| 2009年01月05日(月) |
「書き換え」なのか「堆積」なのか |
年末から昨日(4日、日曜日)までの貴重な時間を振り返ってみた。 改めて整理整頓が大切だと言うことを痛感したのは、部屋の壁の一面を全部本棚に(と、いっても無印良品のパルプ製品を積み重ねただけだけど)したこと。(こんなことが出来るのも年末しかなかった。)
自分の本が俯瞰できて、自分の「傾向」がぼんやりと見えた気がするし、読んで忘れていたことを思いだしたりもした。CDに至っては数が多すぎて自分の「流れ」を忘れかけていたことを思いだした。
生活全般では、休んでいるうちに、実は本質的にテレビはどうでもよくてオーディオに指向性の強い人間だと再確認した。テレビを観ないわけではないけれども…。 音、絵画そして本。
お正月は年末に注文のあった「街函」を制作。今日メール便で送ることが出来た。新年早々、本当にありがたいこと。
そういうふうに過ごしながらいろいろ考えた。 「人生」を考えたとき残り時間は少なく、どこで倒れてしまうか判らないけれど、それでも過去からではなく、未来から物を考え続けたい。それを基本にしよう、とまず決めた。 水平だけではなく垂直にものをみること。これも決めた。
例えば「時間」のこと。よく河の流れにたとえられるけれど、ぼくは河口を過去だと考える。何故なら未来というのは常に生まれ続けるわけだから、たとえるなら水が湧き上がっているところが未来。下流はその「なれの果て」なんだ、と。
普通、そう捉えられていると思うんだけど(違うかな)、何故か時間は過去から未来に流れていると考える人が多い。 河のたとえになぞるなら、時間は「未来から過去に向かって流れている」。
だから汚れも経験も豊かさも全て持っているのは、当然過去になる。未来というのは汚れていないし、経験されていないし、豊かさ厚みもない。 ただ人間は未来を想像できる。汚れた未来も、過去と同じ経験の未来も、やたらと豊かそうな未来も。しかもその気になればそのとおりに出来る。 「未来からの時間のなかみ」をつくることが出来る。
どういう未来から自分は生かされているのか。どんな「いまわのきわ」の自分であるのか想像し、そして今の自分がその自分と地続きであることを観念してみる。 一秒一秒そこに近づいている自分の、今、口は何を語り、手は何を求め、何を愛し、何を憎んでいるのか。それはどんな未来からの「時間」なんだろう、と想像してみる。
そんなふうに未来を思った。
たぶん自分自身を日々「書き換えて」いるのだと思う。いやそういう様々な情報の堆積物が自分なのかも知れない。そうも思った。
ひたすら聴き続けていた音楽はパット・メセニーの「One Quiet Night」。 小説は読まなかった。
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