浪漫のカケラもありゃしねえっ!
DiaryINDEX|past|will
唐突ですが、リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」論って、知ってます?(思いっきり唐突やな。(汗)) 単純に説明すると、「生物は遺伝子を乗せる乗り物にすぎない」という観点。で、動物の生態は遺伝子の生き残り戦略の結果である、ということ。 もちろんこれは、人間にも当てはまります。 親子・兄弟・同族の遺伝子は、大きい確率で自分と同じモノであるゆえに、同族に愛情を抱き自己犠牲さえする遺伝子も生き残る。 家族を放ったらかす浮気者の遺伝子はひたすら自分のコピーを増やすために奮闘するが、遺伝子はより自分を巡る環境を豊かにし少数の子どもを大事に育てる戦略をとり、浮気しない者の遺伝子はわが子の生育の有利になる故に配偶者達に選ばれ、かくして浮気遺伝子と浮気しない遺伝子は一定の割合で生き残り続けていく。(爆) ドーキンスが提唱したものに、「ミーム」論というのもあります。 生物に乗る利己的遺伝子にたとえて、人間という乗り物に乗って伝播する文化・情報を「meme(ミーム)」と呼びます。言葉・技術・歌・宗教・プログラムなどなど、模倣しうる情報は、すべてミーム。 例えば、ネット上の顔文字・略語、ギャグもまた伝播してますね。罵倒する言葉などは、外国語であってもすぐ覚えてしまいがち。 単純で印象の強烈なミームが生き残りやすい例です。 ミーム自体もまた、自分を生き残らせるために人をつき動かし、強い伝播の衝動と覚えられやすさ・あつかいやすさを武器に、他のミームと生存競争を繰り返します。 そして、よりミームを伝播しやすい環境を用意するミームをも作り出させていきます。 UNIX・DOS・WIN・Macなどのシェア争いの歴史。モザイクを圧倒したネスケとエクスプローラーの戦い。あっと言う間に増大したプロバイダーやiモード加入者。ミームの伝播したいという衝動が、ネットの隆盛にもつながってますね。 論戦やギャグの応酬でいっぱいの掲示板などを見ると、「おお、今日もミームは果敢に戦っとるのう」と思うことしきり。(爆) 無機物を鍛造する技術もミーム、自動車にして走らせる技術もミーム、レースという文化を成り立たせるのもミーム、楽器を作り音を奏でるのもミーム、それを放映し出版し宣伝するのもミーム、語る言葉もミーム。そう考えるに至らせた「利己的遺伝子」論や「ミーム」論も、またミーム。 バンザイ! 世界は、ミームであふれてるのじゃ〜。v(^o^)v これのおかげで、なんと楽しく物事を見られることか。(笑) 実際、家族に対して複雑な感情や負い目を持っていた自分には、これは救いでしたよ。 家族は、何故いがみ合うのか。己の遺伝子を乗せた乗り物を保護し他の遺伝子より生存に有利な環境を得ようとする衝動と、己を乗せうる別の環境や機会を切望する衝動を、その根本に秘めているのだ。 では、同族を憎んで反発し、故郷を離れる衝動は、何故か。環境の違う場に種をまき、同族と異なる側面を持った遺伝子の持ち主と遺伝子を混ぜあって、災害や疾病で故郷の同族とともに死滅する危険を避けるためだ。(若者は、そういう衝動につき動かされるもんなんだよなあ) 愛憎という割り切れない感情の源が遺伝子の生存願望にあるのなら、その感情にガンジガラメにされる苦悩は、幻のよう。 確率的には、2人の兄弟か8人のいとこがいれば、自分の上の遺伝子と同じモノは残っていく。 ウチの両親の兄弟・いとこの数はもっと多いから、結婚・出産なんて無理にしなくてもいいのさ! ブラボー!(爆) 遺伝子的な生存はこれでクリア(笑)したから、自分の脳内に蓄積されたミームを発信しようかなー、というのが、私の書く衝動。レゾン・デ・テール。 で、まあ、「ミーム」論のミームの発信もやっちゃわなきゃ衝動が収まらないのが、「ミーム」論信奉者のサガなのなのね〜。(笑) そこに含まれるミームが「私」を生みカタチ作っていったように、他者にとって心動かす印象的なモノだとすれば、生き残ることもありましょう。 オモロなかったら、それまでのこと。(爆) 私の中に巣くったミーム達に「生めよ、増やせよ、地に満てよ」とは言わんけれども、「さあ、街を明るくしておいで!」くらいは言いましょうか。(笑)
2000年11月11日(土) |
キリ番ロシアンルーレット(笑) |
pockyさんのところのHPは、キリ番を踏むとイラストを貢ぎ物にしなきゃならないというルール。 これがロシアンルーレットのようで、みなさん、恐いこわいと言いながら、盛り上がっておられます。(笑) 私、探検にいったその日に、踏んじゃいました。(爆) おかげで、何年かぶりにスケッチブックを手にとることになっちゃったの。 すでに画材は腐り腕も錆びて、ペン入れも色塗りもしたら失敗するという確信だけはアリ。で、鉛筆スケッチで、お許しをいただきました。(^-^;) ミハエルの画像と「Ballad/架空の映像のためのナレーション」目次に置いてあるエディの画像がそうです。(こういう企画も面白いかな〜。ウチもそのうち、なんか考えよう(^^)) 見つめて描いていると、「えっ、彼の顔って、こんなラインだっけ?」と新しい発見があったり、その姿を再現するために懸命になってる自分を発見する。まるで、対話のよう。 しかし、描いても描いても理想に近づいてくれないんだなあ、これが。(笑) えも言われぬ曲線を描く輪郭。強い意志を感じさせる視線。表情豊かな眉根。官能的な唇。 みんな、愛しいと思っているモノだから、それを描ききれないことが、つらく歯がゆい。自分の中の批評家が「No」と言い続けて、それをひっくり返すことが出来ない。 こんなに骨格と筋肉が好きなのに、ボディを描くことが出来ないし〜。そう。これが、私が絵を描かなくなった理由だったんです。(苦笑) キッカケをいただいたおかげで、その後も何枚かスケッチを描くようになりました。 しかし、私にとって、描くことは、ひどく体力と精神力を消耗させるようです。体調のいいときでないと、へたってしまう。これからも、仕事のヒマをみて、マイペースで描いていこうとは思っていますが。 だから、みなさま、イラストのリクエストだけは勘弁してね〜。プリーズ!(笑)
「言霊」という言葉を初めて知ったのは、平井和正の本のあとがきでした。 狼男の言霊が枕元に立って、物語を書かせたのだそうで。(笑) それ以後にもいろいろ作家達の文を読んでいくと、そういう体験を書いている人もありましたね。 物語を作っているときのハイな感覚。少しバランスを失うだけでアイデアが飛び去ってしまうこと。キャラクターが勝手に動いてしまうことなど。 実際体験してみるまでは、不思議でたまらなかったんですけれどね。
学生時代に漫研&SF研にはいっていたものの、創作の方は片手で数えるほどしか作ってはいませんでした。美しいモノを愛でることは好きでも、思うようには描けない。 絵を描くことも物語を書くことも、私にとっていつも苦痛でした。 ところが、友達を喜ばせるためにちょっとした物語を書いていたとき、突然言葉がわき上がってくる速さに指が追いつかなくなるときがあったんです。 頭で意図したようには登場人物が動かせず、勝手に文がわき、予期しなかった展開になってしまった。 自分以外のモノに突き動かされているような感覚。「キャラが動く」「物語の言霊が走る」としか言い様がなく、疲れはてていながら、とんでもない躁状態。なにかにとりつかれたような感覚でした。(笑) イド(無意識の)の底から、想念が駆け上がっていくのでしょうか。(井戸の底から上がってくるのって、「サダコ」だっけ。(^-^;)) 我ながら、「イタコ」みたいだと思ってしまう。(笑) それ以後いろいろ試してみましたが、そういう状態を励起できるのはごく希な瞬間であると痛感しました。 どうやら自分は、人を目の前にして「語る」状態に近いと、こういうトランス状態に入りやすいようです。 ひさしぶりにあれこれと創作をしたり、スケッチを描いてみたり、そんな嬉しさがこのHPを作り始めたキッカケにもなっています。 できれば、いっしょに躁状態になって語って下さる人がたくさん訪れてほしい。 そう願っています。
|