窓のそと(Diary by 久野那美)
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2013年07月22日(月) |
【クチミミ稽古日記・2日目】間でバランスをとってはいけない |
稽古2日目。
それに先だって、台本の改訂をしました。 先日の稽古でわかった一番重要なこと。 読み方のせいか、文章のせいか、………長い。長すぎる。
読み方は工夫してみるとして、それにしてもやっぱり言葉に無駄が多い。
文章の質にあった長さってあると思っているので、必要な長さを削って無理に短くするのは反対だけど、私の文章は長いと碌なことがないので、削れる限り削ることにしています。なので、毎回、稽古のたびに台本はどんどん薄くなります。そもそも、最初に全体を決めてから適切に書き始めて無駄なく書き終わる、という技能がないので、とにかく書いてからいらないところを削らないと、いらないところの方が多い状態になってしまうのです。
なので、稽古の前にせっせと分量を削減し、出演者に送りました。 ついでに本番を見据えて、縦書きにしました。
稽古までまだ少し時間があったので、「演出プラン」を考えることにしました。
前回の稽古の際に、 「今回、どんなことをやってみたいか」という話を出演者と二人でしていて、 その中で、
・ひとり音楽劇にする。 というのがあったのですが、それについて真剣に考えてみました。
話し合いの時には、 ・読み手が楽器を携えて、台詞の合間に演奏する。
という案があったのですが、具体的に検討してみるとものすごく無理があることがわかってきました。問題は、本と台詞です。
まず、手軽に演奏できて雰囲気のある楽器〜オカリナとかリコーダーとかハーモニカ〜は、演奏している間、本を読めない、という点で却下されました。 それなら、手だけで演奏できるキーボードとか木琴とかはどうかと考えたのですが、ずっと<本を持っている>という朗読の壁の前に、やはり却下されました。結果的に「ひとりで朗読しながら演奏する」というのは相当工夫しないと難しいということがわかり、断念したのですが、でも、これは今後何らかの形で実現させたいと思いました。
※注 つまり、今回は楽器を演奏することはありません。
そうこうしているうちに、稽古の時間になりました。
先日できなかったプロローグの部分の稽古から始めました。 上空から物語がふわっと降りてきて、役者さんを通して客席に抜けていくような感じにしたくて、出演者の片桐さんにいろいろと無理を言いました。 最近、たくさんの舞台に客演してぐぐっと実力をつけた彼女は、私が、 「こんな感じにしたいんです」と云うと、 「はい。」と云って、いろいろバリエーションを工夫して見せてくれました。 彼女と一緒にお芝居を創るのは4回目ですが、毎回、前回まではなかった新しい仕方で関わることができるのがとても面白いです。 役者さんも変わっていく。私も変わらねば。と改めて感じました。
この日のいちばんの発見は、「リズムをとるための間はニュアンスを吹きとばしてしまう」ということでした。 台本を短くしたにもかかわらず規定時間をかなりオーバーする始末で、これはもしや読み方の問題ではないのだろうか?という話になったのです。
私の文章の癖なのだと思いますが、電車のガタンゴトンくらいのリズムで一定の波ができてしまって、読むのは気持ちよく読めるみたいなのですが、間延びして眠くなるのです。そして長い。そして、先日の稽古日誌の言葉で言うと、「物語のコスプレ」になってしまって意味が分りにくいのです。
「一定の間隔で間をとると、長いし眠いし意味がわからないので、とにかくその間を詰めることを考えましょう。」 と私は云いました。 片桐さんは、「はい。」と云って、もう一度読んでくれました。
不思議なほど、さっきと同じでした。
「詰まってないですね。」と私が言うと、 「難しいですね。」
私は、コスプレ向きの台本に責任をとるため、間を詰めるべき文字の間に「ツメ」印を入れていきました。片桐さんはそれをじっと見ていました。
印を入れた本を持って、もう一度読んでもらいました。 最初からかなり意識してくれたためか、今度はかなりうまくいきました。 時間もかなり短縮できました。
同時に。もうひとつ、大きな変化に気づきました。
間を空けることでバランスをとっていた言葉は、その間を詰めるとバランスを崩して倒れそうになります。倒れてしまっては読めないので、読むときに無意識に、新しい方法でバランスをとろうとするのです。その結果、言葉に強弱や緩急や音の変化が現れてきました。間をとる可能性が高いのはだいたい助詞の前後ですから、助詞の読み方が断然変化します。なんというか、無彩色だった「てにおは」に、色がつく感じ。そして、それに引っ張られるように、助詞の前後の言葉のアクセントや強弱や音の長さが微妙に変化して、さっきまではなかった「ニュアンス」が加わっていたのです。
これは感動的な発見でした。早速役者さんに伝えました。 片桐さんは、 「へ〜え。」と云いました。
読んでもらう度に、最初のバージョンとのニュアンスの差はますます大きくなっていきました。そして長さも短くなっていきました。 <間をあけることでバランスをとると、バランスをとるために必要な音のニュアンスが吹き飛んでしまうのだ>ということを確信しました。
その後、プロローグをおおまかに仕上げ、今度は最初から最後まで通して読んでもらいました。
が。
…………長い。
短くした台詞をさらに、短く刈り込んでいきました。 カットしてしまえば最初からなかったかのように見える台詞ばかりで、自分の文章の冗長さが情けなくなりました。
そしてもう一度。
本を縦書きにしたことが功を奏したのか、先日よりもぐっと立体的で開放的な朗読になっていました。 「縦書き。いいですね。読みやすいし。」と、片桐さんも満足していました。 そして、たぶん、家で特訓してきてくれたのだと思いますが、問題だった学者の台詞が、ずいぶん脱コスプレして聞きやすくなっていました。
その後、今一度、音楽を入れることについて話し合いをしました。 入れるならここかな?というところをいくつか挙げて、前後を読んでもらいながら検討しました。何度も、ためしてみました。
最終的に、「この物語には音楽を入れるタイミングがない。」という結論になりました。理由はいろいろあるのですが、要するに入れるより入れない方が聞きやすい、ということです。ただ一カ所だけ。入れるとしたらここだね、という箇所があったのですが、入れる音に条件がありました。そういう音楽が見つかったら検討する。見つからなかったら断念する、ということで落ち着きました。
そんな感じで、2日目の稽古も無事終了しました。(実際はもっといろいろダメ出しをしていますよ)
稽古場日記というのは、すごくむずかしいです。 ほぼ実況で書くことになりますから、結論から逆算して情報を取捨選択することができないのです。そういうわけで、このように、たいへん混沌として読みにくい文章になってしまいます。しかも、混乱してる間に混乱してることを書くので、文章が恐ろしく冗長で切れが悪いのです。 でも、ドキュメンタリーを結末から逆算して創る、というのもおかしな話なので、多少無様ではありますが、できるだけもれなく記録していくことにしました。先日の日記を読んで、「はじめて演劇をした高校生のようだ」という評を下さった方がおられましたが、まあ、そういうのがあってもいいじゃないかと 続けることにしました。今回、3本立てということもあり、1作品あたりの稽古の回数が少ないので、連載というよりは読み切りのような日記になると思います。
よろしければ最後までおつきあい下さい。 そして、公演をぜひ、見にいらして下さいませ。
ふう。やっと書き終わった。
★クチミミ公式公演案内とご予約受付は:→こちらhttp://kmm.kiwamari.org/
2013年07月19日(金) |
【クチミミ稽古日記〜1日目〜】朗読のコスプレ? |
朗読公演の稽古をしています。
本を読むひとのお芝居は作ったことがあるけど、舞台の上でほんとうに本を読むのは初めてで、何から何まで試行錯誤の4時間。
朗読家のひとにとっては当たり前で考えるまでもないことなのかもしれないけど、やることすべてが「ほお。」「なるほど」「へえ」「そんなっ?」の私たちは、本の持ち方と座り方・立ち方だけで稽古の半分くらいを使って試行錯誤していたのでした。
もうひとつ、改めて考えたのが、<言葉に感情を込めるということ>について。演劇にも台詞はありますから、そんなことは当然、これまでにも考えたことがあったはずなのに。言葉だけの世界になると、俄然クローズアップされてくるのです。
「声を出して物語を読む」という行為には子供のころからなじみがあるので、「あんな感じね」とイメージしやすいのかなと思います。「舞台に立って台詞を言う」ということはそれに比べると一般に馴染みのない行いなので、ちょっとハードルがあって、ハードルのところで多少考えるために「朗読」ほど、「あんな感じね」感少ないのかもしれません。
読んで内容を理解する前から共有できるような<あんな感じね感>が、内容を際立させるはずはなく、そんな架空の<朗読幻想>に沿って気持ちよく読んでしまうと、うっかりすると<朗読のコスプレ>のようなものになりかねない。<読んでいる>ことはすごくわかるけど、何を読んでるのかいまいちわからない朗読になってしまう。
そういうことに気づかせてくれた稽古でした。
まずは手当たり次第、ためしてみるかと思って(やるのは出演者ですが)ちょこちょこ注文をつけて試してもらっていたのですが、 「内緒話バーション」のとき、学者のセリフがとても聞きやすかったので、
※注 この物語には、学者の卵と瀕死の兎が出てきます。
「何をしました?」と出演者の片桐慎和子さんに、聞いてみました。 「何を?…えっと…感情を込めることを考えてませんでした。」
ほお。
そういえば、読んでもらっていると、兎の台詞のほうが断然意味がわかりやすい。この兎は何を考えてるのかわかりにくいので、既存の感情をこめようがないのです。そもそも瀕死の兎がしゃべるときの感情のこめ方を誰も知らないので、こめようがないのです。 なので、言葉の連なりを手掛かりに発音するしかないのです。
一方、学者のほうはなまじっか日本語を話す人間で、瀕死でもないので、うっかりすると<感情を込めて台詞を読もうと>してしまいます。知らないひとの知らない感情を容易に込められると思ってしまう時点で、実はどんな感情なのかあまり考えてないということなのかもしれません。 どうにも、学者の台詞がわかりにくかった理由はもしや<感情を込めて>読もうとしていたことに原因があるのか…???
前回の(道の階の)ときと同様、出演者がひとりなので、稽古場には私と出演者のふたりだけです。ふたりで一生懸命考えてみました。
その結果、分ったこと。
読む人が自分の知ってる世界の<感情をこめて>読んでしまうと、登場人物が物語の中で何を考えてるのか、わからなくなってしまう。読む人の感情を登場人物の言葉を通して表現しても、それは物語を理解する助けにならないのです。読む人は物語の中にいる人ではないからです。
さて。 考えるのは一緒にできても、演出する係は私なので、ダメ出しは私が出演者に言葉で伝えなくてはなりません。出演者も、演出家がダメ出しするのを待っています。
※ダメ出しって言葉はあんまり好きじゃないのです。目的は要望や意見を伝えることであって、ダメなところだけ指摘するわけじゃないと思うので。もっと前向きな表現はないでしょうか。
混乱の末に、こんな風に(ダメ出し)してみました。
「可能な限り、分りやすく読もうと思わないで台詞を読んでもらえますか?」 「…今のだとわかりやすかったですか?」 「わかりにくかったです。このままだと、とてもわかりにくい。」 「???」
ひどい会話になりました。 自分の表現力の乏しさが悲しい。そして申し訳ない。ごめんなさい。
でも、出演者の片桐慎和子さんは、平然と根気強く話を聞いてくれました。 その後、逆に「地の文」こそ「どこの誰でもない人」として客観的に読むよりも、私たちに理解できる感情を込めて読む方がわかりやすくなるのではないか、という話になり、<地の文の人の感情><兎の感情><学者の感情>について考えながら1回読んだらタイムアップで稽古が終わってしまいました。
おそろしく要領の悪い稽古場で、もしかしたら稽古とは言えないようなことをやっているのかもしれないのですが、でも、これ、楽しいんですよ。かなり。 稽古場に行く前と帰るときで、台本の見え方が全然違う。 登場人物の見え方も全然違う。 稽古する度、作品の全体像も目指すべき地点も変わっていく。 それまで考えたこともなかったことがたくさん、稽古場で共有されていく。 棚を作るのと同じで、これまではたしかに見えてなかったはずのものが、もはや最初から当然そこにあったものにしか見えなくなっていく…
その状況を許してくれる出演者に恵まれてきたことに心から感謝しています。
だって、言い方を変えれば、稽古に先立って具体的なビジョンがなく、全体像も、見えていて当たり前のことも見えないままに進めていくってことですから。いや、私もさすがにこの年でそれはまずい、と思って、最近、機会あれば別の演出家の方の稽古を見せてもらいにせっせと稽古場通いしているのです。 だから、そのうちもうちょっと段取りよくなるはずとは思うのですが…。
でも、だからこそ、今は誰も知らないけれどきっとあるはずの「完成形」を掘り当てるべく、あきらめずに精進しなくてはと思うのです。なにが何でも見つけ出さねばと思うのです。
……そんな感じで、クチミミ稽古、1日目は終了したのでした。 帰ったらぐったり疲れて、焦点が定まらない感じで、そしてなぜかわからないのですがひどい筋肉痛でした。
稽古のときにうまく言葉にできなかったことを、帰ってから日記を書きながら考えてみました。 要するに、
「知らないことを知っているかのようにさらっと説明すると余計に分りにくくなる」 というシンプルな問題なんだなと思ったのです。この物語の中にしかない<理由>や、この物語の中の登場人物にしかない<感情>が、物語の中にちゃんと見えるようにしたい。そのためにはどうすればいいのかを考えて工夫しないといけないということなんだと…。
翌日、出演者の片桐慎和子さんに、この日記に書いたことを一生懸命伝えたら、ふむふむと聴いてくれて、
「演劇も同じですね。恐ろしいことですね。」 と云われました。たしかに。
そして、 はっ。と気づいたのです。
今回クチミミの久野パートで読む「王国」という本の中に、
王国のことを誰もが知っていましたが、王国については誰も何も知りませんでした。
という一文があるのですが、つまり、この王国って、もしや…!
役者さんに、 「あの物語のことが、ちょっとわかったような気がする。私たちが今やろうとしてるのは、つまり、『王国』の研究なんじゃないかと…」 と云いましたら、
※注 「王国」は、幻の「王国」のことを研究している学者の卵の物語なのです。
「へえ〜。そうなんだ〜。」
と感嘆の返事が。
全体像にはまだ遠いですが、目指すべき方向が少しずつ、見えてきたような気がしました。 私パートの稽古はあと4日です。 着々とはいきませんが、よいものを見て頂けるよう、地道にがんばります。
ちなみに、「王国」の中にはこんな一文もあります。
ここから先はもう、何を頼るわけにもいきません。出会った人に尋ね、出くわした出来事をよりどころにして進んでみるしかないのです。
2013年07月13日(土) |
完全に分るまで次に進まない。こと。 |
この間見たお芝居に、「完全に分るまで次に進まないでじっくり学ぶ。」という方法で36年かけて高校2年の課程まで進んだ男性が出てきた。 物語の主旨はどうかわからないけど、
「うんうん。本当はそれが正しい学び方だよね」
という風には私は受け取れなかった。 その考え方はとても傲慢で悲しいと思った。
<何をどう学んでも、自分には常に「知らないこと」があるのだ。世界は自分の知識より絶対に大きいのだ>という感覚が身につかないまま大人になる怖さ…。
そして、それは絶望的に不幸なことだと思ったのだ。
2013年07月03日(水) |
クチミミ公演のご案内 |
ことばのことを考えています。 ことばだけでは創れないけれど、ことばを無視しても創れないので、ことばを素敵に出し入れする方法を考えています。
台本→演出家→語り手→聞き手 と、ことばが渡るとき、いったいどこで誰が何をしているのか? 色々と、わからないことがあるのです。そこで。
小さなカフェで小さなお話しの会をします。わからない時は、まずはシンプルに小さく始めてみるのがいいかと思うのです。
三人がそれぞれ短いお話を用意して、ひとりの女優に託してみます。 20分が3つで合計1時間程度の小さな催しです。 ことばを、読んだり読まなかったり語ったり語らなかったり話したり話さなかったり演じたり演じなかったりします。
吹田、関大前にあるカフェdropさんが場所を提供して下さいました。
あとは、お話を聞く人を待つばかり…
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というわけで、お話の会をします。 4人の共同プロデュースです。 なかなか見られないメンバー構成だと思います。 いろいろありまして、突然沸いて出た企画で、現在、必死にチラシやwebを作っています。その間にもお問い合わせがあったりするので、とりあえず、こちらに詳細を書きます。
出演:片桐 慎和子
構成・演出:1. 久野那美(缶の階) 2. 山本握微(劇団乾杯) 3. 筒井潤(dracom)
開演日時:2013年 8月3日 (土)11時 /18時 ・ 8月4日 (日)11時 /18時 ※計4回公演 / 開場は各開演の30分前より ※上演時間は約1時間強(3作品×20分)
場所:カフェ drop ( ドロップ )---大阪府吹田市山手町3-7-5 利導荘1F
交通:阪急千里線「関大前駅」 ※南改札口出て左手側(東側)出口へ地上を出て左手(北側)に見えます ※梅田より約20分。河原町より約50分
料金:500円(前売・当日共通) ※各回20席限定。 お席に限りがありますので、早めのご予約をお勧めします。
500円は、クチミミ公演の入場料金です。(飲食代は含まれていません。)飲食ご希望の方は、営業時間内に各自カフェメニューよりご注文&お支払い願います。カフェの営業は朝の公演終了後〜夕方の公演開場の間(12:30〜17:00)ですので、公演時間は注文できないのですが、よろしければ、ぜひ、朝の公演のあとや、夕方の公演の前にご利用いただければと思います。 (ケーキが美味しいです。たくさんの種類の紅茶があります。)
以上、簡単ですが、ご案内まで。
ご予約受け付けております。
★クチミミ公式公演案内とご予約受付は:→こちらhttp://kmm.kiwamari.org/
これから準備を始めます。 他の作演出のひとと一緒になにかやるのは、実は、はじめてなのです…。
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