暑い一日だった。花がどんどん咲いていく。 オクラの芽もさらに伸びた。
新潮六月号が届いた。 富岡多恵子さんと辻井喬さんの対談を読む。
富岡さんは詩人としてデヴューされたけれど、現在詩を書かなくなっている。 しかし、詩をずっと読みつづけておられて、そのような方からの現代詩への言葉は鋭いものがあった。
富岡さんの「湖の南」という小説に興味を持った。 湖とは琵琶湖。琵琶湖の南、つまり滋賀県湖南地方が舞台である。 主人公は津田三蔵。大津事件の犯人、ロシア皇太子に斬りかかった男である。
その土地の人間なら分かるけれど、他所の人ならどこのことか分からない。 つまり、そういう特権性に乗っかかりたくない、という理由で、地名などの表出をなるべく少なくするという手法をとってこられた富岡さんが、今回は地名をだし、徹底的にこだわって書いたという。
もう詳細に書き込んだのだという。 そうすることで逆に「特権性」が消える、と。
(ぼくは「京都」という冠をつけたメルマガを書いているけれど、肝に銘じていることでもある。 あくまで自分の住んでいるところから書いていくのが基本だけれど、詳細なリンクはやはりつけるべきだろう、と再び思った。 で、ふと感じたのだけれど、富岡さんの今回のやり方は紙の上の作業だけれど、とても「インターネット的」におもえる)
対談に戻ると、話題は死刑囚の短歌の話、 詩を書くことを止めて散文に向かった富岡さんの話、 短歌を切って現代詩にすすみ、さらに散文に向かった辻井さんの話、と興味が尽きない。
「小説はどんな形式でも書けるということを文学者として証明された」 と辻井さんに評された「湖の南」。 読んでみたい。
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