吉行淳之介さんの小説には「細胞」や「漿液」という言葉が頻出する。 そのことに関してエッセイでご自身で何度か分析されるのだけれども、自分の存在の「態」を突き詰めた末の「リアルな抽象」として、そう表現されたようにぼくは思う。
吉行さんはホモサピエンスであるわけだから、当然、肉対を構成するのは動物の細胞なのだけれど、ご自身で「植物的」である、という。
「植物的な細胞」とはどういうものか。もちろん感覚の世界である。しかしその感覚が生き方を創り出し、肯定し、前へ進めている。
さてどういうものか。 吉行作品を振り返ってみると、透明なのだ。あるいは透明であろうとする「態度」。静的である。孤独である。そして「涼しい」。
「涼しい」というのは荒川洋治さんの吉行作品に対する表現を借りているけれど、まさにそのとおりだと思う。
吉行さんが、「植物」的細胞として共鳴しうるといった絵画がパウル・クレーであり、音楽がドビュッシーだ。
クレーの絵は何度も見た。 植物的特性をもうひとつ加えるとしたら「明快」であろう。 ドビュシーは「版画」を聴いた。 ぼくにどう響いたかあまり記憶がない。 はたしてぼくは「植物的」であるか。 どうも動物と植物とは可変のようでもある。
ぼくはバッハを聴く。バッハは鉱物だ。 「鉱物的」…。 もう少しドビュッシーを聴いてみようとおもう。
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