麻綴り
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久しぶりに、こっちの日記を書いてみます。
あれから10年か……。 今日は、アイルトン・セナの命日ですね。
さっき息子のお昼寝中、横で添い寝しながら、夫が置いていったF1速報のサンマリノGP号を読んでいました。 10年前のサンマリノGP号の復刻版が綴じ込み付録でついていて…… 読みながらしみじみしていました。
思えば、あの週末を境に、私にとって「F1」というものの意味が、まったく変わってしまったのでした。 それまでも、夫が放送を見ていたので、たいてい一緒に見ていて、次第に洗脳(?)されつつあり、「F1って、なかなか面白いな〜」などと思い始めていた矢先のことでした。 前の年からちょっぴり贔屓にしていた、若くて元気なドイツ人ドライバー、ベネトンのミハエル・シューマッハが、開幕から好調で2連勝していたし……。
そこに、突然の出来事――。 ラッツェンバーガーの死。 セナの死。
「F1って、人が死ぬんだ」というのが、まずショックでした。 その厳然たる事実が、気楽にF1放送を眺めていた私に、重いものをつきつけてきました。
次のモナコGPのとき、私は本当に真剣に、テレビの前に座っていました。 モナコGPの予選。 見ていて、本当に怖かった。 あの狭い街路コースを、全速力で駆け抜けていくF1マシン。また何か、恐ろしいことが起こるのではないかと、私は全身を硬くして、食い入るように画面を見つめていました。 実際、あの週末、カール・ベンドリンガーが、トンネル出口のシケインで大事故を起こしていたし。 怖い。もうやめて。 そう思いながらも、私は目を離せませんでした。
ミハエルは速かった。 誰も及ばない速さで、あのコースを駆け抜け――そして、そのタイムを破る者はもう誰もいないのに、さらにアタックをかけていく。 まるで、幻のセナと勝負をしているかのように……。 その姿を見て、私は魂を揺さぶられる思いでした。 一番近いところで、セナの死を見てしまった彼。 あの、闇の週末を乗り越えて、それでも走ることを選択した彼。
そして私は、そのときから本当に、ミハエルのファンになったのでした。
10年は長い。 本当にいろんなことがありました。 「セナが生きていたら……」という声も次第に聞かれなくなり、若き挑戦者だったミハエルは、押しも押されもしないチャンピオン、挑戦される側にしっかり落ち着いてしまいました。
今、セナの旅立ったあの週末を思い返すとき、胸はやはり痛むのだけれど、セナ自身についてはもういいよね、と思う。 彼は天国で幸せにしているはずだから。 もう競争なんかに悩まされないでいるか、あるいは彼のことだから、天国でも車で競争をしているのかもしれないけれど。
すべてのことには「時」がある。 たしかにセナにはもっと生きていてほしかったし、ミハエルと勝負をつけてほしかった。でも、あそこで彼が天に召されたということは、やはり、彼は今生のつとめをすべて果たしたということなのでしょう。 うん、彼はきっと、今、幸せにしていると思う……。
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個人的な思いを、つらつらと書き綴っていたら、すっかり長くなってしまいました。 読んでくださった方、ありがとうございました。
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