| 2008年12月25日(木) |
2008/2009 何を読むのか |
今年読んだ本の中でもっとも興味深かったのは 水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」だった。この本を読み終えてから2005年にでた柳田邦男さんの「壊れていく日本人」を再読した。
さらに新書で何度も読んだ築山節さんの「フリーズする脳」をはじめとする、 脳に関しての一連の著作も読み直した。
通底しているのは日本語の、というよりも日本人に対しての警鐘である。 これに梅田望男さんの「ウェブ進化論」を併せてもいいだろう。
梅田さんの論は一見、楽観的なウェブの未来を語っているようでいて、重要な前提条件がある。 「リテラシーを身につけた上で」の話なのだ。 リテラシー。直訳すれば「基本的能力」ということなのだけれども、その範囲はひろい。
それはネットに関しての知識はもちろん、姿勢も含まれる。言語能力、生活の目的意識も。 もちろんそうである必要はない。面倒なことは放っておいてもいっこうにかまわない。 ネットはいつでもそこにある。 だが、どうやらそれでは「進化」どころが一つ間違うと「人格崩壊」していく気配が濃厚なのだ。
ただそれでもヤバイと思ったらネットから退けばいいだけのことだから、それほど大騒ぎしなくてもいいのかもしれない。 しかし世界に繋がるなら、より有機的にネットを利用するならば「リテラシー」は欠かせない。 それは事実のようだ。
柳田さんの論は明快にノー・ケータイ・デイ、ノー・ネット・デイを主張する。 (だからといって全廃を主張しているのではない。ケータイもネットも存在し、発展していくという前提での話である) 論の裾野は広く、教育論、格差社会論、言語論にまで及ぶ。 言語に関しての追求は鋭く、相手の命を思う言葉以外に日本語は死滅しているかのようだ。
だから高次脳障害治療のスペシャリストである築山先生の「平面を見続けることで疲弊する脳」という論はおそろしいほどの説得力を持ってくる。ケータイとパソコンだ。 (柳田さんはテレビも加える)
そして水村さん。 タイトルだけで水村さんが英語を礼賛していると勘違いしてはいけない。むしろその逆である。冷静に世界の言語分布を語っているのだ。 水村さんは明治から大正、戦前にかけての日本近代小説をこそ日本人は必読しなければならない、と主張する。 世界を見据えた、あるいは背景を意識した日本人としての個人。 そういう立ち位置からの作品をさすのであろう。 あるいは翻訳してもなお強烈に日本を失わない作品であるとか。
バラバラに見える本たちだけれど、ぼくには同じことを示唆しているように思えてならない。 それらを繋ぎ合わせる言葉として、詩人・荒川洋治が「黙読の山」で紹介した詩人の言葉を思うのだ。
『個人主義ではだめだ。私人でなければ』 日本では知る人ぞ知る20世紀の重要な詩人のひとりであるヨシフ・ブロツキイの言葉である。 彼の詩はロシア語で書かれているけれど、多くは英訳されている。 エッセイは英語でもロシア語でも書かれている。 邦訳も数点ある。
来年はブロツキイをよく読もうと思うのだ。今こそ読まねばならないとさえ思う。 彼の生涯そのものが姿勢をたださずにはおかないからである。 『読むことで人は生きていける』という言葉も。
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