2008年05月01日(木) |
自分の羽根で、と呟きながら |
短い小説を続けて書いている時、突然、何も見えなくなる時がある。 何も書けなくなるのだ。 内容についての反問はしょっちゅうなのだけれど、この場合はそれ以前の問題なのだ。 見失ってしまう感覚である。
書いている自分を励ましたい時に江國さんを読む。 それは、こう書いてもいいんだという確認に似ている。江國さんの伸びやかさ、切れ味の良さに半ば伝染したような自分にしてしまう。
しかし直面している事態はそれでは救えない。 それ以前の、何から手をつけていいやら、となってしまっている時だ。 そんな時は庄野潤三さんの「自分の羽根」を読む。
庄野さんは、デヴュー前後、サラリーマンとして仕事をこなしながら小説を書いていて、その経験から文学を志す「働く者」への激励ともいえるメッセージをエッセイに書いていてくれたのだ。
とにかく細切れになる時間。家族が休んだ頃に一人起きだして机に向かう。つきあいも断り、机に向かう。それでも時間がない。考えがまとまらない。 それでも「下手な考え休むに似たり」と思いを決め、 とにかく最初の一行を書き出すことだ、と自分を叱咤する。
そんな姿が「自分の羽根」(講談社文芸文庫)というエッセイ集には書かれている。 なんどもその文章に励まされた。 最近、そのくだりをよく読み返す。
すらすらと書けていけるうちはいいのだけれど、「黙り込む」=「紙の上に書かない」でいると危ない。
例えば脳に関する専門家の意見もそんなに変わらない。 茂木健一郎さんも築山節さんもアウトプットの重要性という点では共通している。細切れの時間に集中せよ、という点も。
何かをひねり出そうとする時、歩いたり書いたり読んだり、とにかく脳を動かし続けていく。 とにかく何でもするとにかく「出す」。
2000年の頃からネット上にとにかく書き続けてきて、脳というのは変化し続けていないと厭になってしまうんだということが、最近とてもよくわかる。 躊躇せずに思ったことを紙に書き出し、パソコンに打ち込み、そこから組み立てていくことだとなんども自分に言い聞かせる。
だけど、それだけでも駄目なのだ。書けなきゃそれまでなのだ。 自分を前進させる意志。人に伝えたいという意志。 それがいつも試されている。
とどのつまり「自分の羽根」で飛ぶしかないという認識に戻る。 小説は、なにか奉らなければならないようなものではない。 背伸びをして何かになったつもりで書くようなものでもない。 自分の羽根で飛ぶこと。 自分の身の回りから立ち上げていくこと。「身の回り」とは実際に見えたことだけではない。読んだこと、想像したこと、聴いたこと、あらゆる経験から立ち上げていく。
誰の羽根でもない。 江國さんのでもない。庄野さんのでもない。 自分の羽根でしか自分は飛べないのだ。
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