窓のそと(Diary by 久野那美)
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2001年11月30日(金) |
そのためにしなかったこと |
「何かをする」ということは、<その代わりに他の何かをしない>ということだ。 同じように「何か」をしても、何をする替わりにそれをしたのかによって、「何かをする」ことの意味は全然変わってしまう。
<パンではなく>ご飯を食べるのと、 <食べないのではなく>ご飯を食べるのと、 <お茶を飲むのではなく>ご飯食べるのと、 <眠るのではなく>ご飯を食べるのと、 <恋をするのではなく>ご飯を食べるのと、
では、「ご飯を食べる」ことの意味も、その行為のスケールも違う。 同じ茶碗でおなじだけご飯を食べるにしても、 <パンを食べるのではなく>食べるご飯は地味でこじんまりとしているし、 <恋をするのではなく>食べるご飯はなんだかすごい。
実際に行われた「何か」のなかには、いつも、そのためになされなかった「何か」が、実際に行われた「何か」と一緒に抱き込まれているような気がする。そして、行われた行為の大きさは、実際に行われたそのこと自体ではなく、ふたつの「何か」を同時に含むことのできる世界の大きさに比例するのだ。 そのふたつが離れていればいるほど、それらを包括する世界も大きくなる。
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知り合いの、ある女優さんに「どうして演劇をはじめたの?」と尋ねたとき。 「10代の頃、将来物理学をしようか演劇をしようかか悩んで、結局演劇に決めたの。」 という答えが帰ってきた。<物理学を研究するかわりに>行われる演劇・・・。
それはなんだかとてもぜいたくな演劇のような気がした。
HTMLタグの本をもらったので読みました。 すごい基本的な入門書だけど、はじめて接する世界にすっかりはまってしまって。 目に見えるものがすべて、数字と記号で表現されている世界。 何にでも名前がついていて、彼らにこれからどうなってほしいのか、何をしてほしいのかを伝えるための呪文が決められている。 「こうしてくださいな。」「はい。もういいです。」の繰り返しが集まってウエブデザインになる。すごい・・・・!!地味なノートパッドに数字やらアルファベトやら書き並べればそれが綺麗な画面になる、というのはなんだか紙と鉛筆があればファンタジーが書ける、というのに似ていてわくわくする。見たこともない世界が、想像を絶するほどシンプルなものから作られていく過程ってもうどきどきわくわくする。
そんなわけで、このサイトはところどころ更新されています。 3日間の即席勉強なので、いたるところに手抜かりがあるのですが、本人はちょっと満足しています。なんかね、「くにうみ」って気分なのです。 もっと奥深い世界なんだろうに、この程度でどきどきしててごめんなさい。 ・・・・でもね。楽しい。
2001年11月23日(金) |
誰もいない森で木が倒れた |
「誰もいない森で木が倒れた。そのとき音が出るか?」 という哲学の議論がある。 たしか、実在の根拠を巡る議論(?)だったと思うけども、内容はあんまり覚えてない。 ただ、その話を聞いたとき意識がふとどこかへ吹っ飛び、見たこともない遠くの風景を捕らえて戻ってきたのを鮮明に覚えている。名前のないその風景は、それからずっと頭の中に住み着いている。 強烈な吸引力を持つ魅力的な風景。 思いを馳せれば、何かとてつもなく秘密めいた快感に包まれてぞくぞくする、不思議な風景。
<誰もいない森で> それまで身近な経験から単純に推し量っていた世界と自分との関係の仕方が、衝撃的に再構成されてしまった。それははじめて「演劇」に触れた16のときのぞくぞくにとってもよく似ていた。偶然ではないような気がした。 どちらも、「世界は思ったより全然広かったのだ」というぞくぞくだった。
「人気(ひとけ)のない展望台に北風が吹いている。」というト書きを書いて大先輩の劇作家の先生に叱られたことがあった。「どうやって舞台化するのか。こういった表現は演劇的とは言えない。」 ちょっと、ショックだった。言われていることがよくわからないのもショックだったけど、演劇というのは、私が思っているようなものとは本当は違うのかもしれない、とふと思ったから。 人間と、人間でないものと、ものでもないものとが全く同じ資格を持って世界を共有している様子を、ぎりぎりのところまで言葉を介さずに描くことができるのが演劇だと思っていた。 言葉を介在させることで、あらゆるものを対等に扱うことができる童話やファンタジーも、その意味ではよく似ていると思うし、言葉には大いに失敗しながらも全敗すれすれのところでわずかにそれを可能にする力があると信じている。けれども演劇は、そのまんま、素手でそれをやってのけるのだ。これはものすごいことだ。・・・と、思っていた。 それなら、演劇的ってなに? と、そのときちょっと悩んだ。
9月の末に、埼玉の劇作家の高野竜さんとお会いする機会があった。 お互いの作品を読んで興味を持っていたこともあり、初対面だったけれど妙に意気投合してお芝居の話やらどんぐりと山猫の話やらジャミラの話やら銀杏の話やら空の話やら母音の話やら富士山の話やら砂漠の話やらで盛り上がり、なんやかんやでひと晩話した。 明け方、話し疲れて朦朧としかけ、どちらかというと聞き手に回っていた私は、(何を話していたんだったか正確に覚えていないけど)高野さんの言葉にふと聞き捨てならないものを感じて言葉を返した。
「それって、つまり、誰もいない森で、木が・・」 私の言葉が最後まで終わらないうちに高野さんが叫んだ。 「そう!そう!そう!」
「・・・・・・・・・・・すごいですよねえ。あれって。」 「うん。うん。」 「なんであんなにぞくぞくするんでしょうね。」 「うん。」 「そういうことがやりたいのに・・」
寝るタイミングを失い、世界と自分との関わり方について、小学生が登校する時間まで話し続けた。<あの木>のことを同じように想い続けている劇作家のひとと話ができて、ずいぶん気持の中がすっきりした。新しく、いろんなことを発見した。 しかし。高野さんも、たびたび「上演不可能」と評される劇作家なのだった。
あー。演劇的って、いったいなあに? あの森は、いったい、どこにあるの? あの木はいったい・・・?
(高野作品ファンの方、一緒にしてごめんなさい。上演不可能な理由は少し違います。高野氏の作品はもっとダイナミックです。)
大好きな漫画。 西原理恵子さんの「ぼくんち」を久しぶりに引っ張り出して読んだ。 小さな家族と小さな町と大きな世界の物語。その中で少しずつ大人になっていく「ぼく」の物語。時間はとりとめなくたんたんと流れ、空はぽかんと広がっている。地に足のつかない「せいかつ」と、後戻りすることなく流れていく「じかん」が丁寧に丁寧に描かれる。世界は後戻りすることなく少しずつ大きくなり、同時に、決して後戻りすることなく少しずつ小さくなっていく。哀しいくらい、確かに確かに小さくなっていく。 <ぼくんち>というのは、本来「日常」とか「平凡」とかいう机上の概念からいちばん遠いところにある断固「特別な」何かであるはずだということを、手の中で確認できる。 同時に、そんなにも「断固として特別な」はずの<ぼくんち>は、いつでも誰とでも共有できる、誰からも等しい距離に初めからある<ぼくたちのうち>の断片にすぎないのだということを。 世の中にはものすごく小さいものとものすごく大きなものがあって、それがときに自分自身であったり世界であったりするのだ。
大好きな漫画。
物語の中には、はじめから終わりまで風が吹いている。 冷たくて、悲しくて、涼しい風が吹いている。 風通しのいい物語をとっても読みたくなることって、ときどきある。
*「ぼくんち」は→こんな本です。
<音>が猛烈に苦手。 生活の中には苦手な音がたくさんある。 スピーカーから聞こえてくる音や極端に高低の変化する人の声が怖いので気軽に居酒屋に入れない。静かなお店は高いので別の理由で入れない。 いろんな種類の音がとりとめなくあちこちから聞こえてくると気分が悪くなる。ときどき吐いてしまう。人の声は特に気になる。音に関しては、毎日が障害物競走。
だから。 わたしにとって、いいお芝居の最低条件は <素敵な風景が見られて> <堪えられない音が聞こえてこない> こと。 お芝居を作ってるとき。とくに、いまやっているラジオドラマのお仕事は音だけの世界なのでよけいにそうなんだけど、役者さんのイントネーションの位置や、台詞のリズムや音の重なり方、伸ばし方、言葉の長さやテンポ、みんな気になる。気になって気になって仕方がない。 表情や文脈や文法と音の高さやイントネーションがちぐはぐだとしんどくなる。優しい言葉を強弱やリズムの一定しない攻撃的な音質の言葉で話してるのを聞くと混乱する。 こってりした焼きそばにペパーミントの味がしたり、色むらがあって、部分的にすっぱかったり辛かったりするアイスクリームがあったらつらいはず。つまりそんな感じ。
「目に見えるものが好き」 「写真みたいなお芝居を作りたい」 といいながら、気が付くと稽古や打ち合わせの大半を「耳に聞こるもの」に費やしてしまっていた。音に対しては妙に力が入ってしまう。なんでそんなに音に固執するのかなと自分でも不思議だったんだけど、でも当たり前なのかもしれない。 目に見えるものが好きで、見たものは時間が経ってもわりと正確に覚えてる。 お芝居を作るときも、美術さんや照明さんと打ち合わせするのがいちばん楽しい。 <こんな材質にしようよ> <こんな色になるといいよね> <こっちがわに影を作りましょうよ> 打ち合わせの言葉も肯定文になる。
でも、音に関しては反対。 <こういう音を使わないでね。> <ここには音を入れないでね。> <あんまり高くしないで。> <あんまり大きくしないで。> <この音だけ省けませんか?> etc・・・ なぜか否定形のお願いになってしまう。
決して何かに対する批判でもなければ自分のスタンスを主張したいのでもない。せっかく作るんだから、少なくとも生理的に心地よいものにしたいと思うのは生き物として自然なことだと思う。辛いのが苦手な人が、薄味の料理を作るように。 寒いのが苦手なひとが、あたたかいセーターを作るように。
人間は、文化的である以前に生きてるんだから。 意味とかコンセプトとか以前に、生理的に判断しちゃうものって、やっぱりあると思う。 そして、それはとても大切なことのような気がする。
落ち葉の季節になった。 下を向いて歩くと、アスファルトの上に重なり合って落ちている赤や黄色の葉っぱが目に入る。
あれは小学校3年の秋だった。 春も夏も秋も冬も、せいぜい両手で数えられるくらいの数の経験しかなかった私には、「想い出」というものがよくわからなかった。 大人は「子供の頃の想い出」というものを持っていて、その内のいくつかはとても美しかったり素敵だったりするらしいということは知っていた。 でもいつどうやってどんな風にしてそれが創られるのか、無数にあるできごとのなかで何がどんな基準で選ばれたり選ばれなかったりするのか、そういうことがわからなかった。
人生で9回目の秋。 私は大人になった日の私のために、ささやかな実験をした。
<何の理由もなく、ただ、今のこの瞬間を記憶してみよう。今たまたま目の前にある、それ以外に何の意味もないこの風景を。それは大人になった日の私にとって、どんな意味をもつ風景になるんだろう。それは私の「子供の頃の想い出」の風景になり得るだろうか>
ふと足下を見ると、割れたコンクリートブロックの上に、赤や黄色や茶色の乾いた街路樹の葉っぱが見えた。その風景を10秒ほど眺めて、決意を込めて眺めて、通り過ぎた。
あれから何回もの秋が過ぎ、大人になった私は、それなりにたくさんの「想い出」を持つ身分になった。その内のいくつかはとても美しかったり素敵だったりする。 そのなかにはちゃんと、あの日のあの瞬間のあの風景も入っている。 今、目の前で見ているもののように、私はあのときの落ち葉の重なり具合やコンクリートの割れ目を想い出すことができる。 それを想い出すとき、いつも、その瞬間と今のこの瞬間の間になにか大切なものが挟まれているような気がする。あの時から今に至る何か。
なんだろうと気になっていたけど、それってつまり私なんだろうなと最近思う。 私というのは、あのときと今とを結ぶ装置なのだ。 何かを想い出すとき、いつも、その瞬間と今のこの瞬間の間に挟まれているもの。 あの時から今に至るための何か。 それを、私という。
何かの理由で何かが選ばれ、何かが捨てられたわけではなく、何かが選ばれ、何かが選ばれなかった結果できたものが私なんじゃないか? あのときわからなかったのは、まだ「私」ができはじめたばかりだったからじゃないか?
「想い出」という言葉が示すのは、遠く離れたあるふたつの瞬間を同じひとりの人間が同時に持っているということ。「あの瞬間」と「この瞬間」をおなじところに存在させてしまうために、あのときと今を通じてわたしは同じ人間で生きてきたのだ。
落ち葉の季節が来ると。いつもそんなことを考える。 あの実験は、けっこう私にいろんなことを教えてくれたような気がする。
雨の日の遊園地に行ったことがある。 高校生の時。 そのときなりの事情があって、平日の昼間にひとりで行った。
見事なくらい。誰もいなかった。 のに、門は開いていた。 入場券も売っていた。 ただ、ひとだけが居なかった。
券を買って中へ入った。 がらんとした早朝の公園のような遊園地。 景色はむらのない灰色で、雨の音に混じって、併設の動物園の檻の中からときどき甲高い鳴き声が聞こえてきた。足下はぬかるんで歩きにくかった。
いつもなら並んでいるはずのアトラクションには人の列どころか係員の陰さえなかった。 「こんにちは。」 と入り口をくぐると、あわてて中から飛び出してきて、私のために機会のスイッチを入れてくれた。何列もある乗り物に一人で乗った。 それまで経験したことのない不思議な感覚。 それがどういう種類のものなのかはさっぱりわからなかった。
「こんどは誰かと一緒においで。」 建物を出るとき、妖精館のおじさんが言った。 おじさんも、何かがさっぱりわからないでいるようだった。
最近また日記をつけはじめたら、カウンターの数字が増え始めた。ちょっとうれしい。 やめてるときは動かなのに、書き始めると毎日少しずつ増えていく。 書くのをやめると数字も止まる。不思議。 書くのをやめると数字が止まるのはわかるんだけど、書き始めたら増えるのがどうにもわからない。不思議。
もしかしたらどこかの誰かとここで会ってるのかもしれないと想像するのはゾクゾクする。 そうだとしても、返事がくるわけじゃないので誰と会ってるのかわからない。 誰とも会ってないのかもしれない。わからない。
お芝居の公演のときもおんなじだったなあ。と思うとなんだか楽しい。
草間やよいさんの作品を、たまたま写真で見た。 草間やよいさんといえば、<「水玉」をモチーフにした美術作品の作家>、あるいは、その経歴や容貌から、<混沌や狂気をキーワードに語られる天才芸術家>・・という程度の知識しかなかったので、どんなに強烈な作品を造る人かと思っていた。私は強度の水玉恐怖症なので、彼女の作品を直接見てみようと思ったこともなかった。 彼女のことを教えてくれた知人が、 「わざと気持ち悪い水玉をモチーフにしてひとの感情をゆさぶるのよ。」とか言ってたのを聞いたので、ますます興味がもてないでいた。
たまたま、作品の写真を見る機会があった。 ひとつは横浜で今年の秋開催されていた美術展の中の作品で、海をモチーフにしたもの。もうひとつはなぜか女性雑誌の旅行特集号の中にまぎれていた水玉かぼちゃ。
びっくりした。もう、仰天した。 なんて静謐な、なんて静かな<もの>と<世界>がそこにあっただろう。 とんでもないことが、きちんと、静かに、上品に、営まれ、どこにでもある大きさと広さと重さを与えられて冷蔵庫の中の缶詰のようにコトンと置かれていた。
この静かさは何? どうしてこの作品には雑音がないの?
不思議だった。とても。 ざわざわを作りたいのではなく。うるさいのが嫌だから水玉なんじゃないかと思った。 こんな静かな水玉を、私ははじめて見た。 もっと他の作品を見れば違う感情がわくのかもしれないけど、<兎に角>、世の中に静かな水玉があるということにびっくり仰天した。 このひとのデザインしたタピオカなら、食べられるかもしれないと思った。
もうちょっと考えたら別のことがわかるのかもしれないけど、でも、とりあえず、これはなんだか書いておかねばと思ったので・・・。
どうしてなのか前からずっと不思議なんだけど、戯曲には楽譜のように音の質について記す手段がない。フォルテもピアニシモもアレグロもフェルマータも書き込むことができない(ことになっている)。劇作家は自分の書いた言葉の音の種類を役者にも演出家にも観客にも伝えることができない。仕方ないので、句点を休符の替わりにつかったり、1小節ごとに行を変えたりしてみる。なんとかしないと、ことばの意味に音の質まで支配されてしまうような気がして。ひとつの言葉、ひとつの台詞、ひとつの物語の持つ意味は無限に想定できる。音の質のわからない言葉の意味をそもそもどうやって限定するのかと考えると、これは全く本末転倒な気がする。音質を間違ったら物語の意味なんて簡単に変わってしまうじゃないかと思う。
言葉は音楽の仲間だと思ってるので、基本的にはじめからおわりまで台詞という音で構成されている「戯曲」は、楽譜の一種だと思っている。(ちゃんと、曲という字も入ってるし) (だから、演劇というのは、音楽のついた写真のような気がしている。) 役者さんの口から出てくる音の質が気になって気になって仕方がない。 音の高さ・大きさ・リズム・テンポ・ブレスの位置・他の音との重なり方・・・ 自分で自分の書いたお芝居を演出するとき、稽古のはじめのうちは音のことばかり言っている。 高いので1オクターブ下げて、とか、リズムを一定にして、とか、ブレスの位置替えて、とか、Aの音が強すぎて攻撃的なので平坦にして、とか。
********* 今日、月に1回台本を書かせてもらっている、KISS-FM放送ラジオドラマ「STORY FOR TWO」の収録があった。なんだか、どうしてもそうじゃないといけないような気がして、ある部分をすべてひらがなで表記した。誰が話してるのかわからない、物語の形をしたことばだった。 「ひらがなで書いたので、ひらがなで読んでくださいね。」と役者さん(エレベータ企画の大野美伸さん)にお願いした。
<ひらがなのことば>について、演出さんと役者さんと4人で議論した。 ゆっくりしたテンポや意味に合わせて抑揚をつけたリズムではなく、淡々と芸のないリズムとテンポに沿って、音色と強さと高さだけで「優しさ」を表現できれば、というようなことを話し合った。 「すごくへたくそで、慣れてなくて、抑揚をつけたりする技術もないんだけど、愛情だけがあるお母さんが小さい子供に絵本を読んであげるような感じ。」
大野さんは健闘してくださって、取り直すたびに違ったものになっていった。 収録の後、大野さんの相手役の腹筋(善之介)さんに、 「大野さん、地球だったでしょう。」 と、言われた。
ああ。そうか、と思った。 無限に優しい、どこにもその意味のよりどころを持たない、ただ、目の前の対象に与えるためだけにそこにあるようなことばを書きたかったんだと思った。
そうか。あれって地球の台詞だったのか・・・。
2001年11月03日(土) |
やめないかんね、あたし。 |
私の数少ない演劇関係のお友達・・というか、劇作家の先輩というか、<「上演困難」とか「不可能」とか言われる台本を書く仲間>というか・・の高野竜氏からチラシとメールを頂いた。埼玉在住の彼は今、宮代町の2歳から10歳までの子供たちと一緒にお芝居を創っている。あしたがその本番だそう。 ちょっと(というかかなり)遠いので見に行けないんだけど、素敵なお芝居ができますようにとお返事を書いた。単なるお知らせメールだったんだけど・・・読んで涙出そうになった。
>こどもたちは「本番終わったら終わりなのか」が心配みたいです。 >やめないかんね(やめないからね)、あたし。とか脅迫されたり。
10代の頃。私が演劇からいちばん最初に学んだいちばん大きなことは、 「はじまったものはおわるのだ」ということだった。 公演が終わって、片づけて、からっぽになった舞台を見ながら、 「あしたからどうやって生きていこう?」と思った。 本番が終わったのになんで明日が来るのか純粋に不思議だった。 明日が来ないはずはないのに、どうして<それ>だけが終わったりするだろうと思った。
「やめないかんね、あたし。」
・・言った。私も。 そしてずいぶん長い間、そう言い続けていたような気がする・・・。
だけどはじまったものはかならず、目の前で終わっていった。 言い続けている間、私にはそれが見えなかっただけで。 そしてその間はなにも新しい始まったりはしなかった。
<あれはたしかにもう、おわってしまったのだ>ということを理解したとき、 新しい別の何かが当然のように始まった。 そして、続けていくというのはそういうことなのだった。 はじまったものは必ず、ひとつの例外もなくおしまいになった。 でも、おしまいになったもののどれひとつとして、あとに何も続くことなく消えてしまったりはしなかった。おしまいのつぎにはかならず、その次のはじまりが続いていた。 にもかかわらず、それはおしまいになる前の「あれ」とは絶対に同じものではなかった。
はじまったものが目の前でおわるのを見届けたとき。 それまでは時計の文字盤のことだと思っていた「時間」の意味を、 少し理解したような気がする。 もともと全くとりとめのなかったはずの「時間」は、 何かの終わる前と何かの終わった後のふたつにいつも分けられるのだということを知った。 それは、はじまったものがおわらなければ、時間は止まってしまって流れていかないのだということでもあった。
だけど10代やそこらの女の子にとって、「おしまい」というのはまだ、未知の世界のことばだった。受け入れることのできない、耐え難い言葉だった。
***** あれから、それなりにたくさんのおしまいとはじまりを経験した。 今の私は彼女たちよりちょっと(?)お姉さんになったので、
「やめないかんね、あたし。」
ということで、何が起こって何が起こらなくなるのかを少しだけ知っている。 だけど、それでもときどき・・言ってしまう。
「やめないかんね、あたし」
今の彼女たちの気持ちと、それは存分違わないような気がする。
・・・・・・・・・涙が出そうになったのは、そんなことを思ったからかな。
硬いものがすきなので、生き物の好みもそれに偏ってしまう。 やっぱり亀が好き。 硬い前歯のウサギも好き。 南方系の島にいる、くちばしの立派な鳥も好き。 サイみたいに立派な角のあるのも好き。
硬い部分って、つつましくて謙虚な感じがする。 「大切なので大切にしています。」 っていう主張があって潔い。
なんでにんげんは表面に硬い部分が少ないんだろう。 どうしていちばん奥に隠してるんだろ。
図書館も気になるけど、郵便局はもっと気になる。
全国津々浦々にくまなく支部が配置されていて、そのすべてが同じシステムの下に管理されている。にもかかわらず、大量の箱とか判子とか制服とか人間で構成されてる・・・。 なんてシステマチックに、綿密に、かつ猛烈にアナログに創られた組織! 郵便局の醸し出す、あのなんだかなつかしい不思議な雰囲気は、子供の頃のヒーローものドラマに出てきたショッカーとかの秘密結社に似ている。 合理的なのか不合理なのかわからない組織力。 全国の郵便局が団結したら、ものすごいことができるような気もするし、意外となんにもできないような気もする。全国にゆうびんを配達する、ということの仕事のジャンルやレベルが分からないので見当がつかない。 民営化されちゃうと、こういう神秘性ってなくなるんだろうな。
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