珈琲を買いにいった帰りに、北大路を上り詰めたところの本屋さんで、 ある新刊を探したけれど見あたらず、かわりに以前から気になっていた外山滋比古「思考の整理学」(ちくま文庫)を発見。購入する。 帰って読んでみたら、これはよい本にあたった、と嬉しくなる。
と、いうような出来事を「セレンディピティ」といいます。。 脳科学がちょっとしたブームで「セレンディピティー」という言葉もよく使われるけれど、その語源まで明らかにし、意味を「平明」にしたのが本書。しかも1983年に。今から25年前ですよ。
ちなみに言葉の出発点は「セイロンの三王子」という童話。18世紀のイギリスに流布していたそうです。
三王子はよくものをなくし、そのたびに捜し物をするのだけれど、狙うものはいっこうに探し出さないのに、まったく予期しないものを掘り出す名人だった、というお話。
この話から文人で政治家のホレス・ウォルポールという人が「セレンディピティ」という人造語をつくったのです。
セイロンは現在スリランカだけれど、当時はセレンディップとよばれていて、セレンディピティとはつまり「セイロン性」ぐらいの感覚でつくられた言葉なのです。
意味するところは 「目的としていなかった副次的に得られる研究成果」
ノーベル賞はおおくの「セレンディピティ」によって発見された研究成果に贈られていますよね。
茂木健一郎さんの本などでよく語られるこの意味するところは知っていましたが、語源までは知りませんでした。 ここまで知ると専門用語ヅラした「セレンディピティ」がぐっと日常まで降りてきます。言葉をモノにできます。
茂木さんと並び、ぼくがよく読んでいる高次脳障害の権威である築山節さんの生活習慣に関する主張と同じモノもこの外山さんの本に出てきます。 25年前ですよ。名著です。
で、特筆すべきは文章が平明簡潔であること。これほどシンプルでわかりやすく、かつ知的レベルの高いエッセイにはほとほと感心する次第であります。くどいですが名著です。
で、外山さんの本をレジにもっていく途中、ふと金原ひとみさんの「アッシュベイビー」(集英社文庫)が目に入り、これも購入。 ぼくの回りにはこの人の読者は皆無です。 (タトゥとピアスの世界なんてなんですのんそれ。関係ないよ)
ぼくは「蛇にピアス」を読んで、この人の姿勢に共鳴しましたね。 「ゴザンス」に感想文を投稿したぐらい。
肉体のとらえ方が斬新なんです。心のとらえ方も鋭い。
ぼくの書いているモノを読んでいる方たちから見れば、作風はまったく違うとおもわれると思います。 作風は違うけれど、作品の底の底に流れているスピリットのようなモノが、たぶん、好きなんですね。似ているのかもしれない。
すらすら読めるし、刺激を受けます。 とりあえず今の自分の小説のゴールを意識することもできます。(もちろんそれも変わっていきます)
それは金原さんではなくて多和田葉子さんの「旅をする裸の眼」のラストシーン。あのシーンを読んだ時の感覚を、あれと同じスピリットを自分で描き出せれば、とよく思うのですよ。 金原さんを読んで、自分に気づくというか、自分がどちらを向いているか暴かれるという感覚です。
とまあこのように探し出そうとしていた本がなくて、ここまでの経験をするのはやはり日常の「セレンディピティ」なのです。
ちなみに探していた本は 「人類が消えた世界」アラン・ワイズマン。 これはこれで絶対に読みます。
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