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2002年09月01日(日) ■ |
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口やかましい。 |
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「なぁ、ちょっと辞書貸してくれ」 「・・・辞書?」
自習中、佐藤は隣の鈴木に左手を差し出す。 「ああ、ちょっとココんとこがわかんねぇんだよ」 プリント中のある問題を示し、再び鈴木の机の上を指差した。 「机の上のそれだよ。国語辞典。使ってないなら貸してくれてもいいだろ」 「ああ、これか。・・・別にいいけどな」 カバーごと辞書を渡し、鈴木は肩を竦める。 「そこまで真面目にやってるのか」 「一通りざっと埋めておくんだよ。そしたら、騒ぎさえ起こさなきゃ後は遊んでても評価は付くだろ」 「詐欺師だな」 「せめて知能犯と言え。人聞きの悪い」 軽口を叩きあいながら、佐藤は辞書を開こうとカバーを外す。 その時だった――。
『愚民どもめ!』
「うっわあぁぁあっ!」 突然、手元から不穏な発言が飛び出した。 佐藤は、思わず手に持っていたソレを放り出す。
ドサッ! 『何をするか! ――愚民どもめ!』
「ななな、一体なにが・・・」 床に落ちてもなお不穏な発言を繰り返すソレを指差し、佐藤は本来の持ち主に引きつった顔を向ける。 「ああ。最近の口癖っていうか、流行りらしいんだ。 その『愚民どもめ!』・・・ってやつ」 「流行りってそういう問題か?!」 問題点を逸脱した会話が展開されているその間も、問題の品は床の上に落ちたまま、 『無礼千万であるぞ! ――愚民どもめ!』 『見世物ではないぞ! ――愚民どもめ!』 静まり返った教室の中で、ただひとり(?)口うるさく苦情を並べ立てている。 しかも――すこぶる偉そうに。 壊れたカセットデッキのように、必ず語尾に『愚民どもめ!』と付け加える彼(?)は、その名も「明解 国語辞典 第三版」。 使い古されてしわのよった表紙が渋い個性を表現している、鈴木愛用の国語辞典である。 「使うには問題ないぞ。ちょっとうるさいけど」 「だから、そういう問題か?! ・・・って、小林なにそこで平謝りしてんだ」 「え、え? だだだ、だってすごく偉そうなんだけど。偉い辞典(ヒト)じゃないの・・・?」 「勝手に偉そうにしてやがるだけだ、気にすんな」 「そ、そうなの・・・?」 「そうとも小林、気にすることはない。今日はたまたま偉そうなだけだから」 ・・・たまたま? 「もしかして・・・定期的に変わってんのか?」 「ああ。今回は『愚民どもめ!』が決まり文句だが、前回は『な〜にマジメにやってんだよーっ♪』だったし、その前は『どうか、死なせて下さい・・・』だったな――」 あれはうっとおしかった。 腕を組んでしみじみと邂逅する鈴木。 「しかも、ひとつひとつのセリフに表現力もある。真に迫っているだろう」 「ていうか・・・元々辞書は喋ったりしねぇ」 「そうだな。確かに昔は普通の辞書だったんだが・・・図書館で通りすがりの誰かに貸してから際立った個性が――」 「それは個性とは言わねぇ」 「それもそうか。で――」 鈴木は、そう言いながら未だに喋り倒している床の辞書を拾い上げ、バシバシと軽く叩く。 と、束の間静寂が戻った。 「さぁ、今のうちだ。何を調べたいんだ?」 「・・・いい。そこんとこは適当に埋めとくから」 「そうか、じゃあ片付けても構わないな?」 「ああ、そうしてくれ」 なげやりに頷きながら、自宅に忘れてきた愛用の辞書を恋しく思い出した佐藤少年は、忘れ物などするものではない、そう深く心に刻んだのであった。
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