窓のそと(Diary by 久野那美)
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ゴッホという有名な絵描きさんについて、私はほとんど何も知らない。
すごい天才で、でもほとんど誰にも認められずに死んでしまって、でも今ではその絵がものすごい値段で国を超えてとりひきされていて、ジャンルが芸術なのか経済なのかわからないような存在のひと、という認識しかない。 「ひまわり」という絵を描いたひと、ということだけ知ってる。 そしてわたしは「ひまわり」があんまり好きじゃない。
作品自体を直接見たことがないので、ほんものを見たら違うものかもしれないけれど、教科書や画集で見る「ひまわり」は、なぜだかとても不愉快でいらっとする絵だった。生命力とか躍動感とか言われてもよくわからなくて落ち着かないので無視することにした。だから、ゴッホという有名な絵描きさんについて、私はほとんど何もしらない。
けれど、有名なひとの話はいろんな形で残るから、その気が無くてもいろんなところで見聞きすることになる。最近、ひょんなことからゴッホの話を聞く機会があった。ゴッホの半生について、少し詳しく知る機会があった。彼は「光」を表現したかったのだと。だから日差しの強い、南仏(アルザス)で晩年をすごし、色彩豊かな作品をたくさん描いたのだと。
そしてなんと! ひまわりの絵は1枚だけじゃなかった。 彼は何枚も、何枚も、ひまわりの絵を描いていた。 絵画好きのひとには当然のことなのかもしれないけれど、私ははじめて知って驚いた。私が教科書で見たひまわりは、そのなかの1枚に過ぎなかったのだ。 気になるので、いったいどんなひまわりをいくつ描いたのか、調べてみた。 そしたらもっとびっくりした。
7点の「ひまわり」の絵。(点数については諸説ある)
花瓶に生けられたひまわり。 花瓶に生けられたひまわり。 花瓶に生けられたひまわり。 花瓶に生けられたひまわり。 花瓶に生けられたひまわり。 花瓶に生けられたひまわり。 花瓶に生けられたひまわり。
どれもこれも、同じように不愉快でいらっとするおんなじような「ひまわり」の絵。新しく1つ見つけるたびに、胸が苦しくなってきた。
太陽の下に元気に咲く花が切り取られて小さな壷につっこまれているところを描く理由は何?縦にも横にも無理のない、均整の取れた安定した構図にきれいに収まる「躍動感とか生命力」て何?私はかつてそれを不愉快だと感じた。そしていらっとした。いらっとしないために、無視することにした。
だけど、それが1つでなく7つになると少し事情が違ってくる。
切り取られて壺に押し込まれた「生命力あふれる」ひまわりの繰り返しはとても苦しい。この苦しさはあまりに直接に胸に刺さってきて、無視することができない。なぜ、執拗に、彼はこれを書き続けたのか?
彼は光を描きたかったのだという。 ひまわりは太陽の下で自らをぐんぐん振り回しながら成長し、光をいっぱいに浴びて咲く花だ。ひまわりは、そういう花だ。 彼はそういうひまわりを描かなかった。 ひとつひとつを丁寧に几帳面に壺の中におしこめた。
ゴッホさん、これは何ですか?自傷行為?
私はどうしてもそのことに納得がいかず、どこかにあるのではないかと、つぼに入ってない、地面の上にある「ひまわり」を探した。
4点みつけた。 「4つのひまわり」「2つのひまわり」というその絵は、けれども咲き誇っているのではなかった。もぎとられて、地を這うようにしてぐったりと枯れていた。
この絵には違和感を感じなかった。 わたしはこのひまわりを無視できなかった。
太陽の下で、大地に根を生やして生き生きと咲いているひまわりの花は、大地から切り離され、光を失うと無残に枯れるのだ。大地から切り離され無残に枯れるひまわりの花は、生きている間ぐんぐんと世界を吸収して元気に咲き誇るひまわりの花なのだ。
でも、こちらのひまわりはパリにいたときの作品だという。 その後彼はパリを後にし、明るい日差しと豊かな大地を求めてアルザスに移り住む。アルザスで描いたひまわりは枯れてないけどみんな壺の中に入ってる。
摘み取ると枯れてしまうひまわりも、壺にいれとけばしばらくもつのだと覚えたのか? なんでそんなこと覚えたのか。 アルザスへ何しに行ったのか。
こんなに窮屈で孤独な方法で彼が愛そうとしたひまわりは、 彼に何を与えてくれたのだろう? 否、何を与えてくれなかったのだろう?
ゴッホはアルザスで丁寧に時間をかけて自分達のアトリエをつくり、 しばらく生きて、 そして死んだ。
2008年06月14日(土) |
かたつむりはあじさいの葉を食べない |
…というトリビアを聞きました。 かたつむりはあじさいの葉の上ではなく、コンクリートの上にいるのだそうです。丈夫な殻をつくるために、あじさいの葉ではなく、コンクリートを食べる必要があるからです。
この話を聞いて、私の中のかたつむり高感度はものすごくアップしました。 そして嬉しくなりました。これは、パンダのしっぽが黒ではなくて白だということを聞いたときの気持ちとよく似ています。
もし、彼らが人間の想像上の生き物で、作家やデザイナーの作品だったなら、おそらくかたつむりは紫陽花の葉を主食とし、パンダの尻尾は黒かったのではないかと思います。そのほうがバランスが良いからです。つまり、見てる人にとって都合がよいからです。
だけど彼らは見てる人の事情に関係なく、自分達のために生きている生き物なので、地味なコンクリートを住処とし、白い尻尾を持ってるのです。
誰のためでもなく自分のためだけに正しく生きてる感じがとても素敵です。
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