2010年10月03日(日) |
「ロンググッドバイ」 |
レイモンド・チャンドラー「ロンググッドバイ」読了。 村上春樹氏の新訳である。 この作品を以前に読んだ時と同じく、あるいはそれ以上にフィッツジェラルドの「グレートギャッビー」を感じた。 あの物語に、もし私立探偵が登場していたら…。
同じように村上氏も感じていて、というかたぶん二作を読んだことのある人は皆同じように思うんじゃないのか。 それほど二作は同じ流れというか、兄弟作品のようにすら思えた。
旧い訳で省かれていた細部もすべて訳出したそうで、それはほんとうにありがたいと思う。 おかげで「本当の作品」の姿がくっきりとした、と思う。そこまで詳しく書き込むか、というようなディテールを読めたので。
村上氏の解説もまた秀逸で、近代小説のもつ「自己意識」というやっかいな「くびき」から逃れる方法としての、英米文学の方法論にもうなづける。 ヘミングウェイから始まる、情感を徹底的にそぎ落とした文体であるとか、カット割りのようなシーンの積み重ねによって、巧妙に自己をその中に隠し混んでしまう(あるいはとけ込ましてしまう)チャンドラーの文体であるとか。
が、ぼくがこの解説に付け加えるとしたら、そのヘミングウェイのバックアップとして詩人エズラ・パウンドがいたということ。 チャンドラーの作品にはよくT.S.エリオットが登場するけれど、エリオット、そしてパウンドといった詩的直感が裏書きしていたともいえないか。 すくなくともヘミングウエイについては定説になっていると思うのだけれど。
解説によって時代背景がわかったことも収穫の一つ。レッドパージの傷はかなり深いのだということなど。
とまれ、この作品はたぶん現代小説の大きな結実の一つだと思う。ここから始まった作品たちは数多くあると思う。
ただしこのあとほかのチャンドラーの作品を読もうとは思わなかった。これがベストでオンリーワンだ。 むしろ興味はフィッツジェラルドに向かう。 より未完な、不遇な、純粋な、破滅的な書き手へ。
彼の本も何冊かあるのだけれど、光文社から出ている新訳「若者はみな悲しい」をもう一度読もうと思う。 いや全部読み直してみようかな。
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