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カース・オブ・トレイン  2008年08月28日(木)
呪われし心にスイッチが入る瞬間というのは、日常生活でも散見される。ことに通勤電車における数例を挙げてみると、

1.快速とまちがえて新快速に乗ったのでえらいことになった、
2.電車内で皆が座らない座席に飛び付いて座ったら尿臭とか甘酸っぱい臭いがする、
3.わけのわからんおっさんの手の平や股間あたりが我がケツや股間に執拗に当たる、
4.虫が自分だけを狙ってくる、
5.擦り寄ってきた女性がまるで変形したドラえもんや魔神ブウ。

ぬう、




ダレソレ  2008年08月23日(土)
寂しさを感じないまま動きまわれたらいいのにと思いますが、動きを止めた瞬間から亡霊に襲われるように、ひやりと、寂しさが体中の見えない隙間より入り込んでくるのです。まるで、走っても走っても、自分自身の影からは逃れることができないように。
誰かと一緒にいたい、誰かのそばにいたい、誰かと繋がっていたい。その手の欲求から完全に身を離して生きていられることなんてないのでしょうか。不自由なことです。
おそらく「誰でもいい」などとは思わなくなるはずだし。必ず次にはもっと欲深くなっていく。誰々のほうがいい、誰それのほうが熱い、誰かほかにいないのかなあ、などとうわごとのように繰り返して。

でもやっぱり「誰か」と言ったって、どこの誰かでもいいなんていうわけではない。特に私の場合は、ごく限られた「誰か」ということになる。エニィでもメニィでもなく、ひどく限定的な、それこそ他に行き場が無かったような人でないとダメなんだと思う。けれど人間的な弱さの部分で感じてしまう寂しさ、「誰かが傍にいてくれたら…」などと感じる部分について求めてる「誰か」というのはそれこそ誰でもいいから!ぐらいの捨て鉢な気持ちで体が訴えてくる感じです。これは困った。いや、これが普通なのか。

いずれにせよ、この体から寂しさの影を切り離すには、思いっきり躍動して陽の燦々と当たる世界で駆け回り、駆け続けるか。それとも、影だの寂しさだの冷たさだのに後追いで捕まることさえないぐらい、深い闇に常に棲まうか。そう。後者のそれを狙って私は自覚的に生きているけれど、ある程度、世慣れしてる人種や、この世で頑張っていきている人間というのは、あえて闇に身を置くようなことはしないのです。スタンスの表明、演技として闇というポーズを使うことはあっても、本当に闇に身を置き、性分も闇に浸されているような人はなかなか、いない。いたとしたら、本当に少しややこしい人か。

全く、どうしろというのか、わかりませんけれど、電子レンジが多少汚れてるようなので今から磨きます。ステンレスは優秀だけど汚れることに変わりはないんだ。拭こう。己の業を歌いながら。おほほ。そして世界を黒い海に還すことを夢見ながら、洗濯物の生乾きをいかにして防げばよいのかをまなんでゆけばいいのだ。

ああ、今日は珍しく、隣の部屋に隣人がいる。奴はいったい何者だろう。ここ2週間ぐらいで初めてベランダに洗濯物を見た。どこかに出ているのだろうか。どうやら30歳前後の男性のようだ。あんなに荒れ果てたベランダで人がいるとは思わなかった。飲み歩いてて帰ってこないのか、娼宅でもあるのか。さっきからさんざん「誰か」「誰か」と言ってきたけれど、こういう一般的な隣人はイヤです。なんというか一般的すぎて生々しい。それよりも「アーティスト」だの「ミュージシャン」だの「フォトグラファー」とかいう得体の知れない横文字カテゴリーの人種のほうが気を許せます。宙に漂っているようなところが。地に足をつけていない人の方がいいなあ。

誰それ、っていうぐらい珍妙な人の方がいいなあ。って、寂しさの話はどこにいったんだ。我儘でごめんなさい。けれど、爪がどんどん伸びてゆくように、わたしのこの欲求は芽を開いてゆくのです。たとえ時間がどこまで経とうが。




ガードレール効果  2008年08月22日(金)
ガードレールは車が歩行者に突っ込んでくるのを防ぐんじゃなくて、「周りと同じぐらいのスピードで歩かなければ」と過剰に合わせようとする現代人に対して「いや、車の速度に合わせて歩くとこまではしなくていいから、」と諫めるための、心理的な防壁なのではないか。

無論、車の往来に飛び込んで死に急ぐ輩をちょっと止めるためのアンチタナトスな機能も否めません。

出勤中。。




劇団☆新感線『五右衛門ロック』  2008年08月10日(日)
8/9(土) 大阪公演を観てきました。
mixi掲載文を再アップします。
ふ う。。
レビューについてはメモ列挙。

○っていうかこれ、ルパン三世やん!!峰不二子やん!銭形警部やん!!最後に飛んでどっかいくの、不二子ちゃんやん!!
○松雪泰子【真砂のお竜】=不二子。盗人。その場その場で身を預ける相手(オトコ)を変える。そのオトコは物語上の重要人物、ないしは敵方のボス。そして美貌と抜群のスタイルが武器。しなやかで戦闘力が高く歌と踊りもいける。恋に生きるが誰にも己を明け渡さない。宝物を一人で持ち去る。まさに不二子!!
○男の子が憧れるような冒険譚。カリオストロの城!?昔の宮崎駿!?とにかく冒険、南の島の宝と王と陰謀と争いと!スリル満点でドキドキ。みんな歌ってノッてワクワク。そんな総合エンターテイメント。よくぞここまで作った・・・劇団四季みたいな、ディズニーランド的なものになっていかなければいいが・・・。人の心の闇や影を描くことを今のまま続けてほしいです。

○ついに飛ぶようになった。とうとう垂直移動も出来るようになったか・・・。ラストシーンの昇天の演出がさらに工夫されればもっと泣けるようになるかも。
○北大路欣也の存在感は異常。台本にも尋常じゃない存在感の王、として書いてあるぐらいなのでそういう作りこみがされているからだろうが、声の通りも、一言一言の響きも、なんか別格。
○ストーリー、登場人物、時代背景などの構成は今までの新感線を完全に踏襲。スタートで既に豊臣秀吉が出てきたり、関係人物のアイツやコイツが忍びだったとか、実は日本国の侍でしたとかいうあたり、もうまるっきり今までの番外編やん!て、面白いからいいんですが。
『髑髏城の七人』が関東、『SHIROH』が天草・島原、そして今回はタタラ島という南方。どんどん南下するなあ・・・。

○舞台演出切替のスピードに驚嘆。どういう速さでセットを組み替えてるんだ・・・。10秒あるかないかで一転させているのは本当に凄い。
客の眼に照明をガチッと当てておいて煙や轟音で意識を持っていきながら、その間の数秒間で暗転した舞台上を組み替えている。
○道具の使い方が更に巧妙になっている! 船とか、誰だあんなうまいこと考えた人は! 
(木材を模したブロックを逆三角形に並べて組むことで、船の先が客席を向いているように見える。頂点をずらして組み替えると、まるで船全体が方向転換したように見える。見立ての技術がすごい。)
佐門字が乗って追い掛けてくるタライがまるで本当に、波打つ海の上を漕いでやって来ているように見える。光の演出がすごい。

○だんだん悪人、大ボスに悲哀や深い絶望が組み込まれるようになってきた。
(「髑髏城」天魔王=野望のみ。直球に悪。が、小さい人でした。
 「朧の森」ライ=己の野望と欲で己自身を貫いてしまった。が、魔性の力を借りた、分不相応なまでの強すぎる悪。)
 
今作・クガイ=存在感はあるが、自分の存在意義は最終目的である「島の沈没」=「秘石の消滅」だけ。それゆえに今現在を苛烈に、恐怖政治で生きていても、そこにはストイックさしかなく、悪でも野望でもない。王自身も、ただ目的を守り、皆が不幸にならない道をと願っているだけなので、その諦念というか、あらゆる前向きな気持ちを封じ込めた後の姿をしている。息子を亡くした後の万俵家のお父様という感じか。

○松雪泰子【真砂のお竜】のプロポーションの良さは一体なんだ。
「何を食べたらそんな体になるのか!?」と陳腐な台詞を言わずにはおれぬ。
歌い方がまるでカーブを思いっきり掛けた変化球みたいで、聞き取れないところが多かったのですが、声をくねらさずストレートに出したときは相当カッコいい。力強い台詞、妖艶な台詞はいい感じ。華奢ですらっと長い肢体をくねらせポーズをとる時、この人ほんとに綺麗だなと唸らされます。テレビで映ってるのはなんだったんだ・・・あんなもんじゃないぞ。。
○高田聖子【インガ】がいつもにも増して可愛かった。思慕を歌い上げながら黒板にアホなこと書くのは反則。すげえなあ・・・笑いに走ってもいけるのか・・・。
私はこの人の演技力と歌唱力が非常に好きで、出ていると安心します。歌の安定感が半端ではない。また、アドリブのスピード感も。さすが、新感線の定番女優。
おばちゃんキャラ、姐御キャラをやっても存在感抜群。今回は一回り若い気がします。年齢層七変化。素の写真とか、すごい可愛いし。

○森山未来【カルマ王子】の動きの良さ、殺陣での飛び回り方や即・歌に転じるときのパワーは秀逸。メイク後の顔は美人過ぎて、なんか惚れそう。むむむ。反則。
○栗根まこと【タタラ国・ガモー将軍】がけっこうシリアスな役柄だったので驚き。いびつで変なキャラをやると炸裂するのに、真面目に王に忠誠を誓って剣を振るう様は・・・かっこよかった。基礎実力が相当ある。いつも必ず出てはるのでどんな役をやるのか実は一番楽しみにしてます。
○橋本じゅん【バラバ国・ボノー将軍】・・・すごいなあ。この人は。キャスト全員分まで面白いところを一手に引き受けて、客のテンションを引き付けた。台本読んでもそこまでイメージの浮かばなかったところを、この人が喋ると面白くて仕方がない。

○江口洋介【岩倉佐門字】、最初はパッとしなかったが島に漂着して武士の堅苦しさが抜けたあたりからテンションがおかしくなり、原住民とギター弾いて歌う場面(妙にウッドストックというかヒッピー村なシーンだった)ところから完全に弾けてしまう。真面目な顔をして陽気なことをするのが上手い。素敵だ。。
○濱田マリ【シュザク夫人】と橋本じゅんの掛け合いが見事。笑わせてもらった。毎回、何かしら「スケールが少し小さくて、ちょっとへたれな男性を、愛して支える女」が出てきますが、今回はまったく、ボノー将軍の小ささを直接歌で歌うんですから。愛。

○古田新太【石川五右衛門】 さすが。前に『朧の森に棲む鬼』で書いたように、雄弁に喋り続けるのではなくて静かに黙っているところから短めの言葉で真を突くのが冴える俳優、という感想を持ちましたが、今作でもその良さが使われています。ツッコミに徹する場面も多いし。登場の回数やインパクトはどの俳優・キャラもほぼ均等に割り当ててあり、石川五右衛門がそんなにたくさん出るわけではないんです。もっとばんばん出るのかと思ったら、各キャラの見せ場を丁寧に作ってあったので。
見どころとして、他のキャラに変装して現われ、正体を明かすというシーンが2回あります。が、そこでわざわざ本物の俳優と入れ替わりで古田新太が同じ種類の衣装を着て現われます。体格が全く違うので滅茶苦茶面白いです。髪型はパイナップルだし。もうこの人好きやわあ。なんでこんなことできるんやろう、お茶目やし。

最後の最後も、五右衛門自らがクガイ王にリスペクトを示して終わりますし。チャンバラで戦ってるシーン、島や月生石の秘密を解き明かすシーンは印象に残りましたがストーリー的には完全にアウトサイダー。そこに過去の因縁が幾つも絡まってて彼の存在感が浮かび上がるという、設定上の主役みたいな感じ。その因縁も設定のみで、昔知ってた、ぐらいです。
実質的な人間ドラマでは、五右衛門の外側、タタラ島の周辺で渦巻いています。彼は物語を先に勧めるための起爆剤に留まり、クガイ王とカルマ王子の深い因縁と親子愛とか、クガイ王の治めるタタラ島に秘められた月生石の利権を巡る他国との駆け引き、といったドロドロしたところが核になっている。そこに漂着して入り込んだ五右衛門が島の真実を知る・・・といった具合で。そういうアウトサイダーが暴いていく実の姿、という謎解き話でもあり。
『髑髏城の七人』で見せた「過去の縁」の張り巡らされた糸が、今回も存分に出てきます。設定的なものですが。そしてエンディングは必ずしも円満解決ではなく犠牲がけっこうあったりするのでそこで私は満足です。ハッピーエンドなんてくそくらえだ。

○完全にイヤなキャラ、がいない。これは新感線演劇の鉄則かと思うぐらい。悪役、裏切り役、憎まれ役は必ずいる。(周囲全員をペテンにかけて最後は総取りを狙う異国商人ペドロ・モッカ&アビラ・リマーニャ。無垢なカルマ王子をたぶらかして騙し続けてきたシュザク夫人&ボノー将軍など)
けれど、どんでん返しでその企みを逆につぶされて情けない羽目に陥ったり、面白可笑しい歌と踊りを繰り返されたり、変なところで弱みがあったり、どうにも憎みきれません。本来なら感情移入して「こいつ・・・ひどいやつだ!」「はよ斬られろ!」という気持ちが高まるのですが。それが高まっていく最中で落とし穴にはめられたり、銃がびろんびろんに切り裂かれたり、「あなたはちっちゃいの」の歌が始まったりする。うまいなあと思います。愛着が沸いてしまうじゃないですか。
一人一人のキャラ&出演者を愛して作りこまれているなあと感じさせられます




ブラスト2  2008年08月08日(金)
(08.8.3.mixi【ブラスト2の後】再録)

『ブラスト2』を観て、確かに凄かったが至って冷静な自分がいた。思うに楽曲が相当にメジャーな、盛り上がれるアッパーなもので、ジャンルを色々と取り入れた「誰でも楽しめるもの」だったというのが、逆に「もっと突っ込んでコアなところを突いてくれれば・・・」「もう1歩、もう1歩、踏み込んでくれたら・・・」という、欲望の歓喜に留まったからだろう。

何層にも奥行きの広がる、かなり可変性のある舞台の上で、吹奏楽の演奏者、ドラム奏者、電子音の奏者、バトンやリボンを舞わせて踊るパフォーマーらが入り乱れ、全く止まることなくその場全体が動き回る。人間の動きも音楽の一部、楽譜の一部といった具合に。そのためか、「もっともっと聞かせてほしい」「この音楽のさらに先にある展開を見たい!」という願いが生じてしばらくしたところで何と曲は終わり、満場一致の拍手に祝福されて、次の曲目へ移行してしまうのだった。

こちらの体内時計の針と、表現する側の時計の針とが、噛み合わないときには、強烈な一体感は生まれにくい。
音楽は本当にジャズ、ラテン、タンゴ、テクノ・アンビエント調からディジェリドゥ独奏まで、非常にバラエティが豊かだった。
だからこそ思ってしまう、「ざっくばらんで、何でも屋なのは分かったから、そのディジェリドゥだけをあと1時間フルに遊んでみてくれ!」とか。「その電子音の渋く響いてるところをあと1時間叩いててくれへんか!?」とか。

隣のねえちゃんなんか、途中で立ち上がって踊りだすんじゃないかってぐらいテンション上がってて、最後のほうギャーギャー言って拍手してたもんな。みんなで超群れて休憩中と終演後のロビーでの出演者顔見せに殺到してギャーギャー言いながら写メしたり。まあそれが普通の反応なのだと思う。だがなあ・・・多用された電子音と、音響の処理からして、やはりここは単音でビーーーーン、ボオーーーーン、ドン、ドン、 パン、と、サバンナの荒野や北極海の氷上で見上げる太陽やわけのわからん恒星のような単音を、渋く響かせ続けていてもいい、と思ってしまう自分がいたので、今日の感動はむしろ先送りされた感じです。

パフォーマーの演技力は相当なものです。体力も尋常ではなく、飛んで跳ねて転がって立ち上がって即、トランペットやサックスを吹き抜くのだから、音の軍人みたいなものです。
しかし私は毒のないパフォーマンス、演出はダメなのかもしれない。とにかく安全に作られているわけです。○・△・□の図形を散りばめて楽器を叩き、弧を描く輪をくるくると回し、トワリングの超絶技巧で締めに掛かる。

それと比べて、ジャンルは違えど同じ舞台上の演出として、劇団☆新感線に妙にハマってしまったのはなぜか。あちらも王道のエンターテイメントをやりながら、人の欲、野心、恐怖心や、義憤、各々の正義、各々の事情、そしてそれらがぶつかり合ったり、覆されたり、とかく人間のブラックな面を確実に突っ込んでいくのです。バッドエンディングもザラですし。

バトントワリングの本庄千穂さんが超絶に凄かったです。そこは涙目になりました。なんかもうこの人を見に行ったんじゃないのかっていうぐらい存在感があった。楽器奏者の演奏とパフォーマンスを一瞬で後方支援の役付けぐらいに遠ざけるほどのスピード感、力強さ。神秘。たかが棒を回す、投げる、受け止めるということがここまで人の心を打てるとは・・・。

単純で明快なモノの、単純で幾何学的な動きや光りほど、美しく神秘的に感じるのかも知れません。
なら、タイヤとか信号機にライブをさせたら相当感動するんじゃないか? とくに車道の3ツ目信号。あれと民族楽器と、電子音。パー^−−−プーー^−− ポォオオオオン  チカチカ。  ははは。

勝手な妄想が色々入ってきたせいで、あまり細部も全体の流れも覚えてません。すんません。
「そんなに動いたり上下左右しなくても、止まっていいから、重厚で戦意溢れる熱い演奏してくれたらいいのに・・・」と思ってしまったので、どうしようもありません。今日はそういうギアの入る日。


ヽ(`□´ )ノ リトルカオス推奨派。

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ミクシィでは当日分の日記しかみんな見ない上に、ワード検索でも最新アップ者の日記から順に表示され、言うならば「一番最近に何か書いた人の勝ち」でしかないシステムです。だからコンテンツを充実しようとすると失敗しますね。全部過去の遺物になる。
ブログを新規運営するのもどうかというところもあり、悩ましいところです。




写真サイト「フォトログ」  2008年08月04日(月)
fotologue『mar-s729』
写真を公開。
徐々に増えていきます。

毎日毎日ひどいことを書いていますが、写真は普通にがんばってます。
じつにひどいことを書くなあと思いますが、ひどいんだからしょうがない。。

(・з・)いいもん。ぐだぐだ。




おぼろげなかげ  2008年08月02日(土)
昔、本気で好きになったり、何らかの代え難い想いを抱いていた人。その人達と袂を分かつ結果になり、もう二度と会うことも難しくなってしまったとしても。この心、記憶の中から消えることはどうやら無さそう。それどころかむしろ、失われた輝かしさや熱が、膨らんだ利子のように不足分を求めて今という時系列に時折飛び込んできては、かつての人々の姿形を借りて迫ってくる。

現在進行形の時系列にパキッ、パキッと音を立てて割り込んでくる何らかの過去のビジョン。唐突に始まる十数秒のそれは、二度と戻らない人間関係の美しい部分だけを固めてダイジェストで見せてくる。
見せてくれても困る。どうしようもないのだ。2年、3年が経ち、もっと経ってしまった人も多い。いくら何をどうこう言ったって、人間、常時、細胞から記憶から意識から、日々常々、様々な刺激と体験を累積してゆき、お互いに知り合っていたものとはまた別の誰かになっていってしまうのだ。その時の流れを、稀に無視して、突き抜けた付き合いのできる人もいる。ごく稀に。そういう人間だけは今も相変わらずで付き合い続けているが、そうでなくて自然淘汰ないしは消滅を迎えた人たちの、どれほど多いことか。

願わくば復活させたいと思ってならない自分が此処に居る。
ひどく腹立たしい。
この手に繋げられる人数はおよそ5人せいぜいだと感じる。
なのにまたないものねだりをしようとする。


魅力的な人がいた。壮絶に面白い人がいた。とても優しい人がいた。抜群にキレてた人がいた。どこまでも一緒になれる人がいた。すばらしく美しい人がいた。私の欲しいものをどこまでも与えてくれる人がいた。そんな人たちの代わりになれるような人は今もいない。
「唯一無二の人間どもと出会いたい」という十年前の渇望は確かに満たされていた。が、その願いの次にくる現象に対して、立ち向かう術は何も用意していなかった。恵まれすぎた時代の次に来る寒波をしのぐ、さてその後、どうするのか?

おぼろげな影を追っていると目がおかしくなって目の前が見えなくなります。影を無視していると実体化して眼前に現れて視界を連れ去ります。その幻の手を取って一緒に行こうとすると奈落の底に叩き落すがごとく、冷たく、現在の時系列に意識が引き戻されます。理性はそこまで甘くはなくて、自分が今此処にしか生きられないし生きていないっていうことを忘れてはいない。

あなたがたにもう一度会ってもおよそ伝えられる言葉や声が見付からない。きっとしらけた時間が冷たく流れて、まるで浪費してかなぐり捨てるような無駄な数時間になる。既に体験済み。お互いにまた失望する。それでも会いたい、かつての私たちに。そして何かを譲り受けたいと願うのだ。浅ましい? いや。貪欲だと言い換えておこう。だってあなたがたの代わりは他にいないのだから。




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