実をいうと、ここのところずっと本を写していた。 書き写していたのだ。「筆写」というらしい。 こんなことをする必要があるのかどうか、わからない。
ただ書いていて感じたことは二、三ある。 ひとつは、これは徹底的な「精読」の一つの形だということ。 そして、その作家の書き方のスタイルが覗けるということ。 もうひとつは書くのが厭になってくるということ。指の筋肉が痛くなってくることだ。
厭になるときは、「書きながら読んでいない」と気が付くときである。 集中して三十分。休憩して、また三十分。その繰り返しなら大丈夫。 三十分が過ぎたら、厭になる。集中力がとぎれる。 それがわかっただけでも収穫あり、と考えている。 もちろん書こうと思えば書き続けることができるけれど、意味がない。
三十分の執筆と休憩十分の繰り返しだったら、許されるならいつまででも書いていられる、とおもっていたのだが、200枚を越したあたりから指が痛くなった。
とにかく吉行淳之介「驟雨」と「夕暮まで」を書き終えた。 何度も読んだ本だけれど、「書いて読む」とまったく違う。どの漢字が一番多いのか、とか、読点の付け方の癖、ひらく漢字ひらかない漢字の区別まで覚えてしまった。
だけど、書いていて強く感じたのは技巧ではなく、精神のうねりだったということ。ストーリーでも文のうまさでもなく、その「うねり」がぎらりと光る細部の鋭さだった。 これが肝心だったと思う。
吉行さんの小説のいくつかはその細部が積み重なって成立している。 その形がみえた。 象徴詩のようでもあり幻想詩のようでもある記述がすぱっと挿入されていた。いくども。 「嫉妬」を客体化していく視点がナイフのようで、小説がそのことに安易な爆発をせず自身を踏みこたえつつ持ちこたえていく様に、充実と疲労を感じた。今までの読書以上に作者の「精神」に触れた気がしている。
筆写しながら何度も自作へのヒントが浮かぶ瞬間があった。 ただそれは流してしまって、もう一冊、作業を済ませてから、途中で止まっている自作へ復帰したいと考えている。
つぎは「暗室」を「書いて読む」。その次は谷崎を予定している。
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