薔薇園コアラの秘密日記

2003年04月27日(日) 韓国人のボンQとの思い出

 10年程前、ドイツのマールブルグ大学の語学コースに通っていたときのこと。

 私たちのクラスは、三分の一がアラブ人で、それ以外は、韓国、台湾、中国、日本人といった特別東洋人の多いクラスであった。
 どの学生も母国のエリート大学出身の国費留学生なので、私のように駐在妻なんだけど行き当たりばったり的に学生をしている人間とは、はなっから意気込みもレベルも違い、頭が上がらないほどまじめで熱心な仲間たちだった。

 そのクラスの仲間の一人に、Bong-Kyuという韓国人の少し年配の男性学生がいた。ニコニコと愛想を振り撒き、いつも私の隣の席に座った。ぼさぼさ頭にビン底の黒ぶちめがね。いつもパンパンに本が詰まったリュックサック。どうやら語学だけは特別に難儀しているようで、私と二人で毎回テストのドン尻争いをして、点数を見せ合っては苦笑いしあう仲間だった。
 
 韓国人の仲間に聞くところによると、彼はソウル市内の有名大学の生物学の助教授で、研究論文を書くためにドイツに留学しており、20代の若い韓国人留学生にしてみれば、同じテーブルについて勉強するのもはばかられるほど立派な経歴を持った人だったらしい。韓国人は上下関係が厳しい民族なので、彼が後から教室に入ってくるとさっとみんな目礼し、休憩時間は恐れ多いと思うのか気軽にボンQと馬鹿話などする韓国人学生など一人もいなかった。
 私は休憩時間に、隣の席のよしみと、落ちこぼれ同士(?)の親近感で、いつもみんなと離れて一人でいる彼に気さくに声をかけた。Bong-Kyuという名前も正式な韓国語の呼び名ではなく、私的に「ボンQ]という日本語風にいつも呼んでいた。
 今から考えると、ボンQにしてみれば、同国の目下の若い留学生よりも、何も利害関係のない私のような東洋人の同胞のほうが、年齢性別を超えて付き合いやすかったのだろう。

 とあるむし暑い日に・・・季節はいつだったかもう忘れてしまったけど、ボンQに散髪をして欲しいと頼まれたことがある。理髪店に行くほどの金銭的な余裕もないし、他に頼める人もいないそうで、思い余って私のところにお願いに来たという。
 何だか唐突におかしなことをお願いされちゃったなーとも思ったけど、快く引き受け、彼の学生寮で散髪してあげた。ドイツに留学してからボンQは一度も散髪していないらしく、ぼっさぼっさの伸び放題だった。私は美容師の心得なんてもってないけれども、いざやってみると、見よう見まねでちょきちょきはさみを鳴らして刈り込むことができた。おかしな組み合わせでおかしなことをしているので、同じ寮の韓国人の知り合い学生はびっくりしていた。
 それにしても我ながら、いいできばえだった。

 それから、何ヶ月か経ってから、ボンQは韓国に帰った。
 お別れに、ボンQの奥さんが選んだ韓国シルクのスカーフをプレゼントしてくれた。ドイツでボンQがお世話になった女性三人(寮のおばさん、生物学でいつもノートを貸してくれた女学生、それと私)に御礼したいがために、ボンQが韓国にいる奥さんに頼んで送ってもらったそうだ。しっかりした材質のシルクでチョゴリ風の鮮やかな色合いだった。

 私はそのまま語学コースに残りしばらく大学に通っていた。
 ある日、ドイツの自宅に韓国のボンQから国際電話がかかった。はじめ、誰だか全然わからなかった。男性の声で、エー、とかウー、とかの合い間になにやら片言のなまりのあるドイツ語を話している。
「もしかして、ボンQ?!」
「そう! そうだよ、ユウコ、ぼくは・・・ぼくは・・・ぼくはドイツ語を・・・」
その先の言葉がなかなか出てこない。どうやら「忘れた」という単語を忘れたようだ。もう、ホントにボンQったら・・・。二人で過ぎ去った時間を吹き飛ばすように大笑いした。ボンQは私に一言お礼が言いたくて、向こうで落ち着いてからドイツにまでわざわざ電話をくれたらしい。
 
 今ごろ、ボンQはソウルで教授にでもなっているだろうか。

 もう一つ、ボンQの思い出。
 語学コースの授業で、戦争や民族の争いがテーマになったことがあった。
 東洋人が多いゆえ、第二次世界大戦で日本がアジアでしたことについても話題になった。ボンQは隣の席から、正面をむいたまま、
「日本がしたことは、ぼくはいまだに許せない・・・」
と堅い声でぼそりと私にいった。私が痛々しそうな表情をすると、
「でもユウコは好きだけど・・・」
とこちらを向いて、顔をくしゃくしゃにして笑った。

 ちょっとだけ、涙が出そうになった。
 
 いまどきの若い世代の韓国人はインターナショナルな感覚で誰とでも付き合う。日韓W杯も開催されたことだし、両国間の軋轢も緩和されたのかもしれない。が、以前は少し上の年代の韓国人は、日本に対してだけは頑なな感情をもっていたはずだ。ボンQもそのうちの一人であった。でも、私のことを日本人というより、一個人としてみてくれていた。
 
 私は日本にいたときは日本の過去の過ちを知らずに成長し、日本を離れてから、当事国の韓国から、自国・日本が過去にしたことを知らされた。
 日本にいながらにして、慰安婦問題や戦争犯罪など、マスコミによって過去を自然に知るのとは違い、そういう事実を韓国人の口から知らされる立場になると、こちらの衝撃も相当なものだった。
 単に自分が無知で常識知らずだったのかもしれないけど、あの時の語学コース以来、私は民族間の軋轢について少しは深く物事を考えたり真摯に取り組んだりする習慣がついた。・・・といってもそれまでは皆無だったから深くといっても知れてるけどね。
 
 もう一つ、たわいもない思い出話。

 ボンQがずっと寮の部屋でこもりっぱなしで勉強をしていると聞いたので、台湾人の友達と陣中見舞いに行った。気分転換に散歩に行こうというので、喜んでついていった。ちょいとそこらを歩き回るだけかと思ったら、裏山をぐるりと一周、延々二時間半歩き続けた。陽が傾くと晩秋の林は次第に冷え込み、途中から疲れて誰もしゃべらなかった。あれは散歩じゃなく、ハイキングの域に入ってたよ。どこをどう歩いたのかは忘れちゃったけど、迷子になったのかと思って内心すごく心細かったことだけは鮮明に覚えている。
 
 今まで、ずっとボンQのことを忘れていたのに、先日ふと思い出した。
それも、日本人学校で飼っているハムスターを家で預かっているとき、突然に。
 
 ボンQの論文のテーマは、「ハムスターの記憶と学習」についてだったのだ。そういえば、よく、ハムスターについていろいろ教えてくれた。専門的なことがらだった上、その専門用語のドイツ語がお互いによくわからなかったので、残念ながら当の私もあまりよく理解できなかったんだけどね。

 でも、ハムスターはかわいくて賢いんだ、と嬉しそうにいってたのだけは覚えてるよ。



2003年04月25日(金) 「日本文化の紹介」マリオットホテルにて

 毎月月末に、マリオットホテルで、IWG(International Women's Group)のサインアップ・コーヒーモーニングという集いがある。
 そのIWGの月々の催し物のプログラムから、自分が参加したい行事を申し込むために会員が集まり、コーヒーを飲んで適当におしゃべりをして適宜帰っていく。

 その会場の片隅をお借りして、日本人会の婦人方が中心となって、「日本文化の紹介」をした。
 外国人が興味を持つ日本文化の代表的なもの、煎茶・抹茶、折り紙、お習字、着付け、生け花の5つのコーナー。

 簡単に内容を紹介すると、煎茶・抹茶コーナーではお茶の煎れ方、点て方のデモンストレーションを。
 外国人はグリーンティと耳にすることはあっても、実際に正式に入れているところや、茶せんでお抹茶を点てるところを目にする人は少ない。お干菓子の甘さの口直しにお抹茶がおいしいと感じた人も、あの渋みが全く受け付けない人もいたようだ。
 みんなの目の前で飲み干すというのは、その流派のお茶の世界のお話で、海を隔てた国の皆さんは抹茶茶碗片手にお友達と歓談してたりして、誠にヨーロピアンなスタイルでマッチャを楽しんでいたようだ。

 生け花は、古流。持ち寄りの花器にさささっと何気なく生けてあるように見えたけど、それぞれにほーっと唸るように美しい作品であった。

 折り紙は、定番の鶴や籠、ゆりなどの他にも、我々日本人にも高度と思われるような作品を一緒に作っていた人がいたようだ。一般に欧米人は日本人ほど手先が器用ではない。しかし、あのテーブルについていた人々は好奇心旺盛で心からそういうことが好きな人たちだったのだろう。熱中しながらも本当に楽しそうだった。

 お習字コーナーは、自分の名前を漢字の当て字に置き換えて、書いて差し上げるというサービス。家族全員分の名前を書いて欲しいという人もいて、大盛況。半紙も模様のある素敵な和紙を用意してあり額縁に入れればちょっとした壁飾りになる。何人かに「誰もがこんなに上手に書けるのか?」と聞かれた。いやいやいや・・・書けることは書けても上手に書けるわけではないのですよ。

 着付けは、まず、私が自前の訪問着を着付けしてもらうところをデモンストレーションし、そのあと、用意してあった別の三着の着物を希望者に順番に着付けした。皆さん喜んで着物に袖を通し、鏡を見てご満悦。のっぺり顔の日本人よりも、堀の深い欧米人のほうが着物の色が映えて見えるものなんだなと思った。着物を着た方々誰もが、そのままなかなか脱ごうとはしなかった。よほど嬉しかったのだろう。

 上田大使夫人も見え、この大盛況を大変お喜びの様子であった。何人もの知人たちから「すばらしい企画だ」と声をかけてもらい、自国の文化をこんなにも喜んで頂けて、私も日本人として素直に嬉しかった。 

 その後の打ち上げで、今回のコーディネート役の日本人会会長夫人の渡辺さんが、「皆さんのすばらしい組織力に本当に驚いた」とおっしゃっていた。勿論、渡辺さんの陰ながらのご尽力あっての大成功なのだけれど、前回、私が携わったIWGのチャリティーバザーにしろ、今回のコーヒーモーニングにしろ、みんながボランティアとして、本当に協力的に快くいろんなことを引き受けてくださるので、この小さな日本人社会の結束力のすばらしさを、今回改めて実感した。

 快くことが運んだ後は、こちらの心も爽快なものだ。
 今回もいい経験をさせてもらった。

 * * * * * * * * * 

 それにしても、普段お付き合いしている皆さんが、意外と芸達者なので驚いてしまった。着付け、お習字、お茶、生け花。どれをとっても心得がないとできないことばかり。できる人はなんでも一通りできるみたいだ。花嫁修業としてされたのかもしれない。

 当の私、物品などのハード面ではかなりのものを提供させていただいたけど、文化伝授のなどのソフト面ではからっきしの役立たずだった。

 実家の母に電話でそのことを報告したら、「若いときに遊んでばかりいて、そのまま海外に行ってしまったから・・・」などとそのまましゃべらせるととんでもない方向に行き着いて、かつての素行をこってりお説教されそうだったから、早々に電話を切った。

 日本でも、子育てが落ち着く私たちぐらいの年台になってから、趣味で日本の伝統芸能のお稽古事を極めていく人がいるけど、なんといっても、ここは海外だから、そんなお教室なんかないしなぁ。
 
 ただ、日本にいては気付かない「和の良さ」というものが海外にいるからこそわかることもあるんだよ。そういう眼をここにいながらにして養っていこうと思う。
 



2003年04月23日(水) 本日の大失敗

 毎朝、お弁当を三つ作っている。主人と息子たちの分。
 今朝も普通どおりにお弁当を作って、三人を送り出した。

 みんなが出かけた後、後片付けをするために台所へ行くと、テーブルの上にお弁当の残骸に混じってハム太郎の黄色いお弁当箱が置いてある。
 蓋の内側がご飯の熱で露をうっている。まさか、昨日のお弁当箱ではあるまい。どきっ。これって、もしかして・・・。 
 
 いやぁ〜ん、清二の分、間違って空のお弁当箱を包んじゃった。
 あっちゃー、どうしよー。
 
 どうしよーといっても今更仕方がないので、あとで買い物がてら学校に届けることにした。
 12時前に学校につくと、まだ四時間目の授業中だという。こんな用件で授業の邪魔をするのもはばかられるから、授業が終るまで図書室で過ごすことにした。
 
 しばらくすると、ばたばたばたと大きな足音がして、慌てた様子で清二の担任の先生が図書室に飛び込んできた。

「あ、あの、清二さんのお弁当、空っぽなんですけど。今、職員室からお宅にお電話しようとしたら、お母さんが学校にいらっしゃってるときいたものですから・・・」

 うわっ! しまった!! 遅かった・・・。チャイムが鳴ってから教室にいけば間に合うだろうと思ったけど、低学年は複式学級で新一年生と一緒だから、一年生が学校に慣れるまでは少し早めにお弁当を開くらしい。

 自分の失敗をごちゃごちゃ先生に弁明しながら、慌てて一緒に教室に向かった。教室の一番奥の席で、しょんぼりとした清二が一人困った顔で頬杖をついていた。その下には、広げたお弁当クロスの上にぽつねんと小さな蓋を閉めたままのお弁当箱が。
 
 みんなで「いたーだきます」をしてお腹をすかせて、さぁ、食べよう、というときに弁当箱が空だったときの清二のショックって、相当なものだっただろうな。

 うわーん、清二、ごめーん。ママを許してね・・・。

 今日、コロコロコミックが届いたから機嫌直してね。
 おやつにドラ焼きもつけてあげるからさ。
 



2003年04月22日(火) ママの読み聞かせ

 先日、清二が、「ママー、眠いんだけど眠れない・・・」といって私のところにきた。その日、清二にとって、いくつかの心穏やかならぬことがあったので、心をほぐしてやるためにも、寝る前に本を読んであげることにした。

 清二が選んだのは、「スーホの白い馬」福音館書店、私が選んだのは学校で借りている「うみのおばけオーリー」岩波書店。
 たった二冊なんだけど、どちらも結構長いお話。
 
 「ヤマザキ」というマンガを読んでげらげら笑っていた理人も、二段ベットの手すり越しに頭だけだして、上から本を覗き込んでいる。

 子供たちが小さいころ、ベットで並んで寝ながら絵本の読み聞かせをした。短めの絵本なら一気に軽く10冊ぐらい、時には何度も繰り返し読んでやった。
 
 初めは絵が多い絵本ばかりだったけど、子供の成長と共に、ストーリー性のあるものを読んで欲しがるようになり、お話系の本も読むようになった。ははは、長いから読むのは結構疲れるんだけどね。
 
 我が子たちは話の途中で眠くなってしまうことは絶対にない。必ずお話の最後まで聞いてから、おやすみをする。我が家の場合、子供が寝付くまで傍らで本を読んであげる・・・なんてことはありえない。そんなことしたらこちらのほうが絶対先にダウンしてしまう。
 
 こちらに引っ越してから、子供たちが二段ベットで寝るようになり、添い寝をすると二人に平等には読めないので、忙しさにかまけてそのまま読み聞かせ自体しなくなった。
 
 でも、読み聞かせは何歳になっても子供の心の栄養になるから、たまには読んでやらないといけないな・・・などと思っていた矢先だったので、今回は読み聞かせ再開のいいきっかけになったと思う。
 
 ベッド脇にクッションをいくつも重ねて座って読むことにした。ちょうどつい先日ベッドにもランプもつけたことだし。こっちの環境も整えないと、読み手のほうが疲れるからねぇ。

 我が家の子供たちは自分で本を読むよりも、同じ本をママに読んでもらって聞いているほうが、絵本の中からはるかにいろんなことを感じとっているみたい。
 
 我が子たちもまだ幼いからか、目で必死に文字を追って、読んだ内容を頭で理解し、それを心で感じ取る・・・という思考回路がまだまだ未熟なのだろう。
 
 けれども、ママの読み聞かせならば、耳からはいってくることからいろんなことを瞬時に読み取り、心で豊かに感じ取ることができるようだ。
 
 この世に生を受けたときから今日まで私の声を聞いて成長しているから当たり前なのかもしれないけど。
  
 一人で本を読むようになったからといって子供たちに背を向けてしまわず、もうしばらくは、親の口で読み聞かせをして、聴覚によって子供の感性を刺激し続けてあげようと思った。

 読み聞かせの時のママの穏やかな声は、なんといっても一番の心の安定剤だろうしね。
 



2003年04月20日(日) 静かな湖畔でバーベキュー

 ワルシャワ北部にあるゼグジンスキー湖のほとりで、うちわのお友達8世帯でバーベキューをした。
 そこはワルシャワから車で一時間もかからないところなのに、異国のリゾート地のような雰囲気だった。

 お腹がいっぱいになったところで、誰からともなく広場で野球を始めた。
 ちびっこたちが守備につくと、いつの間にかお父さんたちも外野あたりで球を待っている。
 そのうち、塁審、バッターの指導する人、ピッチャー、バッターと、中に入って一緒に汗をかいていた。
 草野球世代のお父さんたちは、ボールとバットがあればじっとはしていられないのだろう。

 お母さんたちは、春の日差しの下、湖からの肌寒い風を受けながら日が傾くまでずーっとおしゃべりをしていた。

 * * * * * * * * 

 ゼグジンスキー湖はマリンスポーツのメッカであった。

 沖のほうで、いくつかの帆がかなり早いスピードを出して湖を縦断しているのが見える。
 
 一つの帆がこちらの岸に向かってきた。
 帆が風を孕む音と板が波を裂く音が混ざって、ざっざっざっと小刻みに聞こえてくる。それも、ちょっとした風のいたずらで、とても間近に聞こえたり何にも聞こえなかったり。


 風が沖からの音を運んでくる。
 音が聞こえるときだけ風の通り道が見える。
 風よ吹け吹けもっと吹け。
 私の耳にお前の通り道を見せておくれ。



2003年04月19日(土) いのししの毛皮

 我が家にドイツから持ってきた、いのししの毛皮がある。
 知人の知人の猟師さんに、近所の森で射止めたいのししの毛皮のひとつをもらった。鉄砲の弾のあとが6ヶ所ぐらいあり、結構生々しい。
 堅くて毛が長いいのししの毛は、シェービングブラシに使われているけど、確かにお父さんたちのお髭をしゅるんしゅるんと泡をつけるのにはうってつけかも。

 そのいのししの毛皮、お掃除の際に、バルコニーの手すりにかけておいたら、いつの間にか風で吹き飛ばされて無くなってしまった。ちょっと見たところ、バルコニーの下あたりにはいのししの毛皮は見当たらない。
 はてさて、どこにいってしまったんだろう?
 
 いやぁ〜、それにしても、結構重たいものだから、上からばたんばたんと落ちてきたときの衝撃、もすごかっただろうなぁ。
 それよりも、第一発見者、びっくりしただろうなぁ。芝生の上に横たわるなにものかの獣の毛皮。ちゃんと耳や鼻の顔までついている。

 などと余裕を持って今、書いていられるということは、すぐに見つかったからこそ。ドイツの思い出の品でもあるので、無くなったとわかったときはさすがにショックだった。
 早速捜しに行くと、地下ガレージの大家さんのスペースにありました。きっとここの管理人さんが見つけて運んでくれたのでしょう。
 
 いのししの毛皮が床につかないよう持ち上げると、なんとこの私より大きかった。全長1m60cmぐらいかな? うぅっ、前が見えない・・・。
 地下から三階までエレベーターに乗った。エレベーターの箱の中で、私はいのししの毛皮の内側にすっぽり隠れるようにたった。

 あっという間に三階についた。
 いのししの毛皮を持ったまま、素早く我が家の玄関に滑り込んだ。
 ただ、そこは旅行代理店もあるフロアなので、時々エレベーターの扉が開いたところで、見知らぬ誰かと出くわすことがある。
 
 もし、こんなときに扉の外に誰かいたら・・・いやぁ、びっくりさせちゃうだろうなー。



2003年04月18日(金) ワルシャワ南部新興住宅街

 理人の新しい同級生のお友達の家に遊びに行ってきた。

 ワルシャワを南北に結ぶ地下鉄の南の終点で、カバティという駅の近くに住んでいる。このあたりは近年発達した新興住宅街で、新しいマンションがいっぱい建っている。

 飛行機でワルシャワに着陸するとき、色とりどりのかわいいマッチ箱みたいな町並みが機上の窓から見える。カバティ上空で高度を下げているので、乗客が見ているのはきっとこのあたりなのであろう。

 ワルシャワの街は森や農地を侵食していくように、徐々に外側に拡がっている。区画整備されたこの辺りは、本当に文字通り新興の住宅街である。
 その友達は、8年前にマンションを買ったそうだ。廻りは森以外何にもない土地だったという。
 ところが今、窓からの景色はどこまでも続くマンションの背比べだ。郊外だから空気がきれいだ。いいなぁ。

 中心部よりの我が家のあたりは、ワルシャワの中でも特別に空気が汚いのかもしれない。
 どこかに古い工場があり、まっくろな泥炭の燃えカスが飛んでくる。窓なんか開けておくと、廊下が一日ですすだらけになる。幹線道路からの排気ガスも風に乗って飛んでくる。
 だから毎日せっせと雑巾がけをしないといけない。

 空気が汚いからいやだな・・・と知人たちにこぼすと、誰もが南部(ウルシノフ)に引越しすれば? という。
 でもね、中心部に近いからひそかに便利だと思っているんだなぁ、ここ。近くに大きな公園もあるし。何よりも、主人の通勤の便を考えると、ウルシノフは通勤圏外。引越しも面倒だし。

 * * * * * * * * * 

 そのお宅で二時間近く、お話してきた。お母さんはポーランド人。日本で8年間暮らしていたので、日本語も話す。でも極力ポーランド語を使うよう心がけた。日本語2割、ポーランド語8割ぐらいかな。
 私の怪しげなポーランド語、何とか通じていた。たいした内容じゃないけど。

 実は、先週、ポーランド語の最後の授業だった。
 基礎コースはとっくに終了していて、そのまま新聞コラムを読んだり、授業で映画を観にいったりなどして今までどおり続けていた。
 ところが、春休みに三週間以上休んで、ハイまた再開・・・という段になると、仲間三人三様、勉学への士気が思いっきり下がってしまっていた。その後も、三人のスケジュールがかみ合わない。そこで、ネェこれからどうする? ということになったのだった。話し合っているうちに、誰からともなく、二年間もずっと頑張ったのだから、そろそろやめにしても・・・ということになった。
 いい先生だったし、時々一緒に映画を見たり、オペラに行ったり、美術館に行ったりとお付き合いは継続することにして、授業は春休みのあとに一度みんなで再会して、それで終了とした。

 ポーランド語の授業がなくなると、何とかして習ったポーランド語を話さなければならないという意識が働いたのか、案外すらすらと口からついて出てきた。
 
 忘れていることも多いんだけど、あとはポーランド人の中にはいって実践のみなのかな。



2003年04月17日(木) 昼下がりの図書室で

 今日は、新しいPTAのお母さんたち、4名の歓迎会。一時期よりも人数が増えてバラエティ豊かな顔ぶれになった。子供たちの人数も合計24名。少しは学校らしい雰囲気が出てきた。

 歓迎会のあと、少し早めに学校に行って、下校の時間まで図書室で本を読んでいた。
 
 上の階では、中学生の授業中。
 先生と生徒たちのにぎやかで楽しそうな声が聞こえてくる。以前はマンツーマンで討論するほどの人数がいなかったけど、今年度からははるかに授業らしい雰囲気が感じられる。
 
 女の子たちの活発な声はすずめのさえずり声のようでもある。お箸が転がっても可笑しい年頃なのだろう。
 
 発言の合間々々に爆発的な笑い声があがる。その笑い声に誘われて、階下にいる、部外者の私までがクフフと頬を緩めた。

 笑い声に気をとられながら、満腹の昼下がり、陽あたりのいい図書室で本の文字を追うのはさすがに無理であった。
 濃紺のソファにでもごろりと横になったら気持ちいいだろうな、と思った。でも横になったら最後、そのままぐーぐー寝てしまいそうだから、姿勢を正して座ったまま、チャイムが鳴るのを待った。
 
 内緒だけどね、実は以前ごろりと横になっているところを警備員さんに目撃されたこともあるんだよ。あはは、結構恥ずかしかった。

「ソノママ、ネテイテクダサイ」だって。日本語で。

 
 



2003年04月09日(水) ボルボとアルファロメオ

 今朝から、「LESSON」五木寛之著・光文社を読んでいる。

 10年程前、CLASSYという女性雑誌に連載されていた小説。まだ三分の一も読んでいないから全体のストーリーはわからないけど、若いライターがゴルフの上手な魅力的な中年女性に惹かれていく恋愛小説。
 五木寛之氏の表現する、かっこ悪い男が滑稽で憎めない。いつもクスクスって苦笑してしまう。まぁ、いいっか、そんなこと。

 11章の終わりに、ちょっと私の気を引く下りがあった。
 主人公が先輩の妹・杏子(女子大生)とイタリアンで食事を済ませて、車で送っていく段になったときのこと。

『ボルボという車には、人を現実に引きもどす実用性がある。これがランチアかアルファロメオだったら、ぼくはその晩、杏子を家に帰さなかったかもしれない。』

 ぎゃははは〜、まじぃ?! つまりボルボに乗ってる男ってもてないってことぉ? いるいる、知り合いに。2、3のボルボに乗ってるヒトいるぞ〜。
 きゃはは〜。
 
 そういえば、一度ボルボで自宅に送り届けてもらったことあるぞぉ。
ちょっと上気したほどに酔ってたけど、艶っぽい雰囲気とは縁が無い会話を交わしながら、自宅までのドライブを楽しんだ。
 確かに、ボルボは切ない余韻を持っていつまでもテールランプ見送るというより、すっきり笑顔で、ハイ、さよなら、どーもありがとう! ってな感じ。

 確かにアルファロメオに乗ってると、ナンパの一つもしたくなってくる。
「ねぇ、今日、うちに遊びにくる?」
いつも後部シートには違う男の子が乗っている。
ふふふふ。やるでしょ、私?

私の場合はナンパ成功率、100%
といっても、小学生の息子の友達だけどね・・・。
 



2003年04月08日(火) 今日は私の誕生日!

 ついに三十代の終盤を迎えました。
 月日の経つのは早いものです。少し前まで学生だったようなきがするのになぁ・・・。それはもう、かれこれもう二十年前のことのようです。この期に及んでいつまで学生気分なんだか。このワタクシも困ったもんです。

 今日は特別なことは何もしない予定。でも後日、家族で食事に行くなり、プレゼントを買ってもらうなり、パパに何らかのお祝いをしてもらうことにしましょう。
 
 ドイツではお誕生日というのはすごく大切な日で、歳を一つ重ねるたびに家族や親戚、お友達を招待して盛大にお祝いをする。そして、みんなに祝福の言葉をもらう。
 自分の誕生日には、学校や職場へ手作りのケーキを持っていってみんなに振舞うという習慣がある。
 主人と理人、清二の誕生日が秋なので、お誕生会を開いたり、いくつもケーキを焼いたりと忙しかった。

 ポーランドではお誕生日もうちわでお祝いするのかもしれないけど、「名前の日」のほうが盛大なようだ。一年365日それぞれの日にエバとかパウェルとか名前の日があり、誕生日のようにみんなでお祝いする。カトリックの習慣なのであろう。

 私もお誕生日に自宅でパーティをしたいな・・・とは常日頃思うけど、日本人の友達をバースデーパーティという名目で招待するとお互いに気を使ってしまうので、今まで表向きには何もしてこなかった。4月頃にお友達を呼んでただお酒を飲んだということは多々あったけど。みんなでわいわいするのが好きだから、私。

 何にもしないのも寂しいから、今度お友達に家にきてもらってシャンペンでも抜こうかな。
 みんなにお祝いの言葉をかけてもらって、グラスを重ねながらそれぞれに笑顔で応えているときが、私が一番幸せに感じるひとときだもん。

 シャンペン片手に持っているときって、すごく華やいだ気分になるでしょ?
「かんぱ〜い!」「プロースト!」「ナ・ズドロビェ!」ってね。



 



2003年04月04日(金) 春の夕暮れ

 最近子供たちが野球を始めた。

 アメリカンスクールのグラウンドを借りて、そこの生徒の保護者がボランティアで指導にあたっている。ジュニアのマイナーリーグ(7〜9歳)は6チームもある。アメリカンに通う子供たちが主だけど、日本人学校の何人かの子供たちも参加している。お友達はみんな同じチームだった。

 金曜日の夕方に練習で、土曜日の昼からぶっつけ本番の試合をする。
 いつもは子供の習い事の送り迎えは億劫なんだけど、この野球のためにワルシャワ郊外にあるアメリカンスクールまで車を飛ばしていくのが楽しかったりする。遠いけど。

 今日はコーチの奥さんが一人で指導していたので、私も一緒にお手伝いをした。バッティング練習のピッチャー役。目の前でちびっこがバットを振るから、びびってしまって、ほとんどタマはまともに取れなかった。トホホ。
 しゃがんで構えてから、取りこぼした球を中腰で追いかけ、立ち上がってピッチャーに返す。その繰り返し。
 クー、膝と腰にきたー。着膨れのせいか、ボールもうまく投げられなかった。でも、子供に混じっていい汗かいてすごく楽しかった。

 小さいころ男の子たちに混じって野球やったのを思い出した。田舎の育ちだから、一通りなんでも遊びはこなせる。ソフトボール大会なんかも学校であったし。私たちはやっぱりサッカーというよりは草野球世代なんだなとしみじみ思う。ボール蹴りよりチャッチボールのほうが得意だもん。

 ドイツでは、サッカーが国民のスポーツであるから、男の子は小さいころから草サッカーをしながら育つ。普通のスポーツなどしそうにも無いお父さんでも、傍にボールが転がってくると無意識に足が反応するようだ。サッカーで遊ぶ習慣の無かった日本人にはあのドイツ人のようなフットワークはない。

 逆にドイツでは野球の知名度は低い。グローブをはめて、球を目の前で受ける習慣が無いから、受けたり投げたりする姿が何だかぎこちない。
 
 同じチームのアメリカ人の子供たちは、ベースボールの本場の国から来ているせいか、小さい子でもごく自然に球を投げたり打ったりしている。
 まぁ、これも国民性の違いといえるであろう。

 * * * * * * * * * 

 練習を終えて自宅に向けて車を走らせたのは、街灯もライトアップし始めた、午後7時半ごろであった。
 春分を過ぎたポーランドでは、その時間がちょうど日の入りのころである。目の前の薄水色の空が春の夕焼けの色に染まってとてもきれいだった。
 
 清二の言葉より
「ネェ、ママー、学校に行くときみたいな空の色だね」
冬は、朝日に向かって登校するからそう感じたんだろう。

 理人の言葉より
「さっき英語で説明されたルール、ぼくもちゃんとわかったよ。あー、早く試合してみたいなー」
 頭は野球のことで一杯のようだ。
 初め、「英語なんか全然わからないや!」と一人でふてくされてかんしゃくをおこしていたけど、やる気になるとちゃんと英語も理解できるのだ。
 
 ネ、理人、そうでしょう? ママはいつも、君の「やる気」になったときのそういう能力を信じているんだよ。
 さぁ、これからもいろんなことに自信を持って取り組もうね。

 家に着くと、リビングの明かりが付いていて、パパが珍しく先に帰宅していた。学校から預かっているハムスターと仲むつまじく遊んでいた模様。
 
 パパに「お帰り」といわれてしまった。いつもと逆でヘンな感じ。


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祐子 [MAIL]

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