窓のそと(Diary by 久野那美)
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恐竜のことを考える。 時間がかかる、ということについて思うとき。
確かめたわけじゃないけど、聞いた話では、恐竜はしっぽ踏まれてもずいぶん時間がたってからでないと「痛い!」と思わなかったらしい。あんまりにも大きかったので、神経伝達が身体の端々まで敏速にゆきとどかず、情報が頭と身体の間を行き来するのに時間がかかったのだ。
はじめてその話を聞いたとき。あー、それって分かる!と思った。
私はときどき「恐竜モード」になる。 「丁寧ね。」とか「慎重ね。」とか「おっとりしてるね。」とか言われるけど、別にゆっくりやってるわけじゃなくて、普通にやっている。ときには急いでもいる。私からすれば、時間の方が、それこそ矢のようにすごい速さですぎて行くのだ。
質問されたから返事したら「え?何のこと?え?!さっきの?今頃言うから何かと思うじゃない。」とか言われることがある。そのひとにしたら必要以上の時間が経ってるのだろう。 朝7時に起きてご飯を食べて、支度して出かけようと思ったら11時・・ということはしばしばある。何かしてる途中に空白の時間ができることもよくある。学生の頃は宿題してる間によく教科書やえんぴつをなくした。体育の時間はいつも最後まで残って課題をやっていた。公演を1年に2回以上打つなんて絶対に考えられない。ふと気づいたら2年とか、7年とか経ってている。台本書くときも。手が書き出す言葉に頭の中がついていかない。仕方ないので、書いてから、読んでから、考えるようにしている。ラジオドラマの収録や舞台の稽古場で、「あ。そうか。この言葉ってこういう意味で使われてるんじゃないかと思います。だとすると、これってこういう話だったんですよ。」と言ってよくあきれられる。
私の身体は標準より小さいけど、私の中の情報伝達力に対しては相対的に大きすぎるのかもしれない。でも・・・。ひとにはそれぞれペースがあるんだから。仕方ないんだから。 実は自分でもけっこうつらくてずいぶん悩んだりもしたので、そうは思ってもなかなか開き直れないところもあったりする。ひとにずいぶん迷惑をかけたり、わざとやってると思っていやがられたりすることもある。
そんなとき、恐竜のことを考える。
あの大きな生き物たちは、自分のことをいったい、どう思ってたんだろう。 「痛い」と感じることさえ出遅れるくらいだから、何をするにもさぞかし効率が悪かっただろう。死ぬときでさえ、自分で気づく前に死んでしまっていたかもしれない。 無駄の多い大きな体で一世を風靡して、そしてその大きさをもてあまして効率悪く栄え、あんなにすっかり、跡形もなく滅びてしまった。
だけど。こんなふうにも考える。 自分たちのペースが並はずれて遅いことに、彼らは気づいていただろうか? 時間は相対的なものだ。ほかに比較するものがなければ、速くも遅くもなり得ない。 そんな無駄の多いペースで生きていて、果たして自分以外のものと比較する余裕があっただろうか?必要があっただろうか? もしかしたら、彼らは滅びたことにすら、まだ気づいていないかもしれない。 だとしたら、それはとても素敵なことのような気がする。 だって「永遠」というのは時間の単位じゃない。時間を持てないことの名前だから。
恐竜のことを考えながら・・21世紀を生きている。
グローバルという言葉は嫌いだ。 グローバル=地球的
「グローバルな視野で物事をとらえよう」とか。
グローバルな視野=地球的視野 グローバルな視野=宇宙人は除いて
言うまでもなく排他的な思想。 排他的であることを表現し、戒め、あるいはそのリスクを引き受ける覚悟を表す言葉かと思いきや、「排他的なことはだめですよ。」と説教するために使う言葉だったりする。
「人間的」という言葉もおんなじ。こっちはさらに排他的。 排他的であることを表現し、戒め、あるいはそのリスクを引き受ける覚悟を表す言葉かと思いきや、こちらもまた違うのだ。
人間は、地球の平和と正義(人間のモラルと幸せ)を守るために戦争する。
「ここはどこかの窓のそと」は<変わってしまったおんなじもの>、の物語だった。 秋が冬に変わったり、知らない相手が知っているひとになって、昔知っていたひとに変わったり、図書館が代替わりしたり、宇宙飛行士が怪獣になったりした。
あの頃はジャミラのことを考えていた。 水のない星に置き去りにされて、水を求め続けるうちに水の嫌いな怪獣に変身してしまったジャミラ隊員。地球へ戻り、水をたっぷりかけられて死んでいった怪獣ジャミラ。
ずっと気になっている。 ジャミラは水を憎めばよかったのか。愛すればよかったのか。 ジャミラにとって、水は憧れだったのか恐怖の対象だったのか。 彼は何を求め、何を得られずに消えていったのか。 水のない星で、何をなくしてしまったのか。
最近、あるひとにこう言われた。 「たっぷり水をかけたりするから死んだんだよ。 少しずつ少しずつ時間をかけて湿らせてやればそのうちもとにもどったんじゃないか?」 そのひとは医者をやっているひとだったのでさらにこう付け加えた。 「ジャミラが僕の患者だったらそうするな。」
衝撃的な意見だった。 だとしたら。それはとりかえしのつかない悲しい変化なんかじゃなかったんじゃないか!
移りゆく時間の流れの中で、自分と世界を同時に肯定するためには<変化>をひきうけなければならない。それは素敵な解決だし、とても幸福な解決だと思っていた。同時に、その幸福はある種のとりかえしのつかない悲しさに裏打ちされているのだと思っていた。矛盾するふたつの状況にどうすればうまく折り合いをつけることができるのかわからなかった。そんなとき、ジャミラのことを考えた。想像の中のジャミラはとても悲しかった。
だけど、そもそもそれが<とりかえしのつかない変化>なんかじゃなかったんだとしたら???
ジャミラに毎日少しずつ、じょうろで水を掛けよう。 少しずつ、少しずつ。長い長い時間をかけて。 そうすればいつか、水をたっぷり与えても死んでしまわない新しいジャミラに変身する。 彼は水を求め、それを得られる幸福を再び取り戻す。 なんて素敵な結末だろう。
ただ、そこでの解決が「もとに戻る」ことであってはいけないような気がした。 ジャミラを<治療>するお医者様に言いたいと思った。 もとにもどるのではなく、ジャミラは再び変化するのだ。 いや、三度でも四度でも、環境に合わせてどこまでも変化し続ける。 だって、それが水のない星でも生き続けた、<生き物>としてのジャミラの才能だったんじゃないか。だって、それが水のない星でせっかく身につけた、生きるための技術だったんじゃないか。
もとになんか戻らなくていい。 どこまでも、どこまでも変化し続けよう。
水のない星で生き続けたジャミラは、水のある星でだって再び生きられるはずだ。 おなじだけの時間をかければ。 空気のない星でだって。引力のない星でだって。食べ物のない星でだって。
<とりかえす>ことを望まなければ<とりかえしのつかないこと>なんか起こらないのだ。
ジャミラは何もなくさなかった。 秋が冬にかわった時。誰もなにもなくしたりはしなかったのだ。
何かに会ったとき。 昔出会ったままになっていた別の何かが、はじめて形を持ってずんと現れてくることがある。記憶の中の、ずうっと奥の方になんとなく所在なく浮かんでいただけのものに突然輪郭ができて、温度差ができて段差ができて、意味ができる。
目の前で、何か途方もないものが合成される幸福感。絶頂感。 同時にその何万倍もの何かが一瞬にして消えてしまう衝撃的な喪失感。
消えてしまった何かに比べて、残った方の何かは信じられないほど小さくてつつましい。 海を爆破して塩を集めたらこんな感じがするんかな。
今ここで私が出会ったのはどっちだろうかと思う。 消えてしまったほうの何かなのか、合成されたほうの何かなのか。 何かを手に入れたのかそれとも失くしてしまったのか。
新しい何かに出会ってどきどきわくわくしているとき。 いつもそれを考える。考えるとわからなくなる。 悲しいような気もするし、とにかく幸せでたまらないような気もする。
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用事があって1週間、関東を旅行した。 いろんな場所へ行って、いろんなものを見て、いろんなひとに会って、いろんな話をした。 いろんなことを思った。
だから。ひさしぶりに日記書いてみたりして。
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