度々旅
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2007年03月27日(火) 親友

 土曜日、20年来の友人と会った。父のことがあったとき、どうしても連絡がとりたくて、けれど携帯メールは返ってくるし、電話も通じないしで、実家に電話したら、アメリカにいると言われた。実家から連絡がいったらしく、すぐに電話がきた。連絡をとったのは3年ぶりくらいかなぁ。そのときの彼女の電話は、本当にうれしかった。彼女は仕事を辞め、結婚してた。何も知らなかったが、それも私達らしい。葬式のとき、彼女の新しい名前が入ったお花は、私を強く支えてくれた。
 そんな彼女と会った。なんつうかもう、彼女は彼女のままだった。中学受験の塾で小学校4年生のときに出会い、1年で彼女は違う塾にうつっていった。4年生のとき、特別クラスって感じで長時間拘束される夏期講習を私が受ける中、彼女は「夏休みなのにそんな長い時間塾にいたくない」とあっさり時間が短い下のクラスを選んでた。用意されたものや、周りの選択などではなく、自分の選択で常に歩んでいる彼女は本当にステキだった。塾は違いながらも、一緒の中学を目指し合格した。受験前に彼女は「生徒会長になる」と言ってた。それも彼女は実現した。クラスは違うし、部活も違う。何度か一緒のクラスになったかもしれない。けれど、同じグループみたいにはならなかった。
 大学受験のときも、彼女は塾に殆ど行かなかったんじゃないかな。同じ大学を私達は目指した。発表の日、どちらが誘うともなく当然のように二人で一緒に見に行った。手をつなぎながら見たのを覚えてる。結局私は受験に失敗し、違う大学に入った。それは、私と彼女の関係からすると、私が裏切ったともいえるかもしれない。
 彼女との関係においては、言葉もいらないし、共通の話題もいらない。同じ目標もいらない。ただ、互いへの要求に応えることで友情の態を成している。そして、互いへの要求とは、己の要求や目標を満たすことをお互いに欲するというところにある。だからこそ、私はここ何年か彼女に連絡をとらなかったのだと思う。私はここ何年か、私を生きている実感がなかったから。
 ま、そんなことも一切話し合ったことなどないんだけれど。
 彼女のお父さんが弁護士ということもあり、彼女も試験を受けその世界で働いていたが、あっさり辞めていたのには驚いた。どんなにステキな男性と知り合い、そして付いていったのだろうと会うまで考えたが、どうにもその光景が浮かばなかった。けれど会って、あああそうだそうだと思い出した。彼女の場合、アメリカについて行くステキな自分に付いて来いというのが正しい表現だ。
 そんな彼女に「犬のしつけ方は参考になるよ」と旦那について言われた。だから私は「犬ってより、ハムスターに近いからハムスターのしつけ方を勉強するよ」と答えた。あたし達はいっつもこうだ。


2007年03月19日(月) 旅の記録

 3月11日より昨日まで、暑いところに行ってきました。
 あれですよ。旅から帰ってきて、なんつうか、旅行の整理って皆さんどうしてるのですかね。
 長い旅行じゃないと、思ったことを書き留める時間もなくて、でもやっぱり書きとどめたくて。
 次回に役立てたいなんて思うと、移動の時間や、金額や、手法も書いておきたくて。その上、いろんなチケットとかもとっておきたくて。
 毎回、毎回、手法を変えつつ、だんだん手抜きになってきているわけで。
 で、旅が終わると、クリアファイルに、その時の旅でたまった、レシートやら、チケットやら、パンフやら地図やらを、ひとまとめにしておしまいって感じになりつつあり・・・。
 今までで一番よい出来が、旅行に糊も持っていって、毎日、毎日セコセコ日記をつけ、チケットを貼り、レシートを貼り、お金の精算をしたやつで、でもこれは、無理だ。負担が大きい。
 
 振り返るために旅行をしているわけではないので、そんな丁寧に旅行記録をつけなくてもよいのだけれど、長い時間とれない、慌しい旅だからこそ、一回、一回を大切にしたいから、やっぱり記録したいなあぁ。その上、だんだん、思い出せなくなっているのですよね。あのホテルはどこだったけかなぁ。あの出来事はどこでのことだったかなぁ。あれ、あの電車はどこの国だったかなぁなんて。まして、急いでいろいろ周ると、地名や観光した場所も忘れちゃうし。ま、それだけ旅の仕方も雑になってるんだろうなと反省。


2007年03月09日(金) さようなら

 明日、納骨する。彼岸になってしまうため、お寺の都合から本来の七七日より早い。2月は、とっても長かったのに、3月になった途端、ものすごいスピードで日が経っている。

 父は、都内の大きな駅に停車した電車で倒れた。いや、実際のところは走っている車内で心臓が止まった。乗り換えて倒れた次の駅まで2分くらいだと思う。ぎゅうぎゅうの電車の中、自分の力で立たずとも倒れない、カバンから手を離しても落ちない、そういう状況の中、心臓が止まった。たぶん、駅に停車して人がどっと降りるその瞬間に、くずれ落ちる形になったのだと思う。
 駅に停車した車内で倒れ、その場に人だかりができ、一人の医師がやってきた。そして、すぐに電車から降ろし、心臓マッサージをはじめた。急病のお客さまがいるというアナウンスが車内に流れ、それを聞いた別の医師が、電車から降り、心臓マッサージに加わった。また、ある医学生も電車を降りて、その場にやってきた。ポケットに入っていた救命道具を差し出し、補助をした。父の心臓は既に止まっており、瞳孔も開いていた。一度だけ息を吐き出した。医師が父のカバンに入っている手帳を開いて、その日の予定を見ると、ある病院に行く途中であることがわかった。最初に処置を始めた医師の病院だった。すぐにその病院の救急に連絡をし受け入れ態勢をとってもらう。医師達は、駅員、救急隊に指示を出し、誰もが力を尽くした。駅にある器具も使い、やれることはすべてやった。幾分時間がかかってやってきた救急車に二人の医師と一人の医学生は父と共に乗った。本来は皮膚科に行く予定だったのに、違う形で目的地に父は辿り着いた。ERへ父を見送ったとき、医学生はどうにか助かってほしいと願いながら、この人のご家族は何を思うかと思いをめぐらせ、涙した。
 
 なんて恵まれた最期だったのだろうと思う。私がすべてを受け入れることができたのは、彼らのおかげであり、彼らと共に力を尽くしてくださった多くの方々のおかげだ。父が最期、これほどまでに人の温かい気持ちを浴び、力を尽くしてもらえたにも関わらず、留まることができなかったのは、これは天命というより他ない。
 父は本当に人を愛した男だった。その父が、最期にこれほど多くの人に力を尽くしてもらえた。やっぱり、人は素晴らしい。温かい。

 今朝、父の弟から明日の納骨の儀にはいけるが、仕事の都合で供養の食事には出ずに帰ると連絡があった。また逃げるのかと私は思った。祖父の死後、祖父母の介護を10年した私の父母へ彼がとった行動は、遺産に関する内容証明郵便を送りつけることだった。父の死後、以前弟に送ったと思われる文章がパソコンから出てきた。祖父の1周忌、兄弟で祖父を思い語り合えると信じていた父の思いが溢れる文章だった。だが、それも叶わなかった。弟は、また同じことをしようとしている。祖父の1周忌の後、父は「さようなら」の言葉を弟に送った。どれ程むなしかっただろうか。そして、今度は本当に「さようなら」なのだ。にもかかわらずと思うと、私はむなしさでいっぱいになった。そんな気持ちでいるとき、電話が実家に入った。駅で対応してくれた医師からだった。お線香をあげにいきたいのですがという電話だった。

 一人の医師は、知り合いの医師が探し出してくださり、話すことができていた。もう一人の方にもと思い、所属はわかっていたので同じ日病院を訪ねたが不在だった。どうしようかと思い、連絡先を知るべく、警察署をたずねたが、教えてもらえず、消防署を訪ねた。そこでも教えてもらえなかった。けれど、行ったことによって、その日どれ程多くの方が力を尽くしてくださったかがわかった。わかったからこそ、御礼がいえた。そして駅にも行き、御礼を言えた。それから時間がたってしまい、どうしようかと迷ったあげく、納骨後、病院宛に送ろうと昨日手紙を書いた。そんな矢先だった。医学生を連れて、2人で家まできてくれた。今度のことを生かしたいと、駅や消防署との会議にも参加し、語ってくれているとわかった。
 医師の方たち、医学生の方、救急隊の方、駅の方、本当にたくさんの人がいてくれたからこそ、私は父の最期をここまで知ることができた。そして、知れば知るほど、温かい心で満たされた。人って素晴らしいと思った。
 明日は本当に「さようなら」をしなければならない。その前の日に、私はむなしさでいっぱいになるところだった。それを、また人に救われた。

 お父さんも、人って素晴らしいと思って「さようなら」を今度は言えるにちがいない。お父さん、やっぱり人は素晴らしい。
 
 


2007年03月07日(水) 食に愛される

 ここのところ、父と食べた場所、というか、父が好んでいた食べ物巡りをしている。父が家にいるうちに、私が変わりに食べるのだってな具合だ。
 父が亡くなった次の日に、ちょっと遠い蕎麦屋のおかみさんがかけつけてくれた。葬式の後、母と私と親戚で蕎麦屋に寄ったら、お父さん好きだったからと、てんぷらの盛り合わせを若女将が涙とともに出してくれた。それをかわぎりに、餃子を食べ、小龍包を食べ、うなぎを食べしているけれど、その中でも父にとって、ここさえあればいいという2軒があった。
 
 父の荷物を会社に引き取りに行った日、もう退職している父の先輩でもある私の仲良しのおじさんも会社に付き合ってくれた。帰り道、母と私とおじさんと、父の会社の人2名(二人は早退してたよ)、総勢5名プラス荷物に姿を変えた父で、行きつけのモツ屋に寄った。そこは、2時から並んでいるのだ。若旦那は、赤い目で一言「残念です」と言いながら「お父さんの分」ってことでモツと焼酎をくれた。決して持ち帰りはさせてくれないはずが、最後そっとお土産をくれ、私に「お母さんよろしくね」と言ってくれた。
 ちなみに、その後ワレワレは父荷物を店に忘れてきて、若旦那に「お父さん忘れているよ!」と追いかけられた。
 
 今日、食べ物巡りの〆としてもう一軒の行きつけの飲み屋に、母が父の大好きだったナンコツを買いに行ったら、すでに父のことは知られていた。どうやら通夜の帰りに会社の人たちがそこで飲んだらしい。母の顔を見た途端、言葉をかけてくれ、あれも好きだった、これも好きだったと、これまた通常持ち出しさせてくれないものをお土産にくれた。

 父がこよなく愛した2件の下町のモツ屋。オレはこれさえあればいいと言ってた食べ物。その食べ物も父を愛してくれていたような気がする。なんて幸せな男だろう。そして、店の人たちの温かさがしみてくる。
 


2007年03月06日(火)

 週末、入籍の報告ということで、同居人の実家、青森に行ってきた。こちらにいるときは、だいぶ落ち着いた気持ちでいたのだけれど、向こうで義父、義母に会ったらむちゃくちゃ悲しくなった。そう、義父義母と同席した会った日が私と父が最後にあった日。思わず、ボロボロ泣けてきた。
 青森では、日常が続いていて、そして両親ともそろっているのに、どうしてうちはこんな大きな変化が起きてしまったのだろうということと、私の両親と青森の両親、正にこれから親しい関係を築いていくところだったのに、それが叶わないということを現実として感じてしまったからだと思う。
 青森へ行ったのは2度目だけれど、前回も今回も義父義母はいろいろなところに連れていってくれた。父が生きていたら、こうやって一緒に行けたのになぁという、生きていれば確実に叶った未来の事柄を思うと、なんだかもう悲しくて悲しくて、同居人の実家近くに川で、号泣してしまった。
 川は、泣くのにいい。

 父と同じ年齢の私の師からメールがきた。婚姻と父について、そっけないながらも、とても温かい、先生らしい言葉が綴られていた。ありがたい。


2007年03月01日(木) 1か月

 父が他界し1ヶ月経った。この1ヶ月、長かったのか短かったのかよくわからない。何をしてたのかもよくわからない。でも、毎日毎日やることが次々とあって、家長がいなくなるって大変だねという知人の言葉のとおりで、何がってわけでもなく、やることがあって大変だ。
 何かひとつやる度に母と私は「忙しいのは父のせいだ。ああ、腹が立つ。一人だけさっさとお気楽にいきやがって。オレは誰にも迷惑をかけんなんて口ばかりだ」と文句をたれる。そして、怒りと寂しさと笑いの中、なんであたしたちがこんなことしなきゃなんないのさ!と言葉にする。
 父がいなくなり、これほどまでに私の中に父がいたのかと驚いた。葬儀中笑いたくてしょうがない場面があった。今父が何を言いたいかがわかるのだ。何をどうしてほしいのか、何を感じてるいるのか。多くの方が父を語るのを見て、娘というだけで皆さまの前で挨拶をするほど私は父を知っていたのだろうかと不安にもなり、自分を恥じもしたが、やっぱり父は私で私は父なのである。
 父がいなくなった現実を自分や母が理解し、受け止めているのかは本当のところわからない。でも声に出して言葉を交わし、視覚的に会えないだけとも思える。それが人がこの世からいなくなるってことだったら、正直それほど悲しいことじゃない。祖父を喪い、納骨のとき、祖父と私の境界が本当に不思議でたまらなかった。どうして、祖父だけあっちにいってしまったのだろう。いや、むしろ、なぜ私はこっちにいるのだろうといった感じだ。今回は、いやにあっさり父がいない場というものを受け入れることはできた。でも、本当に悲しみが生じるのは、これから歩く道にあるんだろうなと思う。私も母もまだ道は続いている。たぶん死んで一番がっかりしているのは父本人なわけで、そう思うと、バカだよなぁ…としか言葉がでなかったりもして。 
 四七日を過ぎ、父は普賢菩薩さまのところでうろうろしているみたいだ。どんな旅路なのかわからない。近所の人のところには出てきているようなのだが、私と母のところには照れくさいようで出てこない。もう今更言う言葉もないのかもしれん。ああ、わかってるよとこちらも思う。
 それにしてもだ。この10年で、母と私ばかりか犬までもが3つも葬式を出した。当分遠慮願いたい。


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