散歩主義

2007年03月09日(金) 最初に記されるとき

ほとんど毎日読ませて頂いているブログののひととつに、現代音楽の作曲者の方のブログがある。

彼はブログで自らの「創造的認知過程」をあきらかにされている。
そのいかにもウェブ2.0的発想に敬意を表して
ここ二日ぐらい深く考えることになった、彼が紹介した言葉を紹介したい。

それはシューマンの言葉である。

「作曲をするようになったら,まず頭の中ですっかり作ってしまうこと。そうして,その曲がすっかりできるまで,楽器でひかないように。心の中から湧いてきた音楽なら,ほかの人が聴いても,やはり同じようにうたれるであろう。」
シューマン著「音楽と音楽家」岩波文庫 (1958)

彼はこのシューマンの言葉を座右の銘としている。
実際、頭の中でできる前にピアノを弾いてしまうと、「脳内の仮想」が潰れてしまうのだという。
彼はそのためにピアノに鍵をかけて川に投げ込んだことさえあるというから凄い。

これは「書くこと」に通底しているとピンときた。
河野多恵子さんの主張と重なる部分があるように思えたのだ。
つまり
『創作過程で終始、非常に意を用いるべことは、モチーフの強い把握であり、その深く鋭い表現である。最も書きたいことは何か、どこに力点を置くべきか、とよく考えることでその作品の進め方も自ずから分かってくる』

そうなのだ。
そうやってモチーフを把握しきって書かれた作品は、出だしから「気配」がある。
その「気配」は河野さんの言うように、読者に感じられることも必要だけれど、まず作者自身がつかむことが必要なのだ。

また河野さんは
『「もの」に飛びつくな「こと」を書け』ともいう。
「書くこと」が何か、が大事なのであって、組み立て、論理の飛躍、人称などははっきり言って、その後に付随してくるものだと

河野さんは小説を想定して上記のようなことを書かれているのだけれど、いつか井坂洋子さんが書かれていたように、このことは詩を書く上でも大切なことだとおもう。

詩人はどうか。
「シュールなリアリズム」を作品に実現した孤高の詩人、吉岡実さんの作詞風景はこうだ。

『わたしは詩を書くときは、家の机の上で書くべき姿勢で書く。いってみれば極めて事務的にことをはこんで行く。
だから彫刻家や画家、いや手仕事の職人に類似しているといえよう。
冷静な意識と構図がしずかに漲り、リアリティの確立が終わると、やがて白熱状態が来る。倦怠が訪れる。絶望が来る。』

詩人は白紙から書き起こす。
ゆえに詩人でもあり、つまり危険でもあるのだ。

マイナー・ポエトにたびたび言及されていた吉行淳之介さんの書き出す瞬間も、書かれたエッセイによれば実は詩人の姿によく似ている。

強力なモチーフがあるかどうか、なのだ。
それが脳の中に現れれば、たちどころに白紙の原稿用紙の上に作品のすべてがバーチャル画像のように立ち現れたことだろう。

荒野に向かうように、最初の一字が記される。
それは五線譜に書き出される瞬間と同質の気配が漂っていることだろう。





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