窓のそと(Diary by 久野那美)

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2003年03月19日(水) <わたしたち>

拉致被害者の家族会と在日コリアンのグループとの交流会では、「同じ立場に居る<わたしたち>はお互いの悲しみを分かり合える。協力し合える。」という希望のある会話が交わされたらしい。
アメリカのテロ被害者の遺族の中に、「相手国のひとたちに<わたしたち>と同じ悲しみを与えないで。」と反戦活動をしたひとたちがいたという。

わたしはずっと、<わたしたち>ということばは、<あのひとたち>を創りだすために使われる言葉だと思っていた。<正義>という言葉が<悪>とか<敵>とかを創り出せるのと同じように。理解できない・了解できない<他者>を排除するための言葉だと思っていた。

だけど、こんなものすごい<わたしたち>の使い方があった。
衝撃的。そして、なんて素敵な・・。
簡単に生まれてきた言葉ではないだろう。
<あのひとたち>と<わたしたち>という世界観に守られることができなかったひとたち、<たったひとりのわたし>をもって世界と向き合わざるを得なかったひとたちの中に起きた、壮絶な美しい奇跡だと思う。

<あのひとたち>と遠く見遣ってしまえば理解も了解もできない、決して接することのない向こう岸にあるように思える場所にでも、わたしたちは<わたしたち>という言葉を介して確かに共存することができるのだ・・・。

そういうことなら・・・・。
<わたしたち>という言葉も、その言葉を作ったわたしたち人間も、けっこう、捨てたもんじゃないじゃないか・・・、ちょっとすごいんじゃないか?なんだかとっても素敵なんじゃないか?

そもそもは、<わたし>が集まって<わたしたち>になったんだった。
そもそもは、<ひとつしかないもの>が集まって<みんな>になったんだった。ひとが集まって町ができて、町が集まって国ができて、国が集まって世界ができて・・・・・・・・。そういうことなら・・・・。

        *****************

<わたしたち>って誰なのか。
わたしたちは、ちゃんと知ってるのかもしれない。
簡単には思い出せなくても。知ってるのかもしれない。
<たったひとりのわたし>がみんなで考えれば、「その前に」、わかるのかもしれない。

・・・・・・誰に向かって何を言いいたいのか言いたくないのかわからなくて。とにかく、今日、思ったこと。


2003年03月04日(火) 「どっかにある。」

私はしょっちゅうものを失くす。
ふと気づくと、あるはずのものがあるべきところにない。
だから、失くしたら困るものは極力持たないようにしている。
持ってしまったものは「失くしたら困るなあ」と思わないことにしている。
よく、「他人にお金を貸すときは(返ってこなくても嫌な思いをしなくてすむように)あげたものとおもいなさい。」と言うけれど、それと同じように、一度手に持ったものは「失くしたものと思う」ことにしている。

物心ついたときからそうだったので、大人になるにつれ私なりに心身共にスキルアップを重ね、今ではかなりレベルアップした(と思う。)
外で大切なものをなくすことはほとんどなくなったし、なくしたときも被害が最小限に押さえる技術を習得した。ひとは、生きるのに必要不可欠なことに対しては能力を最大限有効に使って対応できるようにできているのだ。

ささいな工夫と努力のつみかさね。
それでも、やっぱり日々いろんな細かいものがどっかへいく。
ものをなくさないひとというのもいて、そういうひとは、在るはずの何かが見あたらないと、必ず、
「○○がない。またどっかへやったやろ!」と言う。
「え?ない?嘘。どっかにあるって。」と私は言う。
見つからないのになんで平気なのかとまた言われる。
(私なりに対策を考えてはいるのだけど・・切実な感じがないらしい。)

この会話はあまりにしょっちゅう繰り返されるので、深く考えたことがなかったんだけど、このあいだ、自分で言いながら、ふと思った。
「喪失感」って何だろう?
(「何かがどっかへいく」と、誰かが迷惑を被るとか、不都合が生じるとか、そうことはとりあえず、おいておいて、エアコンのリモコンがなくて寒い思いをさせたひとには心からお詫びしつつ・・)

「ここではないどっかへいってしまうこと」が喪失なのか?
それは痛ましいだけのことなのか?

「どっか」のことを考えるのが私は大好き。
「どっか」という場所には「ここにないもの」がなんでもある。
「ここにないものはどっかにあるはずだ。」と思う。
「ここ」から消えてしまったもの、「今ここ」にないもの、の物語を私はよく創る。そしていつもいつもそれを「喪失の物語」と言われることに少なからず抵抗がある。
喪失感というのは、どこからも消えてしまったものを悼むことじゃないの?
どっかにあるはずのものについて、どうしてただ悼んだりなんかできるだろう?
と。わたしはきっと思っているのだ。
「どっかにあるもの(どっかへ行ってしまったもの)」の物語は、私にとって喪失を悼む物語なんかじゃないのだ。いうならば、希望の物語だ。
それは私が子供の頃からしょっちゅういろんなものを「どっか」へ置き忘れてきたからなのか?「どっか」に置き去りにしてきた歴代のたくさんのたくさんのものたち・・・。<ふと気づくと在るはずのものがそこに無い>、という状態を「悲しい」と思わなくなったころから、私の中には喪失という概念が希薄になったような気がする。

「どっかにある。」と思えば喪に服する時間に他のことが出来る。
もしもそれがちゃんと「ここに」在ったなら出会えなかったかもしれないものに出会うこともできる。
いつからか、そういう風に考えるようになった。

そして、「どっか」の物語ばっかり創るようになった。



先日。「喪失感」について、同じようなことを言っていた劇作家の友人に、
「よく、もの失くします?」と聞いてみた。
「うん。よく失くすけどそれ以上によく拾う。プラスマイナスでちょっとプラスくらいかな。」という答えが返ってきた。
そういうのもありだな、と深く納得した。


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