2011年02月21日(月) |
「漱石とその時代 第一部」 |
起床午前五時。 エスプレッソを一杯。 朝食はトーストとヨーグルトとイチゴ。 昼食は富士宮焼きそばとバナナ。 三時にエスプレッソ。 すき焼きのために太い葱をもとめる。最近の九条葱はスタイリッシュでちっとも太くない。朝どりの賀茂葱のほうがよっぽど太い。賀茂葱がなかったら下仁田にしてやろうと思ってた。
ということで夕食はすき焼き。
「漱石とその時代」の第一部をもうすぐ読了するので、第二部を注文する。 第一部で特にひかれたのは「霧の中の生」だ。 嫂の登世に対する思慕、恋情を因としてほとんど発狂していく漱石…。
「有用の人」たらんとして追求する英文学。 努力は抜群の力量と知識を彼にもたらすが…。
不安定この上ない精神、疲弊した神経をやすめ、安寧を得たくばその努力を打ち棄てねばならない事も自明。
アンビバレンツを生きる。
中程から漱石の人生の視界に入って来、併走を始めた正岡子規の生き様も凄まじい。 焦りと諦めと努力。貧困と病苦。それらの渦のなかで「歌」を見つけ出していく。
実は、こないだ我が家を訪れた中国語講師との文学談義で、今まで色々な人から散々尋ねられた問いをまたしてもふっかけられた。 「純文学と大衆文学とはどう違うんですかい」
「純文学」という名前がよくないのかもしれない。 正岡子規は「詩歌小説と大衆小説」といっていた。余程そのほうがわかりやすいかもしれない。
先ず小説家として立とうとした子規の処女作は露伴の語り口を援用したものだっという。漱石から「今どき、西鶴風はないんじゃね?」みたいなダメ出しをされ、二葉亭からは冷淡にあしらわれ、当の露伴からも相手にされず、とうとう詩歌で立つ、と決めたのだった。
(ぼくは講師に「さあ違いはないんじゃないですか」としか答えられない。)
焦りの中から、ほとんど「狂気」を帯びて二人は突っ走っていく。
ぼくは読書のペースをあげていこうと思う。
「漱石とその時代 第一部」256p 他は微動。
|