窓のそと(Diary by 久野那美)
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靴が気になる。 靴屋さんをのぞくのは大好き。 買わないのにしょっちゅう見に行く。 たくさんあるのを見てるだけで楽しい。 好きなひとには靴を選んでプレゼントしたくなる。 自分がプレゼントされたりしたら、どきどきする。 そういうのが猛烈に難しいのも靴だったりするんだけど。
誰かのものになる前の靴も気になるけど、 誰かのものでなくなってしまった後の靴はもっと気になる。
この間台本の整理をしていたら、「靴」について書いた話が3つも出てきた。 しかもそのどれもが、「失くした(失くされた)靴」の話だった。 片方だけになった靴。 持ち主を失った靴。 はけなくなった靴。 履きつぶした靴。
なんでかわからないけど、私の「靴」のイメージはとても孤独。 そしてとても優しくて甘美。
2002年05月09日(木) |
アリスのお姉さんのこと |
「不思議の国のアリス」という物語がある。 ウイットに富んで、きれいで自由で、登場人物もみんな魅力的で・・もう大好きな物語。 子供の頃から好きだった。
子供の頃、この絵本がうちにあって、くりかえし読んだ。 幼かった私が、いちばん気になった登場人物はアリスのお姉さんだった。 絵本の中の表情まで思い出せる。 私が読んだ絵本では、アリスはお姉さんと一緒に野原へお散歩にゆく。 不思議の国での出来事は、お姉さんが木陰で読書をしている間、うとうとと眠ってしまったアリスが見た夢の中の物語、ということになっていた。(原作はどうなのかしらない。) アリスが、童話史上に残るあれだけの冒険をしている間、隣で本を読んでいたお姉さんの存在というのが子供心にとても気になったのだ。 アリスが目を覚ますと、夕方になっていて、お姉さんは読んでいた本をぱたんと閉じて、 「さあ、帰りましょう。」 とか言うのだ。 恰好いい!と思った。 わたしは、不思議の国もほしいけどお姉さんも欲しいと思った。 アリスにもなりたいけど、お姉さんにもなりたいとおもった。
そのときの自分の気持ちを、今でも覚えているし、今でも理解できる。 わからないのは、こういう気持って、どういう種類の気持なんでしょう?ということ。 最近ちょっときっかけがあって。 そんなことを思い出している。
最近。すごい出来事があった。 いや、できごと自体はものすごく地味なんだけど、大きさがすごいのだ。 これではたぶんわけがわからないと思うので具体的に言うと、映画をふたつ見たのです。
できごとは地味でしょ。 だけど、これはおおきなできごとだった。 最近。わたしが会ったひとはみんなこの話を聞かされている。 (ごめんなさい。日記に書いたらちょっと落ち着くかも。)
「シャイニング」という映画をビデオで見た。 スティーブン・キング原作の映画。 「ものすごーくおもしろい」という噂を聞いてたから。
わたしは「恐怖」に関する感覚がいまいちうまくなくて、 クイズとかなぞなぞとか数学の問題とかがむちゃくちゃ怖かったりする。 「メルヘン」とか「童謡」とかもむちゃくちゃ怖かったりする。 ホラー小説を読んでもあんまり怖いと思わない。 「ホラーを見て怖い」という正当派なことを、ちょっと、やってみたかったのだ。
しかも「シャイニング」。 冬の間雪の中に閉じこめられる古いホテル。 その中でひとふゆを越す作家とその家族。 ひとり息子はなんだかただ者ではなさそうだし・・・ 監督は「キューブリック」という有名なひとらしい。 とくれば・・・、 もう、わくわくしながらビデオのスイッチを入れた。 しかし。 見終わって。 「・・・・・。」
怖いどころではなかった。 なんというか・・何の感想もわいてこなかった。 見事に。 おもしろいのかおもしろくないのかさえも、わからなかった。 いくら私がホラーに不適切な感性を持ってるからといって、 ほんとうにこれでいいのか?
あまりに真っ白な心の中をどうにももてあまして、 インターネットで「シャイニング」を検索してみた。 検索してどうなるものでもないと思ったけれど、 何かしないと落ち着かなくて。
驚いた。 満足しなかったのはわたしだけではなかった。 スティーブン・キング自身があまりのおもしろくなさに奮起して、 自分でもう1本映画を作り直してしまったらしい、ということがわかった。 これにはかなり驚いた。
だって、作家というものはふつうは映画を作ったりしないものだ。 映画を作ったりしなくて本を書くから作家なのだ。
映画を1本つくるというのは、映画監督にだって、大変なことなのだ。 「作家」に、映画を作り直したくなるほどのショックを与える作品とは何なのだ? この映画はいったい何をしたのだ?そして何をしなかったのだ?
あまりに気になったので。 その日の内にもうひとつの「シャイニング」を借りてきて見た。
泣いた。 とても悲しい物語だった。 そしてそれと同じだけ、美しくて優しい物語だった。 美しく優しいものが悲しいということに、ぞっとするような恐怖があった。 もしかしたら、本当は、異常なことは父親の頭の中でだけ、起こっていたのかもしれない。 SFやホラーの形式を利用した、アダルトチルドレン(アルコール依存症の親子)についてのドラマなのかもしれない。でもそんなことはどっちでもいいのだ。 彼らの間に起こった恐怖とできごとの大きさはあれに匹敵するわけだから。
燃えるホテルの部屋から、7歳の息子が父親が完成させることのできなかった作品の一部をそっと持ち出すところで、涙がでて仕方がなかった。
ふたつとも見てから。 ふたつとも見てしまったが故に考えこんでしまった。 私は映画は作らないけど台本は書くので、どうしてもキングの方の立場に肩入れしてしまう。沸々と腹が立ってきた。
これはもう創るしかないでしょう。映画。
と思った。 簡単に言うと、ふたつの違いは、キューブリックの方は幻想的であり、キングの方は現実的。現実的な方が怖いというのは矛盾しているように思われるかもしれないけど、わたしはそうは思わない。だって、実際怖いもの。 まず着てるものが違う。 キューブリックの映画に出てくる奥さんはロングスカートをはいて髪を長くのばしている。 キングの方はジーパンを着てポニーテールにしていて、夫と二人の夜だけちょっと色っぽい恰好をしたりする。 7歳の子供を育ててるアメリカのお母さんなんだから。 キングバージョンを見てはじめてキューブリックバージョンの不自然さに気がついた。 「ホラー映画っぽく見える」ためにあんな不合理な服を選ぶわけないでしょうーが。 だいたい、どこで売ってるねん!?
キューブリックのにはないけどキングのバージョンに出てくる2倍の大きさのクリケットの道具がすごい。日常的なシーンではユーモラスな雰囲気すら醸し出す、その不自然な大きさの道具が、日常を裏返したシーンではいっきに違和感と恐怖感を作り出す。道具は何も語らないのに。 そういう恐怖が随所にちりばめられている
キューブリックの映画では「記号」でしかなかったあらゆるものがキングの映画では物語と現実の両方を担って存在している。「現実」が日常的に持っている物語が裏側に持つ恐怖がある。ひとつのものがいつもふたつの意味を担って存在している。その不安と恐怖。そして優しさ。
こういうことをしたかったのね。キングさん。
と、私は勝手に頷いていた。 もちろん。キューブリックの映画がおもしろかった、というひともいるだろう。 実際、キューブリックの方が完成度は高い、という意見も見た。 いろんな考え方があっていい、という意見も分かる。 キングの映画や原作はいまいちだけど、キューブリックの映画はおもしろかった、というひともいるかもしれない。
しかし。この場合、それはどういうことなのか?
それは、「おもしろさや感じ方はひとそれぞれ」という問題なのだろうか? この場合、キューブリックさんは何を原作にしたのだろう?
たいへん、考えさせられる出来事だった。 何を考えているのか。まだ自分でもよくわからない。 でも、なんだかとても重要なことのような気がする。
それは、たとえば20年経ってもわたしはこのことについて考えているかもしれない、 というような・・・。
*→「シャイニング」についての情報はこちら
2002年05月05日(日) |
風景はどこにあるのか。 |
「窓の外」の風景を写すのが好きで、旅行に行くといつも、ホテルの窓から写真を撮る。最近気づいたんだけれど、そこには必ず、窓枠が一緒に写っている。 どうやら私が写したいのは窓の「外」ではなく、「窓の外」らしい。 (たとえばこんな感じ→) 無意識にやっていたけど、私にとって、これはとっても重要なことだった。
<ことば>、とか<作品>とかいうものは、窓枠のようなものかもしれない。それを挟んで、そこにはいつも「ふたつの場所」が出現する。 「ここ」と「向こう」、「見る場所」と「見られる場所」、「わたし」と「世界」。 何気なくこんな風に言ってみながらも、これらの言葉が猛烈に誤解を招く言葉であることを意識せざるを得ない。異質な対象が共存するとき、ひとはしばしばそれらを「比較」しようとするからだ。比較され、差異を認識されることでしか、異質なもの同士は共存できないと考えるのだ。
そういう考え方が生産的なときもある。 「比較」することで、世界はいくつかのグループに分類することができるようになる。 「わたしたち」という概念も、「競争」という概念も、その副産物だと思う。
だけど、そういう風に考えなくてもいいときもある。
世界がひとつの窓枠によって完全にふたつに分けられる時, 「ふたつの場所」は、窓枠を挟むことによって断絶したりしない。 窓枠は、ふたつの場所を分断し、相互に不可知な別個の場所として遠ざけるためのものではなく、ふたつの異質な場所が同時に自らを保証する共通の輪郭線になる。互いに不可侵なまま極限まで遠ざけることで(!)ひとつになるのだ。「向こう」を見ている「ここ」は、「向こう」を見ることのできる唯一の場所として「向こう」と等価であり、輪郭線を共有する者として同一なのだ。 1本の線の「内側」と「外側」の差異を求めることに、どれほどの意味があるだろうか? 1本の線の上では、こちら側であることはすなわち向こう側である。
「私が私であること」で、「世界は世界になる」。 「ここがここであること」で、「向こうは向こうになる」。
その世界観には「わたしたち」という概念はない。 世界はいつも、「わたし」と「わたし以外のぜんぶ」に分けられる。 「完全に異質なふたつのもの」だけが、分類からも競争からも自由に共存することができる。「向こう」は「ここ」になるし、「ここ」は「向こう」になる。「わたし」は「世界」になるし、「世界」は「私」になる。私について限定することは世界を無制限に肯定することだし、世界を眺めることは私が存在するということだ。 「わからない」ということは世界を否定することではない。 何か(外側)について「わからない」ということはその何かでない何か(内側)について「わかる」ということであり、そこ(内側)から「わからないもの」(外側)のすべてを肯定するということなのだ。
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風景は対象として向こう側に存在するのか、それを見ている「私」の中にあるのか・・・という問題は、未だ(というかたぶん永遠に)解決の着かない哲学の命題なんだろうけれど、わたしは個人的には後者のイメージを持っている。 誰かが何かを「素敵だな」と思いながら一緒にいるとき、その「素敵なもの」は、見ている方のひとのものなのだと思う。<そのひとの外部>に広がっているという点に於いて。 重要なのは内側ではなく外側なのだ。 「素敵なものを見ることのできる場所」に居たいと思う。「ここはどこなのか?」「わたしは誰なのか?」ではなく、「ここから何が見えるのか?」ということが気になる。「そのひとはどういうひとなのか」ということよりも、「そのひとには世界がどんな風に見えているのか」ということの方が気になる。
***************** こんなことをつらつらと考えていたら・・・ 埼玉の劇作家高野竜氏の「戯曲1000本読みマラソン」の中に私の作品(「パノラマビールの夜」)の読書ノートが掲載されていた。読んだ。大変、考えさせられることの多い批評だった。 批評にお礼を言ったりするのはおかしいんだけれど、 このタイミングで書いてくださったことに感謝。 しかも、これまで誰もコメントしてくれなかった具体的な内容に触れられている!
彼がなぜ中学生にこだわるのかは依然として謎のままなんだけど、 サイダーっていうのはちょっといいかも。
このひとも、わたしにとって同士であるとともにいつも外部だ。 ちなみにそのぺーじは こちら→(371番の記事「パノラマビールの夜」です) もうちょっと、頭の中整理して続きを書こう。 とりあえず今日はここまで。
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