散歩主義

2006年08月22日(火) 言葉は「生命」

昼過ぎ、近所に雷が落ちた。それを合図に激しい雨が一時間ほど降った。
植物たちには恵みの雨である。
いやいや命あるモノすべてに恵みの雨だったろう。

その時、虚血性の発作が起きた。原因はわかっている。寝不足からくる脱水状態である。
首の後ろが詰まったような感覚になるのが合図で、左半身からゆっくりと感覚が消えていく。
薬を飲んでいるから強烈な発作にはならない、と自分に言い聞かせる。それから鈍くなっていく体を運んで、水をコップ一杯のみ、横になる。

目を閉じていると、痺れのピークがくる。
顔左半分の皮膚がひりひりするのが「しるし」。
手足の指を動かしながら安静にしていると、10分ぐらいで嘘のように症状は消えていくのだ。

雷が鳴って、雨が窓を打つ。
静かな気持ちになる。
この「発作」の繰り返しの何回めかに命を落とすと思う。
死ぬ寸前に、強烈な発作がきたら指も体も口も、脳もなんの発信もできないだろう。

しゃべることも書くこともできなくなる。
けれど、誰か隣にいてくれて、アイコンタクトや手を握ったり放したり、頷いたり首を横に振ったりして意志を伝えることができれば、
「言葉を失う」という意味で考えると、まだ「言葉」は生きている。

そもそも「言葉」なしで生きていける人間はいない。
人間にとって言葉は「生命」だ。

発作のたびに言葉の大切さを思う。
仮に自分の生命が危機に瀕したとき誰もいなくて、自分で自分自身を励ますしかない場合でも、浮かびあがってくるのは想いの中の「言葉」だ。
あるいは言葉によって想起されたイメージだ。

そんなことを考えていた。




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