦というものが強調され、悲哀は悲劇となり、情熱というものがより熱く感じるものだと思う。
2003年08月29日(金)  チェルシーは誰の味。
校舎は5階建てで、僕は3階で講義を受けていた。「精神医学」今更教わるまでもない基本的な知識の波。僕は前に座っている人に隠れるように文庫本を広げあくびをしながらページをめくっていた。数ヶ月前まで毎日のように耳にしていた精神医学的な言葉が文庫本を読んでいても耳に入ってくるので、うつ病と聞いて、不安神経症と聞いて、PTSDと聞いて、僕は鹿児島を思い出す。東京は今日も暑い。昨日、妹から電話がきて鹿児島はもっと暑いらしい。
 
昼休み、コンビニで買ったサンドイッチとコーヒーを飲みながら文庫本を開いて一人で過ごす。最近は人と会話することが、こういうことは悪いことなんだけど、つい面倒臭くなってしまって、こうやって大学の講義でも極力人と会話することを避け、文庫本を開いたまま誰からも話し掛けられない雰囲気を作るようにしている。机上の携帯が無音で震え、メールの着信を告げる。
 
「もうお昼食べた? もうちょいしたらまた会いに行ってもいい?」
 
彼女は5階で講義を受けている。今日初めて遅刻したらしく、朝早くから「どうしたらいいの、どうしたらいいの、こういうときってどうしたらいいの」と混乱したメールを何通も送ってきた。僕は遅刻をしない日がなく、遅刻に関しては誰よりも変な自信を持っているので彼女に電話をして
 
「そういう時は慌てちゃいけない。なに? なにここの生徒。なに時間通り来てんの。紋付袴な人生送ってんの。馬鹿じゃないの。私は1時間送れたけれど、この1時間であなたたちは如何ほどの知識を得たというの? この1時間で、私とどれだけ差がついたというの。私が電車に揺られてたときと、あなたたちがこの硬い椅子に座ってた時間にどんな違いがあるの? 馬鹿? 私が? いやそれはむしろあなたたちよ。って顔をしながら悠然と自分の机に向かえばいいんだ」
 
と助言したら「それはあなただからできるのよ。ねぇ、私どうしたらいいの?」と、もう今まさに泣き出さんばかりなので、とにかく落ち着くように、ここは僕がどうにかするからと甚だ無責任なことを言って、僕はそのまま講義の続きを受けた。
 
昼休み、彼女は3階に降りてきて、ポケット一杯に入れてきたチェルシーを僕に差し出した。彼女のポケットにはいつもチェルシーが入っていて、嬉しいときも悲しいときも、まずはとりあえずチェルシーをポケットから出して話を始める。
 
「お、今日はガムも入ってるんだね」
「あ、それは返して」
 
返してと言われたらガムが惜しくなったけど、よく考えたらたいして惜しくもないので素直に返してチェルシーのベリー&ミルク味を口に頬張った。昼休み、校舎のベランダで東京の空を見上げながら、時々往来を行く人々を見下ろして階下に向けて煙草の煙を吐きながら独り言のように呟いた。
 
「ほら、あの人たちも、結局は僕たちと対して変わらないんだ」
「ん? どういう意味で?」
「実にいろんな意味で」
「それ美味しいでしょ」
「うん。美味い」
 
彼女の横顔は、いつものように頬の部分だけチェルシーの形がふっくらと浮かび上がっていた。
2003年08月28日(木)  簡略的価値。
また傘を失くした! 傘を! 失くしちゃった! 彼女に傘を貸していたので、返してもらってこれで万全と思いきや雨が振らない。往来でビニール傘を提げているのは僕一人。富士山に浮き輪を持ってきてるような心境。
 
もう何度目だろう。職場の同僚に「東京の傘は、すぐ溶けて失くなるから、いけない」と話したところ「そんなはずないっしょ」と冷たくあしらわれてしまったので、まぁ彼は東京にもう何年も住んでいるらしいので、傘は溶けて失くなるという仮定は否定された。それでは、溶けないとすれば、なんなのだ。どうしてこうも安易に紛失してしまうのだ。リメンバーミー。
 
僕のあの2980円の無印良品の傘との最後の記憶は、先週の東武東上線。その前に職場のビルのエレベーターの前で傘を忘れたことに気付いて、職場の傘入れに取りに帰ってエレベーターの中で同僚と「またずぶ濡れになって帰るとこだったよ。東京の雨は、服まで溶かしてしまうから、いけない」と話して「そんなはずないっしょ」とやはり冷たくあしらわれたことを覚えている。
 
池袋からうちまで電車で約40分。その間に、あのちょっとお洒落な傘は僕の前から姿を消してしまった。車内で居眠りをしている間に、盗られてしまったのだろうか。東京の人は怖いからね。傘盗るのなんて平気なのかもしれない。良心の呵責なんて別の場所で考えるのかもしれない。傘なんて代物は良心以前の問題なんだろう。コンクリートジャングルは身も心もカチカチにしてしまうんだろう。
 
「あなたほど呑気な人はいないわよ」
 
彼女が呆れた口調で煙草の煙を吐く。どうやら東京人の人格的な問題ではなく、僕自身の性格の問題らしい。ということは性格を変えるだけで傘を紛失する確立がぐんと下がるのだ。まったくお特な情報である。さて、具体的にどうすればいいんだろう。
 
「まず傘を失くさないように、常に気を張ってることね」
 
チョー直接的。チョー具体的。チョー簡略的。
2003年08月27日(水)  梅干的価値。
彼女はファミレスに行きたいって言ったけれど、そのファミレスの看板に「ステーキ&ハンバーグ」と書いてあったので、先日自宅マンションでステーキを焼いて上半身火傷を負ったばかりなので、「ここは、よそう」なんて珍しく人の要求を却下して、彼女の手を引いて、もとい、僕は池袋の地理に疎いので、彼女に手を引かれて、ホッケが食べたいという僕の希望を満たしてくれるであろう居酒屋に行ったが、ホッケ850円という値段に驚愕し、僕が後輩とよく行っていた鹿児島の居酒屋はホッケ1匹380円だったので、僕のホッケ的価値は決して400円を超えないものだったが、850円。そんな馬鹿な。
 
僕はビールより焼酎が好きなんだけど、東京の焼酎には頼んでもないのに梅干が入ってきて困る。それが粋だと思っているようで尚更困る。基本的に鹿児島の居酒屋では焼酎に梅干は入っていない。粋じゃないからである。意味がわからないからである。「焼酎ねー。梅干入ってたら美味しいんだけどねー」なんて行ってる奴は梅干だけ食ってたらいいのである。
 
日本酒は飲めない。あんなもの飲めない。飲んだとしても翌朝起きれない。梅干入ってたら美味しいんだけどねー。
 
しかしつまらない。今、大学のスクーリングの講義中。講師は乾電池で動いているのではないかと思われるほど、表情を変えず淡々と話し続けている。こんな講義聴きながら熱心にノートとる学生は、ちょっと駄目だと思う。駄目なものは駄目だと見極めなければいけないと思う。皆寝ちゃえばいいのである。夏目漱石は『三四郎』でこう述べている。
 
「偉い人も偉くない人も社会へ頭を出した順序が違うだけだ」
 
実際、そんなものだと思います。今、本屋に行くと、夏休み期間中なので学生向けに「日本文学を楽しもう」みたいなキャンペーンをどこもやっているので、嫌でも夏目漱石やら芥川龍之介やら太宰修やらが目に付くので「どれ、たまには純文学を楽しんでみようかしらん」なんて実に軽薄な決意で文庫本を手に取り、レジへ向かい、帰りの電車の中で本を開くと、旧かな使いに疲労してあっという間に寝てしまう。
2003年08月26日(火)  生涯インポテンツ。
近所のスーパーでステーキ肉が破格の値段で売っていたので、この際どこの国の牛かなんて関係なく、アメリカでもパレスチナでもイスラエルでも埼玉産でも安かったらそれで良い。ワンルームの狭いマンションでプチブルジョアな気分が味わえたらそれで良い。買うぞ僕は買うぞ。試食のオバちゃんがさっきから話し掛けてくるけど試食せずとも買うぞ僕は。
 
買い物袋を片手に提げてツタヤに寄って『女子十二楽坊』というCDを借りて、風呂上り上半身裸で借りたばかりのCDを聞きながらフライパンに油を注ぎ、フライパンが熱した頃を見計らいステーキ牛を乗せたその刹那、安物のステーキ牛はフライパンの上で飛び跳ね、周囲に灼熱の油を撒き散らす。風呂上り、上半身裸の僕はその灼熱の日清サラダ油を全身に浴びる。
 
胸と腹の部分にポツポツと発赤を伴った火傷痕を気にしながらステーキにゆっくりとナイフを入れる。なんてね。うちにはナイフはおろかフォークさえないのです。だからお箸でステーキをつつく。賞味期限が明日までの納豆を炊きたてのご飯にかける。缶ビールを開ける前に、胸と腹の部分にポツポツと発赤を伴った火傷痕に当ててしばしの間冷やす。コンポからは『女子十二楽坊』がアジアンテイストな音楽を演奏している。
 
白米。納豆。ステーキ。缶ビール。意味のわからぬアジアな音楽。これが僕が演出できる精一杯のプチブルジョアだなんて、僕も随分落ちぶれたものだ。彼女と明日焼肉を食べに行く約束をしていたけど、明後日だったような気もするし、3日後だったような気もする。とにかく彼女の便秘が解消されてよかった。女性はいろいろ大変なことが多すぎる。
 
話は変わるが、僕はもう駄目です。気分が悪いのです。知人に「あれだけは見るな!」って言われてた画像を見てしまったのです。「絶対後悔するから見るな!」って奴をそんなこと言うだったら後悔してやろうじゃねぇかと甚だ強気であるURLをクリック。そして愕然。心的外傷後ストレス障害。いわばPTSD。画像を消してからも目を閉じるとフラッシュバック。検索して注意書きを読んだ。
 
「ネット界では従来よりの迷惑行為として、ダウンロードファイル等にコンピューターウイルスを紛らせる行為やクリックするとブラウザ(PCの閲覧、作業を行う「窓」)が無限に開き続ける「ブラウザクラッシャー」等があったが今回のものは見た人間そのものに不快感を与える(残す)という意味で全く新しいタイプのもの」
 
これ始めに読んどけばよかった。いや、読んでてもきっと見てたと思うけどね。僕はもうセックスができなくなりました。生涯インポテンツ確定です。
2003年08月25日(月)  無為な。
むむむむ無気力! 暑いから無気力なのか僕を構成するもの全てが無気力なのか。何をした。久々の休みに何をした。朝起きて、それから今の時間まで一体何をしていた。カーテンを開けてみろ。日が、暮れてるではないか。何をした。何をして過ごした。何を思って過ごした。言ってみろ。腹が、出てきてるではないか。
 
うぐぐ。ぐぐぐぐぐ。腹が出てきたような気がする。無気力だから呼吸くらいしかすることがなくて、無暗に酸素ばかり吸っているから腹が出てくるんだ。
 
ふと思ったのだけれど、最近お近づきになった彼女は、可愛い。くふー。しかし時々怖い。神はニ物を与えず。怖い。怖いけど優しい。アンビバレンツな感情なんて誰しもあるわけだしね。だけど彼女は「ホタルの墓」を見て号泣している僕の横顔を眺めてこっそり悪魔のように笑っていた。僕には妹がいるので、どうしてもあの映画を見ると感情移入してしまって過剰に泣いてしまう。
 
むむむむ無気力! 折角の休日だというのに読書らしい読書もせず! 電気代が気になるのでエアコンつけたり消したり! むむむむ無為! 無為な時間を過ごしてしまった。無為自閉。あ、炎天下のなか自転車に乗って、まだ行ったことのない方向に行ったらロッテリアがあったのでカルピス巨峰シェーキを買って飲みながら引き返してきた。あっちの方向はロッテリアしかなかった。あと初めて聞く名前のコンビニがあったっけ。
 
今日は天気が良くて洗濯物干してたら、干してるうちに乾いてた。なんてね。布団を干しましたので、次回このベッドで性交せしめんときは快楽極まりない事態に陥ることぬかりなし。
2003年08月24日(日)  珍しく友情について語る男について語る。
フランスの16世紀のユマニスト、ミシェル・ド・モンテーニュは真の友情についてこのような言葉を残している。

「真の友情においては、私は友を自分のほうに惹きつけるよりもむしろ自分を友に与える」

これは僕が常日頃から感じていたことを如実に表した言葉であり、実践してきた言葉であり、同時に疑問に思ってきた言葉でもある。真の友情とはどのようなものなのだろうか。果たして「惹きつける」「与える」などの言葉で説明できることなのであろうか。
 
「むしろ自分を友に与える」
 
自己犠牲を伴う関係は信頼関係を得やすく、その度合いが深く、対象に密接であるほど友情は生まれやすい。しかし「友情とは、誰かに小さな親切をしてやり、お返しに大きな親切を期待する契約である」というモンテスキューの言葉や「友人はあなたのためではなく、自分の利益のために忠告する」というトルコのことわざにあるように友情は自分の為だけに実在し、決して他人の為に存在するのではないという逆説もあり、それが友情観を考えるにあたり苦悩のもとになる。
 
お互いに助け合うのならば誰にでもできる。お互いに利益を求めるのならば友情なんて手段を使わなくてもいい。真の友情とはそれらを超越したものだと思う。その関係の結果として、自然に「与えて」「惹きつける」ことができるものだと思う。親切や利益などの言葉が出てくる友情は真の友情とはいえず、それは単に、社会的な人間関係ということに過ぎない。友情関係という長いスパンを考えて、その関係を回想することがきたときに、客観的に「与えて」「惹きつける」ことができたと考えるものなのではないだろうか。
 
真の友情を考えるにあたり、いちばん重要なのは、自分にとって大切なことは他人が自分のことをどう考えているかということではなく、自分が相手のことをどう考えているかということだと思う。
2003年08月23日(土)  やる気300メートル。
深夜0時。ぼんやりとケーブルテレビのチャンネルを見てたら風俗店の紹介の番組が流れていて驚愕。すごいな都会のケーブルテレビは。普通に乳出して普通に得意技はフェラですなんて言っている。今履いているストッキングと写真入りプロマイドを1名様にプレゼントするらしい。うーんいらない。そんなの貰ってどうするんだろう。僕だったら嬉しさ半分、当選した自分に対して悲しさ半分。総括して腹立だしさ300メートル。
 
風俗! 僕はこれでも元医療従事者なので、性欲よりもまず病気が怖い。いくら気持ち良くても病気になると本末転倒。長生きしたければまっとうな恋愛をしてノーマルな性交をするべきです。ノーマルな性交ってのは手を繋いで、キスをして、正常位。終。
 
僕の友人は洒落にならない性病を持っていますが、これを書くと多分洒落にならないので書かない。ネオンに騙されちゃあ、いけない。
 
うーん。昨日長い文章書いたから、今日はこれだけ。
2003年08月22日(金)  布巾。
午前8時30分。携帯が鳴る。7時に目覚ましタイマーを合わせていたコンポの曲も止んでいる。勿論、目覚まし時計も止まっている。誰が止めたのかわからないけど、僕の部屋には不思議なことに目覚まし時計を勝手に止める奴がいる。自分で止めてるんだけどね。午前8時30分。携帯が鳴っている。頭元のカーテンを少し広げるとまばゆい陽の光が差し込んでくる。今日は仕事でもない休日でもない日。何の日かって訊ねられると、僕が言わなくてもこの電話の女性が答えてくれる。
 
「もう起きて?」
「うん。今起きた」
「どうして?」
「どうしてって。しょうがないよ。昨日終電ギリギリまで飲んでたんだから」
「どうしてかしら」
「仕事の飲み会だよ。焼酎頼んだんだけどいつまで経っても持ってこなかったから、二度も言ったんだよ。それなのに持ってこないからビールばかり飲んでいた。頭も痛いし、天気はいいし、もう8時30分過ぎてるし」
「今日は何の日かわかってらして?」
「わかってる。昨日キミからメール来てたしね」
「見ました?」
「うん。見た。天気いいねしかし」
「いいですね。今日は何の日かわかったらして?」
「今どこにいるの?」
「もう学校へ向かっています」
 
顔を洗っても洗わなくても髭を剃っても剃らなくても遅刻することは確実なので、ベッドの上で煙草を吸って、大学のスクーリングに行くか行かないか葛藤して、テレビで北朝鮮のニュースが流れていて、金正日の縮れ毛を見たら、学校行かなくちゃいけないなぁと何の関連もなく思いだしたので、パレスチナとイスラエルもあれだしね。今日の講義は国際福祉総合講座。名前からして朝起きられない。遅刻して当然だという講義ではないか。総合講座の「総合」という言葉の曖昧さが許せなくて寝坊したんだ。僕の所為じゃない。
 
「僕の所為じゃないよ」
「わかっています」
「ちゃんと行くよ」
「そう願いたいです」
「急いで準備するよ」
「焦らずに」
「それでは教室で」
「お会いしましょう」
「お愛しましょう」
 
午前10時30分。学校到着。教室に入るなり僕よりも若く見える講師が僕の元へ歩いて「遅刻ですか?」と当然のことを問いかけてきた。僕はキリンでもライオンでもなく遅刻ですと至極当然のことを答えた。すると「どうしてですか?」と聞いて何の得にもならないことを問いかけてくるので、僕は金正日でもパウエル国防長官でもないので教室を間違えましたと答えた。9時から講義が始まって10時半に教室に入ってきて教室を間違えたなどと嘘丸出しを言って許されるとでも思ったのかと思ったけど許されたのでアクビをしながら空いてる席に座った。
 
「教室をね、間違えたんだ」
「お気の毒に」
「ノート見せて」
「見せません」
「じゃあいいや」
「はい、これです」
「ありがとう」
「天気いいねしかし。今日のお昼はそこの公園で食べよう」
「外は熱いのでご遠慮します」
「そうですか。はい、ノートありがとう」
「あの公園の大きな木の下が空いていたら、そこで食べましょう」
「そうしよう」
 
僕が予想していた以上につまらない講義だった。各国の福祉の現状を理解するという趣旨のようだが、僕はまだ我が国の福祉の現状さえ理解していない。エアコンの効いた部屋で、学校に向かう途中で流れた汗が引いてくると同時に睡魔が襲ってきて、これはいけない、遅刻した上に居眠りなど始めたらこいつ駄目学生だという烙印を押されてしまう。駄目学生なんだけどね。
 
「これは、やばい。眠ってしまうよ」
「まぁ。先ほど目覚めたばかりなのに」
「天気が、いいからだ」
「そうかもしれませんね」
「僕が眠ってしまったら、後を頼む」
「何を?」
「ノートを」
「承りました。それではお休みなさい。お昼になったら、起こしてあげます」
「すまないね」
「汗が、汗が、まだ」
 
小さなバッグからレースの付いた白いハンカチを取りだして、僕の額をそっと拭いてくれた。それから、そのハンカチを団扇かわりに静かに扇いでくれた。僕はそのまま眠ってしまった。今日はすごく天気が良かった。生憎、公園の大きな木の下は誰かに先を越されていたけれど、僕たちは二人花壇の縁に座って、彼女が作ってくれたおにぎりを二つづつ食べた。そのおにぎりは美味しかったけれど、睡眠薬が混入されていたらしく、午後からも僕は眠り続けてしまった。講義が終わって彼女にその旨を告げると、頬を膨らましたあと、レースの付いた白いハンカチで自分の顔を扇ぎながら「明日も作ってきますね」と言った。僕はまだ教室の中に座っているというのに、体中が少し熱くなった。
2003年08月21日(木)  今日大学に提出したレポート。「肥満と社会病理」
都会に住めばパーソナルスペースが忽く失われ、街に出ても電車に乗っても見ず知らずの他人と身体が触れ合い、肩を寄せる機会も多くなり、袖触れ合うも多少の縁など悠々と申している暇などなく、都会の人々は常に何かに追われながら他人に肩をぶつけ、満員電車に駆け込み乗車をする。
 
その都会の風景に馴染んでいる、若しくは溶け込んでいる生活習慣病、その代表格である肥満は満員電車やエスカレーター、吉野屋の店内などで一際存在感を放つ。日本の経済を担うビジネスパーソンは、ファーストフードと化した牛丼を貪り、不景気やリストラなど過剰なほどのストレスに否応なく襲われ、パソコン等の普及によるデスクワークの増加で必然的に運動不足となる。「平成11年国民栄養調査」によると全世代の中でも30〜40歳代の男性の肥満の割合が高く、10人に3人が肥満であることが判明している。日本三景に天橋立、厳島、松島があるように、牛丼、不況、肥満はもはや日本の文化と表してもよいのではないか。

以上のことからこの年代は働き盛りであると同時に太り盛りということになる。摂取エネルギーの過剰と消費エネルギーの減少というアンバランスが体系のアンバランスへ導くという悪循環。現代はもはや年齢とともに太ってきた人に対して「かっぷくがいい」「貫禄が出てきた」という言葉で形容してはいけない。肥満に戦々恐々している相手に「糖尿病」「高脂血症」「健康増進法」などの物騒な言葉を投げ掛けねばならない。

経済活動では売上を伸ばし、支出を抑えることで利益を貯蓄することができるが、エネルギーやストレスばかり貯蓄して、運動などの支出まで抑えていては身体的に不健全な経営だと言わざるを得ない。日本がこのような不況に陥ったのも成程必然的だともいえる。
 
現代の日本はマッカーサーが厚木基地に降立った時からアメリカナイズされているから肥満が増加する。だから和の文化を取り戻そうといってハンバーガーは控えて牛丼を食べようなどという考えは本末転倒であり抜本的に見直すべきである。現在の日本は株価の上昇も大切だが、健康づくりに対する自分の意志を持つことも大切である。肥満を不況や牛丼の所為ばかりせずに、なぜ太るのかという医学的な根拠をきちんと理解することが重要になる。

今後は遺伝子情報やヒトゲノム情報の活用によって、多くの病気が治療可能になるといわれている。それと同時に、肥満や生活習慣病などの日常生活に根ざした病気は、未然に予防できるという考えが一般的になってくるだろう。しかし勘違いしてはいけない。一部の人間は月に行ったことはあるが、まだ私たちは行くことができない。近くて遠い未来の話。大切なのは決して楽観視せずまず自分自身をしっかり管理すること。あとは狩猟民族の憧れもほどほどに、決して農耕民族の誇りと生活を忘れないことが必要である。
2003年08月20日(水)  よろこび組。
僕は数ヶ月前、しばしの間、医療現場から離れることを強く心に誓いまして、現在、ここぞとばかりに福祉を勉強しているわけでありますが、決して僕は医療を嫌悪してしまったわけではなくて。僕という人間のベースは看護師なのだから。だけど21世紀の看護師は、医学に基づいた看護だけの知識じゃ駄目なんです。ほら、最近バリアフリーとかノーマライゼーションとか、よく聞きますでしょ。聞きませんか。僕は聞きます。こうやって週に2・3回、学校に行ってるわけだからね。総合的な知識を持った看護師になるために日々努力しているわけです。
 
絶対的な価値の支配する時代では、ほとんどの人々がそれを信じているが故に、生き甲斐、つまり生きることの意味付けを問う姿勢は生まれてこない。生き甲斐は個人によりまた時代や地域により異なることは言うまでもない。だから言わない。全然関係ない話だし。
 
さて、話を戻します。言うまでもないことは言わない。言うまでもないことまで言ってしまうとお節介というスティグマを押されてしまうのでね。しかし、生き甲斐ね。まだよく考えたことないけどね。例えば近代日本においても公的価値の強い第二次世界対戦前と私的価値の追求に生き甲斐を求める戦後では生き甲斐のあり方も大きく異なってくるでしょ。どうなの。じゃあ北朝鮮はどうなの。早く福祉の勉強を終えて、北朝鮮について学びたいと思っているということは言うまでもない。だから言わない。
 
北朝鮮、ワイドショーが面白可笑しくお茶の間に流すので、もう興味津々。喜び組とか悦び組とか慶び組とか歓び組とかね! あの悪い意味でお人形さんのような笑顔! そういえばさっきうちのマンションの自動販売機で金正日がファンタ買ってた。僕はマンションの階段や廊下でこの人にすれ違うたびに心の中で「偉大なる将軍様!」と叫んでます。そういえば韓国に美女応援団が到着したらしいですね。今ニュースで流れてますよ。美女応援団空港に到着。何の応援に来たのかは全く放送しない。
2003年08月19日(火)  楽悲観的。
状況が状況だしね。なかなか。思う通りに進まなくて。迷惑ばかり掛けて、怒らせてばかりいるけど、怒るのも無理はない。僕の言ってることに矛盾が生じてしまうのも、状況が状況だから。もしかしたら「今」じゃなかったのかもしれない。2ヶ月後? 3ヵ月後? 少なくとも今よりは上手く事が進むと思う。時間の所為にするわけじゃないけど、いつものように僕自身に欠陥があるのかもしれないけど、どうもなかなか。腰を据えて話をすることができなくて。
 
地に足が着いていないような気がします。何かに流されそうなんだけど、何に流されそうなのかわからない。毎日毎日カレンダーを見ています。時が経つのをじっと耐えてます。あともう少し。あともう少し。
 
何も起こらない平凡な日常がどんなに素晴らしいことか。明日のことも来月のことも来年のことも、ある程度は予想できる生活がどんなに素晴らしいことか。僕はまだ、この歳になっても将来の指針さえ明らかではないのです。
 
天井に向かって煙草の煙を吐きながら、どうしようかな。どうしたものかな。どうすればいいのかな。と漠然的に考えています。何かをしなければいけないその具体的なものが今の僕には全然思いつかないのです。
 
物事は、いつも楽観的に考えているつもりだけど、楽観的に考える内容が多ければ多いほど、その素材を使って悲観的に考えることもできるわけで、今日みたいに世の事象全てを悲観的に考え出すと、どうも僕は駄目なようです。
 
とにかく頑張るしかなさそうです。何を? いや、よくわからないけれど、何かに対して何かしらの努力をしていれば、とりあえずは形になって実ると思います。
 
ただ、今は、どうも。これがなかなか。いつも怒らせてばかりでごめんなさい。どうも今の僕はいつもの僕とは違うような。何も起こらない平凡な日常を送っていた頃の自分とは違うような。
2003年08月18日(月)  クリーニング屋の矛盾。
ベランダに干していいのか! どうせ僕が干したら雨を降らすんだろう! え!? えぁ!? そうだろうそうだろう! 僕は知っているのだよ。そのくらい存じ上げているのだよ。この微妙な空模様。暗くて重い曇天模様。僕は知っている。洗濯物を胸いっぱいに抱えながらたたずんでいる。葛藤している。でも知っている。僕がベランダに足を踏み入れ、溜まりに溜まった洗濯物を干し、達成感と共にマイルドセブンライトを一服せしめるその時、頬に落ちる一粒の水滴。ん? んぁ? あ! 雨降ってきた! 今干したばっかりなのに! 急いで取り入れなきゃ! 今までの苦労が水の泡になってしまう! 雨だけにねー。ぷぷぷっ。という事態に陥ることを期待しているんだろう お天道様は。馬鹿が。干すか。フン。
 
暗い部屋で体育座り。ブラウン管の前で体育座り。太腿の裏側を掻きながら。天気予報を待ちながら。お。お。埼玉、曇り。午前40%午後30%。微っ妙ーー。こんな微妙な降水確立ではベランダに洗濯物を干して万が一雨が降り出したとしても、気象庁はおろか、フジテレビにさえも文句は言えまい。じっと見る。じっと窓を見る。空を見上げる。
 
梅雨が明けたのか明けてないのかわからない今年の夏の、洗濯物。海水浴客が少ないとか温泉街が繁盛しているとかそういうことはどうでもよくて、まず生活基盤を安易に脅かすこの洗濯物。Tシャツを脱げば脱ぐだけ、パンツを履けば履くだけ、顔を拭けば拭くだけ憂鬱になってくる。今日洗おう。明日洗おう。明後日洗おう。一週間洗ってないような気がする。と洗濯物中心に時間の経過を考えれば、まさに光陰矢の如く。あっという間に一週間。かといって仕事中心に時間の経過を考えれば、まさに一日千秋。あぁまだ火曜日だよ。と。この観点から考えますと、クリーニング屋さんの時間の経ちっぷりときたら!
 
ややや。ここに矛盾が生じました。クリーニング屋さんは、来る日も来る日も洗濯物に追われる毎日でございます。だからあっという間に時間が過ぎてしまいます。だけどクリーニング屋さんはクリーニング屋という仕事として確立している職業ですので、先ほど仕事に関して考えると時間の経過が遅いということを申しましたので、あぁまだ火曜日だよと嘆いているクリーニング屋も存在するということ。洗濯物に追われているというのに時間の経過が遅いというこの矛盾! ややや。どうなってるんだここんとこは。生憎、知人にクリーニング屋がいないので、いや、いることはいるんだけど、あまり、こう、アフター5に飲みに行ったり、お前友達だからっていくらなんでも人前で屁ぇこくなよ! なんて言えるほど仲が良いわけではないので、もとい、苗字は知っているけど、どうしても名前が思い出せない仲なので、困った。電話番号も知らないし。いきなり「飲みに行こう」って誘うのもなぁ。わざとらしいしなぁ。しかし知りたいなぁ真実を。解消したいなぁこの矛盾を。
 
っと。これでよし。今日はもう降らないだろう。ちょっと空も明るくなってきたし。ふぅー。空は晴れないけれど気持ちは幾分晴れた。7日分の洗濯物が壮厳とベランダに並び、弱々しい風に揺られている。達成感と共にマイルドセブンライトを一服せしめるその時、頬に落ちる一粒の水滴。ん? んぁ? あ! 雨降ってきた! 今干したばっかりなのに! 急いで取り入れなきゃ! 今までの苦労が水の泡になってしまう! 雨だけにねー。ぷぷぷっ。
2003年08月17日(日)  手を抜いてしまったよ。
気付くのが遅過ぎですが、今年の7月で当サイトは3周年を迎えました。特に感慨深いものはない。その日を生き延びるだけで必死だった7月。3周年とか考える余裕がなかった。毎日やることがないので松屋の牛めしばかり食べていた7月。そして夏が終わる。おめでとう3周年。3年間欠かさず日記を書く辛さなんて忘れてしまった。
 
3年前の今日の日記を読み返してみる書くことがないから。
 
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「2000年08月17日(木) 睡魔と麻酔」

夜勤明けの歯医者。もう眠くって眠くって。治療中ほとんど寝てた。
口を半開きにして(笑)今日、麻酔打ったみたいだけどそれさえも気付かなかった。歯科衛生士さんの胸に抱かれて眠っているような感じ(変態)
料金払うときも眠くって眠くって受付の人が何言ってるかわかんなかった(笑)
で、受付の人に少し遅い誕生日プレゼントもらった。デンタルケアセット。
私みたいな人と付き合いたかったら歯ぁ磨いて出直せってことか!?

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……。「口を半開きにして(笑)」の部分の(笑)という箇所の意味がわからない。半開きにして何が面白いのかわからない。あとカッコ変態カッコ閉じるなんていう表記は今読み返してみるととても辛い。洗濯物とか乾かない。
 
2年前!

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「2001年08月17日(金) 水中で考察。携帯の慟哭。」

東京から帰ってきて、運動らしい運動をまったくしていなかったので、
久々にプールに行った。
   
ゆっくり泳ぎながら、悩み事の解決策を考えようと思ったが、
たいした悩み事が見つからなかったので、仕方なくクロールの左手の使い方について延々と考えた。
どうもクロールで左手で水を掻くときがおかしいような気がする。
泳いでる本人はフォームなんて見えないのだけど。
  
とかなんとかいいつつ、結局、水の中が一番心休まる。
明日の事を考える前に、残り10mのことを考えなければならない。
誰も干渉しない。
  
誰も干渉しない?
  
たぶん、これは間違い。
僕は、誰かに、干渉されたいのではないか?
どうだろう。
  
内向的な面が強調されるときもあるし、外交的な面が助長されるときもある。
本当の自分はどっちだ。なんて考えない。
たぶんどちらも本当の自分だろう。
  
アパートに帰り、携帯の電源を入れる。
今日は、休日だったので、一日携帯の電源を切っていた。
久々に僕だけの時間を満喫したかった。
   
携帯のメールをチェックする。
   
20:10「みんな集まってるよー。なにしてんのー」
20:22「電話でろー!!!」
20:40「おーい。電話でろー」
21:06「○○ちゃんキレてます。早く来て。マジで」
21:18「次の店行くからね。○○○にいます」  
  
あ。忘れてた。
冷や冷やしながら、もう一度携帯の電源を切る。
今日は部屋の電気を消して、ロウソクの明かりで小説を読もう。

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む、村上春樹チック! この頃は失恋をして心身共に辛かった時期です。誰も干渉しない?
 
そして去年!

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「2002年08月17日(土) 生理を語ろう!」

「ねぇ、生理中ってどうして体重がちょっと増えるのかしら」
 
知らんよ。僕は。話をする相手を間違えてるよ。
じゃあ、どうしてお風呂上りってチンチンが10cmくらい伸びてるのかしら。
 
「ホント!?」
 
嘘だよ。嘘に決まってるじゃん。風呂上りって伸びても3cmが限界だよ。
 
「ホ・ホント!?」
 
嘘だよ。伸びないよ。伸びる意味がないよ。むしろ伸ばしたいくらいだよ。
これでわかったでしょ。男と女。僕たちは互いに知らないことが多すぎるんだ。
だから僕に生理が云々なんて話、しないでくれ。
 
「生理ってさ、不治の病みたいなものなのかしら」
 
だからわからんよ。キミは僕を、からかっているのか。
しかも不治の病じゃないよそれは。恋愛と一緒で然るべき時になったら必ず終焉が訪れるんだ。
前者は失恋といって、後者は閉経というんだ。看護学校で、習ったんだ。
 
「私ね、生理が始まる3日前くらいから手足がむくんでるような気がするの」
 
そんなこと聞いてないよ。もう、生理の話は、よそう。
ちなみにそれは月経前緊張症っていうんだよ。看護学校で、習ったんだ。
 
「生理ってさ、不治の病みたいなものなのかしら」
 
キミの一番悪い癖は、人の話をちっとも聞いていないということだ。
さっき失恋と閉経の話をしたばっかりじゃないか。
 
「閉経って、何?」
 
帰ってくれ。もう、キミとは話したくないよ。
これじゃ僕の方が生理に執着してるみたいじゃないか。
閉経って不治の病なんだよ!こんなこと言ってもキミはちっとも聞いてちゃくれないから
僕はもう、いい加減なことばかり言ってやるんだ。
 
「じゃぁ、どうして生理前ってイライラするのかしら」
 
何でもかんでも生理の所為に、するんじゃない。
キミはいつだって冬の訪れを恐れる熊みたいにイライラしてるじゃないか。
僕はキミに対していつだって夏の訪れを待ち続けるセミの幼虫みたいに丸くなってる有様だよ。
もう、よそう、この話は。これは同性の友達に相談するべき種類の話なんだ。
 
「あ、そういえばすっかり忘れてたんだけど、あの時から生理が来なくなっちゃったの」
 
マジかよ!なんでそういう事を忘れてたなんて言えるんだよ!要点は最初に言ってくれよ!
参ったなこりゃ。違うよ。脂で顔がテカってるんじゃないよ。
これは、冷や汗っていうんだ。
 
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僕はなんだかんだ言って生理の話が大好きです。過去3年の日記を読み返してみて僕の人間性が全く進歩していないことが一目瞭然(笑)あとどんなときもどんなときも僕が僕らしくあるために女のことばかり考えてる(変態)
2003年08月16日(土)  繰り返される悲劇について。
こう毎日雨が続くと気が滅入るばかりか、洗濯物も溜まるばかりで、雨が降って良いことなど何一つない。鹿児島に住んでいた頃は車を持っていたので、どこに行くにも車に乗ってたとえ大雨でも大して不便にも思わないし、不満も感じなかったけれど、東京はどこに行くにも傘を持たなければならない。傘を持って歩く習慣なんて身に付いていないばかりか、齢二十七になった今、新しい習慣などそう簡単に身に付くものではない。だから今日も職場に傘を忘れた。びしょ濡れになってアパートに帰った。
 
僕は生来、自動車というものが嫌いで、運転する度にドキドキしていて、そのドキドキしていたというのは、あの乗り物は一瞬にして人生を狂わせる悪魔を助手席に乗せていることと同じで、そう、人身事故とかね、ホント、近所のスーパーに買い物に行くだけで、手間を惜しまなければ歩いて行ける距離なのに、自動車というものがあるから、つい文明の力に頼ってしまい、運転席に座り、エンジンをかけ、好きな音楽を聞き、近所のスーパーに向かおうとした矢先ドーーーーーーン! 鈍い音を立ててフロントガラスに人間がぶち当たる。ドガーーーン! と。ヴォキヴォキッ! っと。はいそこで終わり。歩いて行けばよかったと後悔ばかりする人生の始まり。悔やんでも悔やみきれないやるせない。
 
万が一の事故の為に任意保険に入りましょうなんて言うけれど、まぁ、あれはどうなんだろうね。毎月保険料払ったら絶対人身事故が起こらないっていう保障があったらそりゃ諸手を上げて入会するけど、人間は、すぐ死ぬでしょ。ほんと地球レベルで見たら人間なんてテーブルの下に落ちている陰毛以下なんだから、すぐ死んでもしょうがないけど、やっぱりその人間一人一人に焦点を当てると、そこには命とか尊厳とか、そういう問題が出てくるわけで、難しーなー。如何んともしがたいなぁ。やるせないなぁ。雨やまないなぁ。洗濯物干せないなぁ。部屋干しすると悲しい臭いがするしなぁ。
 
昨夜は部屋に帰っていないので、今日は帰るけれど、帰ったらまず洗濯します。雨だからとかそんな悠長なことは言ってられない。晴耕雨読とか呑気なこと言ってられない。ほんとに。10日くらい洗濯してないと思う。洗濯する度に次回こそは洗濯のサイクルを早めてみようと誓ってみるのだけれど、これは明日こそは7時に起きよう。ゆっくり朝ご飯を食べようと誓うことと同様、単一の悲劇を繰り返すばかりで。
2003年08月15日(金)  誰だって忘れる。
第3条 基本的理念
「すべての障害者は、個人の尊厳を重んじられその尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有するものとする」
 
【尊厳】崇高でおかしがたいこと
 
一個の人格としての尊厳を保って人間性を無視しがち
 
ソーシャルワーカーの視点・方法・技術の習得
 
ディケア 長時間苦痛だったが 「ただ傍にいるだけでも意義がある」
長時間ビデオ見るとき スタッフも一緒に横になる
スタッフがバタバタしてるという状況を悟られないように
 
ソーシャルワークの視点
クライアントの「個」を見るのではなく、その周囲を含めた視点で考察する。
 
既成事実 主観的意見ではない
 
福祉は自分の人生をプロデュースするものだ
 
受診と入院援助 電話
入院したいけどどうすればいいですか? 何科に行けばいいですか?
認定 ベッドコントロール
 
入院援助
病棟に行って 入院生活の指導援助 お金の使い方 集団生活の方法 退院援助 
入院中もSST
 
特徴
民間が多い マンパワーが少ない 昔と同様閉鎖的
 
医療中心という病院の中で、
閉鎖的なことによって起こりうる行動制限や人間関係のダンレツをPSWが防ぐ風穴
業務以外のボランティア AAに参加したり 地域のセルプヘルプグループに行ったり、自分も社会資源の一つ。
 
最初に何をやりたいかを聞く。
作業所だと必ずしも自分のやりたいことがあるわけではない
自分がどんな生き方をするか
目標を期限を付けてやるのも方法 長いスパンで考えるのか短いスパンで考えるのか
本人に合わせて作業所とかのステップで進める
その中に職親制度や派遣があるということを教える
 
もし職業手当が切れて
一人暮らしができない場合 生活保護
 
妄想型で社会適応
日常生活に支障ない妄想であれば 妄想とうまくつきあってる
 
デポ剤
 
作業所だけに固執しないで
 
薬は誰だって忘れる
2003年08月14日(木)  微笑むということ。
「私は普通の生活に埋もれてます。それは例えば目を閉じて微笑むみたいな」
 
昔の彼女から手紙が届いた。別れてもう何年経ってしまったか思い出せないくらい昔の彼女。それは例えば目を閉じて微笑むみたいな。
 
彼女が目を閉じて微笑んでる姿が脳裏に浮かぶ。少し俯き加減で微笑んでいるその唇を、その瞳を。顔の輪郭や表情は時間が経ちすぎてもう思い出すことはできないけれど、それでも途中で千切れてしまいそうな記憶の糸を慎重に辿っていくと、あの雨の日の彼女の唇に辿り着く。
 
「本当の気持ちを知ることができないことが、いちばん悲しい」
 
彼女はいつも真実を直視し、その大きさに、その哀しさに戸惑っていた。おそらく今も変わっていないだろう。本当の気持ちを知ることができないことが、いちばん悲しい。悲しいから、人はどうするか。ある人は本当の気持ちを知るために努力する。本当の受容と共感という意味を探ろうとする。ある人は、諦める。僕は今も昔も、そのスタンスは変っていない。
 
「時々思い出したときに変わってないモノの存在は意外に大きかったりします」
 
僕は人から「昔と全然変わってない」とよく言われる。僕は変わっていないイコール成長していないと捉える。成長しなければしないでいいと思う。真実から逃避しても、―――物理的に逃避したって、根底に流れるものは永遠に変化しない。時々こうやって「意外に大きかったりします」なんて言われると、
 
僕は目を閉じて小さく微笑んでしまう。
2003年08月13日(水)  感冒罹患。
僕は昔から何を頼まれても二つ返事でOKしてしまうので、ご要望に応えられるよう、精一杯頑張ってしまうのだが、時々頑張り過ぎて厭世観に支配されて何に対しても投げ遣りになってしまうということはまずない。やることはやる。やらないこともやる。
 
明日は明日の風が吹くと思ったら大間違い。昨日の風と対して変わらない。心ハイツモ向カイ風。疾風突風空っ風。血を吐く咳して実は風邪。
 
韻を踏んだところで告白すると、実は風邪ひいちゃったみたい。喉が痛い。煙草が美味しくない。ビールは美味しいけどね、給料日前だから毎日ビールは飲めないの。発泡酒とか飲んでる。裸で。上半身裸で。ソファーに座って。発泡酒を飲みながら。小説読んで。そのまま寝てしまう。寝汗をかいて。深夜に目覚めて。エアコン23℃。Tシャツ着てから。毛布にくるまる。朝目が覚めると喉が痛い。
 
うちのエアコンは一昔前のラブホテルに設置してあるような胡散臭い形をしていて、起動中の音とか温度とか風の匂いとかホント胡散臭い。隣に住んでる女性は大家さんに「新しいのつけて下さい」って物は試しで頼んでみたら二つ返事でOKしたみたいで吃驚。さぞ快適な夏の夜を過ごしていることでしょう。うちのエアコンときたら!
 
2003年08月12日(火)  キリギリス賛歌。
アリとキリギリス。あなたはどっちのタイプですか。こんにちは僕キリギリスです。通信大学のレポートも提出期限寸前。月刊誌のコラムも締切り寸前。9月に旅行に行くけれど、その予定もまだ先の話。6時に噴水の前で待ち合わせしても5時はまだ砂漠の上、皆がある目標に一丸となって頑張っていると、どうも背をそむけたくなったり、集会のようなものに参加すると演説者の声に全く耳を傾けない。耳の穴が痒くても鼻をほじってごまかす。意味がわからない。キリギリス以前の問題です。
 
こんにちは僕キリギリスです。どうも人生を甘くみている。いかなる試練が襲いかかってきても涼しい顔してどうにかなると思っているし、実際どうにかなるし。いかなるときも深刻に考えることはナンセンス。生きていくなかで重要なことは要領を掴むということと適当に対処するということ。
 
僕百人一首暗記してます。すげぇ。僕なんて国旗見ただけで国名言えます。す、すげぇ。僕は円周率を下10000ケタまで暗記してます。す、す、すげぇ。ってこんなことはあんまりすごくないらしい。これは頭が良い悪いの問題ではないらしい。本当に頭がいい人っていうのは適応能力があるかないかでわかるんだってさ。
 
だから、相手に、む、こいつ、頭いいぞ。と思わせるために頑張ってその場に適応できる能力、もしくはその場に適応できる振りをする能力を養わなければいけません。コンパとかでね、あと、風俗とかでね、ほら、テレクラとかでね。初対面の相手にいかに心を開けるか、うちとけられるか。またはその振りをするか。げ。今日はキリギリスの話をしようと思ったのにまたテーマが変わってる。
 
さて、上記のことは忘れて下さい。こんにちは僕キリギリスです。いわゆる駄目人間です。合格か失格か訊ねられたらもちろん人間失格です。社会の敗北者です。でもただでは負けない。上下もない勝ち負けもない世界に生きるのです。具体的に申しますと、好んで外へ出掛けません。外出は必要最小限に抑えます。牛肉も水曜日にしか買いません。東武ストアは水曜日は牛肉の日なんです。インスタントカレーに炒めた牛肉を入れるとちょっとリッチなビーフカレーになるのです。先日、彼女が手作りのカレーを作ってくれたけど、あれは美味しかった。ホントに美味しかった。おかわりまでして、タッパーに入れて持って帰りたかったけれど、手作りの料理にあまり美味しい美味しい美味しいよ! と連呼すると、途端に嘘臭くなるので、美味しい表現も適度に終わらせて、静かに舌鼓を打っていた次第でございますキリギリスは。
2003年08月11日(月)  男の生理。
女性は生理という身体的な変化及び苦悩が定期的に訪れるが、男性はそれに相応する定期的な苦悩、若しくは苦痛のようなものが存在するだろうかと考えた満員電車の中で身動きできないから。実は男性は、えっと、こういうの書いていいのかな。今から書くことは、世の中の男性は女性に対して絶対口を開かない種類の話です。男は皆、その男性特有の秘密を、宝物のテディベアを抱く少女のようにひっそりと抱えて、異性の前ではだんまりを決め込んで、同性の友達と酒を飲むなどの折、その秘密を互いに打ち明けるそんなお話です。
 
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女性は生理前になると多少の精神的な変調が訪れるそうだが、男性も其れに思い煩ってしまうと多少の精神的変調が生じる。ある人は酒に走り酩酊し我を失い、ある人は止め処無い喫煙で身体を壊し、私の場合は灯りを消した部屋の隅で何時間も体育座りをしている。
 
その周期は女性の生理のようにある程度定期的に訪れるわけではなく、生理不順という言葉があるが、男性の其れもまさに不順であり、二週間間隔で訪れたり、酷いときは其れが何週間も何ヶ月も続く場合がある。私はどちらかというとその周期は規則的な方で、其の精神的変調の嵐が過ぎ去ってしまうと、歯科治療直後の強気且つ勝気な童子のように何事もなかった顔して時々鼻をほじりながら滞り無い日常に戻っていくのである。
 
私の友人などはその病とも呪縛ともとれぬ奇妙な感覚に長期間患ってしまい、始めは居酒屋で酒を飲むなどの折、「己(おれ)はこれからどうしたらいいんだ」と嘆きながら焼酎のグラスの底に入っていた梅干を取り出し、麦酒が入ったジョッキの中に入れる。焼き鳥のネギ間のネギの部分だけを食う。「今夜の勘定は己が払うよ」と言って会計の前でちとも財布を開こうとしないという小さな奇行を繰り返していたが、それが悲劇への序章だとしたら、その変化に気付かなかった私が悪かったのかもしれない。
 
それから三日程立った申の刻下がり、遂に彼は錯乱せしめる。椿油で毛髪を撫で、燕尾服をまとい、自宅の柱を切断し作成したぞんざいな形状の巨大な十字架を抱え、奇声・罵声を発しながら桜散って間もない吾妻橋の上から飛び降り、大尺玉を思わせる水しぶきを暫く上げ続けた挙句溺死す。享年二九歳。隅田川に哀しく浮遊する彼は来月七月二日に三十路を迎えるはずであった。このように男性特有の精神的変調は時に死へと落としめる場合もあり、ことに卯月に多く発生する。五月病というものがあるが、其れと似たようなものかもしれない……。
 
彼が逝去し四九日経ったある日、旧友と集まりいつもの居酒屋で酒を汲み交わしていたところ、友人の一人が日本酒のとっくりに醤油を注ぐ、自ら砂ずりを注文したが一向に箸をつけぬ、「今夜の勘定は己が払うよ」と言って会計の前で「実は己は弐拾円しか持っていない」と瓢々とした表情で述べるなど小さな奇行を繰り返し出したので、これも溺死した彼のようによからぬ兆候だと思い、私は意を決して「あれが、決まったのか」と訊ねたところ、彼は言葉を振り絞るように「……ああ」と一言呟いて、その後その大振りな身体とは似つかない小さな涙が静かに頬を伝った。深夜零時をとうにまわっているというのに、柳の枝でミンミン蝉が鳴いている奇妙な夜であった。
 
「あれ」が決まったというのは、この文章は婦女子の方々も多く読んでいるのでここに書くにはひじょうにはばかれるが、「あれ」とは他でもない、結婚のことである。男という生き物は強さと逞しさを宿命のように胸に抱えて生きていくものだが、そこに「結婚」という未知の言語が入り込むとその不屈の強靭さというものが音を立てて崩れだし、焦燥、狼狽、混乱し、火事場の子供のように泣きながら右往左往するばかりでちっとも前に進めなくなるのである。
 
彼はその混乱を乗り越え、遂に先日、東京玉姫殿にてつつましいながらも厳かな結婚式を執り行った。燕尾服に身をまとい、新婦の手を引く彼の表情は実に晴れやかなものであった。しかし私の仲間達の目には全て彼の背後にぞんざいな形状の巨大な十字架が見えたに違いない。私達は人知れず視線を交わし、互いに苦虫を噛み潰したような表情をした。最後に芥川龍之介の「芋粥」の一節を引用してこの文章を締めようと思う。

『人間は、時として、みたされるかみたされないか、わからない欲望のために、一生をささげてしまう。その愚をわらう者は、ひっきょう、人生に対する路傍の人にすぎない』 芥川龍之介 「芋粥」
2003年08月10日(日)  韋駄天の玄。尊厳ファンタジスタ。
私も歳を取ってしまった。二年前の夏、バスに乗ろうとしたときに足を踏み外してしまい、その時に左足を折った。四丁目の医者は大腿部頚部骨折だと言って、私の足の中に人工骨頭という得体の知れないものを入れた。この医者の父親も医者だったが、彼は人の意見を親身になって聞いてくれた。いかにも町医者らしい医者だった。しかし彼のせがれはどうもいけない。腰が痛むと言っても湿布を渡すだけ、食欲がないと訴えると点滴をするだけ、骨が折れたら得体の知れぬ物体を入れる。
 
彼は「これでリハビリを続ければ元通りに歩けますよ」と言っていたが、あれから二年経った今のこの体たらくを見るがいい。朝五時に目が覚めて、息子の嫁が目覚める七時までずっと天井を見上げていなければならない。二時間、自ら起き上がることもできず、延々と天井を見上げる辛さが諸君に理解できるだろうか。
 
車椅子。私はどうもこれに馴染むことができない。時々嫁に車椅子に乗せてもらって(ベッドから車椅子に移動するのに三十分もかかるのだ!)近所の第三公園に連れ出してくれるが、私はそれが辛い。ほんの数年前、そう、テレビではシドニーオリンピックが流れていた。若い者達の鍛え抜かれた体からにじみ出る生命力のようなものに魅了され、一日に何度もこの桜並木を散歩したものだ。若い頃、軍隊では「韋駄天(いだてん)の玄」と呼ばれていた。軍隊一脚力が強靭で、そのお陰で支那(シナ)の戦地からも逃げ出すことができたのだ。
 
しかし今はどうだ。たった三歩移動するだけでも人の手を借りなければいけない。悪戦苦闘し、漸く車椅子に乗って陽の光を拝むことができても、公園を歩く人々は車椅子の私を見て、珍しいものでも見るように私を凝視するか、見てはまずいものに出会ったように気まずく目を逸らすかのどちらかだ。凝視するか目を逸らすか。私をただの通行人として誰も見てくれない。私はそれが辛くてたまらない。
 
尊厳という言葉について考える。まだこのような難解な言葉を考えられるうちは私はまだボケてはいないだろう。いや、このような抽象的なことばかり考えるようになることが痴呆への前兆かもしれない。まあよい。誰しもいずれ浮世の辛苦を忘却し、自ら創造した世界の中へ没頭していくのだ。人は生命をまっとうし、あの世という創造の世界に旅立っていく。痴呆は、それが生きているうちに行くか死んでから行くか程度の差でしかない。
 
尊厳とは何だろう。息子の嫁は地域でボランティア活動を行っている。昨日、食卓にあったボランティアの広報誌に「高齢者に尊厳を持った態度で接しましょう」と書いてあった。今年で七八歳になる私も高齢者という範疇に勿論入るのだが、この尊厳とは何なのだろうとずっと考えている。この言葉はいわゆる「高齢者」に対して限られた言葉なんだろうか。嫁には悪いが、私は昔から疑い深く、こういう言葉を聞くとまず胡散臭さを感じてしまう。
 
尊厳とは、何だろう。昨日から私の頭の中はずっとそのことばかり考えている。一つの物事に執着してしまうのはボケの兆候だ、とまた人は言うかもしれない。しかしこのように行動を制限され、糖尿病で食事まで制限され、生きていく希望さえも徐々に制限されていく中、一つの物事につい執着してしまうのもしょうがないことだと思う。私は、「尊厳」されているのだろうか。
 
時計を見ると午後三時。今日はまだ朝食さえ摂っていない。本当に摂っていないのか、老人が誰しも恐れるあの兆候なのか、わからない。わからない。尊厳について考える。またそれもわからない。
2003年08月09日(土)  都合主義的短期記憶。
薄暗い部屋で社会保障という糞つまらないものを勉強していると「民間保険の現状と課題」という項が目について、しばらく読み耽っていたら、いくら頑張って理解しようとしても、ちっとも頭の中で論理が構築していく音が聞こえてこないので、論理の土台さえ完成しないまま諦めてしまった。
 
例えばね、中央法規出版の「社会保障論」245ページの図7−6『個人保険種類別新契約件数構成比の推移』 長いっつの。結局何の推移かわからないっつの。「個人保険種類別」うん。理解できる。「新契約件数」うん。わかる。「構成比の」う、ん。構成比ね。「推移」えー。ちょっと待ってわかんなくなってきた。たしか「構成比の推移」だったよね。何の構成比の推移だったっけ? そうそう「新契約件数」のだったね。何の新契約件数だったっけ? そうそう「個人保険種類別」だったよね。で、で、個人保険種類別の何のことだったかな? そうそう「新契約件数」だったよね。で、それがどうしたんだっけ? と、全然先に進めない。
 
人間の短期記憶には「7±2」というルールがあって、短期に記憶される単語の数は5〜9個しか覚えられないという。ネコ、ヒコウキ、アメ、ビル、バス、キリン、ペン、ニク、トケイ。はい覚えてくださーい。はい答えて下さーい。と言われて全て答えられる人は少ない。前の職場で行っていた心理テスト「長谷川式簡易能力評価スケール」の中にも、ボールペン、時計、お金、鍵、マッチという相互に関係のない物品を覚えてもらって、それを箱に隠してクライアントに答えてもらうというものがある。これは高齢者の短期記憶を調べる質問で、覚えてもらう物品は相互に関係のないものでないといけない。
 
例えば、ウミ、カメ、タイ、ヒラメ、ハコ、ヒメ。相互に関連性を見出せば記憶も容易になる。この場合、相互を結びつけるキーワードは浦島太郎になる。ほら、覚えられるでしょ。このような相互に関連を見出して合理的に記憶する方法をなんとかと言ったが忘れてしまった。僕は長期記憶について多少問題があります。昔の彼女の顔は思いだせるけど名前が出てこなかったり、その逆だったり、付き合ったことない人に馴れ馴れしく話し掛けてしまったり。
 
「温泉行きたいね」
「この前行ったじゃん」
「行ってないわよ」
「5年前だよ」
 
もう誰と何処に行ったのか、そこに行って何をしたのかちっとも思いだせない。長期記憶はあるインパクトによって記憶される。いわゆる記憶の核のようなもので、その核が頭の中にいつまでも残っていたら、それだけで記憶を膨らませることができる。僕にはその核が少ないような気がする。ドライブ中、ズボンの上にコーヒーをこぼされて一日中ムカついてたとか、トイレのドアを開けたら彼女が鼻をほじっていたとか、そういうどうでもいい核ばかり残っている。僕の記憶はいつまで経っても美化されずに実にリアルな混沌が渦巻いている。
2003年08月08日(金)  アドバイス大戦略。
「それはね、こういう風にすればいいのよ」
 
とアドバイスされた場合、僕はそれに素直に応じてしまう。振りをする。従ってしまう。振りをする。人からアドバイスされることは正直言ってウザい。僕は潜在的にワガママなのでどんな形であれ、最終的には自分の形にしなければ気が済まない。だけどあからさまに眉間に皺を寄せて「うっせーよウゼーよテメー」なんてとても言えないので、その場は取り敢えず相手の意見に準じてしまう。
 
「へぇ、なるほどねーそれもそうだよねー」なんて物わかりのよい青年を演じながら弱々しい笑みを浮かべてトイレに行ってカーッ! ペッ! と便器に痰を吐き飛ばす。僕には僕のやり方があるんだ。とトイレの鏡に映る自分の顔を見ていたら鼻毛が一本出ていたので、誰もトイレにいないことを確認して鼻毛を抜く作業に没頭していると、抜かなくてもよい鼻毛ばかり抜けて、ターゲットの鼻毛は一向に僕の右手の爪と爪の間に挟まらない。
 
まぁそういうわけで鼻毛がウザい。えっと違う。そんなんじゃない。鼻毛じゃなくて人のアドバイスが嫌い。そこに悪意がないということが問題をややこしくさせる。人の善意を素直に受け取れないという罪悪感。素直に受け止める振りをしているという更に上をいく罪悪感。善意を悪意で返すという僕という人間の器の小ささ。卑怯者です。空き缶とか座布団とか投げられてもしょうがない。投げたければ投げればよい。
 
痛い痛いと大袈裟に言いながら両手を頭に当てて実は全然痛くなくて、一通り投げ終わられてからトイレに行ってカーッ! ペッ! と便器に痰を吐き飛ばす。僕には僕のやり方があるんだ。とトイレの鏡に映る自分の顔を見ていたら右目に目ヤニが付着していて、わぁ。わぁぁ。目ヤニが付いていた。いつから付いていたんだろう。いくら偉いこと言っても格好良いこと言っても目ヤニ付いてたら台無しだよなぁ。善意とか悪意とか葛藤とか煩悶とかそれ以前に、目ヤニは駄目だろう。何もかも駄目になってしまうだろう。目ヤニは全ての事象を破壊できる力を持っている。怖い怖い主に恥ずかしい。
 
「それはね、こういう風にすればいいのよ」
 
優しく諭されるようにアドバイス。へぇ、なるほどねーそれもそうだよねー。鼻をほじる。
2003年08月07日(木)  愛は本能?
愛は本能ではない学習するものです。本能ではない。場数を踏んでなんぼのものである。愛するということは画一的なものではなく実に多様でありまして、僕のように「ねぇ、私のどこが好きなの?」と問われた場合、いつも答えに窮してしまうけれど、それでも彼女を愛しているのです。うまく説明できないけどね。だから「私のことが好きなんじゃなくて、女の子を好きになるってことが好きなんでしょ」なんてこと言わないで下さい。ショックです。心外です。心的外傷です。その後に、それがストレスとなって昔の彼女の泣き顔などがフラッシュバックする障害が出てくるのです。いわゆる心的外傷後ストレス障害。英訳しますとポスト・トラウマティック・ストレス・ディスオーダー。そうですPTSDです。
 
さて! 学習するものです。自然に備わっているものではございません。親の愛、隣人の愛、環境の愛、その他諸々。それらが集約されて、己の愛というものが構築されるのです。だから僕に彼女ができてもせいぜい2,3ヶ月しか続かないのは、どこかの愛に欠陥があったのではないかと思うことによって自己への負担を避け、外的要因の所為にすることができるのです。いぇいぇ。
 
世知辛い浮世の道を病むことなく歩いていくためには、まず自分を守ること。あらゆる手段や思考を用いて自己防衛すること。これに尽きます。
 
「あなた私のこと愛していないんでしょ!」
「いや、愛してるはずなんだけど、いかんせん僕をとりまく環境がね」
 
暖簾に腕押し柳に風。豚に真珠に釈迦に説法。えっと、河童の川流れ。猿も筆の謝り。は? ぁあ? 座っている椅子が硬いので尻が痛い。頗る血流が悪い。この状況が続くと痔になってしまう。痔になってしまうと多分愛とか恋とか語る資格がなくなってしまうような気なんて全然しない。多分痔に病んでしまっても僕は愛とは云々! なんて叫んでいるだろう。
 
愛とは本能ではない。学習するものである。だからどんな形であれ、人に恋をすることは悪いことではない。いかなる状況であれ、そこにしか存在しない教訓があり哲学がある。絶対ある。どんな結果であれ、何か今後の糧になる。成就しても玉砕しても、結果とは別に得られるものは何かある。結果じゃない過程なんだ! わー! わーわー!
 
もうほんとに尻が痛い。書きたいことの1割も書いていない。尻が痛くなければ3割は書けた。椅子とベッドと羊の肉は柔らかい方がいい。もちろんオッパイも柔らかいに越したことないけど、僕は別にオッパイに恋をするわけではないので最重要事項ではない。職場の僕の前のデスクに座っている女性は「私のオッパイすっごい柔らかいんだから」と昼休みにサンドイッチのレタスを飛ばしながら言っていたので「じゃあ触らせてよ」と言ったら「うん今度訴える」なんて言われてしまった。くだらないけれど、そこにも哲学は存在するのです。
2003年08月06日(水)  愛を米。
毎日外食なんてできる身分じゃないので自分でご飯を炊きます。米を洗います。うちのキッチンは部屋の隅に申し訳程度に佇んでいて、見ようによってはお洒落で気に入っています。僕は昔からこじんまりとしているものが好きです。米を洗います。小さなキッチンで米洗います。
 
近頃は無洗米というものがあるらしくて、例えば「無記名」という言葉。意味は「名を記して無い」この考え方を無洗米に当てはめると「米を洗って無い」のはずなのに。だのに。無洗米ときたらどうやら「洗う必要の無い米」らしい。なんか納得いかないよね。紛らわしいよね。
 
米を洗うという行為は、妥協との闘いである。僕は几帳面なA型なので妥協が許せないのです。だから米も綺麗に洗いたい。しかし何度米を研いでも水は透き通らない。実は精米した白米の表面には従来の精米機では取りきれない粘性のヌカが残っていて、米をとぎ洗いすることで、この米の表面についているヌカが洗い落とされ、おいしいご飯になるようだが、このヌカという謎の物体が、なかなか落ちない。何度洗ってもほんのり白く濁っている。もうこの辺でいいかな。いや、もう一回洗えばもう少し透き通るはずだ。葛藤、煩悶。水を流す時に固い米がシンクに数粒流れてしまったときは理性を失う。釜を放り投げローソンに行って炒飯を購入せしめる。
 
そんなA型の貴方に朗報。無洗米というものがこの世に存在するらしい。洗わなくてもいいらしい。袋からお米を出して、水を注ぎ、すぐご飯を炊くことができるらしい。これはただの怠慢じゃないか。働かざる者食うべからず。米を研ぐ手間を省いてどうする。努力してこそその結果に意味が生じるんだ。疲れた。今日は米の話なんてするつもりじゃなかった。
2003年08月05日(火)  性的暴行罪。
彼女でもいなければセックスなんて縁遠い話で、数ヶ月に一回そういうチャンスに恵まれたとしても所詮一夜限りの恋。否、性。相手の身体を暗中模索している間に朝陽が昇る。「また会おうね」「そのうちね」と哀しき大人の物語。吉野家の焼魚定食を食って帰宅。女は駅前のエクセルシオールカフェでエスプレッソを飲みながら何を考える。昨夜のことを考えるだろうか。僕はやっぱり牛鮭定食にすればよかったと考える。九十円ケチった自分を後悔する。
 
「いや、やめて」
 
僕は署に連行された。イリノイ州最大の都市シカゴ。僕は留学して3年経つ彼女へ出逢う為に、彼女を探す為に現在も世界一忙しいといわれているオヘア国際空港に降りた。そしてその日の夜に僕は警察に連行されてしまった。
 
「やめて、いや、いやよ」
 
初めて見るミシシッピ川は僕の予想以上に大きく、その大河が見渡せる高層マンションで、彼女は小さく呟いた。
 
勤勉を美徳とし、家庭を大切にする古き良きアメリカが未だに生きてる。一見保守的に感じるが、シカゴなどの大都市は新しい人間を受け入れるところもあり、エスニックコミュニティの数は非常に多くなっている。彼女はこの3年間、何を考え、何を見ながら生きてきたのだろうか。
 
「い……や……」
 
彼女は僕の耳元で熱い吐息を吐く。テレビではNHKの深夜に流れているようなコメディが流れている。英語が全く聞き取れない。ドリフのような笑い声だけが僕の耳に忠実に届く。
 
映画に出てくるような警官だった。POLICEと刻まれたバッジが僕を恐縮させる。何を話し掛けているのかわからない。彼は袖をまくり毛深い腕を露出させて僕を威嚇する。
 
「米国イリノイ州では、今後男女の合意下で性交渉をしたとしても、相手が要求したら直ちに中断しなければ性的暴行罪で処罰を受けることになる。イリノイ州は28日、性行為中、人の心が変わりうるとし、このような内容の新しい州法を紹介した」
 
えーーーーーーー。
2003年08月04日(月)  貯金してます。
昨夜は終電を諦めて目覚めると窓の外にサンシャインビルが見えて、ここは一体どこなんだと覚えてない振り。しっかり覚えてるくせに。昨夜はえっと、仕事が終わった後に新宿に行って、10時くらいに池袋に着いて、それから財布の中に500円しかないことに気付いて「僕お金持ってないよ」と言ったらビールを奢ってくれて終電を諦めて彼女のマンションに行きました。余談ですが今タバコの灰が落ちました。パンツ一丁の露わになった大腿部に落ちました。熱っ! と飛び跳ねた拍子に灰皿が倒れるという大惨事に。復旧の目途が立たない荒れ模様の部屋からこんばんは。
 
今日は羽田空港にいます。夏休みの家族連れでいっぱい。僕は今年6月に人生の夏休みを経験して、もうあんな無意味な長期休暇は金輪際必要ないと確信し、現在通っている通信大学の夏のスクーリングを全てこなした後は僕の本職であります看護師に一刻も早く戻ろうと決意している状況の中羽田空港。しかも中指から血が出ている。
 
今夜私は3日くらい旅に出ます。あなたの知らない人と2人で。つーか1人なんだけどね。何処に行くのかは秘密です。ただ今日から3日くらい仕事を休むってことです。もしかしたら2日間になるかもしれないし7日間になるかもしれない。
 
実は8月の初めに5日分くらい日記をまとめ書きしてます。拠って今後数日間は日記であって日記ではないです。日記のまとめ書きってのは通帳に100万円貯金してあるってことより嬉しいことです。
2003年08月03日(日)  ワンランク上の男。降りるべき駅は遥か彼方。
午後9時くらいの電車に乗ると、一日の激務に疲れ果てた人達が全身に疲労感をみなぎらせてだらしなく座席に座っている。しばらくして眠くなる。だらしなく座ったままだらしなく眠る。だらしなく起きてだらしなく歩いて家に帰る。だけどだらしなく眠ってそのまま目覚めない人が時々いる。いや、目覚めることは目覚めるのだけど、ハッと我に返った時、降りるべき駅はとうに過ぎていて最寄駅より数駅先のわけのわからない駅で降りなければならない羽目になる。
 
僕の横に座っているサラリーマン。やはり眠っていて、降りるべき駅に到着し、ドアが開き、ドアが閉まろうとする瞬間に突然目覚め、ドアのもとへ掛け寄るも間に合わず、閉まったドアの先に見える見慣れた風景が流れていくのを悲しそうに眺めながら僕乗り過ごしてしまった馬鹿なサラリーマンですという風に肩を落としながら再び座席に戻ってきて次に停車した駅で降りた。
 
何が悲しいってこの自尊心のなさが悲しいです。疲労とか悲哀に自らの尊厳が敗れてしまっているのです。僕は乗り過ごしてしまっても、次の駅で降りるなんて馬鹿なことはしません。既に降りるべき駅のドアが閉まって降りそびれてしまったという事実を車内で座っていた数人が目撃しているのです。で、「あ、こいつぐうたら寝てやがるから降りそびれてやんの。馬鹿だね阿呆だねパパイヤマンゴだね」なんて思っているのです。ムムムー! 自分のプライドは自分で守ります。わんぱくでもいい、たくましく育ちます。
 
僕は乗り越してしまったからって次の駅で降りるなんて万人に理解しやすい行動なんて起こしません。断固として起こしません。次の駅で降りるだろうという万人の予想を覆してやります。次の駅で停車してもびくとも動きません。なんでもない態を装います。え? なんで? なんで僕がこの駅で降りる必要があるの? という顔をします。同じく次の駅に停車してもびくとも動きません。車内の大衆は動揺するでしょう。「なんだよこいつ。さっきの駅で降りるんじゃなかったのかよ。一体どこで降りるんだよ。さっきの慌てふためいた行動はなんだったんだよ」と思わせることができたら勝利。大衆のワンランク上に登ることができるのです。ワンランク上の男。降りるべき駅は遥か彼方。降りる駅が離れていくほど、その距離に比例して僕の自尊心は回復されるのです。
 
被害的な思考というものは、決して相手の目を気にしているのではなく、自分自身を守るために存在するのです。
2003年08月02日(土)  メールは返信するために。
別に続かなくてもよかったんだけど、昨日「つづく」と書いてしまったので、続きを書きます。携帯のメールの話ね。昨日の日記を読んでない人はそれから読んで下さいというようなことはありません。別に読まなくてもいいです。先に風呂入っていいです。将来の社会保障問題を憂いてからでいいです。僕は携帯のメールの話をします。私生活が狂っております。その話はまた今度。今日は携帯メールの話をします。
 
昨日は満員電車の中のOLの話をしましたが今日は僕の話です。僕の日記なんだから僕の話をします。僕は携帯のメールに今だ慣れ親しんでおりません。あまり日常に密着してません。だから返信頻度も少ないし、返信するまでの時間が著しく長かったりします。それはしょうがありませんだって慣れ親しんでいないから。これは僕がいけないんじゃないので僕を責めるべきではありません。僕の携帯電話自体がいけないんですね。罪を憎んで人を憎まず。いや全然関係ないですが。
 
僕の携帯は新着メールが届くと「新着メール1件」と表示されます。同じく着信があると「着信1件」と表示されます。しかし、その表示期間が短いのです。多分2、3時間で消えるんです。だから「さっき電話したのに!」「嘘? ホントに?」という会話が度々繰り返されます。着信暦をチェックするとなるほどしっかり残ってます。しかし僕に非はありません。僕を責めるべきではありません。携帯電話の機能がいけないんです。勝手に着信暦の表示が消えるからいけないんです。2、3時間表示していて「もうコイツ見ただろ」と勝手に判断して消してしまうのです。
 
メールでも然り、「新着メール1件」の表示が2、3時間で消えてしまう。「さっきメールしたのに!」「嘘? ホントに?」という会話がやはり度々繰り返されるのです。着信メールをチェックするとなるほどしっかり残ってます。しかしこのチェックの過程が面倒臭いのです。
 
まず、携帯を開きます。着信暦をチェックします。表示が消えてる恐れがあるのでメールボタンを押します。受信ボックスボタンを押します。受信ボックスの中の「未」と書いたメールをチェックします。ほら面倒臭い。何回指を動かせばいいんだよ。実際試してみたら4回でした。たった4回でした。あんまり面倒臭くないような気がしてきました。単なる僕の怠慢でした。御免臭い。
 
これはね、この問題は僕に非があったと認めます。何もかも面倒臭い面倒臭い言ってるとろくな大人になれないと思います。だからこの問題に関しましては僕が早急に改善というか抜本的に改心致しますので、どうかご容赦を。
 
しかしあれは何なんだ。僕の携帯だけなのか。携帯のディスプレイに小さく表示されるメールマーク。あれは何なんだ。受信ボックスを開くと新着メールなど届いていない。なんとこのメールマークは「新着メール問い合わせ」を選択することによって届けられるのだ。なんという意味のわからぬ機能なんだ。メールが来たことを知っているのなら届けろよと。どうしてわざわざ問い合わせしなくちゃいけないんだ。宅急便がね「あ、うちの支店にお荷物届いてますよー」と電話するようなものじゃないか。届けろよ。勝手に届けてくれよ。
 
まぁその謎のメールマークも新着メールを問い合わせることによって解決される問題なんだけど、その新着メール問い合わせというボタンを押す面倒臭さと、問い合わせ中のヤキモキ感が嫌で、僕宛てに送られ、どこかに預けられたままのメールはいつまでも預けられたまま一向に日の目を見ない羽目になるのである。2、3日して風呂上がりなどの折、「よし、問い合わせでもしてみっか!」なんて妙に張り切って問い合わせたりするんだけど、届けられたメールは「今どこにいるの?」「明日飲みにいこうよ♪」なんて内容のメールばかりで、やはりメールは届いたらすぐ返信しなければいけないなぁと思うに至れり。
2003年08月01日(金)  チョー問い合わせ中。
通勤急行といういまいちその定義がわからない電車に乗って毎朝池袋へ向かう。いつだって満員でまるで真空パックにされたように車内に詰め込まれる。サラリーマンのポマードの匂い、高校生の汗の匂い、OLの香水の匂い、過労という名の死の匂い。車内には実に様々な人間の背景が匂いとして際立ち、それが入り混じり混沌とした雰囲気を醸し出している。
 
大腿部にOLの尻が定期的に当たる。あぁ、尻が当たってるよ。柔らかいなぁウォーターベッドみたいだなぁと身動きできない狭い車内の中で考えることはこんな稚拙なことくらいしかなく、この豊満な殿部を持った女性の顔を見てみたいという衝動に駆られるけれど、先程も申し上げました通り、全く身動きができない。腕さえ挙げられない。尤も、先程から頭頂部のつむじの部分が痒くて仕方ないのだけど、この痒いことろを掻くという甚だ原始的な行為さえも許されない状況の中、体の向きを変えて柔らかい尻のOLの顔を拝むことはどだい無理な話であって、僕に背を向けて密着した状態で立っているOLの後頭部とその先の携帯電話のディスプレイが見えるだけ。
 
このOLは様々な行動と欲望が抑制されたこの窮屈な状況下、メールをうつスペースを確保し彼氏らしき相手に「おはよー。もう起きた? 私もう職場だよ(^^)」というメールを送信している。嘘じゃないか。それは嘘じゃないか。キミはまだ電車に乗ってるじゃないか。だったら何か。キミの職場はJR東日本なのか。とプライバシーに著しく侵害しているくせにメールの虚偽にまで突っ込む始末。尻が柔らかいから寛大な気持ちになっているけれど、これがもし尻が岩のように硬かったら僕は彼女の耳元で「それは嘘だろう」と絶対ささやいたと思う。尻が柔らかかったからいいものの。尻に救われたね。
 
まぁそんなことはどうでもいい。嘘のメールを送信しようが愛の告白を送ろうが恋の駆け引きを仕掛けようが僕は一向に構わない。尻触れ合うは多少の縁があっただけで、僕は彼女の名前も年齢も顔さえ知らないのだ。僕が一言もの申したいのはこの後の彼女の行動なのだ。
 
「新着メール問い合わせ中」→「新着Eメールはありません」→「新着メール問い合わせ中」→「新着Eメールはありません」→「新着メール問い合わせ中」→「新着Eメールはありません」
 
エンドレス。強迫行為並みエンドレス。メールを送信した直後から新着メール問い合わせまくり。僕は驚愕したあと憤慨しました。この女はEメールの概念を間違えて理解していると思いました。メールは絶え間ない送信→返信→送信→返信の応酬だと勘違いしていると思いました。困りました。メールはチャットじゃないと思いました。自分の時間軸でもって物事を思考しているものだから、送信相手が寝ていようが仕事中だろうがそんなことはお構いなしに新着メールを問い合わせまくる。え? どうして? どうしてメール送ったのにすぐ返ってこないの? あれ? うそ? もしかして私の携帯壊れてる? と自分の時間軸でもって物事を思考しているものだから自分の携帯が故障していると思っている。違うよ。それ間違ってるよ。送信相手はすでにメール見てるよ。まぁ、歯磨いてから返信しようとか、今の仕事が返信しようとか、寝る前でいいやとか思ってるんだよ。そんな利己的な思考は芳しくないよ尻が柔らかいからいいものの。

(つづく)


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