散歩主義

2011年01月28日(金) 一月二十八日

起床午前五時半。すぐにエスプレッソを飲みながらパソコンを起動させて一日が始まる。
朝食は赤米黒米発芽玄米と新米のブレンド、紅麹味噌のみそ汁、のりとオクラの和え物、納豆。昼はトースト、バナナ、林檎、イチゴ、ミカン、マンゴージュース。夕食はイカのリング揚げ、菜の花菜のおひたし。珈琲は四杯。全部エスプレッソ。

一日の歩数は8613。

読んだ本。
「贖罪」マキューアンが上の223p、
「神話の力」キャンベルは前書きが終わった。
「漱石とその時代」第1部江藤淳63p、
「カーリーの歌」シモンズは読み始めたところ。
一番熱心に読んでいるのは「贖罪」。

気になってとっておいた記事は週刊ポストの「2011年を読み解く41冊」。レギュラー書評の13人がそれぞれのジャンルで三冊をあげている。

このなかに信頼している書評家の一人、というか翻訳家の鴻巣友季子さんがいて、彼女があげた三冊がとても気になる。どれも未読。

氏曰く、文学においても「小分け情報化」がすすんでいるけれど、ある意味「情報」に背を向け、深く「読む=生きる」ということの原点に立ち返る書物である、と。
その三冊とは「切りとれ、あの祈る手を」佐々木中、「我的日本語」リービ英雄、「水死」大江健三郎。

大江さんの「水死」は有力な情報を失ったところから始まるという。おもわず谷崎の「吉野葛」を連想した。あれはたしか伝説を疑い否定するところから始まったのではなかったか。物語の立て方への始動の姿勢だ。

よくエンタテイメントが「単なるトリビア小説」だと揶揄されるけれど、そのことも自戒を込めて考えた。
ミステリにしてもそうだけれど、ただ「それだけ」だとすぐに「古くさく」なる。そうでない作品は古くならない。
逆に言うと読んでいて意外なほど古くさく感じる最近の作品がある。

佐々木さんの本は必ず読みたい。リービさんも。

別の本でもう一人の「信頼している書評家」の方が開高健「輝ける闇」を戦後最高の日本文学作品だ、と書いていた。これも未読。
読むべき本は増える一方だ。

執筆「スミレ」三行。


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