2008年01月11日(金) |
一年遅れのイチロー・スタイル |
ぼくの回りで二日に放映された「プロフェッショナル」のイチロー・スペシャルがいまだに話題になっている。 結論から言えば、2007年のイチローのテーマを一年遅れて踏襲しよう、という「決意表明」がぼくの回りでよく聞かれるのだ。
2007年のイチローのテーマは「プレッシャーから逃げない。むしろその中に飛び込んでいく」というもの。 彼はメジャーリーグで7年連続200本安打という大記録を達成したのだけれど、無論、とてつもないプレッシャーに押し潰されそうになりながらクリアしてきたわけで、去年以外では確かに170本を超えたあたりで、ぱたりとあたりが止まっていた。 それでも達成するのだから凄いのだけれども、その達成への苦しみにどう取り組むかを考えたのだった。
そこで、なんとかリラックスするように様々な手だてを講じながらのこれまでの達成と、プレッシャーにがちがちになりながら真正面からそれを受け止めての達成とでは「質」がまったく違うのではないか、と自分の中で感じ、意識し、そして取り組んだのだ。
(つまり、それをやろう、という人が多いのだ。)
2007年をこえて、番組で本人は得たものは全然違うといっていた。 確かにイチローは一段と「強く」なったように思う。
精神論の限界を語り、技術と肉体の向上と維持管理に細心の注意を払う。そのうえで語られる「目に見えない何かがある」という言葉がとても重く、そして魅力的だ。 プレッシャーとまともに格闘したからこそ出てきた言葉なのかもしれない。
ぼくなんかはむしろ 彼の肉体へのこだわりというか、作り上げ方に興味があって、分厚い胸板も太い筋肉もいらないかわりに、できうる限り細く、しなやかで、しかも強く、感受性の高い筋肉をつくるという方に興味がいく。 それはまるでイチローが使う極細のバットであったり、超軽量のシューズに共通する感覚だと思うのだ。
また、プレッシャーに立ち向かうために、精神論ではなく、時間の管理と肉体の所作を徹底しているような所に興味を持った。
番組で茂木健一郎さんが、無意識をてなづけるには肉体から入っていく方がいい、というかそれしかない、ということをいっていた。 無意識から何かを抽出する、引き出すには言葉は届かないのだろう。 というか言葉はすでに意識そのものだから、入っていきようもないのだ。
野球に無意識、とは。 イチローは打席でヤマをかけない。「来たどんなボール」にも対応するのだ。意識していては間に合わない。「感覚」がいかに大事か、ともいえて、イチローはそれを研ぎ澄ましている。
そしてイチローがいう「目に見えない何か」を掴むためには、脳ではなく身体から入り、表面にでてきたものを脳で処理する、とぼくは理解した。
茶道でもそうだし、剣道もそうだ。 一度掴んだ感覚を、もう一度呼ぼうとするなら、呼吸と姿勢と所作で自分を「思い起こしていく」道筋をつくるしかあるまい。 イチローはそういうところをとても大事にしているし、ぼくもそれはとても大事なことのように思える。 理由は簡単。「道しるべ」はつくっておくべきだとおもうから。
さて、ぼくたちが一年遅れのイチロースタイルを実行しようという時、当のイチローの今年のテーマがスポーツニュースにでたびたび報じられている。 それは「楽しむ」ということ。別のインタヴューでは「快楽」という言葉がイチローの口からでていた。 さあ、どうなるだろう。イチローのスタイルはいつもスリリングでわくわくさせてくれる。
さて、自分のことだけれど、メルマガの「再開準備号」を発送した。 やるっきゃない。
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