故人の想い出が間欠泉のように溢れ出て、家族の頬をながれる。 最近そんなことが続いている。 遺されたノートやメモが多いから、苦しんだ様子がよくわかるからだ。そして、テレビなどの映像で苦痛や死をことさらに強調したものを偶然見たりするとだめだ。
この人はとうぶん杖がなければ前に進めないだろうとおもう。 杖は家族の存在であり、友人の存在であり、手紙の文章や電話の声だ。
ぼくにしても家族にしても無理に明るく振る舞うことは、まだしようとしてもできない。とことん気の済むまで悲しめばいいと思っている。
ところでぼくは、文学や絵や音楽も杖になるとしみじみ感じている。 今、杖にしているのはイーユン・リーの「千年の祈り」という短編集だ。 新潮クレストブック。
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