| 2006年10月16日(月) |
「デビリテ」 debilite |
金曜日発行のメルマガの初稿を書き終えた。 今度の号から、様々な理由により「視点」をより身近に置くことになった。 その結果、エッセイか小説のようになった、と自分では思っている。 その「初稿」が書けた。
興味深い記事について。 京都新聞に連載されている「露出する『心』 現代の精神病理」というコラムに注目している。書いているのは立木康介氏(京大助手)。
今日は第二回。 現代社会を覆う精神病理として「デビリテ」を挙げている。 記事の詳細は書かないけれど、問題提起は次のようなものだ。
「私たちは『本来なら心の中にしまっておくべきことを語ること』をもてはやす文化の中に身を置いているのではないか」
いいとか悪いとかの問題ではない。 現状に対する認識として、である。
文化のあらゆる分野、媒体が『心』によりかかる。 文学、映画、テレビドラマ…すぐにトラウマや深層心理は、といった言葉が飛び交う。ニュースやバラエティでは執拗なまでに被害者やその家族の『心境』を聞き出そうとする。 ある政治家は、政治問題化した事案を『心』の問題としてしまう。
そんな状況をネガティヴにとらえた言葉が「デビリテ」である。 フランス語(debilite)で、一般的には身体的、精神的「ひ弱さ」を意味する。
精神医学用語としては、一定範囲の知的障害を意味する。 この名詞に対する形容詞「デビル」(debile)は「ばかげた」「ろくでもない」という意味だ。
立木さんのコラムを読んで即座に思い出したのが平野啓一郎さんの小説「顔のない裸体たち」であった。 匿名の罠に溺れ、裸体をあからさまにして興奮する神経は「デビリテ」に通じはしないか、と。
或いはこうも思う。 こうやってネットに書き込んでいる、わたし(たち)は、常にそういう心理状態と隣り合わせだということだ。
ネットの現況および「これから」は「全てが明示される」時代がさらに進むのかもしれない。 しかし『心』のあつかいは丁寧にすべきであろう。あなたやわたしが潰れないために。
例えば自らの暗部、恥部までも平気で語る(強いて語らせる)テレビなど、 「社会は『デビリテ』に憑かれていないか」と立木さんは指摘する。
ところでメルマガはぼくの中では「超短編小説」に位置づけられそうである。
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