| 2008年12月08日(月) |
新潮1月号で水村x梅田対談を読みながら |
なにはともあれ水村早苗さんと梅田望男さんの対談がいきなり目に飛び込んできた。 ネットについて、水村さんの発言が刺激的だ。 そして水村さんの「日本語が亡びるとき」の提案を考えるとぼくは「バイリンガル」を選択する。
水村さんの同書を読んだ後、在ロンドンの妹にも聞いてみた。彼女曰く、「日本語は一億人以上に流通しているんだからそんなに悲観的にならなくていいよ」とのことだったけれど、それは妹の「やさしさ」からきた言葉だったのだな、と思う。 今回の対談を読んでいると、まさにそのことが日本の足を引っ張っているように感じたからだ。
そこそこの規模の人口、優秀な国民、優れた産業、美しい国土…それぞれがあるレベルで綺麗に整合している。まるで美しい卵の殻のようなイメージ。それが日本なのだと思える。 だからこそ住みやすい。温かい、あるいは「ぬるい」。それはそれでいい側面もあるけれど、あまりに世界に遠い。
そしてその良さをかつての日本語で理解しなくなりつつある日本人がいて、日本語で理解しつつあるバイリンガルの外国人が増えていくという構図を直観する。
そしてなにより痛切に感じたのは日本人のパブリック意識の低さだ。 おそらく江戸期日本画の傑作の一つである「源氏物語絵巻」が海外に散逸している様や運慶の傑作が海外に流出している様を想像した 文化的遺産に限らない。公園や自然に対する態度。あるいは人に対する意識。 「ゴッホの絵を柩に入れてくれ」と語った、某財界人の話など典型だ。
個人的に、義弟が英国人である関係からどうしても英語をマスターしなければ文字通り話にならない。 京都に来るたびに、街の雰囲気や寺社仏閣に感心する彼が、日本をどう見ているのか、そして英語で世界はどう把握されているのかもっと語りたいとも思っているから。
あるいはニューヨークから京都にきた友人が「日本の美は安土桃山にある」といつも語るのだけれど、それに対して自分がどれだけの引き出しをもっているだろう、と自問することがある。 日本の美について、英語でどう説明できるのか。彼は日本語もしゃべれるから、ついそこに甘えてしまうけれど、一度は英語で語りあいたい。 彼は英語で安土桃山を世界に伝えているのだ。 (英語なら「世界に伝えている」といえる。日本語では「いえない」。)
かつて渡したぼくの詩集の評価もききたいところだ。 ”Thank you for your note”以外に。
外国人の彼らが、京都に感じているよさ、素晴らしさを日本人はわかる必要がある。おそらく世界のパブリック・ファニチャとしての側面があるのだろうから、それを日本人自ら潰してはいけないだろう。
そして日本文学。 先ず漱石。そして近代文学。 昨日読んだ荒川洋治さんの「黙読の山」にも漱石が出てきた。 「個を確立せよ」という漱石の言葉が何重もの意味を持って今現在も迫ってくる。
ともあれ英語はぼくにとってはますます必須になっていく。それは間違いない。
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