窓のそと(Diary by 久野那美)

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2011年09月23日(金) 役者は台詞のことばかり考えてるわけじゃない。

ということがよくわかりました。私が間違ってました。ごめんなさい。

私は、初対面のひとが出会うシーンが好きで、それこそ演劇の醍醐味と思ってるので、誰かと誰かが出会うシーンをついつい作ってしまうのですが、これがなかなか難しいのです。今回も、登場人物同士の距離がうまくとれなくて、役者さんもしっくりこなくて悩んでる感じで何回か稽古してみてもどうもうまくいかなくて・・。

思いきって、また、台本を離れてみることにしました。

「とにかく出会うこと。絶え間なく相手に関わること。言葉は基本的に話さない。声は出してもいい。そうやってて、そのうち言いたくなれば言いたい台詞を言ってもいい。」というルールで稽古をしました。こんな稽古によくつきあってくれるものと思いますが、片桐慎和子さんは普通にやってくれます。今回、一人芝居なので、相手役すらいないというのに。相手が反応しないということは、リアクションが無限に想定されるということな訳で、四方八方に気をくばらなくてはいけません。芝居の稽古というより、野生動物の巣立ち後の訓練みたいなものです。しかし、このひとはこういうのがものすごく得意なのです。野生動物に近いのかもしれません。

何を考えてるのか全くわからない相手と出会って関係を築くまでの、つまり、この物語が始まるまでのできごとを、ひとりでやって見せてくれました。私は、ただそれを見ていました。
知らなかったことが次々と明るみにでてきました。忘れないようにメモしました。

私が「台詞なしエチュード」と呼んでいるこの稽古は、昔、「パノラマビールの夜」というお芝居をやったときに、ものすごく時間のない中で台詞以外の言葉の練習をするために始めました。やってみると役者さんたちは台本を読んだり、私のつたない説明を聞いたりするより断然楽しくやってくれることがわかったので、それ以来、稽古に行き詰ると必ずするようになりました。見てると永遠にやり続けたくなるくらい、面白いのです。台本てなんだ?セリフってなんだ?と悩みます。

この稽古は、いろいろ考えて動くのは役者だけで、演出家はただ見ているだけです。まず、「ことば」を決めます。それは、たいてい、そのとき稽古している台本の中に頻繁に出てくるものを使います。「パノラマビールの夜」のときは、ピーナツとか箱とかで、「ここはどこかの窓のそと」のときは、本でした。役者さん二人に舞台で出会ってコミュニケーションをとってもらいます。台詞は一切禁止です。台詞の代わりに交わしてもいいのは、指定された「ことば」である「もの」だけです。
何回かやりましたが、名作がたくさん生まれました。そういえば、このことを日記に書いてませんでした。そのうちまた書こうと思います。文章で書いても面白さが全部伝わらないのが悲しいところです。

話はもどりますが、いつもは役者二人でやるところを、ひとりで、「ことば」の代わりをする「もの」があるところを、自分の体だけを使って、やってもらいました。
台詞があると、台詞の想定する範囲のことしか舞台の上に存在しなくなってしまうので、台詞を書いている私の知ってる範囲のことしか起こらないことになります。それがまずいのではないかと思ったわけです。
やってみて。たしかにその通りでした。私は知らないことが多すぎました。役者って、台本に書かれていないことを知ってたりするのです。以前から、そうなのではないかとは思っていましたが、今回確信しました。しかも、それをとても楽しそうに確認するのです。

あまりに楽しそうだったので、終わってから、「楽しかったですか?」と聞いてみました。片桐さんは「楽しいです。やってみないとわからないこともいろいろわかっりましたし。」と言いました。なるほど。書かれてないことはやってみればわかるのですね。

わかったことはいろいろあります。

未知のものを目の前にすると瞳孔が開いて身体の重心が下がること。誰かについて知りたい時、その誰かの居る場所だけでなく、彼(彼女)の見ているものも気になること。相手がしゃべらないと、どれくらいの大きさの声で話しかければいいのかわからいこと。間に何か媒介になるものがあると、会話しやすいこと。ひとは、大きな完全に丸い月をみるとその前に何かを置きたくなるものだということ。

わからないことをやってみてわかるなんて、なんて演劇的なんだろうと思いました。
「私たち、すごく演劇的なことをやってるのかもしれませんよ。」と言うと、「これは演劇ですからね。」と涼しい顔で言われました。そうでした。

話が長くなりましたが、そういう稽古を経て、もう一度台詞を入れて最初からやってみました。入れ替わったりしてませんか?というくらい、全然違う芝居になりました。
これだから稽古はやめられません。もちろん、そうでないからといってやめるわけにはいかないのですが。

今日は他にも発見の多い一日でした。
いろいろ書きたいことがあるのですが、書くことのない日もあるかもしれないし、稽古のない日もあるわけなので、そういうときに書くことにして、何よりいろいろ考えて疲れて眠いので、今日はこれでおしまいにします。

また続き書きます。書かないと忘れそうなことから、書いていくことにします。あ。でも今週はあさっても稽古があるんだった。この続きをいつまでも書いてると、あさって稽古のことを書くのはもっと先になってしまいます。そうすると、そのあとの稽古のことを書くのはもっともっと先になってしまいます。これでは、公演がおわるまでに稽古場日記を書き終えるのは到底不可能です。
稽古場日記って、みなさん、どうやって追いついてるんでしょう。
公演が終わるまでには、よりよい稽古場日記をかけるように、私も精進しようと思いました。

とりあえず、今日はここまでで。


2011年09月18日(日) <公演日程が決まりました。>




2011年11月29日・30日
道の階vo.1公演

「それは、満月の夜のことでした」

作・演出:久野那美
出演:片桐慎和子

C.T.T.大阪11月試演会参加

場所:ウイングフィールド

詳細は後日リンクします。
よろしければぜひ、見にいらしてください。

ときどき、稽古場日記をかきますね。


2011年09月16日(金) なんでそんなに台詞のことばかり考えるのか

<その場で今、何がおきてるのか>
ということを表すのに、言葉って非力だなあとつくづく思う。非力どころか、害になることさえある。言葉が邪魔して、<その場で今おきてること>が見えなくなる。<その場で今おきていないこと>がどんどん伝わってしまったりもする。

演劇というのは、まさに、<その場で今起こっていること>という媒体なのに、言葉である「台詞」はどうして、演劇の最重要アイテムのように扱われるんだろうか?

お芝居の稽古をしてると、台詞なんかほんとうは、ないほうがいいんじゃなiか?と思うことがよくあって、役者に対して、「なんでいつもそんなに台詞のことばっかり考えてるんだ。」とか「どうしていつもいつも台詞ばっかりしゃべるんだ」とか、どう考えても絶対に理不尽なことを思ったりした。

でも、役者はなにがなんでも台詞をしゃべるのだった。
それは、台本に台詞ばかり書いてあるからだった。
そしてそれを書いたのは私なのだった。

何をやってるんだか。

昔、そういうことでけっこう悩んだ。
一度、本番2週間ほど前に、台詞を全部禁止して立ち稽古をしてみたことがある。役者はすごく困っていた。怒ってたのかもしれない。

でも、あれからけっこう時間がたって、私なりに考えたことがある。
どうしても、言葉でないとできないことがひとつだけある。
<その場で今、起きていないことを表すこと>だ。
そして、それを<そのことを知らない人に伝えること>。

それは、言葉でなければできないことで、
そのためには、たくさんのたくさんの言葉が要る。
つまり、演劇というのは、<その場で今起こっていること>であると同時に<その場で今起こっていないこと>を表すことのできる装置なのだ。

恐るべし。台詞の威力。

この発見はおおきい。

演劇に台詞があるのも悪くないかもしれないなと思えてくる。
ならば、台本って思ったより役に立つものなのかも。
私は台本をつくる係なので、それはかなり嬉しいことだ。

もしかしたらみんなは最初から知ってたのかもしれないけど、私にはおおきい。「台詞」のすべきことはもっといろいろあるような気がしてくるし。

今回、登場人物がひとりしかいないお芝居を作っていて、
そのことを改めて強く思った。


2011年09月11日(日) 道の階。



公演日がまだ決まってないのですが、思っていたより手際のいい私たちが順調に稽古場を手配してしまったため、今日から稽古が始まりました。

上演日が決まっていないということは、もしかしたら上演されないかもしれない芝居の稽古をしているということでもあり、なかなか贅沢な状況です。
今回、人間の出演者は片桐慎和子さんひとりだけです。台本と演出は私です。
「道の階」という名前の集団です。階員は2名です。
月の夜のお話です。

うわさには聞いていましたが、ふたりきりの稽古場はひとあじ違います。
なんというか、地味です。そして、ゆったりしています。
とにかくスペースが広いです。いえ、スペースはそんなに広くはないのですが、人間ふたりの占める面積はしれてますので、余ってる場所がたくさんあるのです。
好きな場所に寝転がって台本を読みました。
ひととおり通して読んで(私は聞いてるだけですが)、話し合いをしたり、謎の部分を書きだしたりしました。稽古初日に謎だったことが、本番が近付くにつれだんだんわかってくるというのはまさに稽古の醍醐味です。謎が多いほど楽しいはずです。なので、今はこれでいいのです。たぶん。

休憩時間に、片桐さんの差し入れてくれた食パンを食べました。
今回のお芝居は、食パンが重要なアイテムなのです。
稽古初日にふたりで食パンを食べることは、なかなか良い儀式のように思いました。

それから、役者さんがセリフを覚えるところを見ていました。
ひとがセリフを覚えているところをはじめて見たのですが、本当に面白いです。どきどきします。本番より面白かったらどうしようと思ってひやひやします。

言葉と言葉の間に、おのずからつながりがある部分はセリフとして覚えやすいみたいです。逆に、なんでこの言葉とこの言葉が並んでるんだ?と思うと覚えにくいみたいです。
でも、おのずからつながりのない言葉同士がつながっているということ自体がその物語の意味だと思うので、役者さんが覚えにくいセリフって重要なセリフなんだろうな、と思いました。

書いただけではわからないことがたくさんあって、稽古場でそれがどんどん解明されていくのが楽しいです。今日一日、ひとりの役者さんが読むのを聞いてるだけで、これまで考えたことのなかったことをいろいろと考えました。

一生懸命セリフを覚えている片桐さんの横で私はひとりで楽しんでいました。そしてときどき口をはさんで邪魔をしてしまいました。

二人きりの稽古は、「セリフ合わせ」とか「顔合わせの飲み会」とかもなく、地味に終了しました。

              **

そんなわけで、これから時々稽古場日記を書きます。
興味を持っていただけたらぜひ公演を見に来て下さい。
・・・・・公演日が決まってなくてすみません。
決まりましたらお知らせいたします。
どうか、決まりますように。


2011年09月05日(月) <公演のおしらせ>




11月に大阪で小さなお芝居をすることになりました。
日程が決まり次第、掲載いたします。

稽古がはじまりますと、この日記はなんと再び稽古場日記になります。
それまでに「セキレイさんのこと」の続きをかかなくてはなりません。
この1年でベランダの鳥事情がいろいろと変化しまして、さらに変化した後すっかり元に戻ったりしていて、なにを省いていいのか、あるいは一切省いてはいけないのか、見極めがたいへん難しいのです。なかなか書くのが追いつきません。そもそもこの日記は野鳥観察日記ではないので、鳥たちのことは書かなくてもいいのですが、「セキレイさんのこと」の続きはどうなっているのかと問い合わせがありましたので、やはり、完結させなければなりません。でも、状況は完結していないので、とりあえずどこで区切りをつけて結末とするか、という問題にもなるわけです。
ドキュメンタリーは難しいですね。

結末から書きますと、すずめたちは今もあいかわらず集団でやってきて集団で帰っていきます。でも、結末だけではわからないこともあるので、経過を少しずつ書こうと思います。
稽古場日記と同じですね。


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