ぼくの小説を書くきっかけは「いいな」と感じた作品のように書きたい、と考えたことが始まりだった。
「世界を描きたい」「人を描きたい」そのために詩を選んでいたけれど、詩ではなく小説を、と考えたのは「詩より詩的なもの」が小説の中に散らばっていると感じたからだし、どれほど公募で評価されても、周りの人にはちんぷんかんぷんで「読み流されている」のが自分の詩だから、というのも感情の側面にあった。「読んで頂きたい」という欲望が付加されたわけである。
詩の一行が「立ち上がる」ように、小説のディテールが浮かび上がり、作品全体からうねるような感情が自分の内側に湧き起こる。 読んで頂けるような「それ」を作り上げようと決めたのだった。
日本の小説でそれまで感じたことのない質感や読後感を持ったのが吉行淳之介さんの「驟雨」である。具体的にどう、とは正確に書けないのだけれど、以来ぼくは、後半の「割り箸が折れるストップモーション」の鮮やかさを目指して書き続けているようなものだ。
亡くなって年月も経つのだけれど、吉行さんの「新刊」は相変わらず出版されているし、古書店にいってもあまり「発掘」できない。
友人にいわせると「それはつまりまだ『現役』ということ」らしい。 その友人が文庫の新刊が出たから、といってプレゼントしてくれたのがエッセイ集「なんのせいか」である。
小説よりもエッセイの方が作品数は多いのかもしれないし、実はぼくの周りの吉行ファンのほとんどが、エッセイのファンなのである。 むろんぼくもエッセイは読んでいる。それでもいまだに未読が多い。
エッセイは柔らかく、うまい。それに尽きる。「大人」なのである。 「なんのせいか」ももちろんそんなエッセイがいっぱいにつまっている。 おもしろく読み終えた。 しかしこの手のアンソロジーが出るたびに悔しく思うのだ。何故、全集を買わなかったのか、と。
いろんな編者によるアンソロジーがでているけれど、どれもこれも新潮社から出た「吉行淳之介全集」が底本になっている。やはり高価でも買うべきだった。
小林秀雄が唱え、車谷長吉さんも同様に主張し実践されたように、一人の作家を読む、と決めたら全集で読まねばならなかったのだ。 ……。
画像にはその全集が二冊だけある。これだけでも貴重なことがわかるのだけれど、短編などをすべて読破しようとするなら全集を揃えるしかないのだ。 もはや取り次ぎにはなく、巨大書店の在庫か古書店に期待するしかない。
一度読み出すととまらない。生まれて初めて原稿用紙に全文書き写したのも吉行作品だった。「驟雨」「暗室」「夕暮れまで」…。 学んだことは数え切れない。
友人の贈り物の文庫が、そんな「吉行熱」にまた火をつけた。 とりあえず村松友視さんの「淳之介流」を再読して落ち着こうとしている。
|