吉行淳之介や梶井基次郎を何度も読んでいると、彼らに影響を与えたであろう大作家の影を感じるときがある。 谷崎潤一郎である。
梶井基次郎の場合だと志賀直哉の影響の方が多く語られる。志賀の文章に感嘆した梶井が、作品の筆写をしたのは有名な話である。 その結果、流麗に思えた志賀の文章が実はごつごつしたものであることを感得した、と述べている。
梶井基次郎の作品には言葉によって五感を刺激してくる鋭さがあるのだけれど、おそらくその影響は谷崎によるものだと思われる。 志賀同様に谷崎を耽読したことは彼の年表にもあらわれてくることで、たぶんこのことに関しては志賀よりも谷崎の影響ではあるまいか。
吉行淳之介の作品にも同様のこと(言葉によって五感を刺激する)をぼくは感じるのだけれど、谷崎の影響であるかどうか、はっきりとはわからない。 吉行さんが書かれていた頃、谷崎潤一郎は評価の定まった大作家であったから、当然読まれたであろうとは想像がつくのだが。
そういえば、おもにエッセイについて、流麗な文体であるようにいわれた吉行さんだけれど、実はごつごつした文章である、と書いたのは村上春樹さんだったな。
いずれにせよ言葉によって五感を刺激する作品の、日本現代文学における先駆は谷崎潤一郎であろう。その系の中に梶井、吉行を感じるのだった。
ところで自分の作品を書くとき、吉行さんの作品を読み返すことがおおい。 今書いている小説もそうだ。 文体ではなく、組み立て方を学んでいる。
最近、もっと「皮膚」に迫らねば、とおもった時、谷崎という名前が浮かび上がってきた。 「大谷崎」である。名付けたのは三島由紀夫。 もちろん「大近松」になぞらえている。
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