2008年01月19日(土) |
たまには国文を想いだして…。 |
たまたま友人から借りた中村真一郎「源氏物語の世界」がことのほかおもしろくて、あっという間に読んでしまった。
昭和50年の新潮選書。読みやすい体裁ではあったけれど、書かれていることは急所をついていて、肯くことしきり。
中村氏は仏文学が専門である。サルトルなどの訳が有名なのだけれど、日本の王朝文学を伝統として蘇らせるべく著書を何冊か書かれている。
ぼくは「王朝文学」云々ということには関心がなくて、中村氏か指摘する世界文学の中の「源氏物語」の位置というものにとても興味をひかれた。
「源氏物語」がヨーロッパで訳出された時、ヨーロッパではいわゆる「反自然主義」の運動が盛り上がっていた時であり、つまり並び称されていたのがプルースト「失われた時を求めて」だったというのである。 欧州における「源氏物語」の位置はたぶん今でもあまり変わりないのであろうか。
また中村氏による国文史の概括もおもしろかった。 単純にいえば「源氏物語評価盛衰史」が我が国の小説のメインストリームをなぞっているいるように読めるのだ。
漱石も鴎外も「源氏物語」には一切触れようとしなかったし、そもそも明治期においては天皇に対して不敬である、とみなされていた部分もある。 まして、継母、藤壷と愛しあってしまうという最初の巻は無視され続けたともいう。(『道徳的に見れば最初から最後までろくなことは書いてない』同書より)。
また、あまりにも巨大な物語であるが故に、亜流がいくつも生まれては消え、徹底的な審美、唯美に彩られた世界を懐かしみ、幻想によって追体験しようとする公家どもが呆けてしまっては、ぼろぼろになってゆく様も中村氏はきちんと押さえていて、ざあっと見てみると武士の台頭から始まる「宗教」の時代のなかで、よくぞ命脈を保ってきたものだと想うのだ。
江戸時代はどうか。 やはり、ごく一部の人にしか読まれていなかったのだと想像する。
現代は多くの作家による口語訳が書かれ、別格の存在としての地位は揺るぎないように思える。
評価は文芸の流行によって左右されたものの、書かれた頃からのライバルである清少納言「枕草子」と裏表で日本文学にの原点のひとつであることは間違いないだろう。
中村氏はこう書いている。
「話を文学だけに限っても、日本文学史の背骨が勅撰集であることは明白であるし、散文芸術においても、「源氏物語」と「枕草子」の対立が、伝統となって現代まで繋がっている。たとえば私小説的モラリストの系譜とフィクションによるロマネスクの系譜とが、微妙に交錯しているのが、今日の日本小説の姿であるが、前者の祖先は「枕草子」であろうし、後者の源泉は「源氏物語」にあると考えても不自然ではないのである」
さて、 この中村氏の本が書かれてから40年近く経っている。果たしてその後の日本文学はどうなったか。ぼくには、とてもじゃないけど言えないけれど、流れというのは流れてしまってからでないと見えてこないようにも思えるし、流れのただ中にいると何も見えないんじゃないかとも思える。 それは評論の仕事になるのだろう。
ぼくが源氏物語に惹かれるのは、やはり「心理」につきる。いい加減うんざりする時もあるぐらいだけども…。 「小説」として破格であり巨大だといつも思うのだ。
今年は「源氏物語」が世に出てちょうど千年にあたる。
|