窓のそと(Diary by 久野那美)
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2002年12月14日(土) |
大きくて立派で素敵なビル。 |
食べることがあんまり得意じゃない。 ・・・と、カミングアウトしてみる。 日常生活に差し障りはないけれど、ときどきちょっと不便なこともある。。 食べるものを見るのも嫌、触るのも嫌、食べるなんて問題外、という状態にたま〜に、なる。 アレルギーみたいなものか。 でも私の数少ない履歴書に書ける趣味は「料理」だったりするのだ。 その結果。ものすごく「料理」したくてたまらなくなるときと、食べるものなんか見たくもない、という日が不規則に訪れるため、気が向いたときに買い物して下ごしらえして冷凍しておくことにしている。冷凍庫の中にはホワイトソースから手作りしたドリアとか常備されている。 なんか矛盾してるような気がしていたのだけれど、今日、謎がとけた。
昨日、近所のスーパーが新装オープンで猛烈に安かったので、2週間分くらい買いだめした。 それがいけなかったのか、冷蔵庫につめこんであった食料品をさて、料理するかと冷蔵庫を開けたところで突然やってきた。頭痛い。気分悪い。吐きそう。 ここで負けては行けない気がして、とりあえず新しいレシピに挑戦することで自分を鼓舞し、 麻婆豆腐を創った。(実はいつもは「麻婆豆腐の素」を使ってたのです。) 私のレパートリーはこうやって増えていく・・・。
少しは安心したものの、食べられなかった時のためと、この間から続いている頭痛のお薬をもらおうと思って、病院へ行くことにした。 行きつけの(?)びょういんをひとつだけ決めていて、私はなんでもかんでもそこへ行く。 ニキビができても二日酔いのときでも行く。さすがに虫歯だけは「歯医者さんにいきなさい。」と他を紹介されたけど。(ちなみにそこの看護婦さん(看護師さんというのが正しい?)はこのページのお客様でもあって、行くたびに感想を言ってくれる。さらにドラマとか絵本とかハーブとか占いとかについていろいろ教えてくれる。)
肩凝りの電気あんま機(なんていうんでしょう?あの、吸盤つける奴・・)をしてもらって、漢方の頭痛薬をもらったのだけど、食べ物問題については根本的には解決しなかった。それなりに 気分的には落ち着いたからいいんだけど。
私「頭が痛いうえに今日は朝から冷蔵庫が気持ち悪くてしんどいです。」 先生「冷蔵庫がたちはだかるのか?」 私「違います。中を開けると食べ物がつまってて気持ち悪いんです。」 先生「いろんなことがあるもんだなあ。」 私「昨日は特売だったので、今日は中身がぎっしり入ってるんです。」 先生「つまり敵が多いわけだな。」 私「どうしたらいいでしょう?」 先生「早く食べてしまいなさい。」 私「ですから、食べられません・・。」 先生「(他の人に)食べてもらいなさい。」 私「はい・・。」
そうか・・・。でも、そういう問題なんだろうか???? とか思いつつ帰り道を歩いていて、突然「あ。」と思った。そうか。そういうことなのか。 問題は何も解決してないんだけど、それはちょっと大きな発見だった。
話がいったんとぶけど。高所恐怖症の話を聞いたことがある。 高所恐怖症を治療するには、まず、ひく〜い台の上に乗って、次にもう少しだけ高い台の上に載って、だんだん台を高くしていく・・・という。 その話を聴いたとき、私はそれはなんだかな、と思った。 私には高所恐怖症はないけれど、もしもそういう症状に不自由を感じていて、克服しなければならないとしたら、そもそもその低い台に乗れるだろうか? もしその必要があるならば、その台は自分で創らせて欲しいと思った。 自分で創った台の上になら、乗れるかもしれない。
それをふと思い出して。合点がいったのだ。 なんで、私は料理するのが好きなのか・・。
はじめて一人暮らしをしたとき、自分の台所と自分の冷蔵庫ができたことが何よりも嬉しかった。あの途方もない開放感は忘れられない。きっと、食べ物と互角に戦えるような気がしたんだろうな。いろんなものを創った。好きなものを好きなだけ使って、好きな分量だけ、綺麗に、美味しそうに、美味しく・・・・。
そういうことなのだ。 食べるのが苦手なのと料理するのが好きなのとは矛盾しない。 だってそれは自分の乗る台を創るための行為だから。
そこからさらに発展して。 どうして物語を創りたいのか、ということにも納得がいった。 具体的に説明できないんだけれど、きっとそこにもおんなじ構造がある。 「言葉がとても綺麗ですね。」とよく誉められるけど、それにもおんなじ理由がある。
ひとりでものすごく納得しながらうちに帰った。
頭痛いのも冷蔵庫開けられないのも解決しないまま一日が終わるんだけれど、でもすごい発見! したので満足している。勝手にひとりで納得してるだけかしら?こんな説明でわかるんだろうか?
要するに。 私がもしも高所恐怖症に悩んでいたら、きっと建築家を目指していただろう、ということなんだけど。大きな大きな立派な立派な素敵なビルを建てたいと思っただろう、ということなんだけど。
この間、何かの話の流れである友人がこんな風なことを言った。 「わたしはいつもその時点で<これがベスト>って思えることを選択していたい。だから、選択しなかった方のものには興味がない。それは、もう捨てたものだから。必要のないものだから。」
すごいカルチャーショックを受けた。 そうか。そうなのか。そういうことなのか。
彼女が強い意志と覚悟を持ってその考えを言葉にしていたことがとてもよくわかった。だから、そこで語られている<喪失>を、私はとても美しいと思った。
しかし。そのとき何が「そういうこと」だったのかというと、彼女ではなくむしろ私のことだった。
翻って自分のことを考えてみると、私にはそのような潔い喪失感がないような気がした。なんでだろうかと気になった。 私が割に何でもぼんぼん捨てる(選択が早い)、のは、もしかしたら選択しなかったものに対する喪失感が希薄なためかもしれない。 あるものを選択し、別のあるものを選択しないのは、一方には責任がとれてもう一方には責任がとれないからであって、興味の量とは全く無関係である。
選択しなかったもののことを、私はいつまでもひつこく考えているところがある。 「何故、私はそれを選ぶことができないのか?」ということに対する好奇心は、しばしば「その選択しなかったもの」に致命的に自分が損なわれて関わることが物理的に不可能になるまで続くことになる。多かれ少なかれこちらを選ぶとそのリスクがあると思うから選ばないわけだから、その状況はかなり高い確率で起こるのだ。
にもかかわらず。 「このキノコには毒があるはずだから食べない。こっちのキノコは無害だからこっちを食べよう。」と一方のキノコを選んで食べるとき、少なくとも食べている間中、毒のある(とみなした)キノコのことは頭から離れない。
ほんとうに毒があるのか? それはどういう種類の毒なのか? 何に対する毒なのか? 抗体はあるのか? もしかしたら食べ方によっては美味しかったりするのではないか? そもそもどうしてこっちのキノコはあっちのキノコに比べて毒がありそうに見えるのか? 毒ではあるけれどももしかしたらたとえば当たり付きだったり豪華付録がついてたりして実はこっちを選んだ方がお得だったりするのではないか?(たとえば立てなくなるけど空を飛べるようになるとか、おなかを壊すけど算数ができるようになるとかしたりするのではないか?)
そして何よりも。毒があるかないか、という事以外に、もはや既存の<キノコ>という軸でははかり得ないこ第3の価値観によってこれらのキノコは比較し直すことが可能だったりするのではないか? もしかしたらそのキノコを選択しないことは正しかったのかもしれないけれど理由は実は毒ではなく他の未知の要素であって、キノコというものはは毒の有無以外にも実はその「何か」の有無によって図られることが可能なのかもしれない。だとすると、わたしのキノコ観は大きく変更を迫られることになるのだけれど、それはいったい何なのか??・・・・・・
等々考え出すと果てしなくどこまでも行ってしまう。 それは、そのキノコの毒にやられてそこから退散せざるを得ない状況になるまで永遠に続くのだ。もしかしたら興味の度合いはむしろ美味しく無害な方のキノコに対するものよりずっと大きいのかもしれない。
「この映画、信じられないほど面白くなかったの。今度一緒に見ようよ。」 とかいう台詞を私はときどき(しばしば)言ってしまう。 たいてい「嫌。」といわれる。嫌な顔をされる。別に嫌がらせしてるわけじゃないのよ・・・。 結局その企画はほとんど達成されない。 しょうがないのでひとりで何回も見る。 あるいは、「面白くなかった」事実を隠して誰かに見せてみる。
<いったい何がそんなに面白くないのか>ということに対する興味(好奇心?)は、<いったいなにがそんなに面白いのか>ということに対する興味と全く同量に存在する。理由が納得行くまで、気になって気になって気になって気になってしょうがないのだ。 なんでなのかわからない。 だいたいすごく疲れるし下手すると死ぬ。
<未知の何か>は「私が選ばない方」の中によりたくさん含まれているような気がするからか?不可能なことを可能にするための呪文がその「どうしても面白くない映画」の中に埋め込まれているかもしれないと思うと落ち着かないのか?
野生動物に生まれなくてほんとうによかったとつくづく思う。
ラジオドラマのクリスマス特番の収録を見に行きました。 kissFMのストーリーフォートゥという番組です。 普段は交代で台本を書いているのですが、クリスマスは4人でいっせいに書きます。のでオムニバス4本ドラマになります。 今年のテーマは「天使のいる風景」。 「何書いてもいいので好きなように書くこと」というのが番組の制作方針(!)なので、書く人によって、とんでもなく違う話になります。 特番はぜんぜん違う4つのお話がいちどに楽しめてとってもお得です。 今年の台本は、桃園会の深津篤史さん、アグリーダックリングの樋口美友喜さん、ワイヤーのサカイヒロトさんと私です。
役者さんはレギュラーの腹筋善之介さん、平野舞さんに加え、小劇場の役者さんが多数、参加されています。私のだいほんのゲスト出演者はMONOの金替康博さんと太陽族の金田典子さんです。録音してるのをスタジオの隅で聴かせて頂いたのですが、とっても素敵なドラマに仕上がりました。これ以上はないくらい、抜群のキャスティングでした。放送が待ち遠しくてわくわくしています。
ひとつの風景(状況?場所?時間?)のなかに、物語がたくさん重なって在るのが好きです。できるだけたくさんの違った言葉で説明できるひとつの風景を創りたいと思います。無数の物語が同じ場所を共有し,交差していくのを実感できるような・・・。 だから、いつも、物語の内容を一連の言葉で説明することができなくて困ります。「あらすじ」とか「テーマ」とかきかれると大変困惑します。
なので。今回のも、 飛べなくなったので歩くことにした天使の物語でもあり、 生きてないので死ぬことができないので天国に行くことのできない靴の老夫婦の物語でもあり、ときおり予告もなく訪れる沈黙の瞬間に、ふと見えない何かに思いを馳せてしまう私たちの物語でもあります。 誰かの遺したものを「他の誰かのために役立てること」についての物語でもあり、遠くへむかって歩き続けることについての物語でもあり、靴はふたつそろってると歩くことができるという物語でもあり、どこかへ行ってしまったものは消えてしまったのではなく、しらないどこかにちゃんと存在し続けるのだという物語でもあります。 そしてきっと、もっとあります。
簡潔に説明できなくて申し訳ないのですが、とにかくきっと面白いのでぜひ聴いてください。 他の3つの作品も、(残念ながら収録してるところは見れなかったのですが)、噂に聴くところ、とっても面白そうです。
放送は、12月23日午後3時〜4時。kissFMです。 神戸を中心に関西圏のみの放送になります。
ちょっと宣伝してみました。
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