散歩主義

2009年02月21日(土) 伝説

雪が舞い散る昼さがり、還暦以上の先輩が四人やって来た。
それぞれの歳の差が二三年はあるけれど、全員同じ大学の美術研究会のOBである。全員ぼくよりはるかに年上なのは同じだが。

ぼくは美術研究会には入らなかった。他のサークルにも入らなかった。
不良だったから、ぼくのサークルといえば爆音が響くジャズ喫茶かロック喫茶になるのか。

いろいろ理由や縁があって美研の人たちと知りあいになったのだった。
仕事をリタイアした先輩たちばかりではない。プロの日本画家とタクシードライバーは現役でがんばっておられる。

ぼく以外は全員ビールと焼酎、ぼくはルイボス茶で寿司をつまみながら、爆笑連続のおしゃべりである。
年金、病気、介護…だいたい話題はそのあたりに集中する。
ほとんど老老介護の現実が始まっていた。

その話が一段落したところで、興に乗った人たちはぼくのパソコンをあけて、東京新橋の芸妓だった姫千代さん(去年若くしてリタイアなさったのだった)のDVDを見て和んでいて、ぼくはタクシードライバーの方と明智光秀生存伝説について意見を交換していた。

京都の山科に小栗栖(おぐりす)というところがある。そこで明智光秀は武装した農民に殺されたことになっているのだけれど、興味深いのは小栗栖という地名。この伝説の前提は来栖、栗栖など「くるす(くりす)」という地名のあるところはキリシタンが集団で住んでいたところだという思いこみに似た断定にある。

光秀の娘、細川ガラシャがキリシタンであり、小栗栖という部落と結託して「光秀の死」をでっちあげ、実はここから光秀を逃がしたのだ、という伝説なのだった。やがて光秀は僧となって徳川家康と結びつく。天海僧正である。光秀=天海という伝説は別ルートでもあるようだ。

他に山科には御陵血洗町というところがあるのだけれど、そこで首を洗ったのだという説もある。
それもこれも秀吉が検分したとき、光秀の首の傷みが激しく本人かどうかはっきりわからないほどだった、という「いわれ」から生まれたものなのだ。

信長を討ち、秀吉に滅ぼされた逆臣光秀の伝説はいまだにけっこう残っている。

そんな話をする傍らでは、市内で未解決の殺人事件の話がいつの間にか盛り上がっていた。

どうも酒が入ると血なまぐさい。ただ一人の素面としては、ほおほおと肯き、あははと笑うのみである。


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