昼過ぎ、近所に雷が落ちた。それを合図に激しい雨が一時間ほど降った。 植物たちには恵みの雨である。 いやいや命あるモノすべてに恵みの雨だったろう。
その時、虚血性の発作が起きた。原因はわかっている。寝不足からくる脱水状態である。 首の後ろが詰まったような感覚になるのが合図で、左半身からゆっくりと感覚が消えていく。 薬を飲んでいるから強烈な発作にはならない、と自分に言い聞かせる。それから鈍くなっていく体を運んで、水をコップ一杯のみ、横になる。
目を閉じていると、痺れのピークがくる。 顔左半分の皮膚がひりひりするのが「しるし」。 手足の指を動かしながら安静にしていると、10分ぐらいで嘘のように症状は消えていくのだ。
雷が鳴って、雨が窓を打つ。 静かな気持ちになる。 この「発作」の繰り返しの何回めかに命を落とすと思う。 死ぬ寸前に、強烈な発作がきたら指も体も口も、脳もなんの発信もできないだろう。
しゃべることも書くこともできなくなる。 けれど、誰か隣にいてくれて、アイコンタクトや手を握ったり放したり、頷いたり首を横に振ったりして意志を伝えることができれば、 「言葉を失う」という意味で考えると、まだ「言葉」は生きている。
そもそも「言葉」なしで生きていける人間はいない。 人間にとって言葉は「生命」だ。
発作のたびに言葉の大切さを思う。 仮に自分の生命が危機に瀕したとき誰もいなくて、自分で自分自身を励ますしかない場合でも、浮かびあがってくるのは想いの中の「言葉」だ。 あるいは言葉によって想起されたイメージだ。
そんなことを考えていた。
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