++ Wasabia ♧ japonica ++

平凡で退屈な日常の中にこそ、目を向けたい一瞬がある。
大事なことは、いつもその中にしかないのだから。

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◆ 2005年03月18日(金)
自立という名の虚構 4
子供の風邪が治ったと思いきや1年と半年振りの喘息発作を起こし
更に2日間ほど仕事を休むハメに....。
今週の週初めの月曜日に仕事に行くと机の上がとんでもないことに。

書類の山というのはこういうのを言うのだな。
腕組みしながら他人事のようにため息をついてしまった(^^;

前回の続きです。

------------------


両親がいて、仲が良くて、適度に干渉されながらそれをうっとおしいと思い、
親の愛を当たり前に感受している友人たちには言えない、複雑な心境を話し合える相手。

それが彼であり、初めて心のうちを本音で話せる相手だった。

母親に対しての複雑な思いは、憎みきれない憎悪と裏返しの愛情との狭間で
あちらでもなくこちらでもなく行き場をなくしてユラユラしていた時期だっただけに、
なくてはならない心の支えになっていったと思う。
今思えば、その心境は互いを思うことで母親に対する愛情への代償にしていたと思える。




彼の母親にばれた時、思いのほかスムーズに私の存在を認めてもらえたのは、
きっと彼の圧倒的な反逆姿勢があったのかもしれない。


彼の母に引き合わせてもらい、一緒に食事をするなどして私は認めてもらったと思っていた。
それが大きな間違いだと気づいたのは半年後のこと。


彼の母親は自殺した。


遺書はなかったので理由は不明になっている。

時は私と彼が始めての1泊旅行に出かける直前の日。
私の実母と住んでいた9階の部屋の前、階段の踊り場に綺麗に靴が
並べられ、彼女はそこから飛び降りた。即死だった。


13年前の暑い夏のこと。
私の生涯のトラウマが一つ増えた事件だった。



----------------
もう十何年も前のことだけど、この事件に触れるのは私自身かなりイタイ。
当時はあまりの出来事にまるで小説かドラマの別の世界の出来事のように振舞っていて、
鉄の心臓があるのではないかと揶揄されたこともある。
当時、私がもし真正面にこのことを受け止めていたら私の精神状態は
あの時のように持ち直すことはなかったかもしれない。

あの時とは、この事件を直視することになった離婚の時と離婚後。
いらない人間から、一気に生きていては害になる存在に昇格したような
そんな思いに支配された時期。

でも生きることを止めなかったのは、残された人間の思いを自分自身で十分に味わったから。
人生を逃げだした人はそれで終わるのかもしれないが、
捨て置かれた人間のあのいかんともしがたい罪悪感と孤独感は、
落ち着いている今でも、表現が難しい。


だから死にたいとか、自殺願望とかを聞かされたりすると
あの時の苦くて胸をかきむしられるようなあの感覚が
フラッシュバックのようにほんの少し、出てきたりする。
きっと元夫も一緒だと思う。

そういう方々に反論は出来ない。
そうさせた罪悪感で何もいえなくなってしまう。
せいぜい、「自殺はイケナイヨ」と笑うくらいしか。

だけど大抵の自殺願望者はきっと周りの人間の気持ちを鑑みる余裕はないのだろう。
そんな余裕があったならば、初めから追い詰められることもないのだろうから。

◆ 2005年03月12日(土)
自立と言う名の虚構 3
元夫の育ってきた家庭は私の家庭と比べて更に殺伐としていた。


彼の家庭は母一人子一人の母子家庭で、
幼少期には、家にはいわゆるヒモといわれる男が一緒に住んでいた。

そのヒモ男は毎日働きもせず飲んだくれ、彼を虐待しては遊んでいたらしい。
彼の左耳はその時の後遺症で全く聴力がなくなっている。

一緒に暮らしていた時、彼は人の気配がすると眠った状態で手足をバタバタと
暴れさせることがあった。
いつもヒモ男に眠っている時に突然暴力を振るわれていたことがトラウマに
なっているらしく、眠り方も普通ではなかった。
枕の下に頭をいれ布団をその上にかぶり縮こまるようにして小さく眠る。
それだけのプロテクトを掛けているとヒモ男が襲ってきたときも
布団をはいで枕を取り去る間にタイムラグがあるので、そのわずかな隙に
逃げることが可能なのだという。
その癖がいつまでも抜けなくなってしまっていた。

たぶんきっと今でもそんな眠り方をしていると思う。
私たちは猫を飼っていたが、その猫たちはみな眠っている彼には決して近づかない。
ぶん投げられるからだ。私もよく首根っこをつかみかかられた。
もちろん、彼は普段は全く暴力を振るわない。
無意識なので私は出来るだけ眠っている彼には近づかない。
いつも私のベッドに猫が3匹とも入ってくるので、私はいつも狭苦しい思いをしながら
猫と一緒に眠っていたのを覚えている。


小さい頃からいつも彼の食事はカップラーメンとチョコレート。
たまの外食が栄養源になっていたみたいだ。
母親が買い与えていたものだそうで、私と出会った時も
部屋には大きな段ボールに大量のカップラーメンが詰め込まれていた。
家で食事を作ることが殆どなかったのだという。
カップラーメンが食事で、チョコレートは脳みその活性化のため与えられていたのだとか。
彼が食事に対して興味がなく腹が満たされればなんでも良い、
としか捕らえてないのはここら辺なのだと思う。


彼の家はちょっと変わっている。
母親の部屋には特殊な鍵がついている、当時では珍しい電子キーだ。
暗証番号と鍵とで開錠する仕組みになっていて、その部屋には彼は入ることが出来ないらしい。
用がある時はノックをして呼び出して、ドア越しに用事を言うのが決まりだったそうで、
母親と一緒の部屋に一緒の時間を過ごすことはほぼなかったのだという。
家族と一緒に部屋で過ごす感覚がないのは、そこら辺が由縁なのだと思う。

TVにも鍵がかかっていて、母親の許しがなければTVを見ることが
出来ないようになっていたのには驚いた。
私が出会った頃にはもうその鍵はなかったけど、
一体どんな仕組みになっていたのか少し興味があるところ。


ヒモ男が死んだのは彼が小学生の頃。
その後は妻子もちの男の愛人として彼の母は生涯を暮らすことになる。


大学生の頃、彼には母親に決められた禁止事項があった。
アルバイト禁止と、女の子との交際禁止である。
高校の頃からアルバイトも女の子も勉強の邪魔になるからと、
欲しい物があると、だいたい何でも買い与えてくれていたそうでアルバイトをする
働くという概念は欠損している。


鍵のついたドア越しに欲しいものが載っているパンフレットを差し出すと、
数日すればそれを買ってきてくれる。どんな高価なものでも買ってくれたそうで、
彼の部屋は高価な機器類で壁中いっぱいのオタクっぽい部屋になっていた。

「勉強の邪魔になる」と言わせるほどに母親はかなり教育熱心で、
小学生の頃からかなりレベルの高いある有名な塾に通わされていて、
いつもトップクラスに入っていたのだという。
私もその塾に通っていたので、A1クラスと聞かされるとそのレベルがどれくらい高いかは
容易に想像がついた。私はいつもG3の一番下のクラスの中でも下から数えた方が早く、
毎月行われるテストで、いつ塾を辞めさせられるかどうかの瀬戸際をウロウロだったからだ。





私たちはいつも母親に隠れるように会っていた。
それがバレたのは1年後である。


---------------
最後まで書けるか不安になってきた(^^;
重たいなぁ。
でも更に重くなるんです...。
書いててちょっと逃げ出したくなるくらい重いかも。

ついて来れる人いるだろうか(^^;
書くの逃げ出したら....ごめん。


とある人からメールを頂いた。(少し前)
夫婦関係で悩んでいる日記を書いている人で私はその人の日記をよく読んでた。
私の前の結婚とは悩みも違えば考えも違うけど、
「あーわかるわかるそのもどかしい気持ち。」

なんとなくそんなことに刺激を受けて前の結婚のことを書き始めた。
myが非表示なのでその人が読むことはないと思っていたけど、
目に付いたみたいで読んでくれてメールを送ってくれたのには、
本当に驚いた。ランキングが低いこの日記をよく見つけられました。

「きっとこんな感じなんじゃない?」
そんなことを思いながら読まれると思ってない日記を書いたんです(^^;


悩む事柄は違うけど、悩み方は一緒なんだね人って。
ぶーん、私信っぽくなった。

◆ 2005年03月11日(金)
自立と言う名の虚構 2
彼との結婚は私がほぼ家出同然で、彼の家に転がり込むことで始まった。



私の家庭は、父と母と兄と4人家族だ。

父と母はいつも仲が悪く、私が高校の3年が終わろうという時に
父親が出て行くことで現在にも続く両親の長い別居生活が始まった。

兄は遠い九州の大学の寮に入っていて大阪には居なかった。
その時の1年が一番私の辛い時期だったかもしれない。
父が出て行くとき、私をどちらが引取るかで揉めていたのが辛かった。

今思えば、二人の言いたい本当の主張が理解できるけども
まだ高校生だった私には二人のいい争いが、
私を引取りたくないという言い争いに聞こえたのだ。

女の子は母親が引取るのがいい。という父親。
責任を放棄するつもりなのか。と詰め寄る母親。

私の意見を聞いて決めるという段階に話が及びそうになった気配を感じ取った私は、
たまらずそのまま家を飛び出し、家出を図った。

最終的にどういう話あいで決着がついたのかは家出中だった私は知らない。
母親に引取られた私は、「いらない娘」として自分の価値を見出せないまま、
ずっと母親とは対立したまま、今でもあまり良い親子関係ではない。

反発したままの私をどう扱って良いのか、母もわからなかったのだろう。
その後、殺伐とした3年を母と二人暮らしで過ごすことになる。

母は男が居た。
私の扱いに悩みながらも、私よりも男の方に関心が向かっていることを
私は察していた。家に遅くまで帰宅しない母。
私は邪魔な存在、不要な存在。どこかに消えちまえばいい。
そんな風に思われているのだろうと、そんな考えにますます固執していったのだ。

一緒に食事をしたくないので私はいつもアルバイトで溜めた金で過ごしていた。
食料を買い、服を買い、必要なものをアルバイトで溜めた金でやり繰りしてた。
洗濯物も掃除も何もかも私は自分でやっていた。

私は自立したかった。さっさと家を捨てたかった。
家族に嫌気がさしていた。



そんな時、夫に出会ったのだ。



-------------
家庭内別居中と前の日記で書いたけど案の定、ダンさん風邪をひいてしまいました。
その風邪ががきんちょにうつって、2日も仕事を休むハメに。

久しぶりに病院に行きましたが、なんですかね、
9時に受付して診察したのは昼の1時でっせ。
そっからインフルエンザの検査で1時間。
家に帰宅できたの2時半。

親子でぐったりですわ。
昔はこういうの毎月やっていたのだから、本当体力使ってたよ、マジで。

IT化進んでいるという時代なのに、こういう待ち時間なんとかなりませんかねぇ。
風邪菌がウヨウヨしている院内に半日も居たら、病気じゃない私まで病気になっちまうわ。
例えば受付とかネットで出来るようにしてくれて、リアルタイムに順番が載ってくれていると、
自分の番になりそうになったら病院に行って待つ。
待っている患者数が待合に少ないだけでも病院で働く人たちにも、患者さんたちにも
うつされたりする危険が減ってメリット高いとか思うんですけど。

携帯がこんだけ普及しているというのに、そういうの導入する病院ないんですか。
病院の建物ばっかり綺麗にしてもしょうがない。





しかし、家族中風邪引きさんで一手に看病している私にはうつらんのが不思議。
やっぱり気が張っているからでしょうか。
きっと、二人が復帰した後にどかんときそうです。

◆ 2005年03月09日(水)
自立と言う名の虚構 1
私の短大での専攻ゼミは「家族社会学」なのだが、
実は前の夫のゼミも大学は違うけど同じ「家族社会学」だったりする。

私たちはお互いに育ってきた「家族」というものにそれぞれの思いがあり
これからの家族のあり方に対して随分とディスカッションしてきたものだ。
お互いが進歩的な考えを持っていると信じ、それを実現できると信じてきた。

お互いが自立し、高めあう存在として家族を形成できればという思いは
同じはずだったのに、現実はそんなに甘くはなかった。

私が思う進歩的な考えは、ただなんとなくかっこいいという上っ面の
ものだけであったものを今更ながら痛感している。
論ずると実行するは天ほど違うものなのだ。

実際、経済的なものを負担するのにはそれほどの苦痛はなかったものの、
それが精神的なものや社会的なものまで全てひっくるめ家庭を支えているという
このあまりにも思い責任感を一人で背負っていることにかなり参ってしまっていた。

これからの家族の方向性や家庭のあり方を精神論で語ることは、
夜なべをしてでも語れるのに、具体的な話になると及び腰の彼。

例えば子供を作ること、古くボロボロになっている家の建て替え。
車を購入すること、風呂を修理すること。ローンの話。結婚式のこと。
彼の就職の話。冷蔵庫を買い換える話(笑)

事の大小はあれども、具体的なことはどれをとっても社会に早くから出ていた
私がこなすほうがスマートで失敗がなくソツなくこなせるもので、
結局は相談を持ちかけても冗談話が先行し話が前に進まない。

しかしスマートにこなせると言えどもそこはそれ、学生の彼と比べてというだけで
若干23歳の私にとっても右も左もわからないペーペーな社会人だったから、
右往左往の連続で冷蔵庫一つ新しいものに買い換えるのも何を選んでいいものか
さっぱりとわからない。。

もともとわからないことがあっても自分で調べて勉強する気質があった私も
何もかもを私の独断で決めるには、年が若すぎたのかもしれない。

そのうち、いろいろなことは私が考え形になった最終的なものを彼に提示する。
彼はそれを吟味するという関係が出来上がっていった。

吟味と言うのもかなり簡潔だ。
「おれ、それはイヤ。」とあっさり拒否されるか
「したいなら、すれば?」と結果の責任はこちら側という他人事のような賛成の
どちらか。

かといっても彼から何か代案がされることもなかったし新しい問題提起されることもなく。
イヤと言われれば次の代案を私が探すのである。
彼にとってはそれで十分話し合いになっていたと信じていたみたいだが、
私からすれば、もっと考えてくれっ!と叫びたい気分だった。






彼が思う自立と言うのは、お互いがお互いのやることにノータッチでいられることで
お互いが自由で束縛されない関係を形成しようとしていたのだと思う。

それが夫婦お互いが自立していると言えるのだと信じていたのかもしれない。
確かに私は私のやり方に何一つ文句を言わない彼に感謝していたし、
仕事で遅くなろうが家事がおろそかになろうが、笑顔で「ご苦労様」と言ってくれる
彼に安らぎも感じていた。

しかし言い換えれば、家庭を営むことにそれほど興味を示していないこともあらわしていた。
食事の買出しもしてはもらえなかったし、当然食事の用意もされてはいない。
決まった時間に食事を取るという生活習慣がなかったせいで、腹がすいていないし、
自炊すら興味がないのである。食事の用意が出来てなければ夜中にコンビニに行って
カップラーメンをすすればいいわけで、彼は何一つ困らないからだ。


そのうち、食事の用意をきちんとしても「後で食べるから置いといて。」と言われるだけで
同じテーブルで食事することもなくなり、一生懸命食事の用意をすることも面倒になった私は
別々に勝手に食事の用意をするようになった。


お互いが自立している生活と言うよりは、ただ同じ家に住んで勝手にやっているだけの同居人、
個室が別々で共用スペースが同じなのでルームシェアしていると言ったほうが
ぴったりきているかもしれない。



周りの友人たちは、「理想」だともてはやしていた。
何せ私は独身よろしく、旦那や家庭に縛られることもなく自由に遊びたい時に遊び、
どれだけ遅くなっても咎められる事もなく、午前様になろうと朝帰ろうと
旅行に行く時も旦那の許可など取る必要などなかった。
誘われれば、スケジュールさえあえば即OKで遊びに行く。

自分で稼いでいるので小遣いも自由だ。
どれだけ家に消費し、どれだけを自分の小遣いにしても誰にも文句が言われない。

私の友人を家に招き入れれば、人懐こく社交的な旦那様が「いらっしゃい。」と招いてくれ、
知識が豊富で話術が適度にある彼がもてなしてくれる。

友人たちからのうけは良く、好印象に取られていた。
仕事をして経済的に自立している奥さんに、自由人の旦那さん
誰からも「理想の家庭」だと賛美された。



だけど私はそんな自由な生活に徐々に疲れ始めてきた。
結局何を決めるのも何をするにも誰にも関与されないのだ。
自由があれば責任もある。

当たり前のようだけど頼ることが出来ないことは、とてつもなく孤独だ。
何のための結婚生活なのかもわからなくなる。
これでは一人で独身でいるのと何一つかわらないからだ。


いや、相手の分の生活の責任を負っている分余計にしんどかったかもしれない。
傍目から見れば、お互い自立して自由になっているように見えていたが、
家庭の運営に関しては全て私がやっていたし、彼は自分の生活エリアが犯されなければ万事興味がない。
彼の私へ対する依存率は相当高かったように思う。


しかしそれもこれも、彼が学生のうちだけで就職すれば変わるのではないかと期待していた。
責任感や自覚が育ってくるだろうし社会性も培われる。


そう思っていたが、現実にはあまかったのだ....。


------------
次回に続きます。

◆ 2005年03月04日(金)
事務のおばちゃんの苦悩
昨日と今日と事務を手伝ってくれているMちゃんが風邪で会社を休んだ。
私は昨日まる一日セミナーに出席していたので携帯の電源も切っていたし、
夕方事務所に顔を出すまで知らなかった。

今日も休み。
体力がある彼女が仕事を休むのは、本当に珍しい。

実は、昨日の夜ダンさんがMちゃんが仕事を辞めたがっているのではないかと言う話を
しだしてつい深夜の2時まで話し込んでいたところ。

うちに来て5年が経つ。
ちょうど私の妊娠出産のための応援という形で来てもらったわけだけど、
その頃ちょうど会社のほうも大きな転換期を向かえ、怒涛のような5年間だった。
業務はやたら拡大し、ほとんど引退を決め込んでちっとも経営者の役割である所の
事務関係を見ようとしない親父の代わりの責任を私が一人で背負い込んで
銀行関係の交渉ごとも資金繰りも慣れないなりにがむしゃらやってきたわけで。

事務関係のやり方も独学で勉強し相当変えてきた。
5年前の会社のあり方と今ではかなり違ってしまっている。

彼女が来るまでは私一人で全ての事務をこなしてきたけど、
経営者の責任までは担ってなかったわけで
今、彼女に抜けられると相当困る。
請負仕事量も3倍ほどに膨れているため、電話もFAXもかなりの量だ。
そのためIT化にも力を入れてきたけど、正直私の知識もおぼつかないため
中途半端な形になっている。
その道のプロを入れるにしても、先立つものがなければそれも難しい。


しかし考えれば、本当ならもっと私がしっかりして事務の仕事ももっともっと
こなして頭を痛める作業は家に帰宅してから勉強すれば良かったのかもしれない。
私がそういう会社を変えるためにいろんな事に頭を取られて、
実質的な事務をおろそかにしていたのは、私自身認めるところだ。

努力家の彼女は、本来なら一人でこなすには膨大な量の事務を
本当にきっちりこなしてくれていた。
だから安心して後方を任せてしまったけども、それに甘えていたのかもしれない。

ダンさんは彼女も結婚している事だし、いつ妊娠出産を迎えることになるかもしれないし
代わりを探しておかなければというけども、私は彼女をかなり気に入っている。
彼女のほうは私に不満を持っているとは思うけど....(^^;

だから彼女以外の人とペアを組んで仕事をするなんてあまり考えられないのだ。
仕事なのだから、ビジネスと割り切って従業員を考えなければいけないのだろうけど。
従順で素直で、頑張り屋で真面目。
これだけの掘り出し物はそうそうは居ないと思うのだ。

何より、気が合う。
いや、彼女が私に合わせてくれているのだろうけど。
彼女は人当たりも良いので誰からも好かれるし誰とも仲良し。

会社の中の輪も相当和ましてくれるのもある。
こういう人材は貴重だと思う。


などと書いている矢先で問題勃発だ。
再発防止についていろいろ考えていると、もう頭を取られてしまう。
業務の流れを再確認と再構築。
現場からはこうだああだと言い訳、事務サイドでは事務の言い分。

はぁ...。
上のものが考えることなんだろうけど、雑務をこなしながら
現場のことがわからない私には無理だよ。
現場に出ないとわからない。やっぱり事務所に詰めていたら見えない。

事務が一人足らないってことなんだろうか。
やっぱり中途半端だ、私は。

とりあえず彼女が休んでいる分、やらなければいけないことはてんこ盛り。
今日は、雑務に溺れますか...。
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